[教行信証]親鸞の哲学[歎異鈔を読む] [転載禁止]©2ch.net
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どうでしょう親鸞。吉本隆明・梅原猛・五木寛之などの著書の話も可。
歎異鈔面白いので読んでみませんか? 親鸞かあ。
東京新聞とってたとき読んでたよ。
誇張が過ぎた感じがあったけど
それなりに面白かったよ。 >>2
なんでもいいですよ。かいつまんで何か書いてください。ざっくばらんに
吉本隆明によれば、親鸞は原始仏教から中国、日本に伝わった浄土教を最後に結実させた世界的大思想家だそうです。
親鸞は、仏教の常識を悉く破っていった宗教者でした。肉食妻帯をして、修行をして解脱することさへ否定し、
ただ言葉(南無阿弥陀仏)でもって救いを乞う念仏を提唱しました。
そういった仏教の常識から逸脱していながら、理論的で思想的な体系みたいものも残っています。
僕も歎異鈔をかいつまんで時々書いていきますんでよろしくお願いします 歎異鈔第九條
唯円「私どうも念仏を唱えてはいますものの、それに対して跳び上がって歓喜することもなければ、浄土へ
まいりたいと言う憧れも起きません」
親鸞「実を言うと、この俺もなんだよ。俺もそれで悩んでいるんだよ」
唯円 よくよく考えみると、喜ぶ心が起こるってことは、もう悟りに至った状態なんだよな。この喜ばない身である自分には
煩悩があって、これで自分の浅ましさがはっきり見せつけられる。
こんな凡夫である私をも救ってくださる弥陀の悲願は、いよいよ手強いお慈悲がたよりになる
また、浄土にまいりたいと憧れる心が起きなくて病気患いで死ぬのも心細いと思うのも煩悩の所為である。
久遠の昔から今日まで生まれ変わって迷ってきたこの娑婆は悩ましい場所ではあるけど
いわば私たちの故郷であらやるから容易に捨てられない執着がある。
生まれた所でない浄土は安楽なところであると聞いても楽しく思えないのだ。
こういう浅まし身であるけれど間違いなく浄土にまいらせてくださるのはありがたい。
また、いそいで浄土にまいりたくないとする私にも憐れをかけてくださる。
これにつけても、いよいよ大慈悲大願をたのしみにして往生は間違いないと思い知られることである。 念仏を唱えれば救われるというのは堕落でしょうか?
ただ念仏さへ唱えれば誰でも救われる
↑
非常に簡単な論理。民衆を堕落させる論理。ただ唱えていればいいだけ
↑
仏教の常識からすれば逸脱している。仏教の常識は修行をして解脱に至る(聖道門)=自力作善
↑
しかし凡夫はいくら修行を積んでも救われない。救われる人は修行を完成した人だけ
↑
解脱できるのは才能あるお坊さんだけ
↑
全員が浄土にいくためにはただ念仏を唱えればいい(浄土門)=他力本願
浄土宗
◯浄土門 ×聖道門 第四條
聖道門即ち聖者相手の救いで言うところの慈悲は、この世に於いて自分の力量であらゆるものをあわれみ、
いとおしくおもうて、守り育ててゆくこころ持ちである。
けれども、思いのとおりたすけおおせることは極めて稀である。
(略)
聖道門のように聖者は万人に慈悲を持てるか。
↑
人によって助けたい。助けなくてもよいと言う心が湧き出てくる。
↑
人は縁によって、愛着がでたり愛着がわかなかったりする。自力で万人に慈悲を持って対応することは不可能
↑
他力本願・念仏を唱える。ひたすら阿弥陀仏に誓願を唱える。
↑
第五條
凡そ、この念仏が自分の力でつくりあげる善根ででもあるのなら、
それそこ自分が念仏を唱えた功徳をさしむけて自分と縁の深い父母をたすけてあげるだろうが
自分でつくりあげる念仏ではないのであるから、そんなことは道理の通らないことである。
ただ自分ははからいをなげすてて、往生すると同時に悟りを開く身になりさえすれば、
六道四生という迷いの境界にさまよいながら、どんな苦痛な果報に沈んでいるものでも、神通自在の手段を
つくしても、まず縁の深い父母兄弟を手始めに、すべてのものを済度することができると、親鸞聖人は仰せられた 第六條
本来、この世における離合集散はすべて深い因縁が絡みついているのであるから、
師弟の関係といっても勝手に決められるものではない。つかねばならない縁があれば
連れだってゆけもしようし、離れなければならない縁があれば別れることもあろうに、
それにもかかわらず、これまでの師匠にそむいて他の人について念仏するようなものは、
往生ができないなどと脅かすのは言語道断である。
そんなことをいうものは、仏から直々にお与えくださった信心を、いかにも自分が興えたもののような
顔をして取り返そうというつもりでいるのであろうか。そんなことは断じてあるべき筈のものではない。 いったい、師弟の関係はそんなことで結ばれるものではない。
自然(じねん)のことわり即ち本願の思し召にかのようになれば、おのずと仏の御恩もらわかるようになり、
ひいては師匠の御恩もわかるようになるものであると、聖人は仰せられた
第八條
念仏はこれを唱えるわれわれ行者の側から言えば非行非善である。
自分のはからいで修行するものではないから非行といい、自分のはからいでつくりあげる善根でもないのであるから非善というのである。
この念仏は全く仏力のあらわれであって、凡夫の自力を離れたものであるから、
行者にとってみれば、自分の行ともいえず、自分の善ともいえないのであると、聖人は仰せられた。 ここまで書いてきて、ピンときた人もいるかもしれませんが親鸞は肉食妻帯をしています。修行もやめ凡夫として生きてきました。
自分で自分を愚禿親鸞と言っています。
親鸞は浄土教を神聖なものではない、自分の位を凡夫にまで下げてものを言っています。
宗教に必要な聖なる要素をわざわざ剥いでしまい、そういったものにありがちな万人に対する慈悲さへも否定しています。
そして、人間の自然(じねん)を重んじているのです。あるがままの自分である人間が救われることを説いています
第十條
念仏は左右のはからいさしはさまずに、ただ素直によろこぶがよい。
はからわないのが一番よいはからいである。あらゆるはからいをはなれて、
仏のおはからいにおまかせした心持ちである。言葉で褒めたたえすることも、説明することも、また心で思いはかることもでいない心持ちであると聖人は仰せられた 吉本隆明が「親鸞の転換」で言っていますが、親鸞の真に言いたいことを説明すると
どうしても面白くなくなってしまうといっていました。確かにすごいなあ、面白いこといってるなあ、大思想家だなあとわかるんだけど、
それを言葉にしてしまうと我ながら面白くないこといってるなあと感じるそうです。
親鸞の思想は非常に深いと共に我々ひとりひとりに理解を施した後、それを説明させないマジックがあるのです 親鸞は、法然の教えを実行に移した僧であり、念仏(他力本願)は日本に於いて、覚鑁(真言宗新義派の開祖)の
影響が非常に大きいと思う。法然は1201年に高野山に入山し、90日間の修行を行っている。 覚鑁についてはわかりません。新義派真言宗が親鸞の思想に関係してるということですか?
インターネットで覚鑁について調べると、真言宗に浄土教の思想を取り入れたとか。
簡単に見たところ大日如来と阿弥陀如来は一体であるというのは親鸞も近いこと言ってたような?言ってなかったかな?
どういう系譜になってるのか非常に興味深いですね。 日本仏教の系譜
奈良仏教
法相宗 律宗 華厳宗 三論宗 倶舎宗 成実宗(三論、倶舎、成実は後に法相宗に組み込まれる)
〜平安時代
天台宗 真言宗
鎌倉に起こった新仏教
臨済宗-曹洞宗
浄土宗-浄土真宗
時宗
融通念仏宗
日蓮宗
江戸に中国から来た仏教
黄檗宗(禅宗) 如来部
釈迦如来
薬師如来
阿弥陀如来
5智如来
大日如来
阿閦如来
宝生如来
不空成就如来
観自在王如来
胎蔵界5仏
普賢王如来
多宝如来
毘盧遮那如来
観自在王如来
定光如来
過去7仏
毘婆尸仏
尸棄仏
毘舎浮仏
倶留孫仏
倶那含牟尼仏
迦葉仏
釈迦仏
天王如来(提婆達多の未来での成仏する時の号)
大通智勝如来 梅原猛が新刊書を出したとか。
そこでの問題点として、下向、上向の問題点を挙げたとか。還相の問題とか。 還相回向というのは、阿弥陀如来の浄土に往生して、止観行を成就し教化する力を獲得し、生死の世界、
つまりこの世に還り来たって、すべての衆生を教化して、一緒に仏道に向かわせようとする力を、
阿弥陀如来から与えられること。 ズバリ言うと宗教家というのは
単に言語を駆使するのに長けた頭脳家なだけなんだよ。
要するに、脳のキャパがとてつもなく深い。
他の脳の関連性のなかでの中枢神経脳に
なるほど、デカいだけ。それだけのこと。 親鸞は自己が悪人であることを悟って、還相して、悪人を救うことになる。
だがそこで、阿弥陀仏をもってくることが問題となる。
その持って来た方法が問題となる。なんでか。
それを礼拝の対象とすることが問題となる。
礼拝とか、お題目を唱えるのは宗教ではない。それは儀礼である。道徳である。 浄土三部経
三部経に説かれていること
浄土三部経(じょうどさんぶきょう)
浄土宗の教えのよりどころとする経典は「浄土三部経」と言って、一切経の中から、『無量寿経』二巻、『観無量寿経』一巻、『阿弥陀経』一巻の三典を法然上人が選ばれました。
『阿弥陀経』 毎日のおつとめ『阿弥陀経』
極楽浄土はどういうところかということが説かれています。
それは西方十万億土の彼方にあり、六万の諸仏が念仏の教えの正しいことを証明し、
いま現に阿弥陀仏が説法されており、その行者をまもると説かれています。
また、その国をなぜ極楽というかといえば、その国の人びとにはなんの苦悩もなく、ただ楽だけを受けるからであると説かれています。
『観無量寿経』
釈尊時代の王舎城の妃(きさき)であった韋提希夫人(いだいけぶにん) を対象として極楽浄土に往生する方途が詳説されています。
『無量寿経』
阿弥陀仏の修行時代の衆生救済の本願(ねがい)とそのねがいが成就してからの御利益がのべられています。
← 戻る次へ → おい、123おまえ時々いい加減なこといいすぎだ。
時々目にするが目に余る 親鸞上人はそれまで会員制の宗教であった仏教を誰でも歓迎の大衆仏教に変えた功労者として評価出来ると思います。 念仏⇦お手軽仏教⇦民衆来たるという簡単な図式を持つやつは馬鹿だ
×念仏⇦お手軽
◯念仏⇦他力
という図式を持たないと親鸞をわかっているとは言えない。
では他力とは何かという疑問は出てくるが、それは歎異鈔を読むべきだ 親鸞ってすごいいい人だったと思うよw
宗教どうのこうの別にしてな。
浄土真宗とか築地本願寺とか笑える。
坊主は剃髪してないし、寺なんだけどインド様式で
変わってる建築、パイプオルガンとかありやんのw
なんだかんだで日本の仏教で
釈迦が説いた原始仏教の世界観に一番近いと思う。 そもそも釈迦は
般若心経のようなことは一切言ってない。
むしろ逆なんだわな。
じゃあ般若心経が真理、本質を突いてないかといえば
これは別の話だけど。
現代の人間は死体を見慣れていない。
しかし、親鸞の時代や戦国時代や飢饉の時代は死体が朽ち果てる姿を
見るのはありふれた光景。
この世に真実なぞありはしないと死後の来世に想いを託そうとする
人々に「色即是空、この世は虚仮だから、」と言えば
たちまち、苦しみを共有する民衆に伝播していくであろうね。 般若心経どころか仏陀釈迦牟尼の著作さんてどこにもない。全部弟子たちが思い出して書いてる。
それから般若心経は、釈迦牟尼の説いた教えではなく観自在菩薩が説話のなかで説いている 法然房源空と親鸞はまたちょっと微妙に違うんだけど、お手軽仏教を提唱すればみんな安心する。だから念仏唱えればみんな浄土にいくみたいな
こと言ったと思われがちだが、実際は源空も親鸞も若い頃、比叡山で仏教の体系を学び
修行もちゃんとしている。ちゃんとした仏教体系のなかで浄土教を完成させている。そこらへんを忘れてはいけない。
ただ、時代は人がすぐ死ぬような時代。飢饉や侍のいくさや疫病など、民衆の苦しみとはいかばかりか
そんななかで源空は「ただ、唱えれば救われる」ことを民衆に説いた。親鸞の他力本願はまたちょっとお手軽仏教とは違う 親鸞は比叡山で修行して、そこから環相して、衆生済度となる。
その場合に他力本願にしたことが問題となる。
その原因。
他力=自力であることを認識できなかったからである。 他力=自力てなんだ?
自力は他力ではない。自力作善は聖道門に、他力本願は浄土門に起因する。
歴とした区別がある。 他力=自力か。
親鸞は自力を否定する。
されば他力だけとなる。
それでは否定されたところの自力はどこに行ってしまうのか。
彼らは、そこを説明しない。
説明できる人に花を持たせよう。終わり。 真言宗の金剛界曼荼羅は、大日如来を中心として阿閦如来(東方)、宝生如来(南方)、
阿弥陀如来(西方)、不空成就如来(北方)が配置されている。
真言宗に於いて、同じ“御神体”として「不動明王」は、「大日如来」の別の姿として“権限”する。
宇宙の根源にある「一つのもの=存在の本質」が、種々顕現(四つの如来)の仕方をする、これが真言宗の哲理であり、
大日如来と阿弥陀如来とは根源に於いて、同じ「宇宙の根源」であるという哲理から、真言宗と浄土教を“総合”したのが、
平安後期の覚鑁(興教大師)である。
この真言宗の「宇宙の根源は、一つのもの」という究極の哲理から導き出されるのが、“他力=自力”とういう真理である。 >>37
へえ、阿弥陀如来と大日如来は「宇宙の摂理」として根源的には一つのものだということは聞いたことがある。
空海も言ってなかった?あとは不動明王は大日如来の化身であるというのも真言宗の摂理なんだ。
うちの近くに真言宗藤枝成田山がある。千葉の成田山新勝寺の分寺がなんだが、そこは智山派らしいが強い霊性を感じるんだよね。大日如来がご本尊様で
入り口に不動明王がいて降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王の銅像が配置してある。
加持祈祷も中でやっていて並々ならぬ雰囲気がある。
真宗との接点があるとは初耳だが、、、 空海が言っているかどうかは解らないが、両界曼荼羅の哲理から、導き出されるのは、
宇宙の根源は「一つのもの」であり、空海の「即身成仏義」も、宇宙の根源が「一つのもの」という
哲理から、究極に於いて心(=精神)と身体(=物質)は融合した一体のものであるということを述べている。 わしも金剛界曼荼羅と大悲胎蔵曼荼羅の配置された如来部、菩薩部、5大明王、天の宇宙は壮大だと思う。
毘盧遮那如来=大日如来、弥勒菩薩、虚空蔵菩薩、不動明王、軍荼利明王、帝釈天、毘沙門天てなまえかっこいい c点論者
大日如来=c点=華厳経宇宙=両かい曼荼羅世界
この世は「大日如来の自作自演」である。科学的
真理では無くて、「本質論の世界」で信ずる者のみ
に真理と言う事です。 大日如来とか阿弥陀仏とかに、どう対峙するかの問題である。
他力本願になるか、否かの問題である。 空海の思想は、大日如来と阿弥陀如来が対峙(=相対)するのでは無く、
宇宙の根源は「一つのもの」と言う哲理から、パ−スペクテイブ(遠近法的)として
捉えられる。別な言い方をすると、「一つのもの」が種々の「表情」をするということであり、
存在の本質(=宇宙の根源)は不動である。 49.
宇宙の根源を問題にするのは存在の問題である。
だが、それは存在の問題ではないことになる。
だからして、存在と対峙すれば、他力本願となる。
よって大日如来に他力本願となるのか、否か。そこが問題となる。 親鸞は正直な人間だ。
唯円が「浄土に行くのに飛び上がって喜ぶ感情が湧いて来ないんですけど、どうしてでしょう?」と尋ねた時
親鸞は「自分もそうだ」と言った。浄土に行くとなるといよいよ悟りに近づいているということで、そういった
喜びの感情が湧いて来ないということは我々凡夫にはまだ遠いということだ。しかし、阿弥陀仏はそれを確約して
くれいているということで心強いではないかといっている。 51.
それは浄土が他人事になっているからである。
それは阿弥陀仏の仕事になっているからである。
よってして無責任であることになる。
それが他人事、他力本願であることになる。 他人に甘えるのと利用するのは似て非なる事柄だ。他力と自力は矛盾しない。 >>49 :考える名無しさん:2015/03/10(火)
>存在の本質(=宇宙の根源)は不動である。
え〜〜〜ほんとですか
五蘊皆空じゃあないの? かって残虐民であった日本鬼畜人よ
おまえらは他国の者にも残虐な行為を
するばかりか
同国の民にも戦争時酷いことを
しまくっている
(戦争時、二等兵だった者に聞け)
それが日本人が基本的に持っている
残虐イズム
鬼畜人たる非人間の
日本人は全員死ねばいい
優しさもない人間でもない物は
この世にはいらないのだ
地球が嘆き悲しむわ 仏教的に不動って表現は馴染まないね
諸行無常とも言うし
全てが一つに繋がっている、もしくは一体と不動は違う気が
おじいちゃんは嫌いだけど また一つのものの表情の違いって
多元宇宙論のファセットやキリスト教のトリニティですよね どうしようもないことへの絶望と諦め
コレね……はあ、なむまいだふう…… >>55
「空」の意味をどう解釈しているのでしょうか? >>61 :考える名無しさん:2015/04/28(火)
>「空」の意味をどう解釈しているのでしょうか?
般若心経に於いては「空」は存在しているように見えるものもその本質は空性である、つまり不動(絶対的存在性=実在)ではないと言うこと。
>>存在の本質(=宇宙の根源)は不動である。
これは少なくとも大乗仏教では間違い。 色即是空、空即是色
つまり不動明王は現世に実在する神様なんですよ
過去においてはイエスやムハンマドがそれに当たるんです
彼らの教えが戦争好きなのは戦火によって強情な衆生を焼き払って教化するためだったのです
じいさんの教えをみんなありがたく頂戴してね ちび・デブ・ハゲ・包茎・ワキガ・足が・多汗臭・口臭・放屁過多・鼻炎臭…さらにはブサイク・性格異常コミ障……
こんな多重障害者はもう世を親を神を恨み呪うしかないだね
ああ、お聖人様、俺の人生っていったい…… 尊師もひょっとしたら不動明王の生まれ変わり、、、
じゃないな
恐らく現代においてはパパブッシュやマオさんこそが不動明王 飛脚用の麦とろのことだと思った
マカロニサラダとお味噌汁付き イキオクレのクズ婆が世間に受け入れられていることになっているのが不思議
独身男性のイメージを貶めようと必死に突っかかってるしおそらく精神病だな マジで世襲坊主の銭ゲバ感は凄まじい
仏教こそ宗教法人を廃止して民営化して税金を搾り取るべき
墓なんて廃止して共同の石碑に名前刻むだけにすればいいんだよ >>62
大乗仏教では「空」の意味をどのように捉えているのでしょうか? 内面を高めるために律を守り苦行をすることを否定したんだよね。
戒律を守り苦行をするという仏教観は奈良仏教や禅宗、天台宗、真言宗、日蓮宗、融通念仏宗のすべての宗派に浸透している。
それらの意味を無効化した理由は他力本願にある。他力本願の他力は力んで自力を実践するより、
あるがままの自分とは何かという問いかけを仏教界に呈しているらしい。
あるがままの自分とは他力であり、他力を乞い願うことは意識の自然性を見つめ直すことにある。 罪業もとよりかたちなし
妄想顛倒のなせるなり
心性もとよりきよけれど
この世はまことのひとぞなき
『正像末和讃』悲歎述懐 こんにちは。
きょうぎゅーしんしょーの核心はなんぞ? 仏教について自分自身のイメージはあるけれど、しの仏教は野狐禅になる。
仏教解釈の殆どは、中村元さんの書いたものから抽出したものだし、経典をたくさん読んでいる訳ではない。
経・論・律という三蔵の内、内容を知っているものは少ない。
漢訳の経典を実際に読んでいる数はもっと少ない。
龍樹の論理もあまりわかっていない。龍樹の空論については中村元「大乗教典」の訳してあるものをよんだが、よくわからなかった。
浄土真宗の「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」についても内容の要約を読んだくらい
「法華経」「華厳経」なども然り。まあはっきり言うと仏教とは観念論なのではないかという疑い。
教えを忠実に守っているさんが僧伽には悪いが。例えば六波羅蜜。 六波羅蜜(仏教には階層があり、最上位は仏・如来・阿羅漢・世間解など。
その下に位置するのが菩薩になる。菩薩は仏の位に上り詰めるまでに修行が必要。
この菩薩に必要な心得が六波羅蜜である。ちなみに菩薩のなかで最も仏に近いのが弥勒菩薩(マートレーヤ)であり、
56億7000万年後に弥勒仏として地球に降臨するらしい)
六波羅蜜
布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若の6つ
この六波羅蜜に2005年に強い感銘を受けたしはそれぞれの波羅蜜の心得を胸に抱いて生きる決意をした。
しかし例えば禅定一つとっても僧伽の解釈はバラバラで一体誰が六波羅蜜の本質を知るのだろうか? そんでいろんな釈迦牟尼仏の教えがあるが、その教えの根本のところで迷いがある。
そう考えていくと、やはり人間には西洋哲学のコギトエルゴスムという考え方が非常に理にかなっているのではないか?
仏教の教えの根本は解釈が多いので、その本質は見えにくい 他力本願ですよ
阿弥陀様が救ってくださるのだから無理に悟る必要はないよ
本願ぼこりも気にする必要はない
プロテスタントでは成功者は徳が高いから成功するって合理的に考えてるしな
成功だけを願って欲望のままに生きていこう 日本仏教のなかで私が1番好きなのが親鸞。
仏教のなかで疑問に思っているのが律(戒律)についてなんだな。
そういった意味で親鸞の思想は最も納得のいくところ。
だから仏教からは一歩引いた見方をしているのがし 親鸞の思想といっても教行信証よりも歎異抄から取ってきたものを親鸞の思想として見ている。
歎異抄は梅原猛のを愛読している。本当におもしろい。親鸞の人間としての刹那さとか迷いみたいのが垣間見られる。
親鸞についてはまあイメージできる(わかってないけど)けど、蓮如についてはまったくわからない。
五木寛之の本でちょい知ってるくらい。蓮如のことはもっと勉強せねば 浄土真宗の宗祖は親鸞上人であり、
浄土真宗の経典は「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の3経典になる。
日蓮宗の経典は紛れもなく「法華経」であるが、
もうひとつ日本仏教のひとつ融通念仏宗がその折衷になっていて、
華厳経』・『法華経』を正依とし、『仏説無量寿経』・『仏説観無量寿経』・『仏説阿弥陀経』の
「浄土三部経」を傍依として、「1人の念仏が万人の念仏に通じる」という立場から、
口称の念仏で浄土に生まれると説く。(wikiより) 中村元編「大乗仏教」
目次
維摩経 中村元元訳
法華経 紀野一義訳
勝鬘経 高崎直道訳
華厳経 玉城康四訳
阿弥陀経 早島鏡正訳
大無量寿経 早島鏡正訳
般若波羅蜜多心経 平川彰訳
八千頁よりなる般若波羅蜜経 平川彰訳
中論の頁 平川彰訳
大乗起信論 柏木弘雄訳
理趣経 金岡秀友訳
ダラニ宗 金岡秀友訳 今日NHK「こころの時代・宗教」で「仏陀最期の旅ー第2回」やります。
仏陀の晩年の話である「大パーリニッバーナ経」を下じきにしてやります! 新スレが 建ちましたぁ〜♪
坐禅と見性第109章そもさん!熱波!天変地異か。 [無断転載禁止]©2ch.net
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