☆人間(ヒト)とは何か?思考実験 [無断転載禁止]©2ch.net
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人間(ヒト)とは何なんでしょうか?
1)人間とは人間の肉体である?(人間の肉体こそが人間の根源?)
メガネの使用や歯科治療を受けたとして人間で無くなる?・・・まさか
義手や義足の使用者は人間ではありませんか?・・・疑う余地なく人間です
しかし、シャーレの中で培養中のヒト細胞は人間ですか?
では・・・何処まで人体を人工物に入れ替えたらヒトでは無くなるのか?
脳機能の一部を人工物で補うサイボーグが実用化されたらどうなのよ?
ゲノム編集で人工の幹細胞を作って人体に投与してゆっくりゆっくり何十年もかけて入れ替われば?
2)人間とは知的な意識である?(知的な自意識の目覚めこそが人間の根源?)
重篤な障害で知的な自意識を目覚めさせる事が絶対に不可能な者は人間なのか否か?
人工知能(強いAI)が知的な自意識に目覚めれば当然に人間と認めるべきか否か?
特定の宗教にのめり込んで他の価値観を一切理解出来なくなった妄信者は?
どう思うね? とりあえずアドレスを貼るのみで、当スレからは立ち去りますが、
もし興味ある方は読まれて下さい。
『救済的真理の伝達・証明』
《神・転生の存在の科学的証明》
http://message21.web.fc2.com/index.htm ヒトと言うより知性体は
自分の必要に応じて行動パターンを変える事が出来る者の事だと思う
逆に言えば不具合が起きているのに行動パターンを変える事の出来ない者は知性体ではない 問いの解釈が根底から間違えている。
人と何か?といいながら人が何であるか知っているかのような口調。
人と何かというなら人を定義すること。
>メガネの使用や歯科治療を受けたとして人間で無くなる?・・・まさか
>義手や義足の使用者は人間ではありませんか?・・・疑う余地なく人間です
人と何かといっているのに間違いなく人間と言っていることがすでに間違い。
何故間違いなく人間というのかの根拠を明かしていない。
質問者がこれでは答えが出ていても彼は気づけない。
人と何かといいつつ自分の定義認識を自覚していないのだから。
君に哲学はできない。
まずは正しい問いかけ方を考えたまえ。 >>119
波平ぽい文章の書き方を参考にしたのか本人か? 人は神の下にあり、動物の上にある
人間の仲間には権力者や平民や賤民や奴隷や裏社会に生きるものたちがいる
自然人と法人の二つがある
不幸な人に人情味のある行いをすると人間らしいと言われる まず人間は車輪の下にあり動物の下にあると思います。 人間=肉体と心(知・情・意)を併せ持った生物の総称。 何かが何かとして現れる。そこにはα=α=α, β=β=β,...という相互的な再帰の
反復があり、その相互的な再帰の反復において想定される恒等置換が1(ひと)なの
でしょう。 ☆ 日本人の婚姻数と出生数を増やしましょう。そのためには、公的年金と
生活保護を段階的に廃止して、満18歳以上の日本人に、ベーシックインカムの
導入は必須です。月額約60000円位ならば、廃止すれば財源的には可能です。
ベーシックインカム、でぜひググってみてください。お願い致します。☆☆ 自分の経験や学習から思考パターンを改良できる存在が人間である 知性体とは?・・・己の意志で行動パターンを変化させうる存在である
ヒトは経験や学習から行動パターンを変えうるがハエはそれが出来ない。
ゆえにヒトは知性体でありハエは知性体ではない。
超知性体とは?・・・己の意志で行動パターンだけではなく基礎構造すら変化させうる存在である
現代人は出生後に己の意志でDNAを変化させる事が出来ないがゲノム編集はそれを可能にする
現代人は超知性体ではないが次世代人類は超知性体になり得るかも知れない
過去には教育ゼロの労働者でも活躍できる場所があった
現在では教育ゼロの労働者が活躍できる場所など何処にも無い
将来には遺伝的強化を受けない人間が活躍できる場所があるのだろうか?
過去には国民の90%が読み書きが出来ない国家(社会)でも何とかなった
現在では国民の過半数が読み書きが出来ない国家(社会)は到底機能しない
将来には生命操作を受ける権利を保証しない国家(社会)が存続可能なのだろうか?
義務教育が無い社会VS義務教育のある社会・・・どっちが勝つ?
在来型の社会VS平均的IQ149の社会・・・どっちが勝つ?
如何? 客観的には意思疎通が出来言葉を操る存在だろ。
言葉がしゃべれない障碍者や脳死した肉体は人間ではないね。
そういったモノを感傷的に人だと言う愚か者はいるが間違いなく人間じゃない。
中世・古代においては多くの文明で子供もまた成人するまで人と認められなかった。 法律で知能指数などで規定しちゃえばいいのにね。
猿から生まれたって言葉を理解し社会生活を送れるなら人として認めるだろ。
AIだって言葉を理解し社会生活ができればもう人間だね。
現状においてすら既にAIの方が障碍者より社会の成員として受け入れられていると思うし。 単純に人かどうかを生物学的に判断するならDNAの一致率だろう。
一定の閾値を下回るか特定の遺伝子の有無が判別法になる。 また人という枠組みで考えているが人だからといって協力するわけではない。
共通の価値観や文化を共有して初めて協力できる。
国がありそれぞれの国の名前を関して○○人と区別する。
そして実際の行動としては国民以外の権利を積極的に守ろうとしないの。
これから先遺伝子操作で人間並みかそれ以上の知性を持った生物が出来ても
人と価値観を同じにしないならそれを人と認めないだろう。
AIもまた価値観を同じにしないなら人と認めない。 >>1
wiki 生命
で生命とは何かを読んでみろよ
人間とは何かとは人間を定義すること、それは命を定義すること、
サイコパスが人間を定義するとどうなるか、それはお前でも理解できると思う。 そして議論しても討論しても問答しても答えが つかめないものを掴む方法は
空気を手のひらで、空に輝く星を手に掴むこと、
つかめないものを掴むにはどうすればいいか学校では教えてくれない、
答えのある(つかめる)課題を合理的に解く能力ばかり鍛えられた"ゆとり"には
つかめないものを掴む能力は鍛えられていない。
極論として掴めない物を掴むこととは、掴んではいけないものを掴む能力だ、
一人の殻に押し込まれた論理だけ、具体的に理解しやすい都合のよい説明だけ
そういう類だけで育ってきたお前らには、非常自体の中で正常時の判断しかできない。
非常時に日常の正論にしがみつくだけな、哀れすぎる。 『神との対話』シリーズの神。
どこか特定の宗教だけの神ではなく、
世の多くの宗教にインスピレーションを与えてきた普遍的な唯一の神。
思索的な哲学書として読んでも面白い書物だと思います。
イエスの事も「イエスは最高のマスター(師)の例だが、イエスだけが聖者・マスターではない」と。
今回は宗教や格式を超えて、愛を持って気さくな形で人類に語りかけてきてくれた。
この愛の神を本当に信じ、心に受け入れれば、本当に世界の観方と経験が変わると思います。
《10分ほどで読めて分かる『神との対話』》
https://conversationswithgod.wixsite.com/kamitonotaiwa-matome
体細胞クローンのサル、中国で誕生 ヒトへの応用に懸念
2018年1月25日06時41分
サルの体細胞から、遺伝的に同じ情報をもつクローン2匹を誕生させることに中国科学院の研究チームが成功した。哺乳類の体細胞クローンは羊や牛などで誕生しているが、霊長類では初めて。
ヒトに近いサルのクローンは、医療研究などに役立つとチームは主張している。ただ、クローン人間の誕生に近づくことにもなり、議論を呼びそうだ。
24日付の米科学誌セル電子版で論文を発表する。2匹は「中華」にちなみ、「チョンチョン(中中)」「ホワホワ(華華)」と名付けられた。
研究チームは、カニクイザルの胎児の体細胞から遺伝情報が入った核を取り出し、あらかじめ核を抜いた別のメスの未受精卵に移植。成長を促す特殊な処理を施して代理母となる21匹のメスの子宮に移したところ、6匹が妊娠し、そのうち2匹が生まれた。
2匹は生後8週間と6週間のメスで、いずれも健康。核を提供したサルと遺伝的に同じ体細胞クローンと確認されたという。
https://www.asahi.com/articles/ASL1T23DGL1TUBQU003.html
http://news.mixi.jp/view_news.pl?id=4957584&media_id=168 星に日があたって森ができ、その実をたべて猿がうまれ人になった。
人は家をつくり村をなし、町にひろがり市をたて、国をこえて交易をする。
これがこの世の因果、人の位置である。 国がぶつかり文化がぶつかり
血が流れて戦火は広がり子を焼き街を焼き国が滅びる
星霜の一瞬の瞬きに過ぎない人の世は次の瞬間には消えて無くなり赤く焼けた火星の如き無人の星が残るばかり
全てが虚しく全てが無意味
故に全てが許される
悪を成せ
己が心が赴くままに生きるも神はお赦しになられる
犯せ殺せよ地を満たせ
せめて輝き散って行け >>153
カマキリのメスとやったらじゅうかんになる? ロードス島戦記のライトノベルを読んでる人が人間なんじゃないかな とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
BDR4Y 宇宙を善くしようとする意志の結晶
その中で今のところもっと人間から考えれば、知性を持ったと考えられるもの マザー・テレサの名言
大切なのは、どれだけ多くのことをしたかではなく、どれだけ心(愛)を込めたかです
この世で最大の不幸は、自分が誰からも必要とされていないと感じること 人間とは何か?
・鬱病にならないこと
・貧乏にならないこと
・異性と楽しく遊ぶこと 人は誰かが具体的に定義するのではなく、大勢に抽象的に人と定義される受動的なもの
おまえらバカなの? 人間?該当者少ないな。人間と種族を共にすることとも違う。 >>152
ものすごく美しい言葉なんだけど、ソースはあるの? どこが美しいんだ、お前が真っ先にその犠牲者になってろ >>177
俺がどっかのスレで書き込んだ奴のちょっとだけ改変した奴やな
盗作されたいや気分
勿論聖書と杜甫とDMCが元や そんなくだらんものに未練たらしくしがみつかなくても誰も要らないんだから好きにしとけよ 態々そんなクソの足しにもならない言葉を発する為に現れるお前自身も含めてな ヒト ヒトしき ヒト を 思い出すとき。古典に人を発掘する方が当たります。 だが感情を理性で支配しきれる人はいない、なぜなら人の神経活動の
ベースシステムは脳ではなく末端神経であり、それらはホルモンによって作用している
感情といっても基本はホルモンによって働くので脳神経のネットワークなくても
神経は動くことを理解できないのが理性が全てだと思い込む
それは反射だよ、思考とは受動態意識のパターンにすぎない。 現代語 より新作古語をかなりうまくつづれるようにならないと。最初は句から。
医学の書体に侵食されないようにしておくように。 医学の認識認知構図の書体も最低でも血統と歴史がかかわりあるから。 神経症 ヒステリーは 哲学にも引用されたが、首席ではない成金レベル。 >ヒトとは感情より理性を優先させるものである
>だが感情を理性で支配しきれる人はいない
「感情を理性で支配しようとするけれども、
感情を理性で完全に抑え込むことは難しい」という紋切型にはまっている感じがする。 「良薬は口に苦し」
薬に優れた効果があると理解すれば、苦くても自ら進んでそれを飲もうと
するかもしれない。そのことは、苦いから嫌いだという感情を理性で
抑えこんでいることになるのだろうか。優れた効果があると理解して
いながら、それでも苦いからそれを飲みたくないと拒絶したら、
それは苦いから嫌いだという感情を理性で支配しきれなかったこと
になるのだろうか。 感情と理性は本当に対立しているのだろうか?
むしろ、理性とは、味を覚えることに似ているのではないか?
苦いものや辛いものが好きな幼児はいないだろう。
しかし、成長するにつれ、苦いものや辛いものが好きな食べ物になったりする。
苦かったものが苦くなくなるわけではなく、辛かったものが辛くなくなるわけではない。
にもかかわらず、苦いから嫌だ、辛いか嫌だという感情は消えて、
その苦さ、その辛さが好きになる。
そのような変化を記述することが理性の働きを理解することになるのではないか? 誘惑に負けるとはどのようなことか?
誘惑に打ち勝つのは理性なのか?
ヒト以外の生き物はいつでも誘惑に負けているのか?
ヒト以外の生き物も、誘惑に負けない場合は、理性を働かせているのか?
誘惑に負けることは悪なのか? 理性はつねに、情動を正当化する理屈付けとして働いているのではないか?
反省とは、その理屈付けに向けられるものではないのか?
反省そのものも、矛盾する理屈付けの辻褄合わせとして行われるのではないか? 反省能力が著しく低い人は確かにいる。
しかし、そのことが社会生活において不利に働くわけではない。
逆に、利用価値が高まって、人生の大半を順調に遅れることすら少なくないだろう。 未熟の惑星
「人生の酸いも甘いも噛み分けた大人」などというのは、実はほとんど存在せず、
自分の舌に合わない料理を出されたと文句を言い、自分が正しいことを言っている
と確信して疑わないモンスタークレーマーばかりである。 理性と情動は対立しているのか?
理性はまずなによりも、生じている情動を正当化するように、
つまり、その情動が適正(adequate)であることの理由づけとして
働くのではないか?理性的な判断とは、心がどのようにか動き、
そのように心が動くことの適正さについての判定(よし/あし)ではないのか?
だが、「よし/あし」とは、適正さについて「心がよ(寄)るように動くこと/
心が離れるように動くこと」でないとしたら、いったい何であろうか。
反省しない人とは、自らの心の動きの適正さを疑わない人であろう。 人はあく(悪)を成すことができるのか?
問ひをより正確に述べるなら、「人はあく(悪)を自ら進んで追い求めることが
できるのか?」ということになる。
「あく(悪)」とは、「あ(悪)しきこと」であり、「あ(悪)し」とは、
「心が離れるように動く」という判断なのだから、「自らの『心が離れる
ように動く』こと」を積極的に追い求めるというのは矛盾だろう。
したがって、人が「あく(悪)を成す」としても、それは「あく(悪)」を
追い求めているからではなく、「あく(悪)」とされることに
何らかの「よ(善/良)さ」、すなわち、「心がよ(寄)るように動くこと」
として追い求めていることになるはずである。 人は「あく(悪)を成す」場合にでさえ、「よ(善/良)さ」を追い求めている
とするなら、「あく(悪)を成す」とは、いったいどのようなことを言い表して
いるのだろう。 絶対悪と対比されるような「善」は、それ自体が悪である。 人は、悪を成すときにおいてさえ、よ(善/良)さを追い求めている。
悪を成すとは、いわば、自覚的な局所最適化への執着である。
「局所最適化への執着」が「あ(悪)しきこと」とされるのは、
それによって大局的な最適化の追求が妨げられることになるからだ。
しかし、ここで注意しなければならないのが、局所最適化への執着と
大局的な最適化の追求の関係である。大局的な最適化は、局所最適化
と対比される、追求されるべき「絶対的な善」として存在するわけではない。
追求されるべき大局的な最適化は、それに固執することが悪とされる局所最適化
との関係においてしか存在し得ず、その追求そのものが善であり、
その追求は決して止められてはならないのである。大局的な最適化を、
あらかじめ存在する「絶対的な善」であると思い込んだとたん、それは
もはや大局的な最適化の追求ではなく、局所最適化への執着となる、
つまり、悪を成すことになるのだ。 誤:
「あく(悪)」とされることに何らかの「よ(善/良)さ」、すなわち、
「心がよ(寄)るように動くこと」として追い求めている
正:
「あく(悪)」とされることを何らかの「よ(善/良)さ」、すなわち、
「心がよ(寄)るように動くこと」として追い求めている 主体性は、できない/あたはないことの自覚、かなわない状況(inadequacy)の
認識として現れ、かなしい心として物象化される。かなしい心をもつことに
おいてこそ人は主体的であり、不確かさの自覚こそが理性である。 哲学において、理性が情動と対立させられるとともに優先され、主体が
理性的な存在であると陰に陽に前提とされてきたことは、極めて多くの
哲学的議論において奇妙な倒錯をもたらしている。 理性を不確かさの自覚ではなく、何か明確で確実な論理のようなものと
思いなし、主体を理性的な存在と見なす限りで、主体は、純粋に主体的
であればあるほど、主体性は霧散して消失することになり、純粋な主体
とはどのようなものかを問うならば、主体性はもはや消えているのだから、
主体について語ることはできないことにならざるを得ない。 日本語で哲学するのであればまず、心(mind)心(heart)問題にまず取り組まない限り、
心(mind)身体(body)問題について議論することなど到底無理な話であることは
明白だろう。なぜ誰もそれを指摘しないのか、そのことが問われなければならない。 誤: 心(mind)身体(body)問題
正: 心(mind)身(body)問題 誤: かなわない状況(inadequacy)
正: かなはない状況(inadequacy)
日本語の正書法も明らかに哲学を阻害している。 情動と切り離された、あるいは、少なくとも情動に関して中立を保ったまま、
理性のみによって自我が成立すると考えてしまった誤りは、人が他の動物に
対して理性を有することにおいて優位であるとすることを陰に陽に前提とする、
いわば最初のボタンの掛け違いに由来するのだろう。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています