ドイツ哲学総合スレ [無断転載禁止]©2ch.net
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ドイツの小学生が「デモの手順」を学ぶ理由
まず役所、次に地元紙、それでもダメなら?
高松 平藏 : ドイツ在住ジャーナリスト
政治に限らず、ドイツの教育はとにかく「喋る」ことに小学校から重点をおく。
発言の有無が成績にもつながるため、堂々と意見を表明することが「ごく普通」に身に付いている。
喋る中身は玉石混交だが、何でも発言できること、そしてそれが排除されないことが徹底されている。
デモクラシーの基本は他者との自由な議論だが、その土壌が小学校から作られる。
また、小学校で「抗議から社会運動までの手順」を学ぶ機会もある。
たとえばマンホールから異臭がするという問題があれば、
「まず市役所に言う。それで解決しない場合は地元紙の『読者の手紙』へ投稿する。
それでもだめなら、社会運動を行う」といった内容だ。
子供向けチャンネルのテレビ番組でも、町の公園に問題があると、
子供たちが市長や行政の担当部署に掛け合うというようなことをドキュメンタリー番組で放送している。
番組では最終的に改善される場合も、できない場合も紹介される 知っている人がいたら教えてほしいんだけど
フッサールの現象学でリンゴの例での説明があるでしょう
これ思索してるってことはわかるんだけども
感心するような話なんですか
知覚から見るってだけではないですかね
それとも提案された時は新しい考え方だったのかな 竹田さんので
「なつかしさ」を現象学するというのを読みました
でもこれはなつかしさってどんな感じ、
っていうテーマの話し合いが充実するってことで
哲学出てこなくてもいいんじゃないですか
幸せって何だろう、とか全部そうですよね
で、この作業に真理とか本質という説明が
必要とは思えないんですが >>206
リンゴの例に限らず、フッサールというのは、中途半端な心理分析に過ぎないんじゃないだろうか?
哲学の心理学的還元(w)は、フォイエルバッハで終わってるのに。 >>208
ありがとうございます
たしかに心理的な方法ですよね
発想としてはプラグマティズム的な感じもあると思うけど、
そこで「対象に関するすべての判断や理論を禁止する」
とか言い出すのがナイーブに感じるのです
思索はいいんですけど「リンゴのこれこれは疑えない」
とかよくいえるなあと 心理分析というとハイテンションだから掲示板の類では失点あるね。 処刑ライダーさんとTHEグルさんを探しておりますの。👰
日本で、私の奥義が理解出きる人達だから おまえが人間かどうかなんて知らんが、無理やり山で会わされて、人生損したわ。
まだ仮説の段階だが、おまえ人間としてみんなに顔向けできるか? >>2、>>101
メンバー更新。
「哲学者サッカー」
ドイツ語圏代表
Meister Eckhart(GM)
マルティン・ルター(監督)
ゴットフリート・ライプニッツ(ゴールキーパー)
ヤーコプ・ベーメ
イマヌエル・カント
ヴィルヘルム・フォン・フンボルト
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(キャプテン)
フリードリヒ・シェリング
フリードリヒ・ニーチェ
ジークムント・フロイト
エトムント・フッサール
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン
マルティン・ハイデッガー
カール・マルクス(補欠)
ハンナ・アーレント(マネージャー) ヘーゲルはベーメを「ドイツ最初の哲学者」と呼んだ。 ベーメのヴィジョン
“神性の本質は無底の深みのありとあらゆるところにあって、輪(ein Rad)か眼のようである。
始まりがいつも終わりをもっているからである。しかも無底には場所は全く見いだされない。
無底はそれ自身があらゆる存在者の場所であり、あらゆる物の充満であるが、
それにもかかわらず無底は何ものにも?まえられたり見られたりしないからである。
無底はそれ自身においてひとつの眼である。
預言者エゼキエルは、第一章で、彼の意志の霊を神のなかへ導き入れることによって、
そのようなもの[無底]をひとつの形体のうちに見た。”
― ヤーコプ・ベーメ 『無底と根底』 「六つの神智学的要点」 19 (1991)
“第三十年の四月五日のことである。
わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、
そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。[略]
わたしが生き物を見ていると、四つの顔を持つ生き物の傍らの地に一つの車輪が見えた。
それらの車輪の有様と構造は、緑柱石のように輝いていて、四つとも同じような姿をしていた。
その有様と構造は車輪の中にもう一つの車輪があるかのようであった。
それらが移動するとき、四つの方向のどちらにも進むことができ、移動するとき向きを変えることはなかった。”
― 旧約 「エゼキエル書」 1:1-17
エゼキエルの車輪
http://www.ritmanlibrary.com/wp-content/uploads/2013/08/Aurora-Morgenrote-in-Aufgang.jpg
その他ベーメのヴィジョン
http://www.esoteric.msu.edu/jpg/Frontispiece.jpeg
http://livedoor.blogimg.jp/fairypot2/imgs/0/6/0674579d.jpg
http://werke.jacob-boehme.org/3-40-Fragen-von-der-Seele.jpg
http://werke.jacob-boehme.org/4-Mysterium-Pansophicum.jpg 「フィヒテ全集」全23巻の一覧(※第14巻は2016年に発刊され完結)
https://www.philosophyguides.org/data/fichte-complete-works/
フィヒテ全集2
初期政治論
眠れぬ夜の断想・プロイセン治下の諸国住民への呼びかけ・思想の自由回復の要求(井戸慶治訳)
フランス革命についての大衆の判断を正すための寄与(田村一郎訳)
フリーメイソンリーの哲学(井戸慶治訳)
関連日記・書簡(井戸慶治・田村一郎訳) フィヒテ 「フリーメイソンリーの哲学」 『フィヒテ全集2』
“汝の求めるものは、ここにある。” >>204
《マルクス・ガブリエルの新実在論》
アスリートさんがソレントにいて、ヴェズーヴィオ山を見ているちょうどそのときに、
わたしたち(この話をしているわたしと、それを読んでいるあなた)はナポリにいて、
同じヴェズーヴィオ山を見ているとします。
その時、存在しているものは以下。
(1)ヴェズーヴィオ山
(2)ソレントから見られているヴェズーヴィオ山(アストリートさんの視点)
(3)ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(あなたの視点)
(4)ナポリから見られているヴェズーヴィオ山(わたしの視点)
形而上学の場合
・(1)のみが存在する
構築主義の場合
・(2)、(3)、(4)のみが存在する
・(1)は存在しないか不可知
新実在論の場合
・(1)も(2)も(3)も(4)も存在する
・(1)は不可知でない
〜『なぜ世界は存在しないのか』(2018)p13-17 >>227
半世紀もくすぶっていた難問に挑んだ「天才哲学者」驚きの論考
「実在論ブーム」を読み解く
千葉 雅也
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/54371
> ガブリエルは、自然科学こそが唯一実在にアクセス可能だという(広く支持されている)立場に否を突きつける。
> そうした科学主義は、特定の「意味の場」を特権化しているからだ。
> 非科学的な実在性もあるし、ファンタジー的な実在性もある… ハイデガーによるナチス批判〈1934-35年〉
“今ではなにもかも民族性と血と土にみちあふれているといった有様である。”
― 『ハイデッガー全集 39 ヘルダーリンの讃歌』 p282、解説p332 >>228
それだと問題解決しないと思うけど
非科学的な実在性に基づいた概念は
裁判で証拠になるん?
いくら言葉を駆使して整理しても
自然科学の世界観を格下げできないと思うの
だからアプローチが間違ってる >>228にもあるように、
それまでの相対主義は認識論ベースだったのが、
ガブリエルの相対主義は存在論ベースになっているということ。 言葉操作の観念論なんだから
何論であろうと相対主義語るのは楽勝
温かく見守って読まない限りガバガバ
カウンター自然科学に執着する時点で
お里が知れる >>232
裁判には役に立たないだろうけど、
科学や数学は絶対正しいとか、
神はいるとかいないとか、
その程度の話が減ってくれればいいと思う。 >>235
じゃあ道徳的に寛容な世の中の
雰囲気づくりのために相対主義を
やってるってことかな
それなら新しい実在論で変わる現実を
提案しないとと思う
例えば現代社会で自然科学が根拠となっている
ある判断が新しい実在論によって根拠足り得なくなる
という風にね
今ある科学哲学で自然科学を原理的に
相対化するのは簡単だけど
だからどうしたって感じだよね >>236
> じゃあ道徳的に寛容な世の中の
> 雰囲気づくりのために
何を認めようというのではなく、
何かを「正しい」と信じて疑わない、
そういう臆見を見つめ直そうというのがそもそもではないかな。
>>228の引用
> ガブリエルの哲学は、ファシズム批判の哲学でもあると思う。
> ひとつの特権的な「意味の場」の覇権を拒否し、複数性を擁護するという意味において。
> それは、戦後ドイツの歩みを隠喩的に示しているとも言えるかもしれない。
政治であれ、宗教であれ、自然科学であれ、
見つめ直して悪いというものがあるだろうか。 >>238
王道という言葉の使い方を間違えてるよw おう どう[王道](名)
@王者の仁徳を もととして、国をおさめる やり方。(↔覇道)
A〔royal roadの訳語〕らくな方法。近道。
「学問に━なし」
Bもっとも正統的な行き方。
「学問研究の━を行く」
(三国) >>240
「学問に王道なし」 - 古代ギリシアのユークリッドが幾何学について王に言った言葉で習得に都合のいい道はないことを表す。前述の「正攻法」という意味での転用が用いられる以前は、学習についてこちらが常識であった。
(wiki) 漢籍の「王道」から正しい行き方と解するのは
極めて自然で孟子読んでりゃ分かる
日国が翻訳語の前に置くのはそういうこと
物事が進んで行くべき正当な道。欠点のない方法、手段。
*ポール・クローデルを繞って(1950)〈加藤周一〉
「小説の歴史が、近代文学の王道に他ならぬということを、あらためて強調するまでもあるまい」
一方翻訳語の王道は「〜に王道なし」の定型句として
使われるだけでそれ以上の生産性はない
リテラシーない奴には理解不能だろうがな 孟子 孟子 ベルの界層社会の方ができがいいね。新発明。 m王道デザイン
王道的パターン
王道中の王道
王道系
王道を極めた
(少納言を検索)
これらが翻訳成句「〜に王道なし」以後の
誤用と見るのは無理がある
ひとつには漢語の意味は翻訳成句と比べて
容易に類推可能だからだ
そして戦前にはごまかしハッタリのない正統性という
意味で漢語由来の王道が多用されていたという
素地も指摘できる ネット上では、この板のように様々な議論が全世界で日々なされて
より高い次元への意向、アウフヘーベンが繰り返されてるハズなのにネット議論が世界を
良くしているどころか逆に混乱すら招いてるよな、なぜだ? >>247
ネットでは自分の好みの情報が手に入るから、ネット常習者はバカになっていくという研究が有名だね。 AbemaTVはその傾向に抗しようとしているみたいだけどね。 >>249
それだと、媒体がネットになっただけのマスコミだけどね。 しかも低俗極まりない昭和の悪いテレビの見本のようなな >>251
現在のテレビ番組が高尚?
全体としては、60年代70年代のほうがずっと自由でいい番組が多かった。
現在は、政権と財務省の思惑通りの番組しかないと言ってもいいくらいだ。
AbemaTVは見たことがないから内容は知らない。 >>253
全角さんというのは、AbemaTV のこと?
>>249をコピーしただけなんだけどw ルター「ハイデルベルク討論」における解体/構築
<解説>
「ハイデルベルク討論」の終わりのところで「十字架の神学」が隠れたる神の逆説として展開する。
ルターによるとキリストにおいて自己を啓示する神、つまり顕れた神は、もっとも深く自身を隠している神である。
(略)キリストは苦難と十字架というローマの極刑に付けられた、見るかげもない哀れな姿において自己自身をあらわす。
<本文>
(19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
(20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
[独語] Die Heidelberger Disputation
http://www.reformatorischeschriften.de/Hddisp/hddisput.html
[英語] The Heidelberg Disputation
http://www.catchpenny.org/heidel.html
解説…『ルター神学討論集』 マルティン・ルター、金子晴勇 (2010)
本文…『ルター著作選集』 マルティン・ルター、徳善義和ほか (2012) >>256
(19)はアリストテレス主義的スコラ学派による「栄光の神学」
(20)はパウロによる「十字架の神学」
ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。 >>256
デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio)
の経緯については、以下が詳しい。
・宮ア裕助 「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」
『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
・茂牧人 「なぜ日本にキリスト教哲学が必要なのか」 (2009)
https://serve.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=49&block_id=42&item_id=1245&item_no=1
ハイデガーとルター >>258
最後のは、なぜ必要なのか
の答えがないっていう欠陥論文だなw
日本での必要性を検討していないという
異次元だわ >>258の宮ア「プロト脱構築について〜」は、ハイデガー論としてもデリダ論としても新しい。 テレビに関しては信仰生活が守れるか心配です。マスメディアでは無理そうでしょう?
若い子供が年上のアイドルや男性(多数)に発情しかねないテレビなんて時代錯誤の
セクハラ業界ですね。 >>261
テレビというのは国民の鏡。
やはり国民の鏡である政権と、まったく同じ映像を映す。 ドイツ哲学なら、ドイツの一般的な話題とか書籍を考えて、
哲学を精錬していった方が良いのではないかな。
文学者が集まったことはまずないし、偶然会うことはあっても、
その方が抑制されたり、カリキュライズされてた時代の人と、
遠方にでも出会いたよりがあるはずです。しいて言えば対ドイツのような
国交常態の国のテキスチャーを取り上げるもの理にかないます。 ドイツ哲学なら、ドイツの一般的な話題とか書籍を考えて、
哲学を精錬していった方が良いのではないかな。
文学者が集まったことはまずないし、偶然会うことはあっても、
その方が抑制されたり、カリキュライズされてた時代の人と、
遠方にでも出会いたよりがあるはずです。しいて言えば対ドイツのような
国交常態の国のテキスチャーを取り上げるもの理にかないます。 >>263
国家単位で哲学や文化を考えると、内容がとても小さくなってしまう。 国家 プラトン 政治 失敗 ということは、近年でも
国は成立しえていないという新しい概念である可能性でもあり、
細かく国境や歴史的地理哲学などから仕事を埋めていくと、随意に
内容はまだ小さいほうが良い面もあると感じます。 >>267
そうかな
結構有力なアプローチだと思うね
変な例えだけど
ある名作をひたすら読むよりも
作品内に出てくる料理を実際に食べてみるとか
いいと思うんだ >>270
出てくる料理のレシピが書いてあるわけじゃないからね。
料理本ならともかく。
作者や作者が想定した登場人物と同じ味覚を持ってるわけでもない。
作品の理解にも国家の理解にも、まったく無関係。 >>273
理解の意味が違うんだろうな
それはしょうがない >>274
料理を食べてなにかを理解したと思い込むような軽薄な思考とは無縁だからね。 それこそ軽薄だな
安楽椅子の正当化に過ぎない
人生をかけたマルクス主義者が
ドイツ語学ばない理論武装には
なるかもしれないが悲しいねえ >>276
このスレが何のスレだか知ってる?
哲学板って気違いしかいないのはよくわかるけど、頭の悪い気違いはとても少ないんだと思ってたw 文化を国単位で考えると小さくなる
↓
文学作品内の料理を実際に食べてみるって
いうようなアプローチもいいもんだよ
↓
軽薄だ!
うーん
ついていけませんね 映画『マルクス・エンゲルス』 4月28日(土)よりロードショー!
http://www.hark3.com/marx/
マルクス生誕200年記念作品・岩波ホール創立50周年記念作品
若きマルクスとエンゲルスの友情は世界の未来を大きく変えた---。
永遠の名著『共産党宣言』(1848)が誕生するまでの激烈な日々を描く歴史的感動作。
OUTSIDE IN TOKYO / 佐藤優『マルクス・エンゲルス』トークショー 採録
http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/satomasaru/index.html >>278
小さくなる − 小さいアプローチもいいもんだ − そんなアプローチは軽薄だ
理解できないところがあるの? “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』)
エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。 “パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”
“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”
― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006) >>284
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷啓治、上田閑照らの編集で、巻末に詳しい解説もある。 哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談
https://www.asahi.com/articles/ASL6L42BML6LUCLV007.html
(1)実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、
どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
(2)立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
(3)主権に統治は可能でしょうか。
主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
(4)現代政治が主権の限界に直面する一方で、
主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか ガブリエルとシェリング
シェリング『世界年代』における時間哲学 (2014-10-31)
マルクス・ ガブリエル、翻訳:中島 新
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8379&file_id=22&file_no=1
新実在論とマルクス・ガブリエル─世界の不在と「事実存在」の問題─ (2016-03)
中島 新
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8549&file_id=22&file_no=1
Weltalterの研究動向とマルクス・ガブリエルのシェリング研究 (2014-10-31)
長島 隆
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8385&file_id=22&file_no=1 “自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機的な肉体である。
人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体だということであり、
人間は死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。
人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、
自然が自然と結びついているというのと同じだ。
人間は自然の一部なのだから。”
― マルクス 『経済学・哲学草稿』 長谷川宏訳 (2010) 第1草稿 4.疎外された労働 p100-101 >>293
ネグリ=ハートは、大都市をマルチチュードの「器官なき身体(ドゥルーズ=ガタリ)」と位置づける際、
マルクス『経済学・哲学草稿』の一部を引用した。
『コモンウェルス:<帝国>を超える革命論 下』 ネグリ=ハート (2012) 第4部 >>294
「器官なき身体」というのは、ハイデガーの「存在」みたいなもんじゃないの? >>295
「器官なき身体(ドゥルーズ=ガタリ)」 器官ない身体は存在しないよ
ない話してもしょうがない 哲学チックな言葉遊びで満足していれば
いいんじゃないかな ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています