絶対精神の自己疎外としての現実存在、そこで絶対精神との関係がみられる
べき、というのがあると思うんですが。無限者が有限存在においてみられるべ
き、と。それはその発想は分かると言えば分かるんだけど。しかし、そこは
ほとんど私においては、私の存在そのものが奇怪なもので、解きほぐしていけば
歴史的な成りたちも見えてくるものでもある。ヘーゲルのそういう哲学を考え
ると、キルケゴールなど実存の発想が分かるところがある。それはなんで俺
がこんな目に遇っているところで、無限者のことを考えなきゃならないのか。
というところなわけでしょう。そこが実存思想の始まりではないかと思うんだ
けども。
 それはきわめて正当な感覚で、ふざけるなと言っているのだと思うわけです
。で、池田女史がその辺のところをどう言っているか、よく覚えてはいないん
だけど、ヘーゲルというとマルクスが、よく引き合いに出されるけど、マルク
スによる反論もまた、同じですね。マルクスならこう言う。「関係ないよ、
こっちは生活するのにも苦労してるんだ。黙ってていてくれないか。貴方の神
学の材料にするのは勝手だけど、関係ないですから」というのがまあ要旨だと
思うのです。絶対者を考えるには錯綜しすぎており、それがいわば絶望者の成
立を意味することになっている。それにはやむを得ない事情があると思えます
けどね。