逡巡する意識・クローズスペース [転載禁止]©2ch.net
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結局、先に進むことはできず。
同じところに留まり、動物なので閉鎖的な空間のなかで逡巡する。
くるくる廻って得ることのないまま同じところに戻って日が暮れる。
天使の顔と混沌とした顔を繰り返す。そんなしのちゃんの存在と対話するスレです しのちゃん、頭いいわけではない。
比較的日本史も世界史も好きだが、突っつかれると弱いし、複雑な問題は解けない傾向。 >>352
謙遜やば、しの。
なんでもできるのが、しの。 もう僕にできることは限られてますよ。
子孫を残すくらい。 なんかひょっこり出てくるが、おれにそういう趣味はない。 アリストテレスの教え子にマケドニア王国の王子アレクサンドロス3世(後のアレクサンドロス大王がいる).
「アリストテレスほど、自然を探求し、発見し、学ぶことに対する自信を人類に与えてくれた人物はいないだろう。
しかし、どのような真実が発見されても、ひとりの天才の頭の中や、金持ちの書斎の中にしまいこまれていたのでは、何の役にも立たない。
そうした知識を最大限に活用するには、世界のすみずみにまで広め、人間の知性を自然に対して用いるチャンスを、できる限り多くの文化にもたらす必要があった。」
「137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史」より
これをアリストテレスの教え子であるアレクサンドロス3世が実現した軌道をたどる。 BC338年、カイロネイアの戦いによりマケドニアの王フィリッポス2世が、アテナイ・デーバイ連合軍を破る。
これによりギリシア諸ポリスにコリント同盟を締結させ、フィリッポス2世がギリシア全土の支配者となる。
BC336年、フィリッポス2世は、将軍パウサニアスにより暗殺され、20歳の若さで、その子アレクサンドロス3世がマケドニアの王位につく。
これが物語の始まりだ。
アレクサンドロス3世の若さ故、デーバイが反旗を翻し、アレクサンドロス3世はこれを鎮圧すると、彼のあくなき探求心が世界征服への野望となり、手始めに東方遠征が開始される。 BC334年グラニコスの戦いにて、東方ペルシアへ、小アジアの太守を撃破し、
BC333年には、ペルシア皇帝ダレイオス3世率いる10万人の軍隊をイッソスの戦いで撃破。
BC332年にペルシアからエジプトを解放して、英雄として迎い入れられ、ファラオの称号を得る。そしてエジプトにアレクサンドリアという自分の名前の都市を築く。
「紀元前331年、アレクサンドロス軍47,000は、チグリス川上流のガウガメラで20万とも30万ともいわれたダレイオス3世指揮下のペルシア軍を破った(ガウガメラの戦い)。
ダレイオスがカスピ海東岸に逃れると、ペルシャ王国はもはや風前の灯火となった。ペルシャ王国の中枢に乱入したマケドニア軍は、バビロンやスーサの主要都市を略奪した。」
ウィキペディアより
これによりダレイオス3世が死去し、エジプトとペルシアが滅亡。
王はギリシア兵の大半を帰国させた後、新たに傭兵を雇って帝国軍を編成し、
スキタイ人とアフガニスタンを征服し、更に東へ領土を拡張して、北部インダス川に到達。
BC326年ヒュダスペス河畔の戦いで、ポロス率いるインド初稿軍を破り、広大なマケドニア王国を築き上げる。 これによりマケドニア王国の領土が世界中(とは言っても半分以下だが)に広まりギリシア文化とオリエンタリズムが融合したヘレニズム文化が生まれる。
広大な領土を得たアレクサンドロス大王は、ギリシア人と支配したペルシア人の融和を図ったが、文化の違いから軋轢を生み悉く失敗する。
BC323年6月10日の午後、バビロンのネブカルネザル王の宮殿で32歳と言う若さで死去する。
「多くの歴史学者がアレクサンドロスの研究に生涯を捧げてきたが、それでも、王が世界征服に乗り出した理由は謎のままだ。
誇大妄想に取り憑かれたのだろうか。
それともナポレオンやヒトラーのように、ひとりの男とその軍隊が、どれだけ強大な権力を握り、どれだけ多くの国を征服できるのか、挑戦してみたのだろうか。
あるいはアリストテレスの哲学に刺激され、何としてでも世界の果てを自分の目で見たいと思うようになったのだろうか。」
「137億年の物語―宇宙が始まってから今日までの全歴史」より ヒトラーやナポレオン、フビライ・ハンなども、世界征服を目指した野望家であるが、その領土を後世まで維持し続けた歴史はない。
領土は、分割統治され、だんだんとマケドニアの領土は衰退していく。
アレクサンドロスの死後、異母兄で精神疾患のあったピリッポス3世と、アレクサンドロスの死後に生まれた息子アレクサンドロス4世が共同統治者となったものの、
後継の座を巡って配下の武将らの間でディアドコイ戦争が勃発した。ピリッポス3世は紀元前317年に、
アレクサンドロス4世は紀元前309年に暗殺され、アレクサンドロスの帝国はディアドコイらにより分割・統治されることとなった
プトレマイオス朝エジプト、
セレウコス朝シリア、
アンティゴノス朝マケドニア 古代世界を考えれば、ヒトラーの領土拡張の野望もありうべきことではあるが、彼はユダヤ人を根絶やしにしようとした。
これは考えてみれば、とても恐ろしいことである。例えば、北朝鮮がアメリカ的な軍事力を持って日本を征服したとしよう。
日本人の血をすべて絶やさなければならない、と考えたとすると、もう正気の沙汰とは思えんよな。
されてる方としてみれば、なんで自分たちは絶滅させられなきゃならないのか? 憎悪を抱くし、それが歴史的に続いている旧ユーゴスラビア紛争やアルバニア人、
ロヒンギャ族、イスラエルとパレスチナ、または中国のチベット族とかウィグル族などの少数民族、ホテルルワンダのフツ族とツチ族とかな。
外部に対する差別を、暴力や根絶やしにするという思考を実行に移した瞬間に、もう怨恨は消えずに、ずっと火種が残る。 世界を清い目で見ましょう。世界平和のために敵を許しましょう、という論理は通用しない。
背後から殴りかかってきたやつが、おまえは無意味で汚らしい存在だから死んでくれと発言したとすると、
穏やかな性格であったその殴られた人は、どのような反応を示すだろう?。
それを考えれば、あらゆる善の宗教的思考は無意味となる。その相手がさらに殴りかかってきたら、にやにやしていられるだろうか。
どんな人格者でも、激しく激怒するだろう。民族問題とはそういうことなのだ。汚いから消えろと自分の同胞や身内が殺されて、笑って敵を許せるはずが無いのだ。 論理を扱うに必要なことは
「falsifiability」だ
「反証可能性」と訳される
「誤りのある可能性」だ
つまり、自分と違うものを絶滅させることは
自分の誤る可能性を無くす行為であり、
論理的であろうとするなら、避けるべき行為だ
独裁や全体主義が否定される理由もここにある
我々人間は間違いを犯す存在だということ
だから、間違いを常に間違いと認識し、修正できることが
、何より不可欠になる
その自覚こそが重要なのだ 僕も最近、イライラすることがあって
同じ話題を考えていた
論理的であることは、利他的であることにつながる
逆に、利己的であること、非論理的な行為となる
しかし、利己的な行為を「論理的」「合理的」と考える人は多い
ほんとは、利己を追求することは非合理的行為でしかないのに。
まるで、人は論理的に生きることはできない
論理的なふりをしてるだけで、その正体は猿だ
この星は猿の惑星だ
との主張をされているかのように
僕は猿の惑星の中で呆然としてしまう
そして、AIの発展にわずかな希望を抱く
この星が猿の惑星で、猿しか住んでなかったとしても
AIの発展は、AI自身が論理を追求して、猿でないものを見せてくれるだろう
その時、猿から進化できるのかな、なんてね ともかく、人が論理を理解できるならば、絶滅させないのだ
それに今はDNA検査のレベルが上がってる
どんな人間も純粋種はいなくて雑種しかいないことは簡単に科学的に示すことはできる
僕なんて、雑種の最たるものだしね ぷん。゚(゚´ω`゚)゚。
しのちゃんと清見、ずるいお! しのちゃんがいつも一番感情的なのにね。
忙しいから仕方ないのかもしれないけれどさ。 よく読んでなかった、ごめん(о´∀`о)
なるほど。人は論理的になれないからAIに期待か。確かに。そちらの方が生産性も期待できるし、利益は生み出すかもしれないけれど、それこそ見かけ上利己的にみえる気もするけれど。
愛とは正反対? 夏目漱石の小説がいい例だ。
「人間的である」とか「人間らしい」というのは、みんなが笑い合って日常を送る人間の陽の当たる場所で、そのなかに世間、向こう三軒両隣という影が出現する。
論理的であるということは、必ずしも陽の当たる場所を意味しない。みんな人間的で筋を通して生きているわけでは無い。
非論理的な妬みとか不条理な部分を持って生きている。清見の場合、それをみんな論理的に筋を通しながら生きて行くことを望んでいるようだが、
まず陽の光だけ受けて生きていくことは不可能。ユートピアは存在しない。人間の関係性は嫉妬で満ち溢れている。
清見は企業で働いてないからわからないかもしれないが、みんな無意味な足の引っ張り合いをしている。
日本人は基本的に毎日葛藤しながら生きている。たしかに論理的にみんな筋を通して生きて、譲り合って「人間らしく」生きていきたいと思う人もいる。
しかし、そういう人の願いとは裏腹に、世間には影裏が存在する。それから人間にはさまざまな性質があり、病的なサディズムを抱える人も存在する。
酒を飲むと人が変わる人や本当に残忍なことをできてしまう人もいる。視点が通り一遍なんだよ。論理なんてどこまで行っても通用しないことの方が多い。 日本人はずっと葛藤して日常を送っている。
「人間らしい」筈の人が悪いことしたり、倫理に反することしたりして、だったら今まで信じてきたことは何なのか、悪い人の方が正直に生きていていいのでは無いか、と考えられたり。
昼夜逆転したりなんかして、日本人このことにずっと頭悩まされている。人間に陰陽の性質があるとして、陽の人が必ずしも良い人とは限らなかった。
これによって親鸞の悪人正機みたいな、悪の方が正直じゃないか、というものまで浮かんだりなんかして、太陽みたいな人が虐げられたりなんかして。
「人間らしい」ことが悪だななんてこたも倫理に含まれたり。まあ結局、それでも人間らしくあることは、全体の部分ではあるが善にはなるという結論に落ち着いたわけだが。 西洋哲学が考える「善」とは言葉の定義ぐらいだ。
さて、あなたは「美味しい」ということを知ってるだろうか?
「不味い」ということが分からない人は「美味しい」ということが分からない
「不味い」を知ることはイコール「美味しい」を知ることだ
同様に「暗い」を知ることはイコール「明るい」を知ることだし
「弱い」を知ることはイコール「強い」を知ることだ
さて、「善い」を知っている人は、「悪い」を知ってることになる
つまり、何かを「悪い」と心があるならば
その人は実は「善い」についても知ってなければならないのだ
味覚が麻痺した人は、何を食べても美味しいか不味いか分からないように
心が麻痺した人は、何を見ても、
それが善いか悪いか分からないだろう >>376
病的なサディズムってかっこいい!
病的なマゾヒズムではないけれど。草 その上で、「善い」や「悪い」について分析を通すならば
「善い」とは無限(普遍)に近づこうとする行為
「悪い」とはその逆、個に近づく行為である
一般的な社会が言う「善い」「悪い」は社会が言ってるだけで無視していい
つまり、ヒトラーがユダヤ人を皆殺しにしようとした行為も、それが「善い」と言える余地はある
(どんなに不味い食べ物でも、それが美味しいと言える余地があるように)
しかし、ヒトラーがユダヤ人を皆殺しにしようとしながらも
自分の愛人のユダヤ人だけは生かそうとする行為は
それが「善い」と言える余地はない
「善い」も「悪い」もそのような関係の中にしか生じない >>380
やっぱ無限とは愛のこと?
宇宙のように広がる創造力のこと? ヒトラーはエバ・ブラウンをユダヤ人だなんて思ってないよ。ユダヤ人の血統だと知っていたら付き合わなかっただろう。 あなたはアンネ・フランクを匿っている
そこにドイツ軍人がやってきた
軍人は問う
「ここにアンネはいるか?」
嘘をつくのが悪い行為であり、正直が善い行為であるなら
「います」と答えるのは善い行為
「いません」と答えるのは悪い行為だ
人を助けるための嘘ならば許されるということはない
それは紛れもなく「悪」だ
そして、僕は「悪」でありたいと思う
世の中に100%の善人などいないし
そうでなければならない理由もない
僕らは悪いこともする
それでいい
だけど、悪いことをしたにも関わらずそれを「善い」と言うことは
美味しいものを食べて、それを美味しいと感じながら
「まずい」と言うようなものだ
そのどちらの行為も
「善い」という言葉、「美味しい」という言葉について
正しく理解してない、ということになる 「善い」とは無限(普遍)に近づこうとする行為
「悪い」とはその逆、個に近づく行為である
マルクーゼに対するエーリック・フロムの論理に似ているなw
普遍なんてものは無いか、もしくは広義すぎる意味合いで、イデアや純粋形相もそうだけど、それが善だなんて言えない。 382
さぁどうかな?
しかし、彼がユダヤ人ならば愛人すら処刑したならば
(また、自分にユダヤの血が流れてるなら、自分すら処刑するなら)
ヒトラーの信念は、個人の利益を超えて、義に生きようとする普遍的なものになる
そこには、人の好き嫌いはあれ
「善い」と言える余地がある
それは「正しい義」かもしれないし「間違った義」かもしれない
しかし、義であることに変わりはない
それは食べ物を食べて「美味しい」と言えるように
「善い」と言える余地があることだ ちょっと違うな
「善」とは、我々が当為について論理的に円滑に語ることを成立させるための理念なのだよ カントの倫理がそうだよね。
たとえ、テロリストの襲撃から仲間を匿う、助けるような行為であったとしても
嘘はついてはならない、とカントは述べている。ある意味、融通性に欠いた
杓子定規の倫理で、厳格と言えば厳格だけど、どうも無駄に堅い感じがする。
そもそも、倫理自体がどうでもいいと感じてしまう。 あれ、ヒトラーって、ユダヤ人ではなかったかな。それは、陰謀論になっちゃうのかな。 崇高な倫理などの次元で生きている人間は、この世で皆無だと思うよ。
だから、倫理なんて高級なものはいいから、せめてマナーだけは守って生きて
下さいね、という感覚かな。アメリカの大統領であの底辺マナーだからね。 >>389
例えば、「美味しい」という言葉の研究をして解明したところで
僕らがその美味しいものしか食べなければならない理由はどこにもない
でも、その「美味しい」のメカニズムがわからなければ
美味しい料理をつくることは難しくなる
(甘みと苦味のバランスをとろう、とかね)
その杓子定規の定義から、
いかに我々の生きる中での
目の前の、現代の倫理を構築していくかが
大事なんじゃないかな?
カントは料理人ではない
科学者なんだよ
僕らは、その科学を理解して料理をつくればいいんだよ >さぁどうかな?
しかし、彼がユダヤ人ならば愛人すら処刑したならば
(また、自分にユダヤの血が流れてるなら、自分すら処刑するなら)
ヒトラーの信念は、個人の利益を超えて、義に生きようとする普遍的なものになる
そこには、人の好き嫌いはあれ
「善い」と言える余地がある
それは「正しい義」かもしれないし「間違った義」かもしれない
しかし、義であることに変わりはない
これはねえなあ。仁義礼智信の「義」だとしたら、断固反対だな。
「義(ぎ)は、人間の行動・志操・道徳で、「よい」「ただしい」とされる概念である[要出典]。義人とは
「堅く正義を守る人。わが身の利害をかえりみずに他人のために尽くす人」(広辞苑第6版)。対義語で、行動・志操・道徳が「わるい」「よこしま」を意味する概念は「奸」(かん)という[要出典]。」
Wikiより
国家社会主義の論理は、大ドイツ主義・強いドイツだよ。
アーリア人の純潔を保ち、ユダヤ人を絶滅させるという論理は義にはならない。
「罪と罰」のラスコリーニコフや中上健次「十九歳の地図」の主人公の論理は、論理の恐さを示している。
危険思想の起こりだな。 もちろん、哲学なんて、頭のイカれた連中だし
僕も多分に漏れずそうだから
「そもそも、嘘はつかなければならないんじゃないか?」とか
「正直であることは悪いことじゃないか?」とか
「人は殺さなければならないんじゃないか?」とか
そういうことを考えたりする
人間の知性の裏側を想像して、我々の知性そのものを問うような学問
それが哲学の面白さだと思ってる 関係ないけれど、中学生であの文章能力は天才すぎると感動した。 >>393
違うんだよ
ヒトラーはその時、自分個人の利益ではなくて、当為信念の論理性をそれら利益より優先してるんだよ
である以上、それはまぎれもなく義の行為なんだよ
「間違った義に従ってる」とは言えるかもしれないね
でも、それも義の一種なんだよ
ここはとても大事 事実に置き換えて考えてみよう
フロギストン説は間違った科学だ
しかし、それは間違ってるが故に科学足りうるし
それゆえに科学の教科書に載るんだ
科学の歴史の中で、何が正しいか、間違いかなんて、時代によって変わってきた
だけど、科学足りうるものと科学足り得ないものは変わってないんだ
料理の世界も進化して、美味しいや不味いも変わることはある
でも、料理でないものと料理であるものは変わってない
ヒトラーが利益より論理を優先するなら、やはり、それは義の一種だ
ヒトラーは利己的ではなくて論理的な人間になる
そして、倫理とは論理的なものだ 「間違ったものは科学ではない」というのは誤った考えだ
間違った科学も科学の一種だ
ニュートン力学は、厳密に言えば誤りだ
しかし、我々はニュートン力学を科学として扱う
この態度は、他に適用してもいいだろ?
不味いものは料理ではないか?
誤った規範は義足り得ないか?
醜い絵は絵足り得ないか?
そんなことはないはずだ 当時熱狂した人たちの子族は今も活躍されているのでしょう
。 >ヒトラーが利益より論理を優先するなら、やはり、それは義の一種だ
ヒトラーは利己的ではなくて論理的な人間になる
そして、倫理とは論理的なものだ
なるほどヒトラーは利益より国家のため、ドイツ民族のための論理を提唱している。そしてそれを義とするなら、それはあの義ではない。
しかし論理的であるということは、倫理的であるとして、自分より国家を優先させることのできることが彼が何故、ジェノサイドを行なったのか?
それが論理であり、倫理であるとするなら清見の論理を容認することはできない。断固反対するわ。 論理は倫理ではない。また論理的であるということは、ある規範に則っていなければならない。
論理的な思考は必ずして絶対ではない、ということ。論理や理屈なんてひとつの方向性に過ぎない。
例えば、ラスコリーニコフの論理。
「一つの微細な罪悪は百の 善行に償われる」「選ばれた非凡人は、新たな世の中の成長のためなら、社会道徳を 踏み外す権利を持つ」という独自の犯罪理論
オウム真理教の論理
「悟りを得ている人間であれば、現世の人間を来世へ昇らせるため殺人が可能である。また、そのために行われる行為は善である」
ヒトラーの論理
「我がドイツ民族であるアーリア人が純血を保つことで、ドイツの繁栄が約束される。そのために劣等であるユダヤ人他の民族を根絶やしにすることが正しい」
論理はある方向性を辿り人殺しに、延いてはジェノサイドに至ることがある。 >>403
論理的であることは倫理的であることを内包しないが
倫理的であることは論理的であることを内包する
非論理的であるが倫理的な存在などない
僕はヒトラーの倫理を肯定してないよ
否定してる
しかし、否定するには、それが規範として成立することを認めない限り、規範として否定することもできないんだ
それは規範足りうる、ゆえに僕は反対だ
反対してるのは僕個人のことだから、ホントはヒトラーは正しいかもしれない
ゆえに、僕とヒトラーは対話の可能性があるのだ
対話の可能性を認めることは
それが正しい可能性を認めることだ
正しい可能性を認めない行為は、その人自身が閉鎖的なのだ
ヒトラーはユダヤ人に対して開かれてないかもしれない
しかし、そのことは、僕がヒトラーに対して対話を閉ざす理由にはならないのだ ジャイアンはのび太をいじめる
そこではいろんな理由づけが可能だろう
「頭が悪いから」
「のろまだから」
「黒人だから」
「女だから」
いろんな理由づけが可能だ
さながら、ヒトラーは「ユダヤ人だから」と答えるジャイアンのようなものだ
だけど、それは許される余地を認めねばならないのだ
なぜならば、
「のび太だから」という理由づけに比べれば
ずっと理由づけをできているから、なのだ あまりに理不尽な時、のび太はドラえもんに頼るだろう
「もしもボックスを出して」
「もしもジャイアンがユダヤ人だったら?」
そのような仮想空間において
ジャイアンが自らの不利益を享受するならば
ジャイアンは利己的な人間ではないし、むしろ義を心に抱いた人間なのだ
(使い方が間違ってるだけ)
重要なことはここだ
「もしも〜だったら」というもしもボックスの世界において
自分が不利益でも、その規範に従うべきと見なすものは
「義」の心を持っているのだ しかし、
仮にもしもボックスがあったとしても解決できないこともある
「のび太のくせに生意気な」
この言葉の破壊力は凄まじい
もしもボックスで
「もしも、ジャイアンがのび太だったら?」と言うことは
想像不可能な領域の問題だ
このような事柄を禁止することこそが「義」の本質なのだ
「義」とは規則に従うことだ
規則とは、人間の思考の基本的なパーツなのだ
その規則に従おうとすること
それを認めるなら
彼は猿ではなく、人間としての一歩を踏み出しているのだ
そこには、対話可能性がある 僕らはゴキブリやネズミと本気で対話しようとしたり、本気でケンカしようとしたりはしない
なぜか?
本気でケンカをすることは、相手を自分と同格と認めることが必須だからだ。
本気で対立したいなら、相手を自分と同格と見なさなければならない
それはヒトラーですらそうだ
ヒトラーと本気で対立して彼を議論で否定したいならば
ヒトラーを議論に乗せることができるもの
それが成り立つもの、として。認めねばならない
それこそが対話の前提であり、裁判の前提なのだ
僕らが思考を持って理で解決するということは
相手を自分と同格と見なす、ということが必要不可欠なのだ
ヒトラーを獣だということはできる
しかし、その時、僕らはヒトラーを裁判にかける自由すら失うのだ
僕らはライオンやクマを裁判にかけたりしない
人であると認めることは、対話が成立するための前提条件なのだ
ヒトラーの倫理もそうだ
僕はそれがケダモノではなく、人のそれとして成立する余地があると信じている
そして、それゆえに、対話によって、ヒトラーは否定されねばならないと強く思うのだ アメリカがイラクに戦争をした時
次のような議論が起きた
フセインを暗殺すべきか
裁判にかけて死刑にすべきか
僕は、後者を支持する
ヒトラーについても同じだろう
僕らは、ゴキブリやライオンを裁判にかけて死刑にしたりしない
裁判にかけて死刑にする行為は。それが人として認められねば受けられないことだ
そして僕は言いたいのだ
ヒトラーもフセインも、彼らの主張には裁判を受ける権利がある、、と。
利己主義的な人間は、その余地すらない
しかし、良きにしろ悪しきにしろ、何らかの規範に義を持って従おうとする者は、その権利を有するのだ
しは、対話の可能性を閉ざしている
僕はヒトラーとも対話可能だし、フセインとも対話可能だと思ってる
(さらに言えば、エゴイストとも対話可能だし、言葉を話せるならライオンとも対話可能だと思っている)
その信念はしよりも強い
しと断絶しても、僕はヒトラーと対話可能な人間でありたいと思う めんどくせえやつだな。
>それは規範足りうる、ゆえに僕は反対だ
反対してるのは僕個人のことだから、ホントはヒトラーは正しいかもしれない
ゆえに、僕とヒトラーは対話の可能性があるのだ
対話の可能性を認めることは
それが正しい可能性を認めることだ
正しい可能性を認めない行為は、その人自身が閉鎖的なのだ
ヒトラーはユダヤ人に対して開かれてないかもしれない
しかし、そのことは、僕がヒトラーに対して対話を閉ざす理由にはならないのだ
もうこの時点で論理的な思考信条を無条件に受け入れてしまっていて、非論理な対話不可能性の問題がなおざりになっていて話にならん。 人間個々人の論理性は脆い。論理性は外部との対話やインプットによってソフィスティケートされなければならず、人間の精神にはその余地がある。
ここまではいいだろう。しかし、例えば日蓮の言う意味での折伏(しゃふぶく)によって他宗の僧侶に法華経の優位をわからせることには穴がある。
相手の論理にも筋道があって、それを十分に理解してからでないと、折伏の意味はない。例え折伏できたとしても、それは相手との間に軋轢を生むだけだ。
理解するとはヒトラーに関して言えば、彼自身を理解することに他ならない。知れば知るほど、それを覆すことは難しいことくらいわかるだろう。
対話とは有効ではあるが完璧ではないし、論理で、言葉で、全部いい方向に向かうという思考自体、宗教に近い。 >同格
このコードからわかることがある。
それは君が論理には段階があって、レベルがあり、それは発展していくものであって人はそのランクによって議論の場に立てる資格を持つ者とそうでないものとに分かれる。
これは穴なんだよ。対話とはそういうものではない。思考にレベルがあったとしてもそのレベルが同じどうし、対話の不可能に行き当たることはいくらでもある。
>ヒトラーの倫理もそうだ
僕はそれがケダモノではなく、人のそれとして成立する余地があると信じている
そして、それゆえに、対話によって、ヒトラーは否定されねばならないと強く思うのだ
これはない。ヒトラーは狼だった。しかしヒトラーも人だった。
ヒトラーが第一次大戦の敗戦によって、ワイマール憲法下のドイツに失望し、大ドイツ主義的進歩主義的現実路線をとって政治家を志した時に戻って彼を説得できるのかい?
思考や論理、対話とは限られた時間の中で、もっと言えば、対話する人の短い人生が否応なく関係してくる。
それを考慮したほうがいい。時間は限られている。その時間の中で人は対話する。
つまりな、時間は無限にない。彼と対話できる余地はないよ。もしくは時間が無限にあったとして、かれの当時の論理をどうやって覆すよ? 「対話」と「説得」はまったく違う概念だよ
対話とは、相手と僕とを対等として、言葉によってお互いに変わりうる可能性を示す行為だ
対して、説得とは
相手の論理に関係なく、自分の論理を相手に押し付けることだ
僕は対話の可能性は説いたが、説得の可能性は説いてない
その2つを混同してるしのミスだ
そして、それは今までしが
相手を尊重した対話ではなくて、
相手を自分の意に従わせようとする説得に重きを置いて生きてきたということなんだよ
つまり、しには「思いやり」や「愛」がカケラもないんだよ 誰だか忘れたが
中国の誰かが
「盗賊には盗賊の義がある」と書いてたね
それを流用するなら、
「マフィアにはマフィアの義があり」
「ヒトラーにはヒトラーの義がある」のだ
僕らは、それら自分と異なる義を切り捨てることなく
対話の中で自らに問うことで
異なる他者との共存を図る精神を育むのだ
それこそが、人間理性がヒトラーを否定する一番の理由になるのだ
しは、ヒトラーを狼として切り捨てる
それは、ヒトラーがユダヤ人をジェノサイドしたことと何も変わりはないのではないか??
しの中にはヒトラーと同じ、狼の精神、ジェノサイドの精神がある 対話の世界の人間になるには
言葉の関心に気をつける必要がある
そして、それこそが「真理」の本来の意味なんだ
「真理」はとても重要なものだけど
誰も「真理」が何か分からないんだ
だから、対話ができない
しもそうだ
「真理」という言葉が何を意味してるか分かってない
僕がずっと「真理」が大事だと訴えてるのは
この「言葉の使い方」にあるのだけど
誰もが猿のような言葉の闘争しかできない
しもまた権力の奴隷なのだよ
それはとても残念なことだ 君の言う「真理」は穴だらけなんだよ。
君は「真理」を一度定義したまえ。 その言葉で分かる
しは「真理」を疑っている
それはつまり、しは言葉を疑っているんだ
しにとって、言葉は自分の欲求を満たす道具でしかない
しもまたヒトラーと同じなのだ
残念だ
真理の定義は
「言葉と対象の一致」である しはずっとそうやって生きていけばいい
僕は別の人生を生きる 重要なことはだ
ルールなんだ
僕にとって、僕自身が発した言葉のルールに従うことは
僕自身の利益や現実より優先されなければならないんだ
これはとても大事だ
バレなければ自分の利益を得る、ということではダメなんだよ
自分のルールに従うがゆえに、自分の利益よりもルールを優先する
ということが大事なんだ
だから僕は約束を破らないし、自分の決め事は守る
永遠の愛も誓える
僕は「真理」を信じてるがゆえに
無限のルールに従うことができる
でも、しは「真理」を信じてない
だから、しの言葉は、目の前の現実を取り繕うだけの嘘でしかない
そんな言葉では信頼を築くことはできない
信頼できない人間と関わることは時間の無駄だよ 一生、嘘をついて、そして死んでいけばいい
そして、死ぬ瞬間にまで自分を騙せばいい
そんな生き方はつまらない
僕はそんな生き方はしたくない たまには、哲学の話題をするか
ミュンヒハウゼン・トリレンマというものがある
調べてみるといい
ここから言えることは
根拠づけには限界がある
「〜だから、これが正しい」と言えることはない
ということだ
ここから分かることは
根拠づけを求めることは、それ自体が不毛なことだということだ
僕らは、「その根拠は??」と質問し続ければ無限に質問をし続けることができる
だから、自分が気に食わないことには「その根拠は??」と質問すれば
自分の気に入った結論だけを手に入れることができる
果たしてそれでいいのだろうか??
いや、それ自体が「根拠づけを求める」という思考に縛られたものでしかないのではないだろうか??
ミュンヒハウゼン・トリレンマからは別の可能性が見えるのではないか? 「真理」があったとして
自分の気に入らないものは根拠を問えば捨てることができる
つまり、自分にとって都合がいい真理だけを手に入れることは可能である
なるほど、それも一つの選択肢だ
しかし、まったく逆の選択肢がある
つまり、「真理」の方に従い、「根拠づけ」の方を捨てる選択肢だ
これが、僕ら「非正当化主義」と呼ばれる態度だ
で、「正当化」というものを分析した結果
それらはつまり「権力」だという結論に至った
正当化にこだわる奴らは、権力思考に支配されてる
権力が欲しい人たちは権力を求める
それもいいだろう
しかし僕は権力を捨てて真理に生きたいのだ
そこには、言葉から権力を排除して、言葉の意味とそこからの発見と、知的成長だけが残された素晴らしい対話の世界がある
言葉の権力にはこだわらず、意味にこだわる
それが僕ら哲学に生きる者の生き方だ
君自身の権力への志向に自覚的になれ
そして、それを僕に求めるな
君が求めるものが、僕にとって求めることと同じではないのだから。 これは僕にとって、とても大事なものだ
昔のガールフレンドに
「数学は得意だ」と僕が言った時に
「なんで、数学が得意なのに、いい職業についてないの?」と言われた時、僕は幻滅したし
そのガールフレンドとの縁は切れた
僕は数学が好きだ、今までも、これからも
しは、権力が好きだ
そして、権力のない数学を否定する
それはあのガールフレンドと変わらない
しはいい職業の人を探せばいい 清見は排他的で自己愛が強すぎるね
人を赦せない
人を好きになるのではなく自分を愛せと強要している
エゴイストであるなら傲慢さが通るほどの権力が無ければ排除されるだけだよ
君の求めるものと君の態度が噛み合っていない 僕はエゴイストではない
エゴイストは君の方ではないか?? >昔のガールフレンドに
>「数学は得意だ」と僕が言った時に
>「なんで、数学が得意なのに、いい職業についてないの?」と言われた時、僕は幻滅したし
>そのガールフレンドとの縁は切れた
これはどう読んでもエゴイスト
自覚のがないのが問題 >>431
だおな(о´∀`о)
そう思う。
清見、普通の判断ができない。
あっ、清見じゃなくて底辺だった。゚(゚´ω`゚)゚。 駄目だ、やり直し! まったく清見は話にならんな。
一人でいるとこうなりますってのの典型。 >>428
これはそっくりそのままおまえに熨斗つけて返してやるよ >>431
その女の子は皮肉ったんだろ。
清見は一目見ればモテない君であることがわかるよ。それは容姿の問題ではなく、まあ容姿も良くはないけど、女から見るとどう考えても腹立たしいんだよ。
自分勝手すぎるからな。論理もメチャクチャだし、人を認めようとしない。すぐに幻滅するのではなく何故嫌われるのか?
女はみんな逃げるのか、それをよくよく考えた方がいい。エゴイスト君なんだから。 だよな。
清見はエゴイスト!
どMで自分にベクトルが向いてるに違いない。 まあ教えてやるか
>その言葉で分かる
しは「真理」を疑っている
それはつまり、しは言葉を疑っているんだ
真理の定義は
「言葉と対象の一致」である
これでは説明不足だ。やり直せ。
自分勝手な用語の使い方をするなよ。
>重要なことはだ
ルールなんだ
>僕にとって、僕自身が発した言葉のルールに従うことは
僕自身の利益や現実より優先されなければならないんだ
ルールとはなんだ?
説明するように。自分勝手なコードを使って勝手に話進められても誰もついて来んぞ
>根拠づけには限界がある
「〜だから、これが正しい」と言えることはない
ということだ
>ここから分かることは
根拠づけを求めることは、それ自体が不毛なことだということだ
これでは科学自体を否定してることになる。
駄目だ。まったく話にならん。わかってから論説するように。
本当にエゴイストだな清見は アルフレッド・タルスキの対応説
「言葉の意味内容とその対象の一致」
「僕はエゴイストではない」という言葉は
僕がエゴイストでない時に真であり、僕がエゴイストである時に偽となる
エゴイストとは、社会性がない人間のことを指すわけではない
言葉において「エゴイズム」つまり、エゴによる理由づけを根底に置くロジックの組み立てをする者だ
僕はロジックの世界の人間だ
しとは住む世界が違う 論理というのはルールの一種だ
例えば、しが
「君はエゴイストだ」と言ったなら
エゴイストの集団の中に君を置く
そのような意味内容の発言をしたことになる
そして、その意味内容はルールとして、発言者を縛るのだ
つまり、「論理的である」ということには
ルールに則ることができる、ということが条件にあるのだ
人は、そもそも非論理的なことは話せない
論理は会話を成立させるルールで、
非論理的な人間は存在しない
しかし、ルールに自己都合で従ったり、従わなかったりする者は
彼は、論理という我々が最低限守らねばならない言葉のルールを逸脱している
ルールを疎かにする者が、論理の一番の敵なのだ ここではなんでもいい
ゲームを想像して欲しい
そして、ゲームにはルールがある
ルールがあることがゲームを成立させている
ルールの外部はある
チートどったり暴力だったり
我々はルールの中に入り、何らかのルールに従うことによって、ゲームを成立させている
会話とは、言葉と論理のルールにおけるゲームのようなものだ
ルールに従えない者は、対話をする能力がそもそもない 幻滅するのはしょうがない
自分の心に嘘は付きたくない
そう思っているんだろう
清見は
そしてそれが態度に出てるんだよ
それが問題
大抵のことは受け入れて行かなきゃダメなんだよ
嫌いでも受け入れるんだよ
それが致命的な利害の不一致でなければ
それが社会性なんだよ
清見の傲慢さが赦されるほどに人を引き付ける飛び抜けて優れた能力はあるのか?
心がきれいだとかそんなメルヘンチックなことを言うなよ
潔癖だとか正しさとかお前の価値観で語るなよ
社会で評価される物が必要なんだよ
それを維持したうえで自分の価値観を誇れよ
それもないのに自分は清く正しい?
それが赦されるのは親に対してと未成年の子供だけだ ガハハハハ。
誰も清見のこと認めてねえw
ロマンチストなんだろうが、自分勝手すぎるんだろう。傲慢ではないが自分勝手。自己チュー 関心がないし
他人に関心を強制させることは、誰にもできないはずだ
僕は関心がないものは見ない
アニメも見ない
ガンダムも見たことない
ドラマも見ない
それでいい
興味ないものをわざわざ見ようとは思わない 愛を待つほどに持てるのかと
若い時と違うんだから
何時までも童心を持つことと成長していないことを混同している その「成長」という言葉が嘘にしか聞こえないんだよ
人に強制させようとするな
興味ないものは興味ない 興味がないものに興味を持てと言っていないんだよ
ただ否定せずに受け入れてやれって事だよ
じゃなかや女と男は違う生き物だから付き合えるわけがない まあいろいろ言われているが、清見に女が付いてきていない、というところからもわかるように、本当に独善家なんだよな。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています