ドイツ哲学総合スレ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
ドイツ哲学なら、ドイツの一般的な話題とか書籍を考えて、
哲学を精錬していった方が良いのではないかな。
文学者が集まったことはまずないし、偶然会うことはあっても、
その方が抑制されたり、カリキュライズされてた時代の人と、
遠方にでも出会いたよりがあるはずです。しいて言えば対ドイツのような
国交常態の国のテキスチャーを取り上げるもの理にかないます。 >>263
国家単位で哲学や文化を考えると、内容がとても小さくなってしまう。 国家 プラトン 政治 失敗 ということは、近年でも
国は成立しえていないという新しい概念である可能性でもあり、
細かく国境や歴史的地理哲学などから仕事を埋めていくと、随意に
内容はまだ小さいほうが良い面もあると感じます。 >>267
そうかな
結構有力なアプローチだと思うね
変な例えだけど
ある名作をひたすら読むよりも
作品内に出てくる料理を実際に食べてみるとか
いいと思うんだ >>270
出てくる料理のレシピが書いてあるわけじゃないからね。
料理本ならともかく。
作者や作者が想定した登場人物と同じ味覚を持ってるわけでもない。
作品の理解にも国家の理解にも、まったく無関係。 >>273
理解の意味が違うんだろうな
それはしょうがない >>274
料理を食べてなにかを理解したと思い込むような軽薄な思考とは無縁だからね。 それこそ軽薄だな
安楽椅子の正当化に過ぎない
人生をかけたマルクス主義者が
ドイツ語学ばない理論武装には
なるかもしれないが悲しいねえ >>276
このスレが何のスレだか知ってる?
哲学板って気違いしかいないのはよくわかるけど、頭の悪い気違いはとても少ないんだと思ってたw 文化を国単位で考えると小さくなる
↓
文学作品内の料理を実際に食べてみるって
いうようなアプローチもいいもんだよ
↓
軽薄だ!
うーん
ついていけませんね 映画『マルクス・エンゲルス』 4月28日(土)よりロードショー!
http://www.hark3.com/marx/
マルクス生誕200年記念作品・岩波ホール創立50周年記念作品
若きマルクスとエンゲルスの友情は世界の未来を大きく変えた---。
永遠の名著『共産党宣言』(1848)が誕生するまでの激烈な日々を描く歴史的感動作。
OUTSIDE IN TOKYO / 佐藤優『マルクス・エンゲルス』トークショー 採録
http://www.outsideintokyo.jp/j/interview/satomasaru/index.html >>278
小さくなる − 小さいアプローチもいいもんだ − そんなアプローチは軽薄だ
理解できないところがあるの? “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』)
エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。 “パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”
“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”
― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006) >>284
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷啓治、上田閑照らの編集で、巻末に詳しい解説もある。 哲学者が語る民主主義の「限界」 ガブリエル×國分対談
https://www.asahi.com/articles/ASL6L42BML6LUCLV007.html
(1)実際には行政権力が強大な力を持っている現代の政治体制で、
どのように民主主義を構想すればよいでしょうか
(2)立憲主義と民主主義の関係をどう考えればよいでしょうか
(3)主権に統治は可能でしょうか。
主権によって政治コミュニティーを統治することはできるでしょうか
(4)現代政治が主権の限界に直面する一方で、
主権を求める動きが日増しに高まっているこの状況をどう考えればよいでしょうか ガブリエルとシェリング
シェリング『世界年代』における時間哲学 (2014-10-31)
マルクス・ ガブリエル、翻訳:中島 新
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8379&file_id=22&file_no=1
新実在論とマルクス・ガブリエル─世界の不在と「事実存在」の問題─ (2016-03)
中島 新
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8549&file_id=22&file_no=1
Weltalterの研究動向とマルクス・ガブリエルのシェリング研究 (2014-10-31)
長島 隆
https://toyo.repo.nii.ac.jp/?action=repository_uri&item_id=8385&file_id=22&file_no=1 “自然とは、それ自体が人間の身体ではないかぎりで、人間の非有機的な肉体である。
人間が自然に依存して生きているということは、自然が人間の肉体だということであり、
人間は死なないためにはたえず自然と交流しなければならないということだ。
人間の肉体的・精神的生活が自然と結びついているということは、
自然が自然と結びついているというのと同じだ。
人間は自然の一部なのだから。”
― マルクス 『経済学・哲学草稿』 長谷川宏訳 (2010) 第1草稿 4.疎外された労働 p100-101 >>293
ネグリ=ハートは、大都市をマルチチュードの「器官なき身体(ドゥルーズ=ガタリ)」と位置づける際、
マルクス『経済学・哲学草稿』の一部を引用した。
『コモンウェルス:<帝国>を超える革命論 下』 ネグリ=ハート (2012) 第4部 >>294
「器官なき身体」というのは、ハイデガーの「存在」みたいなもんじゃないの? >>295
「器官なき身体(ドゥルーズ=ガタリ)」 器官ない身体は存在しないよ
ない話してもしょうがない 哲学チックな言葉遊びで満足していれば
いいんじゃないかな ぷるぱちゃほわぶか〜
パチャぷるぱちゃぷるぱちゃぶか〜
パチャホワブルパゃ〜
ホワ〜
,ィZ三三二ニ== 、、
,. --{シイィ彡彡三三三ミ丶、
,イィ三ミ>'"´ __,,  ̄`丶ミミミミヽ
/シ彡シ'´ _ ,ニ_二 三‐`、 `ヾミミミヽ
. ,'ilif'彡' ,' _,..-ュ ̄ fニ三三ミヽヾミミミヽ
jlリイ彡! :,ィ彡'"´ :. :. .:' `゙' ヾミミミミ'
l{i{l{lノリ ,'fi´ _, i :. ';=―一 ',ミミミミ!
{lilili/{ ' ,.-‐'"´,:,! ' 、ー-‐ ' Nlハ⊥
|lilifリハ .: '、 _,.ノ,' ,. }、 tf{´i, l|
. Wリ小! .: ,ゝ^ :: ヽ `!) Vl
ゞ干ミ} : / _J_ 丶 }'´ /
'、Yヾ :. l /ィ三三シ'^ / ノ
/ ´ ヽ` ̄ ヽニソ ー-゙:.、
i - 、 `ヽ_
l: 、.: ヽ ゙i"
! i ; n .:c.: ', _..ハ
| ハ/ { _,..-ァノ 、r‐、>ー ヽ
| ト./ ` ̄__,.:=彡 :.ヾ、ニ二 /
. | |ノ -=< ゙=tラ'"
| / ,-一'" ̄´ i
|:/ / \:. !
| ' / ヽ:. :、 \
゙、 ノ .i:. ` ヽ , ´ `ヽ ゜ O 。
o ゚ ○ 。 O ! ! o
ヽ、__,.ノ
( ゝ ヾ ソ
ヽ ヾ ./ ノ ノ
/,´/丶-‐''´ プシュプシュー!!
//
___
/ \ ハアハア
/ ヽ
/ ヽ
│ │
f''|: .◞≼☉≽◟ii◞≼ⓞ≽◟ ;| T
ト  ̄ i  ̄ | ノ
| ;; \ ^-^丶 / l 「 家とホテル、どちらで関係を持つか選べ 」
| ;; / 米\ / :ノ
ヽ │ヽ__ノ│/
\,,,__,,,,/ 『週刊 読書人 2018年6月29日号 3245号』
《特集》マルクス・ガブリエルの来日インタビュー/入門マルクス・ガブリエル
http://www.dokushojin.co.jp/?pid=132827913
01.「無世界観(世界は存在しない)」と「新しい実在論(意味の場の存在論)」
02.ポストモダンの原罪/形而上学批判
03.「近代」についての再評価
04.精神の哲学と二つの基本思想
05.西田幾多郎とマルクス・ガブリエル
06.シェリングの思想とマルクス・ガブリエルの哲学
「マルクス・ガブリエルを読むために」解説=浅沼光樹 >>311
「週刊読書人ウェブ」
《特集》マルクス・ガブリエルの来日インタビュー/入門マルクス・ガブリエル
第1回 (1)「無世界観」と「新しい実在論」/(2)ポストモダンの原罪/形而上学批判
https://dokushojin.com/article.html?i=3592
第2回 (3)「近代」についての再評価/(4)精神の哲学と二つの基本思想
https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=3
第3回 (5)西田幾多郎とマルクス・ガブリエル/(6)シェリングの思想とマルクス・ガブリエルの哲学
https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=4
第4回 マルクス・ガブリエルを読むために 解説=浅沼 光樹
https://dokushojin.com/article.html?i=3592&p=5 『新・カント読本』 牧野英二 編、法政大学出版局 (2018/2/20)
・メイヤスーとカント
・トランプ・イスラム国とカント
・中国・韓国とカント
・グローバル化時代のカント
ほか >>311
そうだわ!!
ガブリエルvs美魔女
私が勝てば、世界で有名になり
財産も豊富になるわね🎵
誰かセッテイングしてくださらないかしら
⭐。🎵😊 学問の網羅性において、ライプニッツに勝る者は居らぬだろうな。
ガブリエルもライプニッツに比べれば矮小だわな。 モナドの失敗談なんてたかが知れてる。ほとんど物質犯罪者だよ。
押しつけがましい文明論。 つまんないから学術とかいうやつは書き込まなくていいよ 掲示板的メモや紙片日記の更なる類です。書き込んではいない。 >>321
屁理屈ではない哲学というのは見たことがないんだが・・・ 資本主義は、「ショウ=見世物」にすぎない(2018/07/15 8:00)
天才哲学者ガブリエルが考える世界の構造
https://toyokeizai.net/articles/-/228778
欲望の資本主義2018 闇の力が目覚める時
https://www.youtube.com/watch?v=o_QrojcbL6A
マルクス・ガブリエル×トマス・セドラチェク(チェコ、経済学者)ほか >>325
ガブリエルはまさに屁理屈そのもので哲学を分解しようとしてる。
言い換えれば、自分で勝手の言葉の定義を決めて、自分の定義と他の定義を混同させることで〈哲学〉を成立させてる。
〈天才哲学者〉として売り込もうとするのはみっともないとは思うけど、ハイデガーの〈20世紀最大の哲学者〉という宣伝文句が元祖かな?
いかにも資本主義的な売り込み方だw 資本主義に対抗するには資本主義の論理に従った上で食い破る必要があるでしょうよ 「アウラ」とは何か?
ベンヤミンが「アウラ」という表現をどのように用いたかを尋ねているわけではない。
「アウラ」を定義することができなければ、「アウラ」について語る意味はないのか?
それでも人は「アウラ」を感じるのではないか? >>329
定義なしにそんなものを語っても意味はないよ。
感じるということ自体が自己暗示に過ぎない、心理学上の問題。 >>331
そういうのを言葉遊びというんだよw
なんの意味もない。 >>333
それを書いて何の意味があると思うの?
論破されて悔しいから、口真似して逃げてるの?w >>328
「資本主義的な売り込み方」をせざるを得ないことを擁護してるだけだよ。
レトリックに走っているつもりはない。 >>335
なぜデタラメの賛辞で売り込む必要があると?
ものすごくバカげた〈哲学者〉なのに。 永遠に帰ってくるのは、差異、差異化されたもの、度をこえたもの(傲慢ーヘラクレイトスの徒の試金石とニーチェがいったのは、ヘラクレイトスがまだ、神の領域への侵犯を非難していたから。)
ヘラクレイトスを超えよう。超人(=度をこえたもの)、度とは差異のあるレヴェルであり
我々も、その個性に応じてあるレベルにある。だから、低いレヴェル、高いレヴェル(こういう言葉は不適切であるけど)、どのレヴェルであれ、自己の最大限の力を出す=自己を肯定する=・・自己は変化する。
・・ 自己の強度が変わる=超人である。自分を最低だと思っている人(否定してる人・・自己を肯定してみればいい。)
そうすれば、まず自己自身に戻り「怠けものなら、怠け者として、全力で怠けるなら・・」、また「変態的な趣味なら、それを受け入れる。どの度(段階)あれ、自己を否定しなければ、全力で肯定するならば」・・・
そうすれば現在の強度が、変化する地盤に立つ、それどころか、その決意自身、変化の瞬間なのだ。ツァラトゥストラが・・超人に。
なぜなら、ツァラトゥストラは今だ超人でないから。 肯定の結果の否定がある・。ある事件・例えば「コンクリート詰め殺人」というのが実際にあった。少年たちに残虐に殺された女の子・・その親がじかに犯人を殺しにいく(実際にそのような行為はしなかったが、仮にしたとするならば」といったことを考えるに・・
そのような行為、社会は否定するだろうが・・肯定から帰結する否定と考えて良い。というか、この場合否定は社会通念上の観念でしかない。このような場合、恐らく「直に反撃(復讐)、少年たちを殺す・・」
そのような人がいたとしたら、それは、不可抗力(存在の根底からでる
全力の怒り(否定)」と思う。この場合、法は「復讐」を代理するのだが(裁判で)、「怒り」にとっては、邪魔でしかない。・・
分かりにくいが、「尋常ならざる残酷な殺人」に「殺人」を、つまり「復讐」を成すことは「肯定から帰結する否定」に相当する。 肯定は、肯定しかしない。しかし表面上「否定的」なこともする。
それは、我々が、表象に囚われてる場合に限って、そのような
認識をする。
永遠に帰ってくるもの、差異化されたもの、故に差異に反対し、表象
に縛られるものは、排除される。「ある種の不幸な、苦悩の障害者の特権」みたいなものがあるように思う。おのれ全体が、問われているため。
それは、自己に対する運命への呪い、自己の否定、「なぜ」という問いをする場合だ、そういうものたちは、ただの疑問ではなく、「存在論的問い」に入り、いくつもの「問い」「ペアンス」に人より早く入り込むが故に、自己の肯定に早くたどりつくという事態。
これは、内在的思考、ほぼ不可抗力な思考(思考せよと追い立てられる)故に、肯定的思考のそばまで来ている。もう「表象」「法」「同情」はいらない・・俺は俺なんだ・・・。という事態。
この表象、法、一般論を退ける力。
永劫回帰の「選別」は、肯定するものだけ回帰させる。表象的思考を
「効果」ではなく、本物の思考と言うものをしりぞける。
表象で思考する限り、自己は何も変化しないからだ。 ニーチェの言う
高貴とは、変身の能力そのものであり、奴隷とは、いわずもがな・・
表象を本気で受け取るもの、または、そのような事態で思考するものである。
高貴なものは、どこへいこうが高貴であり、奴隷は、社長になろうが
金持ちになろうが思考の様式が同じなら依然として奴隷である。
高貴とは自分の力と切り離されていないもの。
奴隷とは自分の力と切り離されているものである、
例、オウム真理教の高橋被告が、何を思っているかは知れない。
ただ、法に従属せず、麻原の考えを信仰している点、
彼を短絡的に「悪」と裁くのはどうだろうか。まあ裁くのは
いいとしても、なぜ、彼が、そうも「かたくな」なのかが重要だ。
法は人々のなし得ることから切り離す装置だから、。
俺は、だれだったか・オウムの幹部が「ユダヤにやられた」と言っているいう動画をみた。いつだったか。
俺はてっきり、霞ヶ関(官僚)たちか、もっと怖い公安を、やっつけようとオウムが考えていたのかなと・・・もっとデカイ敵と対峙していたのだろうか?
一番の怒りは、マスゴミが、オウムの目的を探らないことだ。
まあマスゴミは、まいどそうだが。 間違った・・「高貴とは自分の力と切り離されていないもの。
奴隷とは自分の力と切り離されているものである」
削除。
まあ、奴隷の方法が「自分のなし得ることから切り離す」
引用させてもらう。
{「メェメェ子羊(弱いもの=恨み)の三段論法。
「鷹は悪い、ところで私(子羊)はお前の正反対である。故に私は良い。」
鷹(強いもの、すぐれたもの=日本)は悪い(鷹はすべて悪い、悪いのは鷹である。)。ところで私(韓国)は鷹の正反対である。故に私は良い。
どこに誤謬があるか、小前提(私は鷹の正反対・・)では、鷹はそのまま「即」力として、つまり鷹=力(行為)ととらえている。
しかし大前提(鷹は悪い)では、鷹は存在と力が分離されている。(と仮定されている)。つまり鷹を悪くする論理仕込まれている。
鷹は、力を発現させたり、させなかったりできることになっている
なので鷹は力を発現したら悪い、なぜなら力を発現させないこともできるから。
誤謬推理の根拠は力を分離できるという虚構、「自身のなし得ることから切り離された力」という虚構である」}
韓国は、日本が「その気に」になったらぶちこわせるのだが、
法が邪魔をしていると言ったら言い過ぎだろうか。 >>344
国家も宗教も特定の理念を絶対者とする共同体。
共同体の構成員として重なる以上、二重権力に甘んじるか、相手を解体するしかない。
オウムは後者を選んだだけのこと。
あとは戦術の問題にすぎない。 オウムの報道なんて散々やってきたよ、政治に不満を漏らすのと同じでお前が関心を持って見てないだけだ ドイツ観念論移行だよ。ドイツ民族の登場は。割あい古株じゃないわけ。 毒にも薬にもならない御託を並べるしょーもないカスばかりだが、お前の安定して馬鹿にはほっこりさせられるよ >>354
とびぬけたカスにほっこりされてもうれしくないだろう。 >>355
君のようなさっさと死んだほうが良い破滅的なアホたれに言われてもちっとも悔しくないだろう 学術は愛される馬鹿なんかじゃない、迷惑なだけの単なる馬鹿だ エンゲルスは来たるべき政治的決戦を前に、
ドイツの革命勢力にどのような忠告をしたか、、、
“われわれ「革命家」「転覆者」は、非合法手段を用いるときより、
合法手段を用いるときのほうが威勢よくさかえる。
先走って事を起こしてはならない。支配者に「合法性」を破らせよ。
支配者は弾圧法をつくり、やがてあらゆるルールをやぶって無法な攻撃に出てくる。
そのときには、支配者が人民との契約を破棄したことになり、
人民が武力反撃に出るのを誰も非難することができなくなる。”
ここでエンゲルスは、1600年前の「転覆党」原始キリスト教団を振り返る、、、
https://www.jcp.or.jp/akahata/aik11/2012-01-26/2012012609_01_0.html
不破哲三「古典教室」第11回講義/第4課 革命論(2)
エンゲルス「マルクス『フランスにおける階級闘争』1895年版への序文」について
不破哲三 著、新日本出版社
『古典教室 第1巻』 (2013)
・第1課マルクス『賃金、価格および利潤』、第2課マルクス『経済学批判・序言』
『古典教室 第2巻』 (2013)
・第3課エンゲルス『空想から科学へ』
『古典教室 第3巻』 (2013) ※
・第4課エンゲルス『フランスにおける階級闘争』(マルクス)への「序文」、第5課マルクス、エンゲルス以後の理論史
『「古典教室」全3巻を語る』 (2014) >>359の序文は、マルクスの死後1895年に付与されたエンゲルスの絶筆。
普通選挙の時代となり、バリケード戦が過去のものになったともされている。
“普通選挙権がこのように有効に利用されるとともに、
プロレタリアートのまったくあたらしい闘争方法がもちいられはじめ、〈略〉
あの旧式な暴動、すなわち一八四八年まではいたるところで最後的な勝敗の決をあたえた
バリケードによる市街戦は、おそろしく時代おくれとなっていったのである。”
― エンゲルス 「マルクス『フランスにおける階級闘争』1895年版への序文」
・マルクス 『フランスにおける階級闘争』 中原稔生訳、国民文庫24 (1960) p18
・『マルクス=エンゲルス選集 第4冊』 プログレス出版所 (1969) p120 より引用
・『マルクス=エンゲルス全集 第22巻』 大月書店 (1978) p515 欧米の天才は次世代の教科書になる知識を開拓し
日本の天才は次世代の教科書を暗記する
この壁を超えてる日本人ておるの?
(´・ω・`)この差ってどうしたら埋めれるのかな? ・言語文化よりも映像文化に強みが偏っている
・語学の壁(日本語と共通点が多い言語はまれ、ネイティブアメリカン系などに限られる)
・個性を重視しない(←クラシック音楽でもこれはネック)
・思考させる教育をしない
・意見をもち発言する人間を疎んじる
・論理を軽んじる(論理的な文章が書けないと哲学にならない)
・以上の伝統が長いため、教育者自身にも開拓者を育てる力がない
こんなところだろうとは思いつく
しかし全部変えたら日本社会はかなり別物になっちゃうな なるほど…。
思考、個性、言語、論理
この辺が開拓の必要素なのに、これらのすべてを否定する文化と風潮だからか…
言われてみれば、民族的に開拓キャラではないね
(´・ω・`) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています