語というものはその形式が存在することにより、各々その意味となる内容が相違することは我々の常識として感ぜられている。

生・死・有・無とそれぞれの形式が存在している以上、その意味となる内容はそれぞれ違うことは常識である。

生と有が同一で、死と無が同一なら、どちらか一方の語は不要な存在である。

しかし、確実にそれらの語が存在している以上、哲人きどりの勝手な解釈で同一化してしまってはいけない。

哲人とは常識を感ぜられている人ではなく、常識を知られている人を指さねばならない。


禰宜さんは宇多田ヒカルとか言い出すその真性の変態を治すことから始めなければならない

450君はその自身のアスペルガー症候群が、禰宜さん以外の人からレスをつけてもらえることにより、治療されていくことを知らなければならない


ちなみにこれはチラ裏ではなく、おじさんのぼやきである