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l (∴∴()∴∴)l 発狂さん、上げ荒らしやめましょう。
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ヽ .{ ι' 三 ヽ) 1: 考える名無しさん [] 2014/02/05(水) 22:24:11.29 0
ワ・シ・は・ぴ・か・ぁ・〜♪
ワ・シ・は・ぴ・か・ぁ・〜♪
ピカチューとヤりたくて付けたコテハン♪
ワ・シ・は・ぴ・か・ぁ・〜♪
ワ・シ・は・ぴ・か・ぁ・〜♪
クロネコヤ・マ・ト〜♪
ぴかぁ〜の歌
http://mint.2ch.net/test/read.cgi/philo/1391606651/1
,r;;;;ミミミミミミヽ,,_
,i':r" + `ミ;;,
`,| / "ii" ヽ |ノ 今一番流行ってるクラブミュージック、
't ←―→ )/イ それがプギャオのヒョッタラどしどし上京節です。
ヽ、 _,/ λ、
_,,ノ|、  ̄//// \、
_,,..r''''" | \`'/ /  ̄`''ー
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人 l\_ _/ ( \
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 ̄了イ ! { } { rく⌒ヽ
〈ニノ_,∧ \_/ ∧ `┐l ノ
 ̄人 \ / `广¨´ /// // /// ///
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(`ー‐し'ゝL
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' 哲哉 ヽ
、 -=・=- f-=・=-リ
\ ヾ三ソ `7゙ 5年前から起ちません
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| __( ̄ | 〈 ̄ `-Lλ_レ′
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( UU
💩 しーJ 💩 💩 /  ̄`Y  ̄ ヽ
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' 哲哉 ヽ
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\ ヾ三ソ `7゙ 5年前から起ちません
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ヽ___) ノ アイロニーもさることながら、「偶然性」を欧米の哲学者が取り上げたのは異例 ところで、アイロニストと、シニシストの違いって何だろう? シニシストは、世の中の現状には不満タラタラだが、変革するのは無理と諦め、社会の片隅で冷笑してる人のこと エクストリーム・アイロン掛け(エクストリーム・アイロンがけ、Extreme Ironing)は、
人里離れた場所でアイロン台を広げて服にアイロンを掛けるエクストリームスポーツである。
このスポーツのプレイヤーはアイロニスト (ironist) と呼ばれる。 行なう場所としては、難易度の高いクライミングを伴う山の斜面や、森、カヌーの上、スキーやスノーボードの最中、大きな銅像の頂上、大通りの真ん中などがあり、アイロン掛けの目的をほとんど無視して、
スキューバ・ダイビングをしながら行うこともある[1]ほか、パラシュート降下中[2]、
湖の氷上でも行われた。これらのパフォーマンスは個人および団体でも行われる。 「極限状態の場所で平然とアイロン台を出し、涼しい顔でアイロンがけを行う」事が基本原則であり、
「衣服のシワを伸ばす」という本来のアイロンがけの目的は重要視されない。
その為、海中や砂漠の真ん中も当然このスポーツの舞台となり得る。
極限の自然環境下ではアイロンを稼働させる為の電源を確保する事は不可能に近い為、
昔ながらの火延し鏝(電気が存在しなかった時代の、本来のアイロン)や充電式の物を使用したり、
ガスバーナーでアイロン台の下から衣服を直接温めてアイロンがけをするという手法がとられる場合が多い。 エクストリーム・アイロン掛けは、エクストリームスポーツを行う刺激と、
アイロンをすっきりと掛けたときに得られる満足感を組み合わせたものと言われる。
このスポーツは一見パロディやいたずらのように見えるが、アイロニストたちの多くは極めて真剣である。
ガーディアン紙はこのスポーツについて、イギリス人の持つエキセントリシティ(eccentricity:奇行)
の伝統を踏襲したスポーツと紹介している。現在この競技に関するイベントの多くに、
家電製品のメーカーであるロウェンタ社(Rowenta)がスポンサーとして参加している。
競技人口は、欧米を中心におよそ700人とされている[4]。 調べたら、アイロンをかける「アイロニスト」という人たちは、本当に存在した。 彼らは、断崖絶壁の上などの極限状況で、アイロンをかける。 ヒュームは、知覚を「印象」と「観念」に分けた。
「人間の心に現れるすべての知覚は、二つの異なった種類に別れる。
私はその一方を「印象」、もう一方を「観念」と呼ぶことにしよう」 この区別はこう考えると分かりやすい。印象は大きさや形などのありありと与えられる知覚であり、観念は意味や本質として与えられる知覚である、と。 「印象と観念は独立しておらず、相互に関係して存在している。印象から観念が現れてきて、逆は起こらない。
観念が印象から現れてくる仕方は、記憶もしくは想像だ。記憶には印象の性質が残っているが、想像はまったくの観念であるという点で異なっている」 「たとえば三角形の知覚は、線の長さや角度といった形態の知覚にもとづいている。
また三角形を観念として知覚するためには、これまで見てきた三角形がどのようなものであったかを思い出す必要がある。言われてみれば、これは当然のことだ」 また、ヒュームによれば、印象は原初的な印象と二次的な印象に分けることができる。
原初的印象もしくは感覚の印象とは、なんらの先行する知覚もなしに、
身体の組織から、動物精気から、あるいは外的器官に物が当たって
心に起こるようなものである。
二次的印象もしくは反省の印象とは、これら原初的印象のうちのいくつかのものから、
直接にか、あるいはその観念の介在によってか生じるようなものである。
このうち、第一の種類のものは、知られない原因から直接に心に起こる。
しかし、第二の種類の印象はたいていは観念に起因する。 ここで興味深いのは、 ヒュームが原初的印象の原因を「知りえない」としていることだ。
一般的な見方では、知覚が生じるためには、その原因がなければならないと考えられる。しかしヒュームによれば、その考え方は徹底していない。 何が原初的印象を引き起こしているか、それを人間が言い当てるのは不可能である。なぜならその知覚を成立させている原因それ自体を知覚することはできないからだ。
その意味で、印象こそ、人間の意識が辿り直すことのできる最終ラインだ。その向こうには、印象を与えてくる原因があるはずだが、それが何であるかは、ただ推測することしかできない。 印象は、大きさや形
観念は、意味とか本質
この2つの区別は、それほど難しくない 印象とは、外界から与えられるもの
観念とは、印象をもとにして意識の中に立ち現れるもの
といってもいいだろう。 何が原初的印象を引き起こしているか、それを人間が言い当てるのは不可能である。なぜならその知覚を成立させている原因それ自体を知覚することはできないからだ。
その意味で、印象こそ、人間の意識が辿り直すことのできる最終ラインだ。その向こうには、印象を与えてくる原因があるはずだが、それが何であるかは、ただ推測することしかできない。 たとえばボールを上に投げると、地面に向かって落下する。
これは普通に考えると、ボールに重力が掛かっているからということになる。
もちろんそれが間違っているわけではない。
しかし認識論として厳密に考えてみると、私たちは重力が真の原因であるかどうかを決して知ることはできない。
なぜなら私たちは「重力それ自体」を知覚するのではなく、ボールが手を離れて上に動くことを知覚し、
どこかで頂点に達して、それに続いて下へと動くことを知覚するにすぎないからだ。 だが、ここで「しょせん真の原因などありはしない」と言うだけでは十分ではない。
その言い方では、「知覚に原因があるはずだ」と思ってしまうこと自体の理由を説明できないからだ。
「真の原因」は存在しない。にもかかわらず原因があると考えてしまうのはなぜだろうか?
この問いについてヒュームは次のように答える。
すなわち、それは私たちが、ある印象と別の印象の組み合わせを繰り返し知覚することで、
因果関係を認識する習慣customを身につけているからだ、と。 習慣といっても、別にヒュームは因果関係が文化的に規定されていると考えているのではない。
心のなかで原因と印象の関係について何度も反復できること、この反復可能性が認識のひとつの本質だというのだ。 それゆえ、もし知覚の向こう側に因果関係を求めようとすれば、
それは失敗に終わらざるをえない。 「因果関係」というのは、この世で反復して刷り込まれた、思い込みだということを見抜いた
本当は、原因と結果の関係は、人間には決して知りえない この世で生きていると、印象を反復して刷り込まれる
それによって、人間の意識が形成される ヒュームでは「印象」だったものが、カントでは「現象」になった やりすぎ防犯パトロール、特定人物を尾行監視 2009年3月19日19時7分配信 ツカサネット新聞
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090319-00000026-tsuka-soci
この記事で問題になった通称やりすぎ防パトは、創価学会と警察署が引き起こしていたようです
掻い摘んで説明すると
・創価学会は、町内会や老人会、PTA、商店会等の住民組織に関し、学会員が役員になるよう積極的に働きかける運動を
90年代末から開始し、結果、多くの住民組織で役員が学会員という状況が生まれた
・防犯パトロールの担い手は地域の住民と住民組織で、防犯活動に関する会議や協議会には、住民組織の代表に役員が出席する為
防犯活動や防パトに、創価学会が間接的に影響力を行使可能となった
・防パトは住民が行う為、住民が不審者や要注意人物にでっち上げられるトラブルが起きていたが
創価学会はその緩さに目をつけ、住民組織を握っている状況を利用し、嫌がらせ対象者を不審者や要注意人物にでっち上げ
防パトに尾行や監視、付き纏いをさせるようになった
・防パトは地元警察署との緊密な連携により行われる為、創価学会は警察署幹部を懐柔して取り込んでしまい
不審者にでっち上げた住民への嫌がらせに署幹部を経由して警察署を加担させるようになった
・主に当該警察署勤務と考えられる創価学会員警察官を動かし、恐らく非番の日に、職権自体ないにもかかわらず
私服警官を偽装させて管轄内を歩いて回らせ、防犯協力をお願いしますと住民に協力を求めて回り
防犯とは名ばかりの、単なる嫌がらせを住民らに行わせた(防犯協力と称し依頼して回っていた警察官らの正体は恐らく所轄勤務の学会員警察官)
※これに加えて防犯要員が同様のお願いをして回る
・こうして防犯パトロールを悪用し、住民を欺いて嫌がらせをさせつつ、創価学会自体も会員らを動員し、組織的な嫌がらせを連動して行った
つまり警察署に勤務する学会員警察官、警察署幹部、創価学会が通称やりすぎ防犯パトロールの黒幕
詳細は下記スレをご覧下さい
やりすぎ防犯パトロールは創価学会と警察署の仕業だった
https://rio2016.5ch.net/test/read.cgi/bouhan/1516500769/ バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza、1632年11月24日 - 1677年2月21日)は、オランダの哲学者である。
ラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られる。 デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。
また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。 デカルト、ライプニッツと並ぶ17世紀近世合理主義哲学者として知られ、その哲学体系は代表的な汎神論と考えられてきた。
また、カント、フィヒテ、シェリング、ヘーゲルらドイツ観念論やマルクス、そしてその後の大陸哲学系現代思想へ強大な影響を与えた。 スピノザの汎神論は新プラトン主義的な一元論でもあり、
後世の無神論(汎神論論争なども参照)や唯物論に強い影響を与え、
または思想的準備の役割を果たした。
生前のスピノザ自身も、無神論者のレッテルを貼られ異端視され、批判を浴びている。 スピノザの哲学史上の先駆者は、懐疑の果てに「我思う故に我あり(cogito ergo sum)」と語ったデカルトである。
これは推論の形をとってはいるが、その示すところは、思惟する私が存在するという自己意識の直覚である。
懐疑において求められた確実性は、この直覚において見出される。
これをスピノザは「我は思惟しつつ存在する(Ego sum cogitans.)」と解釈している(「デカルトの哲学原理」)。 その思想は初期の論考から晩年の大作『エチカ』までほぼ一貫し、
神即自然 (deus sive natura) の概念(この自然とは、植物のことではなく、
人や物も含めたすべてのこと)に代表される非人格的な神概念と、
伝統的な自由意志の概念を退ける徹底した決定論である。
この考えはキリスト教神学者からも非難され、スピノザは無神論者として攻撃された。 一元的汎神論や能産的自然という思想は後の哲学者に強い影響を与えた。
近代ではヘーゲルが批判的ながらもスピノザに思い入れており
(唯一の実体という思想を自分の絶対的な主体へ発展させた)、スピノザの思想は、無神論ではなく、
むしろ神のみが存在すると主張する無世界論(Akosmismus)であると評している[3]。
フランス現代思想のドゥルーズも、その存在論的な観点の現代性を見抜き、
『スピノザと表現の問題』、『スピノザ――実践の哲学』などの研究書を刊行している。 われわれの精神は、それ自らおよび身体を、
永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、
みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る スピノザは、汎神論と言われているが、やっぱり、無神論だろう スピノザといえば、汎神論ばかりが有名になってしまったが、
実は、ホッブズの系譜を継ぐポリティカル・リアリストでもあった 本当は、ルソーみたいな社会思想家と考えたほうが良いかも この神は理念的には必然性をあらわし、存在性格としては永遠性という形をとる。
だから我々が神について想念するとき、我々は永遠の相の下に世界を見ることになる。 永遠の相の下に
えいえんのそうのもとに
sub specie aeternitatis
オランダの哲学者スピノザの言葉。
永遠の相のもとに万物を認識するの意で,
神のもとにおいて認識することを意味し,
真の認識であるとされた。 永遠の相の下に
えいえんのそうのもとに
sub specie aeternitatis
オランダの哲学者スピノザの言葉。
永遠の相のもとに万物を認識するの意で,
神のもとにおいて認識することを意味し,
真の認識であるとされた。 最近は、「この世はシミュレーションゲームのようなものだ」という考え方が流行っている スピノザが神と呼んだものは、じつはシミュレーションゲームだった 神に見えてくるほど、よくできたシミュレーションゲーム 統治権の属する会議体が全民衆からなるとき民主政治、若干の選民からなるとき貴族政治、一人の人間の手中にあるとき君主政治と呼ばれる。
この統治権、あるいは共同の不幸を排除することを目的として立てられた国家の法律にみずから従うような理性に導かれる者ばかりではない現実においては、
理性を欠いた人々に対しては外から自由を与えることが法の目的であるとしている。
また言論の自由については、これを認めないことは、順法精神を失わしめ、政体を不安定にするとしている。 またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。
政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。 またスピノザの政治思想の特徴は、その現実主義にある。
政治への理想を保持しつつ現実の直視を忘れないその姿勢は幾人ものオランダ共和国の政治家との交流から得られたものと考えられる。 スピノザの汎神論は、神の人格を徹底的に棄却し、理性の検証に耐えうる合理的な自然論として与えられている。
スピノザは無神論者では決してなく、むしろ理神論者として神をより理性的に論じ、
人格神については、これを民衆の理解力に適合した人間的話法の所産であるとしている[25] 政治的には、現実主義。
人格神を、民衆向けの方便と割り切る。
まさに、現実主義のカタマリのようなリアリスト。 まずスピノザは万物に原因があり、またそれ以上探求することができない究極的な原因が存在すると考える。
この究極的な原因が自己原因(causa sui)と定義されるものであり、これは実体、神、自然と等しいと述べる。 神は無限の属性を備えており、自然の万物は神が備える無限の属性の様態の一種である。
このような汎神論の観点に基づけば、神こそが万物の内在的な原因であり、そこから神の自由を導き出すことができる。 スピノザは人間が本来的に自然であることを否定し、汎神論の元での決定論を主張する。
神から派生する無限の属性の中から人間の幸福の認識に寄与する要素を抽出するためには
人間の身体と精神について考察することが必要であり、スピノザは感覚的経験に基づいた認識の非妥当性を指摘する。 そして万物が有限の時間の中に存在し、外部の力によってしか破壊されない自己を存続さる力
『コナトゥス』の原理に支配されているとし、人間の感情もこのコナトゥスによって説明した。
また人間の感情とは欲望、喜び、悲しみの三種類から構成されており、例えば外部の原因の観念を伴う喜びが愛であり、
外部の原因の観念を伴う悲しみが悩みであると理解する。 この感情を制御することができない無力こそが人間の屈従の原因であり、
理性の指導に従うことで自由人となることができると論じる。
本来的に不自由な人間が自由を獲得するためには外的な刺激による身体の変化に伴って生じる受動的な感情を克服する必要がある。
そのことによって人間は感情に支配される度合いを少なくし、
理性により神を認識する直観知を獲得することができる。 スピノザは直観知を獲得して自由人となることに道徳的な意義を認め
「すべて高貴なものは稀であるとともに困難である」と述べて締めくくっている。 感情をコントロールできないことが、人間が屈従する原因。
感情さえ克服すれば、人間は自由になれる。 かつて、「性欲から解放されて自由になるために、チンポを切り落とせ」
という教えを説いていた教祖もいたが。 チンポを切り落として、「私は自由になりました」と語っていた信者もいた。
後に集団自殺して問題になった。 Benedict de Spinoza, THE ETHICS
(Ethica Ordine Geometrico Demonstrata)
Translated by R. H. M. Elwes I. By that which is 'self-caused'
I mean that of which the essence involves existence,
or that of which the nature is only conceivable as existent. II. A thing is called 'finite after its kind'
when it can be limited by another thing of the same nature; for instance,
a body is called finite because we always conceive another greater body.
So, also, a thought is limited by another thought,
but a body is not limited by thought, nor a thought by body. III. By 'substance' I mean that which is in itself, and is conceived through itself:
in other words,
that of which a conception can be formed independently of any other conception. III. By 'substance' I mean that which is in itself, and is conceived through itself:
in other words,
that of which a conception can be formed independently of any other conception. IV. By 'attribute' I mean that which the intellect perceives as constituting the essence of substance. V. By 'mode' I mean the modifications
("affectiones") of substance, or that which exists in,
and is conceived through, something other than itself. VI. By 'God' I mean a being absolutely infinite—
that is, a substance consisting in infinite attributes,
of which each expresses eternal and infinite essentiality. ・・・という具合に、スピノザのエチカは、定義から始まるのであった。 まず工藤・斉藤先生の定義1の訳:
「自己原因とは、その本質が存在をふくむもの、言いかえれば、その本性が存在するとしか考えられないもののことである。」 「自己原因によって私は、それの本質が、それの存在を含んでいるようなもの、もしくは、それの本性が、存在しつつあるものとしてしか考えられないようなもの、のことを理解する。」
高桑純夫訳 つぎは、1部定義2ですが、
「同じ本性をもつ他のものよって限定されるものは、自己の類において有限といわれる。
たとえば、物体は有限であるといわれる。なぜなら、われわれは常により大きな他の物体を
考えることができるからである。同じように思想は、他の思想によって限定される。
だが、物体は思想によって限定されないし、また思想は物体によって限定されない。」(工藤・斉藤訳) すでにヘーゲルにして、「スピノザは近代哲学の原点である。スピノザ主義か、いかなる哲学でもないか、そのどちらかだ」と言っていたのだし、
ベルグソンは「すべての哲学者には二つの哲学がある。自分の哲学とスピノザの哲学である」とまで書いていた。 「歴史上最も過激な思想家」と呼ばれたスピノザ。
例えば、聖書が神的起源をもつことを疑い、魂の不死を疑うことが、
神学論争かまびすしい当時のヨーロッパでどれほど過激な思想と
見なされたかは容易に想像がつくだろう。 スピノザは、言論の自由を主張した最初の哲学者でもある。
匿名出版され、禁書処分となった『神学・政治論』は、彼が表現の自由を守るために書いたものだった。権力の中枢にいる正統派神学者たちは、自分たちの考えとは異なる考えをもつ人物を危険人物と見なし、権力を使って弾圧した。
スピノザの主張は、聖書の目的は神の命令(「隣人を愛せ」)への服従を教えることであり、
宗教は哲学に干渉すべきではないし、逆もまた同じというものだった。
国家の目的は自由にあると考えたスピノザは、国家による言論統制にも反対した 過激な思想家といえば、欧州ではスピノザとニーチェ。
中国では、李卓吾だ。 といっても、現代人にとっては、べつに過激ではない。
17世紀にしては、過激だった。 ニーチェが過激なのは、現代人から見ても文面から伝わってくるのだが、
スピノザは、現代人の目にはまったく過激な思想家に見えない。 しかし、17世紀といえば、ドイツでは宗教戦争がピークを迎えた時代だ。
フランスは、ブルボン王朝によって安定していたが、ドイツは三十年戦争の時代。 宗教色が濃厚な時代に、キリスト教の観点からすれば無神論といえる内容の本を出したのだから、
極めて過激といえる。 スピノザの汎神論は、現代人の目には、思いっきり宗教がかっているように見える。
でも、17世紀の欧州人が見れば、それは無神論そのものであった。 しかし、デカルトも、フランスで無神論がはびこってきたのを憂慮して、
哲学を始めたと言われている。
それを思えば、オランダで無神論を展開したとしても、そんなに違和感がないように
思えるのだが。 スピノザは17世紀のオランダの哲学者です。合理主義的汎神論(はんしんろん)の代表的な思想家と言われます。
汎神論は従来のキリスト教的考えに反し、「神=世界そのもの」と主張しました。主著はエチカです。ただ同時代の社会には受け入れられませんでした。 スピノザは、現代哲学に大きな影響を与えた哲学者として知られています。現在、当たり前にできている言論の自由を最初に主張した哲学者でもありました。
この記事ではスピノザの考え、名言、著書、教訓についてまとめました。 フルネームは、バールーフ・デ・スピノザといい、ラテン語名のベネディクトゥス・デ・スピノザの名でも知られています。 自らの激情を、抑え切れない人間は、もはや、主人ではなく、奴隷であろう 高慢は、人間が自己を他の人よりすぐれていると思うことから生じる喜びである それでは、スピノザの代表する主張である、汎神論について見ていきましょう。
汎神論(はんしんろん)の「汎」とは、
「広く行き渡る、すべての」
という意味があります。
そして、スピノザのいう汎神論は、この世界に存在するすべてのものは神の一部であるという考え方です。 それでは、スピノザの代表する主張である、汎神論について見ていきましょう。
汎神論(はんしんろん)の「汎」とは、
「広く行き渡る、すべての」
という意味があります。
そして、スピノザのいう汎神論は、この世界に存在するすべてのものは神の一部であるという考え方です。 すべてのものを神が創るということは、神がすべてのものよりも先に存在していた(=すべてのものを超越している、世界の外にいる)ことになります。
一方で、すべてのものが神の一部ということは「神=すべてのもの」ということになります。
つまり、スピノザにとっての神は世界を超越しているものではなく神は世界そのものということです。 「神=世界そのもの」という考え方が何を意味するのでしょう。
神は世界全体のことであり、世界に存在しているものすべてが神の一部です。
私たちが目にしたり感じたりする事の出来る実体のあるものは全て神の一部ということです。 つまり、人間も神の一部ということになります。
それは、人間の行動すべても神の一部がしているということであり、例えば罪を犯すことも神の意志ということになります。
言い換えると人間の自由意志はないということもできます。 スピノザは
「歴史上最も過激な思想家」
と呼ばれていました。 スピノザが生きた17世紀の時代背景としては魔女狩りがありました。
魔女狩りとは
「悪魔と結託してキリスト教社会を企む背教者を新種の魔女として断罪し、処刑する」
ことです。
つまり、スピノザの時代はキリスト教に反することをいうと処刑される可能性があるほど、宗教的考え方の強い時代でした。 そんな中スピノザは、聖書の神的起源(すべてのものよりも先にあった、すべてのものを超越していること)を疑っていました。
キリスト教に反することを言っていたのです。
スピノザはその当時、処刑の可能性があるような考え方を主張していたのです。 ただ彼は考え方を貫き通しました。
現在でも一般的な考え方である、言論の自由を初めて唱えた思想家でもあるのです。
どんなに権力に都合の悪いことでも正しいと思ったことを言う権利があると考えたのです。 そんなスピノザは、権力を持っていた正統派神学者たちに弾圧を受けました。
「エチカ」がスピノザの死後に出版され、わざわざ幾何学的アプローチをとって証明するという形で書かれたのには、宗教的背景があったのです。 一方で、スピノザを評価する有力者や思想家が同時代にいたこともわかっています。
ただそれは彼の過激な思想を一般化するほど大きいものではありませんでした。 スピノザは、当時常識とされていた「世界は神によって作られた」という考え方にとらわれず、自分の考えを貫きました。
違和感を感じる部分を疑い、自らの主張を展開したのです。
これは現代にも通じる大切な姿勢です。 「常識」は覆るものです。
スピノザが生きた時代にはビッグバンという考え方はありませんでした。
スピノザより前の時代には地球は平らで海には果てがあるというのが「常識」でした。 破門と禁書で封じられた危険な哲学者スピノザの "過激な"政治哲学!
「国家は自由のためにある」 21世紀の今日、宗教勢力が政治権力の中枢に入り込み、道徳や平和の名を借りた支配が強まるなか、思想・言論・表現の自由はどのようにして守り抜くことができるのか。 宗教と国家、個人の自由について根源的に考察したスピノザの思想こそいま、読まれるべきである。 「ひとびとの自然権を保障する点に国家の存在意義があり、
そして自然権の保障とは思想・言論・表現の自由の保障なしには成り立たないからこそ、
『国というものは、実は自由のためにある』とスピノザは結論する」(解説より)。
『エチカ』と並ぶスピノザの代表作、ついに新訳なる。 「スピノザといえば汎神論」というイメージが、あまりにも定着してしまった。
それがなかったら、「言論の自由を唱えた社会思想家」として歴史に残っただろう。 人間は、神の一部である。
つまり、人間には自由意志がない。 スピノザが逃げ回って隠遁生活を送っていたのは、キリスト教会からにらまれていた
というより、同胞のユダヤ人から狙われていたためだった。 「歴史上最も過激な思想家」と呼ばれたスピノザ。例えば、聖書が神的起源をもつことを疑い、魂の不死を疑うことが、
神学論争かまびすしい当時のヨーロッパでどれほど過激な思想と見なされたかは容易に想像がつくだろう。 早死にしたからよかったようなものの、あのまま生きてたら、火刑にあって
劇的な最期を遂げたであろう。 あの時代は、スピノザよりずっと穏健な思想でも、簡単に火刑になっていた。 政治的にも、過激な自由思想の持ち主。
危険なにおいがプンプンしていた。 キリスト教会はもちろん、同胞のユダヤ教会にとっても危険思想家だった。
著書は、生前には出版できなかった。
それでも、生命の危険にさらされていた。 肖像画を見る限りでは、ちっとも過激な人物に見えないのだが。
人は見かけによらないということが、よく分かる。 無神論者で、自由思想家だった。
宗教的にも政治的にも、過激な思想の持主だった。
その一方では、「人間は神の一部なのだから、自由意志はない」とも主張していた。 実際のところ、汎神論というのは、要するに「この物質世界がすべてなのだ」という思想。
限りなく唯物論に近い。
唯物論との違いは、物質世界に神秘性を見出しているかどうかだけ。
ほぼ唯物論だ。 結局のところ、汎神論は、現代の唯物論へと直結する危険思想だった。 つまり、スピノザは、無神論・唯物論・自由主義といった、現代の危険思想の起点となった人。 無神論的で唯物論的な思想を唱えているから、迫害される。
迫害されるから、「言論の自由」を主張した。 真っ向からイスラムの教えに反する、新たな思想体系を樹立
中東にはそれが必要 中東にも、無神論者や唯物論者、自由主義者がいていい 汎神論は、無神論や唯物論に直結する
その一歩手前の思想 スピノザは、無神論ではなかった
でも、無宗教ではあった 無神論(むしんろん、英語: atheism、ラテン語: atheismus)は、世界観の説明に神の存在、意思の介在などが存在しない、または不要と主張する考え方である 無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間には軋轢が生じることも多い。
しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。
一方で、保守的な地域では無神論に対する根強い不信感もある。
さらに、アメリカ合衆国で台頭したインテリジェント・デザイン論のように、
表向きでは科学と宗教の融合ないし折衷を自称しながら、実質的に自然科学を排斥する運動も見られる。
厳格な無神論者は、宗教に対する激しい敵意を抱くことも多い。
共産主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い。 日本においては幽鬼、すなわち霊魂や鬼といった妖怪の存在を否定する「無鬼論」として始まる。
無鬼論は、儒学における「気(万物を構成する要素)」と「祭祀(招魂といった先祖崇拝)」の解釈(現象と関係)に伴う矛盾から発展していったものであり[4]、
西洋のような一神教による絶対的な世界観を科学解釈によって徐々に崩された(科学的な根拠の積み重ねによる否定の)上で成り立ったものとは異なる 中国の朱子は、気(現代でいえば、原子のようなもの)の集まりが「生」と捉え、
気の離散が「死」と解釈した上で、気の離合集散によって魂魄の現象を合理的に説明しようとした
(魂魄の項の「儒学における魂魄現象の解釈」も参照)。 結果、霊性を否定しかねない矛盾した論考(一度、離散した気=魂魄は二度と戻らない=死と主張したために、
祭祀による招魂儀礼を行うことに矛盾が生じた)に至ってしまい、後世、林羅山といった儒学者に鬼神(魂魄)
の有無について半信半疑な立場を取らせ、江戸期日本の朱子学者を「無鬼論者」(伊藤仁斎)と「有鬼論者」
(荻生徂徠)に二分させた。 西洋には無神論者がいたが、東洋にも無鬼論者がいた。 無神論は有名だが、無鬼論のことは、ほとんど忘れ去られている。 それにしても、伊藤仁斎はすごい。
京都が生んだ近代人だ。 「タイガース、今年も勝てそうもないわ」というのは、阪神論 汎神論は、日本人にとっては親しみやすい世界観で、「どこが過激な思想なんだよ?」という印象。
でも、「神に創造された被造物」という、キリスト教の世界観とは真っ向から対立する。
17世紀の欧州人にとっては、前代未聞の過激思想。 まあ、それを言ったらニーチェも同じで、キリスト教圏の人々にとっては過激な反キリスト思想だが、日本人にとっては、別に・・・。 日本人のニーチェ・ファンの多くは、思想内容というより、あの独特の文体に酔っている、一種の文学マニアと思われる。 でも、それは欧米でも似たようなところがある。
フランス現代思想でよく引用される3巨頭といえば「フロイト、マルクス、ニーチェ」だが、
このうち、ニーチェは思想内容というより、名文句が多いから引用されるだけだと言われている。 スピノザはさすがに古すぎるので、なかなか登場しない。
でも、ジル・ドゥルーズを筆頭に、スピノザから強い影響を受けている。 リチャード・ローティ(1931−2007)。最近なにかと話題のアメリカの哲学者だ。その思想を簡単に整理してみた 形而上学とは何かを知らない人はいませんよね? なに。いる?
ま、簡単にいってしまえば、形而上学というのは、道徳的なジレンマを解決する公式や真理があるという考え方です。
道徳的なジレンマとは、めちゃくちゃ単純な例で言うと、ボートが沈没して5人が海に投げ出され、
一人だけなら救助出来る場合、誰を助けるのか、助けないのか、といった問題ですね。
普通に考えれば、そんなものは色々な考え方があるわけで、どれが絶対正しいなんて言えないですよね。
でも、真理や正解は必ずあるというのが形而上学だと考えれば良いでしょう。
形而上学は哲学の一分野とされますが、多くの宗教が形而上学的なわけで、そう考えると、
世界の圧倒的多数派は、形而上学を信じているともいえます。
一方、反・形而上学を主張する人とは、そう言った道徳的ジレンマを解決するような、
真理や公式は無いと主張する人のことですね。ローティは、こういう人のことを、
「アイロニスト」と呼ぶんです。皮肉屋という意ではないので気をつけてください。 形而上学は哲学の一分野とされますが、多くの宗教が形而上学的なわけで、
そう考えると、世界の圧倒的多数派は、形而上学を信じているともいえます。
一方、反・形而上学を主張する人とは、そう言った道徳的ジレンマを解決するような、
真理や公式は無いと主張する人のことですね。
ローティは、こういう人のことを、「アイロニスト」と呼ぶんです。皮肉屋という意ではないので気をつけてください。 ローティのいう「アイロニスト」とは、皮肉屋ということではない。
ましてや、アイロンをかける人のことでもない。
アンチ形而上学の立場の人を指す。 アイロニストというのは、形而上学を否定し、真理はないと考える人のこと。
まずは、ここを押さえておこう。 2 リベラル
昔は、左だ、右だ、中道だと言うのが大衆的な分類でしたが、今は使いませんね。(使いますか?)
今の一般的な分類は、以下の4つです。
1.リベラリズム(自由主義)
2.リバタリアニズム(自由至上主義)
3.コンサバティズム(保守主義)
4.コミュニタリアニズム(共同体主義)
おお、座標軸が出来て、線から平面になりました。
もっとも、思想・信条あるいは哲学が、実際にはもっと複雑な事は、誰にでもわかりますね。
「思想地図」という本もありますし、それに対する異論・反論もあって収集がつかないわけです。
また、大枠での対立より、半ば身内での対立が激しかったりするのは、どこの世界でも一緒のようです。
でも、ちょっとまって下さい。こんな単純な分類の話がしたいのではないのです。 1.リベラリズム(自由主義)
2.リバタリアニズム(自由至上主義)
3.コンサバティズム(保守主義)
4.コミュニタリアニズム(共同体主義) 1.リベラリズム(自由主義)
2.リバタリアニズム(自由至上主義)
3.コンサバティズム(保守主義)
4.コミュニタリアニズム(共同体主義)
この4つの分類は、どうだろう。 1.リベラリズム(自由主義)
2.リバタリアニズム(自由至上主義)
3.コンサバティズム(保守主義)
4.コミュニタリアニズム(共同体主義) 私がこだわりたいのは「リベラル」です。
ローティはリベラルをどう定義しているでしょうか。
ローティは、シュクラーにならって、「残酷さを最悪だと考える人がリベラルだ」と定義するのです。
そして、残酷さを最悪だと考えることに形而上学的な理由などいらない、基礎づけなどいらないのだと。
要は、自分はそう思うと根拠などなく主張して良いということです。
はい。それがリベラルなんです。
経済学者のシュンペーターも同様のことを言い、自らをリベラルだと宣言していましたね。 残酷さを最悪だと考える人がリベラルだ
↑これがリベラルの定義? まあ、ローティみたいな偉い人がいうんだから、そうなんだろうな ローティは、自らを「リベラル・アイロニスト」と呼びました。
私も「リベラル・アイロニスト」です。これって相当に解説のいる言葉ですね。(笑) 貴方は残忍さが好きですか?
残忍さは本能であり不可避だと思いますか?
残忍さとは何ですか?
人類は歴史的に残忍でなくなっていると言う学者の説をどう思いますか? 貴方は残忍さが好きですか?
残忍さは本能であり不可避だと思いますか?
残忍さとは何ですか?
人類は歴史的に残忍でなくなっていると言う学者の説をどう思いますか?
↑これが、リベラルかどうかの踏み絵 リベラルは、残酷さを最悪だと、理屈ぬきで思っている人のこと
アイロニストは、形而上学はウソだ、何が正しいかを決定する真理などないと思っている人のこと 3 プラトン無視
流石にプラトンの名前を知らない人はいないですよね。
義務教育の教科書にも出てきます。
え。名前は知っているけど、忘れた?
ソクラテスの弟子にして、アリストテレスの師ですね。です。
流石にそれくらいは覚えてますね。 この時代の人達が試みた哲学というのは、共通の哲学的基礎を打ち立てて、個人の自立と、共同体の公共善を統一・結合させることでした。
まあ、これは無謀な野心なのですが、哲学者というのは共通して、こういう無謀な野心に駆られるものなのでしょう。
そして、それこそが哲学の存在理由の一つでもあったわけです。 もちろん、ニーチェやフーコーのように、道徳に懐疑的な哲学者もいれば、
カントのような道徳的オプティミストもいれば、
いろいろな哲学者がいたわけですが、
みんなこの、「プラトンの呪縛」というべきものと絡んでいました。 しかし、ローティは違いました。私的なものと公共的なものを統一しようという考えを、
「そんなの無理」とあっさりと捨て去ることで、
プラトンを基本的に無視する立場を取ったのですね。何と革新的なのでしょう。
これこそ私が、ローティ以降を「哲学2.0」と呼ぶ理由なんです。 で、現代はどういう時代かというと、ポストモダンと言われながらも、
市民レベルでは未だに「プラトンの呪縛」が幅をきかせています。残念ですね。 ■4 方法を持たないプラグマティズム
アメリカの哲学と言えば、プラグマティズムですね。
「プラグマティズムこそアメリカの哲学」。
これは1950年以前のアメリカの決まり文句でした。
しかし、次第にアメリカも大陸哲学に傾いて行くのですね。 ■4 方法を持たないプラグマティズム
アメリカの哲学と言えば、プラグマティズムですね。「プラグマティズムこそアメリカの哲学」。これは1950年以前のアメリカの決まり文句でした。しかし、次第にアメリカも大陸哲学に傾いて行くのですね。 で、アメリカ社会でプラグマティズムがどう機能したのか。ローティはこう見ます。 因習の殻を破り新しいものを受けいれることを奨励すること、宗教文化を振り払い自由にすること、
道徳律の影響を抑え新しい立法を恐れないことなど、プラグマティズムは科学主義的、実験主義的に働いたのだと。
そして、この反イデオロギー的自由こそが、アメリカの最も価値ある伝統だとローティは言います。 しかし一方で、ローティのプラグマティズムは従来のプラグマティズムとは異なります。
それは、「方法を持たないプラグマティズム」と呼ばれるものなのです。
プラグマティズムには、信頼できる方法があるという科学主義がありました。
しかし、ローティはそのような方法は無いという反科学主義の立場をとります。
これは、ネオプラグマティズムと呼ばれたりもします。 ローティは、哲学的な深さを悪しきものと考えます。
さらに、プラトン的な夢に至っては最悪のものだと考えます。
彼の基軸は自由主義の擁護なんです。
そのためには、「方法を持たないプラグマティズム」と
、「深さを奪われた大陸哲学」が一緒になればよいのにとまで言うのです。 難解ですか? ローティの論文「方法を持たないプラグマティズム」の一節を引用しておきましょう。
「確かにわれわれには、互いに語りかけ、世界に関する見解について話し合い、
力よりも説得を用い、多様性に対して寛容であり、心から反省する用意のある
可謬論者であるべきで義務がある。けれどもこれは、方法論的原理を持つ義務とは、
別のものである。」 こうしてみると、リチャード・ローティは、哲学者というより、政治思想か? 務とは、別のものである。」
■5 脱構築
脱構築。何それ、美味しいの? などと聞く人は冗談が好きな人でしょう。まあ、冗談はさておき、脱構築を聞いたことも無い人、だいたい知っている人、詳しい人がいるでしょう。とりあえず、誰にでもわかるように書いてみます。 脱構築とは、哲学者ジャック・デリダ(1930−2004)の用いた言葉で、フランス語では、デコンストリュクシオン、
英語では、ディコンストラクションであり、日本語では解体構築と呼ばれることもありますね。
もともとは工学系の言葉で、機械を分解して部品を取り換えて別の機械を作ることなどを指します。 デリダのいう脱構築とは、何かを伝える時には、すでにそれに対する反論が、そこに含まれているということの論証です。当たり前の話ですね。簡単に言えば、何にだって反論できるよということ。 ちょっと難しく言うと、二項対立の解体作業であり、ロゴス(言語)中心主義への批判的方法でしょうか。 ■6 民主主義
「民主主義? それって結局、多数決のことだよね」こんな風にいう人がいますが、違うんですねえ。
民主主義とは、市民の討議による政治です。多数決というのは、意思決定の技法の一つであって、本質ではないんですよ(異論があることは、100も承知ですよ。笑) ムフ(1943−)という政治哲学者は「闘技的民主主義」を主張します。それは、社会の多元性を認め、多元性を受けいれる民主主義です。目標は一致ではなく、差異を認め合うことなんです。 それから・・・民主主義とは本質的にローカルな性質を持つものなんです。地域や文化に根差した民主主義が好ましいということですね。国が大きくなると、民主主義も難しくなります。世界民主主義となると(そんなものは今現在ありませんが)、もっと難しいでしょう みなさんは、民主主義について、どんな本を読まれましたか? え、民主主義が好きじゃない??? ふむ、ムフを読もう・・・。 7 自文化中心主義
一般に、自文化中心主義というと、自文化を最高のものとして他文化を否定したり、
排除したりする、エスノセントリズム(ウィリアム・サムナーの造語)のことを言います。何とも怖い考え方です。 しかし、ローティもまた、自分のことを自文化中心主義者だと言い出すんです。「え、なんで?」と思いませんか? もっとも、ローティのいう自文化中心主義は、自文化至上主義ではありません。そうではなく、自分自身が何かを見る時には、必然的に自文化という立脚点から見るより他に方法がないという意味なんです。 この語りはかなり戦略的です。自文化中心主義という言葉を友好的に再解釈しているのです。 いかがでしょうか? あなたは、リベラル・アイロニストですか? 私はもちろん、リベラル・アイロニストですよ。 トロツキーと野生の蘭?
リチャード・ローティはこのAIDA(間)にいて、
カント以来の“哲学さま”を傍若無人にぶっこわす。
そして、新たな知の組み替えの方法と方向を
自身の好みだけでリスク・テイクする。
このやり口に当時の思想界は呆れ、
祟りがないようにとローティを遠ざけてきた。
が、そこには、コンティンジェントな意味の創発と
負の想像力による連帯が、ひらひら躍っていた。
おっ、これは見逃せない。何かが萌芽する。
ただし、この男、ちょっと変わっているので、
多少の水先案内を買って出たい。 なるほど。
ローティってのは、大陸でいえばデリダみたいなものか? ローティはこの異例に挑戦した。
それは本書の構成に如実にあらわれている。
目次を見ればすぐわかる。
全体が第T部「偶然性(コンティンジェンシー)」、第U部「アイロニズムと理論」、第V部「残酷さと連帯」というふうになっているのだが、
その第T部は「言語の偶然性」「自己の偶然性」「リベラルな共同体の偶然性」で埋められたのだ。
言語・自己・共同体が一気通貫にコンティンジェントに語られたのである。ごくかんたんに水先案内をしておく。 一つ目の「言語の偶然性」とは、言語の本質がコンティンジェントであるということだ。これは、真理が言語と別にあるのではなく、言語だけが語彙と文章によってコンティンジェントに真理をあらわしうる唯一のものだということをいう。 このことを最初に指摘したのは分析的言語哲学者のドナルド・デイヴィッドソンで、彼はすべての意味の出現は「パッシング・セオリー」でしかあらわれてこないと言った。 V パッシング・セオリーとは「つかのまの理論」とでも訳せるもので、言葉が「たまたま」と出会って放出されるそのときどきの
「つかのま」の様子のことをさしている。ひらめき、集中、つまづき、
乱用、誤用、顔面の緊張、会話、咄嗟の発言、つぶやき、ひょんな沈黙、らしさ、
思いつき、ニュアンスの運びかた......、そして「ありとあらゆるメタファー」が、
そのときどきの「つかのま」においてコンティンジェントに、それらを新たな意義に向かわせるというのだ。 デイヴィッドソンは、こう書いていた。「互いの話を理解したいのなら、二人にとって必要なのは発話と発話のあいだでパッシング・セオリーを収束させる能力を発揮することだ」。ローティはこのパッシング・セオリーを発展させた。 デイヴィッドソンは、こう書いていた。「互いの話を理解したいのなら、二人にとって必要なのは発話と発話のあいだでパッシング・セオリーを収束させる能力を発揮することだ」。ローティはこのパッシング・セオリーを発展させた。 二つ目の「自己の偶然性」については、ニーチェやハイデガーがすでに、個体的で偶然的なものこそが普遍的で必然的だということを暗示していた。ニーチェは「真理はメタファーの一部に属する」とまで言っていた。 三つ目の「共同体の偶然性」については、社会学的には「自由」にかかわるコンティンジェンシーに関係があるのだが、
これについては離学衆ほどにはローティはあまりうまく説明できていない。
というのも、ローティは「自由よりもコンティンジェンシーを」と言いたいはずだろうに、そう、はっきり明示していないからだ。 リチャード・ローティの両親は戦前の共産党員だった。両親はいっときトロツキー(130夜)の秘書を匿ったことがあった。少年ローティはそういう両親が誇らしかった。
その両親の影響らしいのだが、ローティは12歳のころには、「人間としての大事なことは、社会的不正義との闘いに自分をささげることである」という仄かな確信をもつようになった。 このようなリチャード・ローティではあるのだが、この風変わりな哲人については、実はいまもって毀誉褒貶がはなはだしい。評価が定まらない。
最も大胆で斬新なプラグマティストなのか、他者の言説を巧みに操るまったく新しいタイプの新保守主義者なのか。
超分析哲学者? それとも反哲学者? いまだに騒々しい議論の渦中にいるままなのだ。 哲学者らしい哲学者といえば、やっぱり、クワインか? でも、クワインには、哲学というより、「数学と論理学の専門家」というイメージがある。 ローティが選ぶ、分析哲学に重要な転換をもたらした三冊
1)クワイン『経験論の二つのドグマ』(1951)
2)ウィトゲンシュタイン『哲学探究』(1953)
3)セラーズ『経験論と心の哲学』(1956)
「その中でもセラーズの著作が知られる度合い、論じられる度合いが最も小さい」byローティ 現代アメリカ哲学では、言語分析と並んで、「心脳問題」が大きなテーマになってきた。
パトナムの「水槽の脳」の思考実験が有名だが、デイヴィッドソンも心の哲学で知られる。 心の哲学(こころのてつがく、英語: philosophy of mind)は、哲学の一分科で、心、心的出来事、心の働き、心の性質、意識、およびそれらと物理的なものとの関係を研究する学問である。
心の哲学では様々なテーマが話し合われるが、最も基本的なテーマは心身問題、すなわち心と体の関係についての問題である。 心身問題とは、心と体の状態との間の関係[1] 、
つまり一般的に非物質的であると考えられている心というものが、
どうして物質的な肉体に影響を与えることができるのか、そしてまたその逆もいかに可能なのか、を説明しようとする問題である。 われわれの知覚経験は外界からどんな刺激が様々な感覚器にやって来るかに応じて決まる。つまりこれらの刺激が原因になって、われわれの心の状態に変化がもたらされ、最終的にはわれわれが快不快の感覚を感じることになる[2]。
あるいはまた、あるひとの命題表明(propositional attitude)すなわち信念や願望は、どのようにしてその人のニューロンを刺激し、筋肉をただしい仕方で収縮させる原因になるのだろうか。
こうした問いは、遅くともデカルトの時代から認識論者や心の哲学者たちが延々と検討してきた難問なのである[3]。
われわれの知覚経験は外界からどんな刺激が様々な感覚器にやって来るかに応じて決まる。
つまりこれらの刺激が原因になって、われわれの心の状態に変化がもたらされ、最終的にはわれわれが快不快の感覚を感じることになる[2]。
あるいはまた、あるひとの命題表明(propositional attitude)すなわち信念や願望は、
どのようにしてその人のニューロンを刺激し、筋肉をただしい仕方で収縮させる原因になるのだろうか。
こうした問いは、遅くともデカルトの時代から認識論者や心の哲学者たちが延々と検討してきた難問なのである[3]。 個人的には、心の哲学こそが、哲学だと感じられる。
言語分析は、哲学をやるための道具作りっていう感じ。 ジェリー・アラン・フォーダー(英語:Jerry Alan Fodor、1935年 -)は、アメリカ合衆国の哲学者であり認識科学者であり、0在、ニュージャージー州のラトガーズ大学で教鞭をとっている。
心の哲学と認知科学の分野で多くの著作があり、心のモジュール性や思考の言語仮説など、これら分野の基礎を築いた研究者である。 フォーダーは、心的状態(例えば信念と欲求)は個体と心的表象との関係である、と主張する。彼によれば、これら心的表象こそが、心の中で思考の言語(Language of Thought : LOT)によって正しく説明できる唯一のものである。
さらに、この思考言語はそれ自身、有用な説明のツールであるだけでなく、脳の中で実際に体系化されて存在しているものである。
フォーダーは、思考と他の心的なプロセスが、表象の文法に基づき行われる計算からうまれると主張して(この計算が思考の言語を作り上げるのであるが)、一種の機能主義者である一線を守ろうとする。 フォーダーは、心的状態(例えば信念と欲求)は個体と心的表象との関係である、と主張する。彼によれば、これら心的表象こそが、心の中で思考の言語(Language of Thought : LOT)によって正しく説明できる唯一のものである。
さらに、この思考言語はそれ自身、有用な説明のツールであるだけでなく、脳の中で実際に体系化されて存在しているものである。
フォーダーは、思考と他の心的なプロセスが、表象の文法に基づき行われる計算からうまれると主張して(この計算が思考の言語を作り上げるのであるが)、一種の機能主義者である一線を守ろうとする。 コリン・マッギン(Colin McGinn, 1950年3月10日-) は、イギリスの哲学者。
現在マイアミ大学教授。心の哲学のなかでは、認知的閉鎖(cognitive closure)説を提唱し、
人間が意識の謎(意識のハード・プロブレム)を解明する可能性に懐疑的な新神秘主義者として知られる。 ジョン・フォーダーとコリン・マッギンは、友達同士だ マッギンは哲学的論理学、形而上学、言語哲学について数多くの論文を執筆しているが、彼の名は心の哲学において最もよく知られている。
989年の論文「私たちは心身問題を解決できるのか?( "Can We Solve the Mind-Body Problem?")」においてマッギンは、
人間の心は生得的にそれ自身を理解することが不可能なのであり、この不可能性によってデカルト以来の西洋哲学は意識の謎に取りつかれてきたのだと考察した。
したがって、マッギンによる意識のハード・プロブレムへの解答とは、意識の謎は人間にとって認知的に閉じられており、解答不可能だというものである。
このような立場は新神秘主義 (New Mysterianism)と呼ばれている まあ、数学者が道具を作り、物理学者がそれを使って宇宙論をやるみたいなものだな。
言語分析で道具ができる。それを使って、心の哲学を展開する。 ジョン・ロジャーズ・サール(John Rogers Searle 1932年7月31日 - )は、アメリカ合衆国の哲学者。
主に言語哲学、心の哲学を専門とする。カリフォルニア大学バークレー校教授。 こうしてみると、有名な現代アメリカの哲学者は、言語分析と心の哲学を両方やってる人ばっかりだな。 アメリカのコロラド州デンバーに生まれる。ウィスコンシン大学に入学する。オックスフォード大学講師を経て、
1967年にカルフォルニア大学教授に就任。ニクソン大統領時代には大学問題大統領特別顧問としても活動した。 パトナムといえば、水槽の脳
ジョン・サールといえば、中国語の部屋 人工知能批判で知られ、チューリングテストに対する反論として中国語の部屋という思考実験を提案した。
また、言語表現が間接的に果たす遂行的機能(間接発話行為)の研究を行い、ジョン・L・オースティンの後継者と称された。 心の哲学についてサールは多数の主張をおこなっている。
サールによれば、意識とは第一者(その意識を所有し、経験している当の本人)からによってのみ接近可能な、存在論的で還元不可能な性質を持っている。
たとえば痛みという感覚を挙げると、痛みは誰かの主観性によって感じられない限り存在せず、したがって存在論的な主観性を持っている。
サールは、第三者から見て観察可能なデータのみを扱う行動主義や機能主義のようなアプローチを、意識の還元不可能性を無視する姿勢だとして批判している。
例えばダニエル・デネットによるヘテロ現象学のような姿勢は、意識の存在自体を否定するものだとサールは言う。 心の哲学についてサールは多数の主張をおこなっている。
サールによれば、意識とは第一者(その意識を所有し、経験している当の本人)からによってのみ接近可能な、存在論的で還元不可能な性質を持っている。
たとえば痛みという感覚を挙げると、痛みは誰かの主観性によって感じられない限り存在せず、したがって存在論的な主観性を持っている。
サールは、第三者から見て観察可能なデータのみを扱う行動主義や機能主義のようなアプローチを、意識の還元不可能性を無視する姿勢だとして批判している。
例えばダニエル・デネットによるヘテロ現象学のような姿勢は、意識の存在自体を否定するものだとサールは言う。 サールによれば、胃が胃液を分泌したり、植物が光合成を行ったりするように、脳の生物学的な条件によって意識が生み出される。このような立場は、生物学的自然主義(biological naturalism)と呼ばれることがある。 自由意志を脳の中に位置づけすることができるのかについて、サールは次のように考える。
ある時間T1において行為者の心には信念や欲求があり、それは続くある時間T2において行為として実現されるのであるが、
T1とT2のあいだにある飛躍を、実際の脳の物理的なプロセスのなかにどのように位置づけるのか(T1とT2のあいだの脳のプロセスに物理的因果性が存在するなら、
自由意志は決定論的な世界のなかの幻想であり、もし因果関係が脳の中に見つからなければ、量子脳のような随伴現象的な説明を余儀なくされる)は、今後の課題とされる。 この項目のほとんどの議論は、現代の西洋哲学の中でいわゆる「分析哲学」(時には英米哲学といわれることもある)という有力な学派(スタイル)の業績にしぼって論じられている[53]。
しかし他にも、大きなくくりで「大陸哲学」とまとめられる思想の流れも存在する[53]。
ともかく、この呼び名の下にはさまざまな学派が総括されているが、これらは分析哲学とは異なった次のような傾向をもっている。
分析哲学が言語分析や論理分析に焦点を合わせがちなことに対して、大陸哲学はより直接的に人間の実存や経験に焦点を合わせることが多い。
特に心についての議論に関しても、分析哲学のように言語形式の分析に係わったりせず、思考と経験の概念を直接的に把握しようとする傾向が大陸哲学には強い[53]。 言語分析と、心の哲学は、切っても切れない関係にある。
それは、英米の分析哲学という車の両輪みたいなものだ。 どうも、英米哲学に関して、言語分析というイメージだけが強く、心の哲学の知名度が低いように感じられる。
気のせいか? 5chの哲学板でも、パトナムの「水槽の脳」の話でもしようもんなら、
「ここは哲学板だぞ。オカルトの話をするな」というお叱りを受ける状況だ。
しかし、それはオカルトの話ではない。「心の哲学」だ。
日本の哲学ファンには、これほど英米哲学が知られていない。 言語分析はともかく、心の哲学はおもしろすぎてハマる まあ、言語分析もおもしろいっちゃあ、おもしろいんだが このスレは、コピペしすぎて大混乱になってしまった
後でまとめよう ていうか、ここはそもそも、波平がアゲ荒らし用に立てた糞スレだ
こんなスレがどうなろうと、知ったことじゃない(笑) (*^ー゚)b グッジョブ!!(*^ー゚)b グッジョブ!! __
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∧ ヽ. ヽニニソ l ほほほ、ほーっほ、ほーっぷープゲラレンチョピヒ
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非 し! _ -── ‐- 、 , -─-、 -‐─_ノ 非
既 童 // ̄> ´  ̄  ̄ `ヽ Y , ´ ) 童 え
婚 貞 L_ / / ヽ 貞 |
者 が / ' ' i !? マ
だ 許 / く ジ
け さ l ,ィ/! / /l/!,l /厶,
だ れ i ,.lrH‐|'| /‐!-Lハ_ l /-!'|/l /`'メ、_iヽ
よ る l | |_|_|_|/| / /__!__ |/!トi i/-- 、 レ!/ / ,-- レ、⌒Y⌒ヽ
ね の _ゝ|/'/⌒ヽ ヽト、|/ '/ ̄`ヾ 、ヽト、N'/⌒ヾ ,イ ̄`ヾ,ノ!
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人_,、ノL_,iノ! /! ヽ r─‐- 、 「 L_ヽ r─‐- 、 u ノ/
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キ 不 { / ヽ,ト、ヽ/!`hノ ) モ 不 |/! 「ヽ, `ー /) _ ‐'
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ハ 潔 > /\\// / /ヽ_ ! イ 潔 ( / / // / `ァ-‐ '
ハ / /! ヽ レ'/ ノ ! > ' ∠ -‐  ̄ノヽ /
キライ { i l ! / フ / -‐ / ̄/〉 〈 \ /! 哲学板は過疎だから、そう簡単にはスレが落ちないので大丈夫 テレビ朝日で貴乃花親方がすべてを語る緊急特番を2.7放送
2/6(火) 21:59配信
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180206-00136574-the_tv-ent
貴乃花親方の口から語られる言葉とは?
テレビ朝日系で2月7日(水)夜7時から「独占緊急特報!!貴乃花親方105日沈黙破りすべてを語る」を放送することが決定した。
同番組は貴乃花親方が覚悟を持って立候補した日本相撲協会の理事候補選挙(理事選)で敗れてしまった全胸中を激白する他、大きな話題となっていた貴ノ岩関傷害事件と、ケガの全真相が明らかになりそうだ。
また、無言の裏で日本相撲協会へ数十通にも及ぶ提出文書によって猛抗議をしていた全貌や、貴乃花親方が“相撲道貫く信念”を語る。
なお、同時間帯に予定されていた夜7時からの「あいつ今何してる?」、夜8時からの「くりぃむクイズ ミラクル9」は放送時期を調整する。(ザテレビジョン)
http://hayabusa9.5ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1517922558/ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ ( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \ このスレッドは1000を超えました。
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