禅の沈黙と弁証法の饒舌は実は同じものなんですがね。

 彼女の「黙り方」に、まあ、躓いて、それをどうしても越えられない
もんだから呪詛を発しないでおれない気持ちも、まあ、わからんでもないです。

 肝心なのは、「実存(実体)」に対して「虚体(虚存)」を持ち出した埴谷の
後を継いだ彼女が20世紀末期に何を見たか、なんですが。

 「自分とは何か?」と永遠に自分を定義しつづけるニーチェも辛いとは思いますが、
「何が自分か?」と、マラソンランナー並みの走りこみと酒によって、ニーチェの言う
「デュオニソス的陶酔」を自覚的に起こさなければならなかった彼女もどっこいどっこい
ですがね。
 「ニーチェはずるい。狂うことで逃げを打った。」
 彼女の言葉です。