>>485(続き)
いじめが対幻想である云々というのは、好きな子をいじめたくなる、程度のことにしかあてはまりそうもない。
大半は、日本的な排除の感性か、ただの強奪であるかのどちらかだ。

個人としての暴力的な性向は、乳胎児期の母親のかかわり方にある、という、あまりあてにならない「母型論」を前提としたとしても、いじめは暴力的な要素だけではない。
むしろ集団からの排除の方が、大きな要素だ。
排除するかしないかというのは、まさに共同幻想の領域だ。

君独自の意見なのか、吉本がそう書いているのか知らないが、対幻想がいじめの本質ということではないだろう。

吉本で覚えているのは、自分がいじめっ子であったときに相手に下駄で殴られて反省したことがあるという文章。
だからいじめられたら思いっきり反撃すればいい、という結論で、思わず吉本の懐古趣味といじめっ子の論理に微笑んでしまったことがある。

後年自分の感覚を時代遅れだったと述懐もしていたが、吉本の現実を失った感性を垣間見た気がする。