哲学とは何かと聞くと、それを考えるのが哲学だと [転載禁止]©2ch.net
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だっておまえもの作れないじゃん言われて脇げりかまされてへたバったところなんでしょ >>1
ん?実際にそんな答え方するやつって居るの?
少なからず哲学をかじっている人間ならば、恥ずかしくてできないと思うけど 哲学とは何か。日本に於いて哲学という意味が間違って解釈されたのは、
明治時代に西洋から輸入された時に、何かまったく新しい高尚な学問として捉えられたところにある。
本質的に東洋哲学(仏教・道の論理を含む)と、西洋哲学とは同じ真理(=存在等)を探求する学問です。
すべての事象の根源にある真理を論究するのが「哲学」の意味であり、別な言い方をすると、哲学とは
すべての“学問の本質”を究明する(真理の本質を考えること)ところの「総合学問」と言い直すことが出来る。 哲学を学とする「哲学学」を日本特有の文献主義によって広めてきた功罪がある
今では哲学など、文系のおもちゃに過ぎない
最初から哲学の取り入れ方を間違えていたのだよ
もう手遅れ 手遅れではないと思います。哲学は「総合学問」であり、頭を切り換えることにより
本来の哲学へ立ち戻ることが出来る。例えば、ハイデガ−の本来性の「現存在」よる歴史分析は
哲学を本来の立場に回帰させたものであり、ギリシャから始まる西洋哲学が「作られてある(被制作性)」という
歴史分析の解明は、大きな意味を現代文明になげかけている。 母ちゃんに分かるように、哲学とは何か説明するならどういえばいいかね? >>7
訂正 ハイデガ−の本来性の「現存在」よる歴史分析は
↓
ハイデガ−の本来性の「現存在」による歴史分析は philo-sophyとは、愛知、知に親しむこと。 何でも「あれも哲学だ、あっそれも哲学だ」っていう奴、韓国人みたいだなw >>1
自分で考えやがれ、お前には考える力があるだろってことじゃないの。 それでは哲学初心者を追い払ってしまうことになる。
それで良しとするような奴は哲学人口を減らす。 「哲学」という名詞には固定的な学問だとか道場だとか講壇みたいなニュアンスが伴うし、
「哲学する」だと専門家がよく書き言葉で使ってはいるが、あまり日常的ではない。
「哲学する」の方がまだ動態的で思考を促す感じはするのだが・・ 元々は科学と哲学は区別されてなかった。
現在は科学が進歩し、残りカスが哲学とされている。 物事を理解するために不可欠な道理をさとり知ることが哲学の目的です。
現代の辞書には書かれていませんが、広辞苑の第四版には【哲】道理に明るいこと。さといこと。と記されています。
因みに、広辞苑の第六版では【哲】哲学の略。としか記されていません。
哲学の語源である「愛智の意」とはヒーマニティ「人間愛が智恵を産みだす」また「智恵は人間愛から生ずる」と言う
意味ですが無知な者たちが愛知の意とは「知るを愛する」ことだ、等と馬鹿なことを申しています。
人類は古くからエゴイズムやナルシシズムと言った自己愛に捉えられ知能を育てられませんが、自分で人間愛を育てれば
眠っている知能が目覚め望むことの全てを知ることができるのです。 哲学するということは、
まだ見えていないことがらを見ようとするべく考えることを意味するように思える。
なんらかの学問をするということは、そうするための一端を担うことだと言えるかもしれない。
哲学と科学の関係性もこういう感じで考えられるのかもしれないが、
哲学は科学とだけ結びついている訳ではないことに留意しなければならない。 >>17
philosophyをそんな言い方でするのなら、芸術や宗教(特に仏教)との関係は? 例えば、原初に石で斧を拵えた人間は哲学でそれを成し遂げたのだろうか?
仮に理性的な成果を全て哲学に帰するなら、この場合、彼は確かに哲学をしているが、自身が「哲学している」という認識はないはずであり
彼にとって哲学は存在しないに等しいはずでは?
哲学をする、というのは
考えることをする、というのと同義ではあるまいか?
だとすると、考えることの本質は、その考えている内容の吟味や綜合的な事柄にのみ存するのであって、考えているというのは実は問題ではないということになると思われる 犬でも無関係事象の間の関係を、気にする、考える。
哲学は、汎化作業/汎化能力に関係するのであるまいか? 無関係事象の関連について、考えるほどの興味があれば、最早犬は人間のように文化を作り上げているはずです つまりは自然から離脱したあるシステムを作り上げているはずです
さらに、その中でシステムから離脱するような振る舞いをも見せているはずです 「無用の感覚」と「任意の行動」が、人間的なあり方の特徴だといったのはヴァレリーですが、おそらくは芸術も哲学も、ここに端を発するような人間的な営みでしょう
果たして犬に上のような内面的特長は恐らくない 俺は広義のアートを知らない
倦怠は多分部分的にはこのせいでもある >>21
犬の話、条件反射よりやや高度の思考の萌芽的な,しかし、首をかしげる動物的挙動を指したつもり。 ですから、「思考類似一般」より、「汎化能力」由来の思考が哲学にあらずや、の疑問のつもりでした。 哲学とは、前頭葉を使用することである。
前頭葉無き自称哲学は、芸術に分類したほうがスッキリする。 毎日どれだけ健康に気を使おうが死ぬ時は一瞬で死ぬ。
そして一瞬だろうがゆっくりだろうが、それ自体には何の意味もないし、ただ死ぬだけ。
地球が消えるのも同じ。
いつかは必ず大隕石とぶつかるし、太陽も膨張して地球を飲み込む。
そんな中で生命が誕生した意味のなさ。
ほんとただ誕生しただけ。
我々の存在も宇宙も全く意味がない。
ただそこにあるだけ。 自然学的な見通しを人のあり方にあてはめるとふわふわ浮いた感じになるから、
形而上学的な考え方も発達したのだろうなと思わされる。 >>1
禅問答は哲学とほぼ同じ。おまえが無知なだけ。
頭わるいの? >>38
形而上学は理解するものじゃない、感じて覚えるもの。
哲学を知り実践していない人の99.99%の人は形而上という単語を
意味として理解している、それは間違いだ、
形而上は意味ではなく観念であって理解するものじゃない。
意味説明をすれば形而上の説明からどんどん違う何かになってしまう。
具体的に「形而上」を比喩すればするほどまったく違うものになる。
たとえば幽霊とか神を形而上とたとえること、これが間違い
始まり。 哲学って、疑問が生じたから答えを考えるってことじゃん 答えがでているなら、それは既に哲学ではない。
哲学はすべての科学知識の起源や母体であるが、その科学の結果、すなわち
哲学は科学知識や科学技術ではない。
なんでそんな説明する以前のことすら知らないバカって何しに哲学板に
くるの荒らし? 今の哲板ってもう精神異常者と暇を持て余したおっさん、そして引きこもり
あとはFラン大学の残骸しかおらんやん >>45
哲学はすべての科学知識の起源や母体であるが、その科学の結果、すなわち
哲学は科学知識や科学技術ではない。
結果じゃなくて過程じゃない? 哲学は疑問の初期の段階であって、学術的に解明していくのが自然科学とかなわけだろ? 「哲学とは」とは 「「哲学とは」以外の概念」以外の概念のことを言う 宇宙の始まりってどんなものかな。
これは科学?哲学? >>48
科学は未来を開拓するために必要だが、既存の知識にないものには
無力である。
哲学は既知ではどうにもならない壁にぶつかって嘆き苦しむときに必要なのであって
それは既知が間違っていることを認めることからはじめなければならない。
学習という前提で育ってきた人にはその知識が間違いだという前提を認めることができない。
なぜなら壁にぶち当たりしていないか、壁を壁と認めていない。
円周率の数値表現の末端の桁数をあるはずだという態度では、その壁すら
理解できない低次元の思考である。駄目なものは早急に認め、その問題点を
考え間違っていることを探し出せれ前に進める。
間違っていないで天動説を信仰していれば地球が回るなど受け入れられない。
最近の定説である量子力学ですら特異点でその論理が破綻しまったく意味をなさない
物理学が通じないという説明になっているが、それは超弦理論やM理論により
解決できている、だがお前らは天動説を一度信仰してしまったから量子力学を
超えてしまった現在主流のそれを認められない、学者でもないのに何でそれが正しいと
信仰するか?頭が硬くなっただけ。(若くて老害 >>57
お前は「おおよそ3」と思ってたくせに
ゆとり野郎が 大変でーす!キリストは再臨しましたー!情報が出揃ったので、ちょっとでも興味が沸いたり、面白そうだと思ったら読んで下さい!
…読んだ方がいいですよ?マジです。
URLの掲示板に書いてあるFacebookコメント欄に大切な情報が沢山あるのと、
以前更新したその2chの掲示板のURLを貼るので、どちらも読んでみて下さいね〜!
http://itest.2ch.net/test/read.cgi/psy1421223259/
211〜222、373〜386、416、417、425 c点論者
ご迷惑ですので、発言しません。
恍惚状態。ウロウロと「2ちゃん」辺りを徘徊してます。 >>60
0と∞は区別する必要性がない近似の値だから、
完全な無と限りが無を扱えない。
数学で扱うのは無に酷似した値であり、無限に酷似した無限大値=∞である。
曖昧な値であるから∞+∞=∞と解釈できるし
∞÷0=∞ともいえる。その∞値は値であるが都合にあわせて説明しなおせる。
物理で真の真空のエネルギーがあるように。 数学を知らん奴ばっかやんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww 数学がわからない哲学者
vs
物理学がわからない哲学者
vs
哲学がわからない哲学者 自然科学は欧米からコピーしてこねくりまわせても
人文・社会科学はいつまでたってもコピーできないね 日本人 うちの母ちゃんはちょっと哲学的なことを言うと、屁理屈言うなってキレるバカだからダメだ
妻が悪いと哲学者になれるって理屈は間違ってると思う 哲学とは何か?と問うこの私はいったい何者なのか?と問うのが正しい
(´・ω・`) 少なくとも爺ちゃんに哲学騙ると大抵バカにされる
死を前にした年寄り相手に生き方語ってどうするんだと
それより葬式や遺言書の書きかた教えろだとさ 高校の頃から早く還暦になって縁側でお茶を飲むような生活がしたいと言ってた
それとは別に20を越えた自分が見れる夢はまだあるだろうか c点論者
少し、ボケましたが、また、発言させて下さい。
@自然界の動物は「哲学」をしません。「考えたり、しんっぱいせずに」
ただただ、「本能」のままに「生き」そして「死んで」行きます。
A人間は、道具を,火を使い「文明(物質生活)」を持ち、生きることに
死を恐れることが、少なくなり、考えるゆとり「文化(精神生活)」が
生まれ、「死を避ける」情報を知りたい、生きる為の情報を知りたい
つまり、ここから「愛知(哲学)」が生まれた。
B「死への恐れ」は、宗教も生み、科学も発展させ、「文明」も進めた。
しかし、現在に至るも、「死への恐れ」は消えない。 77につづく
C「科学」は、自然界に「同じものは二つと無い」事から、まず「観察
測定、統計処理」により確率%を以て、真理を語る。再現実験も、可能なら
必要。もちろん、「矛盾」は認めない」。科学は日進月歩。
D「哲学」は、形而上も形而下も考える。「合理的で論理的な、正しい
観念」から、論理的に考え、「正しい論理の観念連合」により、真理
に至る。真理は、論理的な矛盾は、認めない。だが、時代、場所、人間集団
により、哲学の出発となる「観念」が変化するので、「哲学」は永遠不変の
真理では無い。だが、「矛盾は、いつも、無い」。 78につづく
E一般に、「本質論」と言うものが有る。「見かけ、外見はこう見えるが
本当は、真実は、別で、これだ」と言う論法である。
この世(科学の世界)の「奥に」、隠れた、我らには意識され無い「真理」
があるという。ここでは、「矛盾は許される」。
F例を挙げて、「本質論」を説明する。
仏教の竜樹の「空」によれば 色即是空 つまり
色(現象 あるもの)は即(ただちに)これ(是)は空(非現象 ないもの)
よって 「あるもの」は「ないもの」 これは、矛盾そのもの
だが、「信ずる者には」、色即是空は真理である。矛盾だが。
ここでは、「信ずる」が必須条件。 79につづく
Gそのほとんどが、「本質論」であるが、俗世間には、 ○○哲学
なるものは、無限に近く存在する。
「仏教哲学」と言うものは、「厳密な意味では哲学では無い」。
矛盾が許されており、仏教では「思考、思索の制限」もしている。
H厳密には「科学」「哲学「本質論」と区分すべきだが、現実には
この様な「区分は、実質的に、存在し無い」。 80につづく
現状では、「哲学」は有る者には、ビジネスであり
ゆとりある者には、思考「あそび」でしか無い。
「2ちゃん 哲学徒」のご存じのところ。
昔飼ってたセキセイインコのキューちゃんは、とても頭が良くて
おばあちゃんがタロウを蹴り殺してしまった日の夜、目に大粒の涙を抱えて泣いてた
(´・ω・`) ☆ 総務省の『憲法改正国民投票法』のURLですわ。☆
http://www.soumu.go.jp/senkyo/kokumin_touhyou/
☆ 日本国民の皆様方、2016年7月の『第24回 参議院選挙』で、日本人の悲願である
改憲の成就が決まります。皆様方、必ず投票に自ら足を運んでください。お願いします。☆ c点論者
「哲学とは」などと、論じている「日本の現実」では無い。
地に着いた日本の国家の「哲学」が必須な、「本音」でも「建て前」
でも、時である。
「2ちゃんえる」哲学徒は十二分に、ご承知の様に。
18歳から「選挙」に参加出来ます。
若きエネルギーに期待します。 哲学とは、すべての事象の本質を究明(=考えること)することであり、
その意味に於いて、哲学は“総合学問”ということが出来る。だから、哲学はビジネスでもなく、
ゆとりある者の遊びではない。
哲学は我々の生活と直結したものであり、自分が直面している問題の本質を考え、より多様性のある
解答をえる総合学問として実生活に直結したものとしてある。 >>88
でも、それは論理は盲信し過ぎていると思うのですよね。
どれほど論理的には整合性が取れていても実感と一致しない事柄というのがあると思います。
そういった例はおそらく根本的な検証方法を間違っているのでしょうけど、
論理として辻褄が合っているだけに反論することは容易では無いです。
つまり、どんなに実感と合わなくても論理としての辻褄さえ整っていれば
正論として採用されてしまう危うさがあるわけです。
経済学の分野はとくにこの手の「実態なき論理」が横行しているように思います。
そうした似非論理を打ち破る返し技を一生懸命探すのも良いのかも知れませんが、
実際、そうすることが文明的なのか確信も持てませんので、
どのような論理を突き付けられても「反論は出来ないが俺は“そうは感じないんだよ”」
という応じ方も方法論として必要では無いかと私は思います。
すでにこの板で大思想家としての地位を築いている私がこのようなことを申してはいけないのかも知れませんが、
私は哲学をそこまで信じてはいないのです。
疑いを持ったまま生きることはたしかにしんどいことなので確信したことにしたい人は沢山いるのだと思いますが、
私は自分自身に対しても天邪鬼ですのでけして疑うことを捨てないと思います。
逆説的ですが疑うことを捨てない自分だからこそ信じることが出来るのです。
by 鼎 梯仁 更に強い文章構成を出来ない自分が歯痒くもどかしいようだ。 >>89
「疑うことを捨てない自分」とは、物事の真偽を「方法的懐疑」によって考察しているということでしょうか。 >>89
哲学とは、すべての事象・物事の“本質を究明する(考えること)”ことです。 哲学を、
信じる、信じないという次元の問題ではありません。 あなたは、“哲学”そのものの意味を
間違って解釈しているのです。 物事の本質を知る為に、疑うことを捨てない自分であり続けることは、
一見、簡単な事のように思うが、何事も継続することは非常に難しいことである。
ともすれば、人間は楽な方に、楽な方にと自己逃避する習性があるが、その習性を律して行くのも
人間の持って生まれた性(さが)なのでしょう。 物事がうまく行くことについてどう感じるかだね。
うまく行くならそれでいいとして、うまく行ったことを喜んで
それで終わってしまうのか。なぜうまく行ったのか釈然とせずに
いつまでも何か心にひっかかるものが残って、そのひっかかりが
解消されるまで悩み続けるのか。これは生まれつきの資質の
問題かもしれないが。 他人の評価より、自分が納得できることの方を大切にしていると、
世の中はとても生きにくい。高く評価されても喜ばず、批判されて
も意に介さない人間をとりたててやろうとするような管理者は
まずいない。でも、自分が納得できるまで物事を突き詰めて
考えなければ、哲学はできない。 現代社会に生きる我々は、日々の生活の安定と、一定の希望をもって生きるためには、
今の社会情勢と国際情勢そして、政治情勢、経済情勢を一人一人が的確に読み取って
行かなければならない。例えば、日本に於けるエネルギ−問題(温暖化、環境汚染の観点から
即時に原発の廃止と、原発・石油にかわる恒常的な新しいエネルギーの確保など)と、TPPの問題、
地方と中央との経済格差による地方の人口減少の課題、そして、大企業と中小企業の格差と、大企業の
莫大な内部留保の問題(法的な公益性をもった分配の実施)など、課題が累積しているのが現状である。
これらの種々の問題を的確に知る為に、物事の本質を知る為の“疑うことを捨てない自分であり続けること”は
非常に大切なことであると感じている。 >>49
人間において思考することは言語を使用することなんだけどな。 >>60
X*0=0 の逆演算が割り算だから、何でも良いってことになる。
一意的な数値は出ない。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています