□ ジャック・デリダ Jacques Derrida 8 □ [無断転載禁止]©2ch.net
デリダの伝記買ったよ
人殺せそうな分厚さ・・・
なんやこれ・・・ 2018.04.09 Mon
小さな出版社と編集者の大きな夢:川崎昌平×下平尾直×小林浩
「漂流社」を作ってみたい
小林:(苦労しなかったっていうのは)相対的にね。著者が死んでいて、なおかつ、著作権継承者がいない本。
著作権継承者がいても、その方がゴリゴリに出版界に対して懐疑的な目を持っていたりする場合にはすごく難しいですが、
お金とかじゃなくって、亡くなった方の著者の本が出るならば嬉しいと考えてらっしゃる方が著作権継承者の場合には、
(編集作業は)やりやすい。
それは日本の著者だろうが、海外の著者だろうがあんまり関係なくって。
人文書で言えば、僕がやっているような哲学の分野で、
たとえば海外にはジャック・デリダ(1930-2004)という有名な人がいますけど、まあ死んでからがめんどくさい。
どこがどう著作権を管理しているのか、あっち行ったりこっち行ったりする場合もあれば、
原著出版社から「翻訳書には訳者の解説を載せるな」とか言われる場合もある。必要なものなのに。
だから、著者が死んでも著作権継承者が権利を継いでいて、原著出版社が厳しく管理している場合、
かえって存命中よりも扱いにくい場合もあるんです。
著者が存命中だったらもっと著者本人とやりとりができるから、「よっしゃよっしゃ」で進むんですけど(笑)。 『声と現象』のちくま学芸文庫版訳や『フッサール哲学における発生の問題』のみすず版訳は
そういう困難な状況の中で生み出されたのか。
心して読まねばならんな。 デリダはまだどこが笑ええて売れたか処女哲学を見つけられていないと思う。 トークショーより エロ書道ショー の方がいいんじゃないの?三省堂。 デリダの脱構築(déconstruction) → ハイデガーの解体(Destruktion) → ルターの解体(destructio)
の経緯については、以下が詳しい。
・宮ア裕助 「プロト脱構築について――ルター、ハイデガー、デリダ」
『現代思想 2018年2月臨時増刊号 総特集=ハイデガー -黒ノート・存在と時間・技術への問い-』
・茂牧人 「なぜ日本にキリスト教哲学が必要なのか」 (2009)
https://serve.repo.nii.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=49&block_id=42&item_id=1245&item_no=1
ハイデガーとルター >>76
デリダの脱構築を巡っては色々な議論があるが
デリダ自身が磯崎新と浅田彰に問い詰められて最後にはそれを認めてしまった
以下
磯崎・浅田「デリダさんの脱構築というのは、けっきょくのところ再構築するという意味だよね?」
デリダはその追求に対して最後には「そういうことになる」と
脱構築が再構築であることを認めてしまった >>77
>>40の中の説明が詳しい。
デリダがこの言葉を見つけた『リトレ辞典』の項目も引用してる。
> Déconstruction:déconstruireする〔解体して組み立てる〕行為。
> 文法用語。文のなかの諸語が構成しているものを、順序を崩して並びかえること。
無に帰せしめるような、ただの破壊ではないということ。 >>76
ルター「ハイデルベルク討論」における解体/構築
<解説>
「ハイデルベルク討論」の終わりのところで「十字架の神学」が隠れたる神の逆説として展開する。
ルターによるとキリストにおいて自己を啓示する神、つまり顕れた神は、もっとも深く自身を隠している神である。
(略)キリストは苦難と十字架というローマの極刑に付けられた、見るかげもない哀れな姿において自己自身をあらわす。
<本文>
(19)神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない[ローマ 1:20]。
(20)だが神の見える本質と神のうしろ[出エジプト 33:23]とが、受難と十字架によって認められると理解する者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。
[独語] Die Heidelberger Disputation
http://www.reformatorischeschriften.de/Hddisp/hddisput.html
[英語] The Heidelberg Disputation
http://www.catchpenny.org/heidel.html
解説…『ルター神学討論集』 マルティン・ルター、金子晴勇 (2010)
本文…『ルター著作選集』 マルティン・ルター、徳善義和ほか (2012) >>79
(19)はアリストテレス主義的スコラ学派による「栄光の神学」
(20)はパウロによる「十字架の神学」
ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。 ルターの作業も歴史の再構築。
>>40の中のデリダ
> dé-は、破壊というよりもむしろ系統学的遡行を意味し得る
> 諸構造を壊し、分解し、その沈殿物を浮かび上がらせること >>78
デリダが晩年に友人でもある磯崎新にほぼ論破されたかたちになっている
ANY会議だと思ったけれど
日本でも邦訳あまだ入手可能なんじゃないかな
デリダは思想家・哲学者というよりも釣師だから
だか前期・中期・後期で彼の著作をみるてみると
難解なエクリチュールが突然ある時期には普通の書き方になっていたりする
「なんだデリダは普通に書けるんじゃん」って思ったよ
パフォーマンスなんだな彼の文体は
あえて悪くいうと
ただの策士で論戦という喧嘩や読者を煙に巻いておちょくってるだけだから
内容というものがほとんどない
初来日したときも
日本の学者とのアフタートークでも評判悪かったそうだしね >>82
> ANY会議
読んでるよ
デリダ自らが脱構築の説明をした>>40は読んだ?
ハイデガーやルターは? 「メシアニズムなきメシア的なもの」池田信夫 blog(抜粋)
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51301271.html
> デリダは『マルクスの亡霊たち』の中で、
> メシアニズム(messianisme)とメシア的なもの(le messianique)という区別を導入した。
> これは彼独特のわかりにくい用語法だが、簡単にいうと
> メシアニズムというのはキリスト教のように特定の目的をもつ積極的な救済、
> メシア的なものというのは「今とは違う状態」を求める否定的な救済である。
> いうまでもなくデリダが依拠するのは後者で、その観点からマルクスのメシアニズムを批判する。 ジャッキー・デリダなんぞ
なにもやっていないに等しい >>82
>デリダが晩年に友人でもある磯崎新にほぼ論破されたかたちになっている
>ANY会議だと思ったけれど
>日本でも邦訳あまだ入手可能なんじゃないかな
ここについてもっと詳しく キリストの死体の後始末なんて、セクハラ漏れないように、年増のパリサイ派
とか、ユダヤ教徒の一部がやるべきだよ。 デリダの文体がパフォーマンスなんだって当たり前のことやんけ >>90
ありがとう
でも論破されてるのかよくわからんね
気が向いたら読んでみる デリダは、ピエ・ノワールであるとされている。では、「ピエ・ノワール」とは
一体、何を意味しているのか?『ピエ・ノワール列伝』では、「フランス領北
アフリカ引揚者たち」のことであるとされている。しかし、デリダを含め、
アルジェリアが独立したことで「フランス本土に引き揚げてきた」多くの元
アルジェリア住民は、フランスからの植民者およびその子孫ではなく、
アルジェリアの出身者である。このため「ピエ・ノワール」=「北アフリカから
フランスに引き揚げてきたのフランス人植民者およびその子孫」という定義
は成立せず、「ピエ・ノワール」という呼称が何を意味しているのか
極めて不明瞭な印象を受ける。しかし、私には、この不明瞭さこそが、
「ピエ・ノワール」という呼称の性質をよく表しているのではないかと
思える。その性質とは、この呼称が本来的に備えている二重性だろうと
私は考える。 「ピエ・ノワール」という呼称は、本来、北アフリカのフランス植民地で
用いられたものであり、アルジェリアの独立問題によってそのように呼ばれる
人々のフランス本土への「引き揚げ」が大きな関心事となるまで、フランス
本土では用いられる機会のあまりない表現だったのではないか。
フランス本土においては、そもそも、「ピエ・ノワール」という呼称が
何に対比されているのか不明であり、単にその字面から「黒い足」を表す
ものと想像されたのだろう。その「黒い足」と呼ばれる人々のフランスへの
「引き揚げ」がニュースで大きく取り上げられるようになり、ともかく、
そのような人々の集団を指す便利な呼称として、フランス国内では
その表現の意味が不明なまま定着したのだろうと考えられる。
つまり、「ピエ・ノワール」とは、現地において、そう呼ばれる集団
を、その外見により、他の集団との対比で区別するものであったが、
フランス国内における「ピエ・ノワール」は、フランス国内の人々との
外見による対比を表しておらず、その本来の用法においては意味不明
になるのだろうと思われる。 地域と言語は違うものの、人がどのような呼称で集団を区別するのか、
参考になる面白い記述を見かけたので引用しよう。私には、「ピエ・ノワール」
という呼称は、実は、以下に引用する別の事例における呼称と似通った対比
によって生じたものではないかと思える。
Pero la clase media ー un sector social confuso y heterogeneo al que
pertenecia tanto la anciana esposa de un coronel al quedarse viuda
de un <<hombre tan distinguido>> se convertia en duena de un
estanco, como el veterinario, el abogado, el electricista con trabajador
a su cargo, el consejero ministerial, el comandante aun en activo,
el inspector de correos o el director de una perrera; todo los que
en Hungaria se llamaba <<caballeros de pantalon>> ー* en su
gran mayoria, abiertament o en secreto ー en esa epoca ya mas bien
abiertamente ー, se declaraban simpatizantes de los nazis.
* En oposicion a los campesinos, que solian llevar gatya (calzon
bombacho.)
Sandor Marai, "Lo que no quise decir", p.42 >>71
>デリダの伝記買ったよ
>人殺せそうな分厚さ・・・
>なんやこれ・
何が書かれているかよりも、何が記述から除外されているかに注意を向けましょうw 例えば、ここに引用したSandor Marai, "Lo que no quise decir"は、
ドイツ語に翻訳されて"Land, Land. Erinnerungen"という題名で出版
されることになったハンガリー語の原本の章として書かれながら、著者
によって意図的に公表されていなかったものなのです。その原本は、現在、
英語、ドイツ語、オランダ語などに翻訳されて出版されているようですが、
この章が翻訳版に含められているのかどうか、まだ私は知らない。
それが、スペイン語、イタリア語では、独立に翻訳されて出版されて
いるわけです。 この著者の物事の感じ方、捉え方、考え方に共感すべきであるとか、同意すべき
であるとか、そういうことではありませんが、これだけ面白い記述の見られる
本はそう多くはない。この著者の自伝的著作が日本語で翻訳されて出版されて
いないという事実は、日本の出版業界がまともな仕事をしていないのか、
それともまったく逆に「とてもよく仕事をしている」ことを示しているのだろう
と思う。そして、残念ながら、「まともな仕事をしていない」と考えるのは
極めて楽観的な物事の見方であり、「とてもよく仕事をしている」と考える
方が現実的なのだろうと思う。 【イスラム哲学】井筒俊彦を読む
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1495629112/426
426 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/06/12(火) 21:58:03.78 0
井筒俊彦は
ジャック・デリダから
「マエストロ(巨匠)」って呼ばれていたんだよな
日本ではなく
欧米で生まれていれば
「間違いなく世界思想史に残る存在になったはず」ともデリダは言っていた デリダ『名を救う―否定神学をめぐる複数の声』訳者コメントより
デリダは病床の母親ジョルジェットをニースで看病した際に、本書『名を救う』を執筆しました。
深刻な病のため、息子の名さえ忘れるほど記憶を喪失していた母を前にして、
彼はシレジウスの否定神学的なテクストに親近感を抱くようになったと告白します。 “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) >>99
これ、日本に生まれたために最良の選択ができずに
不毛な仕事に従事することになった言ってるとも取れるよな
思想史に組み入れられるような優れた仕事を実際していれば地域関係なく相応しい評価が与えられるべきとデリダも思っているだろうし 「日本の友への手紙」 『プシュケー:他なるものの発明II』 (2019/03/27)
ジャック・デリダ
https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/tachiyomi/0246900.pdf
“親愛なる井筒教授。
私たちが会ったとき、私はあなたに「脱構築」という語について―図式的で予備的なものではありますが―いくつかの省察をお約束しました。
問題になっていたのは、要するに、この語を日本語に訳すときに可能な翻訳への予備考察(プロレゴメナ)でした。(略)
なかんずく私が望んでいたのは、ハイデガーのDestruktion[破壊]もしくはAbbau[解体]という語を私の意図へ翻訳し翻案することでした。(略)
けれどもフランス語では「破壊[destruction]」という語は、ハイデガー的な解釈もしくは私が提案していたタイプの読みよりも、
おそらくはむしろニーチェ的な「粉砕」に近い無化、否定的還元という含意があまりに際立っていました。
そこで私はこの「破壊」という語をしりぞけたのです。(続く)”
※デリダの最重要概念である"脱構築"の説明を収録した『プシュケー』は、これまで邦訳されていなかった 日本に生まれることは才能を活かしきれずに死んでいくことを意味するのでしょうか >>105
西洋哲学に関してはそういうところはあるかもね
特に思想はネイティブじゃないとなかなか創造的な仕事はできないでしょ >>105
西洋哲学に関してはそういうところはあるかもね
特に思想はネイティブじゃないとなかなか創造的な仕事はできないでしょ 日本に生まれてしまったがために才能を活かせずに消えていった人は山ほどいるんだろうな “メリルによれば、ポスト構造主義における解釈の無限の可能性という概念は、最高の秩序と最高の混沌は同時に存在し、相互に否定しあう心理が全体として仏教の言う「一」となる、という考えに類似しているという。
メリルは、サンスクリット・スンヤタのモノニアラザルモノとしての「思い浮かべることすら不可能な」無に言及し、これを近代物理学とデリダの著作の両者に比較している。
ロバート・マグノリア(『快方に向かうデリダ』〔一九八四年〕)もまたデリダの思想と仏教の無という概念とのあいだにひとつの類似性を見出している。
空無への帰着は「中心」とされる「超越的シニフィエ」の無益な追及についてのデリダの分析によるものである。
マグノリアがとくに関心を向けているのはナーガジュナ派の仏教である。
「ナーガジュナは同一性原理の脱構築を自分の明確な使命と心得て」おり、「デリダと……同じ論理的戦略を用いている」とマグノリアは述べている。”
― アート・バーマン 『ニュー・クリティシズムから脱構築へ:アメリカにおける構造主義とポスト構造主義の受容』 未来社 (1993) 10章 『Derrida and Indian Philosophy』 Harold Coward (1990) >>110
1. Philosophy East and West
2. Derrida and Bhartrhari's Vakyapadiya on the Origin of Language
3. Derrida and Bhartrhari on Speech and Writing
4. Derrida and Sankara
5. Derrida and Aurobindo
6. Derrida and Nagarjuna
7. Conclusion デリダの「戯れ jeu」、ハイデガーの「遊動 Spiel」の背景にあるニーチェ+ヘラクレイトスの「戯れる子供 pais paizon」。
解体/構築が対で見られる。
“いかなる道義的な責任もとわれることなく、永遠に変わることなき無垢のまま、生成と消滅、建設と破壊を営むものは、この世においてはただ芸術家と小児との遊戯のみである。
そして小児や芸術家が戯れるように、永遠に生ける火が、無心に、戯れ、築き上げ、崩してゆく――そしてこの遊戯をみずからと戯れるのがアイオーン〔永劫の時〕である。
彼は、水や土に身を変じながら、小児のように海浜に砂山を築き、築き上げるかと思えば崩してゆく。
往々にして彼はこの遊戯を最初からやり直すことがある。満足したと見えるのもつかのま、欲求が芸術家を創作に駆り立てるように、欲求が彼を襲う。傲慢ではなく、繰り返し新たに目覚める遊戯衝動が、他のもろもろの世界を生み出すのである。
小児は一度は玩具を放り出すが、やがてまた無邪気な気まぐれでそれを取り上げる。しかし築くとなれば、子供は、法則に従い内なる秩序に従って結び合わせ、繋ぎ合わせ、形づくってゆく。”
― ニーチェ 「ギリシア人の悲劇時代における哲学の誕生」 『ニーチェ全集 2 悲劇の誕生』 ちくま学芸文庫 (1993) 7節、p389 井筒の「存在-神-論(Onto-Theo-Logie)」は、
老荘+ハイデガーの現象学的存在論+デリダのロゴス中心主義の解体。
“真昼時――地上の万物がそれぞれの輪郭線を露出しつつ
キラビヤカに浮かびあがる光の世界――に、
どこからともなく夕闇の翳りしのび寄ってくる。
事物は相互の明確な差別を失い、浮動的・流動的となって、
各自本来の固定性を喪失し、互いに滲透し合って次第に原初の混沌に戻ろうとする。
有分節的世界が己れの無分節的次元に回帰しようとする両者の中間に拡がる薄暮の空間、
存在の深層領域が、人々の好奇心をさそう。
地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さには、
何か言いしれぬ魅惑がある。”
― 井筒俊彦 「監修者のことば」 (エラノス叢書 『一なるものと多なるもの〈1〉』(1991) >>76、>>104
(1)デリダの脱構築(déconstruction) → (2)ハイデガーの解体(Destruktion) → (3)ルターの解体(destructio) → (4)イエス(新約「マタイ」)
(3)
ルターはギリシャ的スコラ神学を解体し、原始キリスト教的性格を洗い出した。
“19. 神の「見えない本質が」「造られたものによって理解されると認める」者は、神学者と呼ばれるにふさわしくない〔ローマ 1:20〕。”
“20. だが神の見える本質と神のうしろ(Posteriora Dei)〔出エジプト 33:23〕とが、受難と十字架によって理解されると認める者は、神学者と呼ばれるにふさわしい。”
― マルティン・ルター 「ハイデルベルグ討論」 『ルター著作集 第1集 第1巻』 ルター著作集委員会 編、聖文舎 (1964)
(4)
“律法または預言書をこわすためにわたしが来たと思ってはならない。わたしが来たのはこわすためでなく全うするためである。(マタイ 5:17)”
― 『新約聖書』 前田護郎 訳、中央公論社 (1983)
“Think not that I am come to destroy the law, or the prophets: I am not come to destroy, but to fulfil.(Matthew 5:17)”
― The Holy Bible (King James Version) 【生放送】鵜飼哲×宮ア裕助「後期デリダ、『生き延び』の哲学――『ジャック・デリダーー死後の生を与える』刊行記念イベント」 @parages #ゲンロン200731
https://live2.nicovideo.jp/watch/lv327011824
2020/07/31(金) 19:00開始 (5時間01分)
途中から東浩紀も参加 デリダのfoldはドゥルーズのfoldよりも若干古いような。
バロックとの関連でドゥルーズのfoldが注目される頻度が目立つが。 Seyn フォレスト YouTube篇 デリダのハイデッガー読解を検証する
https://youtu.be/KnbyLJzU_ZY 日本語と印欧諸語は、一見、まるで異なっているように見えて、よく見るとよく似ている。
例えば、日本語の「を(惜)し」という表現は、「を」が「呼び寄せる」ことを表し、
「し」が、「〜させる」ことを表す「す」の活用であると考えられるので、
ドイツ語の"rufen lassen"という表現にそのまま対応している。
このことは、今は使われなくなった古語の「を(食)す」という表現が、
「お召し上がりになる」を意味していることからも分かる。
ところで、日本語は、動詞の形成から助詞に至るまで中国語の表現を大々的に
流用して形成されていると考えられ、「を」には、万葉仮名で「烏」、「嗚」、
「塢」、「乎」などの漢字が当てられていることから見て、現代の中国語において、
「乌(烏)ピンインwū」という発音に引き継がれることになった表現を
「呼び声」と解釈して流用したものだろう。
実際、「乌(烏)ピンインwū」と発音の重なる「恶(惡)ピンインwù」は、
日本語において「悪(を)寒(かん)」のように「を」の発音として取り入れられている。
ところが、「乌(烏)ピンインwū」という表現/発音は、それがカラスを意味するように用いられることからも推察されるとおり、
古代の中国語では、"qa"に近い喉の奥から発せられる、カタカナで表すなら
「カ」とも「コ」ともつかないような発音に近いものであったと考えられている。
https://en.wiktionary.org/wiki/烏 さて、日本語に戻って「を(惜)し」という表現であるが、これは、
「呼び寄せ・させる」と解釈することができるが、そもそも「を」が「呼び寄せ」
を表すのは、それが、英語で表現するなら、"why (not)?"に相当する呼びかけの声であるからであり、
「を(惜)し」という表現は、"why (not anymore)?"という呼びかけを生じさせるものと解釈することができる。実際、中国語の「乌(烏)」も、その発音において、
疑問に用いられる「焉 (OC *qan, *qran, “how; where”)」、「惡 (OC *qaː, “how”)」、「安 (OC *qaːn, “where; how; why”)」と関係するとされている。
ここで印欧諸語の方を見ると、再構築された印欧祖語としての"*kwo- "がこれに対応している。
https://www.etymonline.com/word/*kwo-
>whence; where; whether; which; whither; who; whoever; whom; whose; why.
It is the hypothetical source of/evidence for its existence is provided by:
Sanskrit kah "who, which;" Avestan ko, Hittite kuish "who;" Latin quis/quid
"in what respect, to what extent; how, why," qua "where, which way,"
qui/quae/quod "who, which;" Lithuanian kas "who;" Old Church Slavonic kuto,
Russian kto "who;" Old Irish ce, Welsh pwy "who;" Old English hwa, hwæt,
hwær, etc. このように見ると、例えば、日本語で作用を働かせる対象を示すのに用いられる助詞の「を」は、
「を(惜)し」の「を」と共通であると考えられ、すると、この「を」は、英語において関係代名詞
として用いられる場合の"which"と似ていると見ることもできる。 >>123-124
このように見ると、フランス語で従属節を導くように用いられる"que"も、
日本語における助詞の「を」と自然に対応しているものと理解することができるだけでなく、
この「を」が「を(惜)し」の「を」と共通であることを理解するなら、
"Je souhaite que vous soyez 〜"のような接続法の用法もより身近に感じられるようになるだろう。
文法が先にあって表現の用法があるのではなく、表現の用法を整理して、
その整理法について語ることが文法と呼ばれるのだから、
いくら文法だけ勉強したところで、言葉を用いることができるようにはならないのである。 「ラディカル(radical)」であるとは、何か気に入らない物事を根絶(eradicate)しようとするように振る舞うことではない。
そうではなく、地中の菌糸ネットワークが植物の根に働きかけて、植物を枯れさせることも、
大きく成長させることもあるように、根気強く物事の根本に働きかけようとすることである。 ブルジョア・イデオロギーを反映するジャック・デリダ Seyn フォレスト YouTube篇 5 ジャック・デリダのハイデッガー読解を検証する
https://youtu.be/KnbyLJzU_ZY Seyn フォレスト YouTube篇 5 ジャック・デリダのハイデッガー読解を検証する
https://youtu.be/KnbyLJzU_ZY デリダのテキストは凝ってるだけ。中身なし。
買って損する。 中身ってなに?
何を得られれば中身があったと言えるの? たとえばさ。黒沢清の映画なんて中身はねえべ
ただ見ることの気持ちよさがあるのみ
文章も同じで愉しませてくれる芸を読みてえのよ
日本の若い物書きは中身をわかりやすく伝えるのが優先で読みやすい文章を書くことのみに腐心している
芸がねえ、だからつまらねえのよ >>137
>中身ってなに?
とりあえずは我々の生の実感に沿って喋っている
思想でないとね。例えば一人の人間にとって、
誰に指図されたわけでもないのに好きになれないもの
、または何故か分からないが好きなもの、
が何故かある。
内面世界には限度がついてまわる。また、
内省すれば、その内面世界の形や色はいつどのように
形成されていったのかも分かる。分かったからといって
変更できるわけでもない。さほどに人間とは予め
決定された内面世界を携え生きている。これが
生のリアリティてやつ。また人間の不自由さってやつ。
デリダはそういった生の根源をフィクションとして
扱う。その大胆さが新鮮でもあったのだろう。
デリダの登場時は。
しかし、デリダ自身がそのリアリティのなさや
軽はずみさに気付き、展開しなくなった。
そういったところが中身がないって言えるわけさ。
文章が華麗なだけ。人間を芯から捉えきれては
いなかった。
デリダの思想で人間を語り得る?そんな人は
いないしこれからもでない。大学の教養人のまあ
オモチャみたいなものだったのよ。本当はね。 >>141
生の実感に沿って喋っているかどうかとか人間を芯から捉えきれているかどうかの判断基準ってなに? >>142
それを書いてるんだが。読み取れなかったのか? ま、難解な言い回しな本を読むことで満足し、
教養みにつけたつもりな大学人を生産。実は読み込む
と現実の人間とは対応できない空理論だということにも
気づけない。その手の大学人や学生が信奉者だったん
だろうから。ひょっとしたらデリダの高い本買った
だけで大満足とか(笑)その程度の人が99%だったん
だろうね。 >>143
だから判断基準はなにかを聞いているんであって書いてあるかどうかは聞いていない
デリダは語れないことを示そうとしたわけだからデリダに否定的なあなたは「書いている」と強弁することしかできないか >>145
>人間とは対応できない
今時貴重な噴飯物の「人間中心」主義者(笑) そもそも言葉を「人間」の代替物とすることを疑う地点からデリダの思想は始まってるんであってね
「人間の代替物」を「現前性」と言い換えてもいい訳だが
人間に安易に収拾されない言葉が果たして可能かという試みがデリダの文章なのだよ >>148
>人間に安易に収拾されない言葉が果たして可能かという試みがデリダの文章なのだよ
にしては人間内部における他者すなわち出生・履歴
から生じる諸々にたいし鈍感にみえるね。
人間中心主義における人間をどうとらえるかが
重要で。最初から人間には生長のなかで孕まれる
不自由さがついてまわり、言葉が一人の人間主体に
収束したことなど実際は一度もない。自らにおける
他者に困惑し苦心し、かつ付き合っていくしかない。
デリダとかに顕著なのが人間の孕む分裂、他者に
たいし鈍感なところだね。 人間内部における他者にしろ不自由にしろ実体のように捉えるからそういう感想になってしまう
そういったものは説明のための概念であって実体じゃなくてあくまで言葉なわけ
でそれは究極的には語れないわけ ジャック・デリダ 『スクリッブル ― 権力/書くこと 付:パトリック・トール「形象変化(象徴的なものの考古学)」』 月曜社 (2020/8/18)
18世紀英国の神学者ウォーバートンによるヒエログリフ論の仏訳書に付された、デリダとトールによる70年代後半の各論考を初めて訳出。 >>151
>実体のように捉えるからそういう感想になってしまう
そういったものは説明のための概念であって実体じゃ
な くてあくまで言葉なわけ
(笑)何何?人間における他者とか不自由とか実体でない?
言葉だけ?
また内省の欠けた発言を(笑)デリダみたいな本
読んでると、自分自身かどういう内面的な生を日頃
過ごしているか、それも見えなくなるのかね。
デリダこそ言葉の遊戯で、実体とかけはなれた
カッコのよい曲芸のオンパレードだけど。
やっぱりあーゆーのに慣れちゃうと、なんでもかんでも
実体のない言葉だけ、とか、そういう言い回しに
慣れちゃうのかなあ。じゃあ実体であるかどうかの判定を
どうやる?てことはないんだろう。自分自身の内面を
覗いてみれば、なんでもかんでもできる奴などいない
し、自分の性格的難点はあるし、自分の身体的外貌からして
いやでも付き合わなきゃならない関係にあるし、
心的外貌からしてもなおしたい性癖はあるし、いやでも
〈自己=他者〉と付き合わなきゃ生きていけない。そんなの
常識だろう。なにが実体でない言葉だけなのよ(笑)
あんたが生きているそれ自体でしょ。
デリダ愛読者ってホントにセンス最低(笑)まあ
読んでる本がマズイんだろうけど。 結局自己流解釈が人それぞれありますね〜で終わっちゃうのがデリダでしょ? >>154、>>155
それ、デリダのどの本のことを言ってる? デリダデリダデリダ〜
デリダを読むとぉ〜
あたまあたまあたま〜
頭が良くなるぅ〜
デリダデリダデリダ〜
デリダは読解を〜
待っている〜
樫村・浅田・丹生谷・東・柄谷・ニューアカ・ニューアカ〜♪ >>154
頭悪すぎ
>なんでもかんでもできる奴などいない
>し、自分の性格的難点はあるし、自分の身体的外貌からして
>いやでも付き合わなきゃならない関係にあるし、
>心的外貌からしてもなおしたい性癖はある
それを説明するために人間内部における他者や不自由という言葉を使ってる Seyn フォレスト YouTube篇 7 エマニュエル・レヴィナスによるハイデッガー批判を検証する。
https://youtu.be/bztUXf0HUQo >>158
ニューアカつーたら、蓮實重彦と中沢新一と栗本慎一郎と小林康夫と石光泰夫と赤間啓之を忘れんなタコ助 ニューアカって言葉としてしか知らんからいまいち想像できないが
処世術的な啓発書が流行るような感じで、構造と力みたいな本が売れたりしたのか ニューアカなんてほんと無駄足だった
もっと他の読むべき本を読んどくべきだったとつくづく思う ニューアカって日本の思想の礎を築き上げた人たちですよね
彼らを差し置いて読むべき本なんてありますか?
僕は西田幾多郎や三木清や本居宣長や諭吉よりニューアカ軍団のが上だと思ってます ニューアカとは言いながら、中心人物の柄谷と浅田は博士号を
持ってないのが皮肉だな。 季刊批評雑誌「批評空間」みたいなのを復活させようという試みは
あったんだろうが、今はacademia.eduやresearchgateが基本的にオ
ープンアクセスの論文サイトとして存在してるが、それらの論文は
殆ど英語その他の欧米言語で書かれてるので、それらが読めない人
達との格差が明らかに出来てしまってるので、そのギャップをある
程度埋めるような出版事業への需要は明らかに存在すると思う。
そういう文化事業に日本は金をかけるべきだろう。
確実に日本人全体を活気づけるだろ。 Glasの翻訳マダー?
出る前に寿命が尽きてまうがな。
デリダの翻訳は毎年ポンポン出るのにどうしてこれを出す出版社と翻訳者が存在しないのか… 『Glas』では、ページの左にヘーゲル論、右にはジュネ論が同時に展開されている
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/en/thumb/e/e8/Derridaglas.jpg/200px-Derridaglas.jpg
“弔鐘(グラ)は、われわれが聞くことになるだろう弔鐘は、
意味作用の、意味の、そして能記の終焉を告げる”
“向かい合わせに置かれた二つのテクストの、ほとんど完全な、完全以上の交差配置。
たがいに保存しあい見失いあう画廊(ギャラリィ)と書廊(グラフィ)”
― ジャック・デリダ 「弔鐘 Glas(第1-10回)」 鵜飼哲 訳 『批評空間』 太田出版、1997-2001年、各号所収(未完) 『Glas』を読まないと、デリダのデリダらしさは分からない Glasのように左と右の問題はエジプトやギリシャ古代の彫刻の
歩き出す瞬間を捕らえたものに顕著に現れる。
エジプトの王と女王の並び立つ彫刻では女王が王の腰に手を回
してバランスを保ってるものもあるが、だからこそ、男女は同
じく左足を前に踏み出している。女王は極控え目だが。
>>178
>>たがいに保存しあい見失いあう画廊(ギャラリィ)と書廊(グラフィ)”
それにグラフィティを付け加えるべきかも 仏教などと比較されることの多い
デリダによる「空無」の説明
“ところが、幕屋(それはいくつもの「布帯」からなる織物で、
その余剰分はたえず再利用されなくてはならない。『出エジプト記』、二六章)は、所記なき能記にとどまる。
ユダヤの家庭は空虚な家を形成する。なるほど、ユダヤ人がいっさいの感性的形態の不在に対して鋭い感受性を持ち、
そのために、無限にいわば場所と形象を与えるような対象を作り出そうとしたことは確かである。
だが、この場所、そしてこの形象は、奇妙な構造を備えている。
この構造は、おのれ自身のうちに、おのれの空虚を閉じ込めている。
それが収容しているのは、内化されたおのれ自身の砂漠にすぎない。
それは何に向かっても開かれていない。何も収納していない、空無〔le rien〕以外の宝を包蔵していない。”
― ジャック・デリダ「弔鐘 Glas(第9回)」鵜飼哲 訳『批評空間』太田出版(2000.4)p327 >>114
ポストモダン界隈で繰り返し使われてきた言葉「戯れ」「遊動」
デリダの「戯れ jeu」 → ハイデガーの「遊動 Spiel」 → ニーチェ+ヘラクレイトスの「戯れる子ども pais paizon」 → サンスクリット語の「līlā(divine play 神の戯れ)」
“『リグ・ヴェーダ』などと称せられる一切の知識の宝庫は、まさに努力することなく戯れ(līlā)の原理によって、人の吐く息のように、大いなる存在から生じる――「この『リグ・ヴェーダ』は、この大いなる存在から吐き出された」などと聖典に説かれている。”
― シャンカラ 『ブラフマ・スートラ:シャンカラの註釈 上』 湯田豊 訳、大東出版社 (2006) p119
この語には、古代インドの神の目的論的ではない非意志的な生成力というニュアンスがあり、西洋哲学の特異点にしてその後の現代思想に大きな影響を与えたニーチェの哲学に通じるところがある。
ニーチェの友人パウル・ドイセンは、当時のヴェーダーンタ哲学やシャンカラ研究の第一人者。
“〈略〉ブラフマンと合一することが解脱であり、ブラフマンは永遠に清浄だからである。」これらの言葉は、
シャンカラの注釈によるものであり、わたしはこの言葉を、ヨーロッパにおいてインド哲学の最初の精通者となった友人のパウル・ドイセンから引用している。
〈略〉[世界の]最大宗教のうちでもっとも深いこの宗教の信者たちは語る。「深き眠りのうちで、魂はこの肉体から抜け出し、いと高き光のもとを訪れ、かくしてみずからの姿をまとう。魂はそこで彷徨するいと高き精神と一つになり、女と、車と、友とともに、戯れ、遊び、楽しむ。
荷物を引く獣が貨車に繋がれているように、プラーナ(生の息)はこの肉体に繋がれているが、魂はもはやこの肉体という付属物に思いをいたすこともない」。”(3:17)
― ニーチェ 『道徳の系譜学』 中山元 訳、光文社 (2009) p266-268 ジャックデリダ
ジャックデリダ
ジャックデリダのおーじーさんっ♪ お前なんか脱構築しちゃうぞっ! (`・ω・´)キリッ. 最近『グラマトロジーについて』読み始めたけど思ってたより難しい
これでもデリダにしては読みやすいほうなのか 邦訳が出たのが84年だからかなり早い時期
労作なんだろうけどもさすがに古い訳になってるかな
最近の研究成果を踏まえた若手の新訳が欲しい ところが新訳企画が止まったらしい
現代思潮新社の稼ぎ頭なのか デリダの文章は余り説明的じゃなくて、思い付きでどんどん
書き進められるから、詩的である面もあって、読みづらいと
感じる人も多いだろう。
オリジナルな思想家の文章はある程度、理解しにくいのはしょ
うがないような。 >>192
大学の教員でデリダの研究者に過ぎない者が
学生に分かり易く解説するのと、デリダが自
作を書くのとでは姿勢が違うだろ。
オリジナルなライターは読者の為だけに書い
てる訳じゃない。
自分が思考した足跡を止めておくためや、自
分が何処まで思考できるかが重要で、読者の
理解は二の次、三の次の場合も有り得る。
というか、それで十分だと俺は思う。 コナンの最終回を読むのと弔鐘の日本語訳を読むのは諦めてる
出る前に寿命がくる 本、ちょこちょこ読むくらいで正確ではないかもだけど、
脱構築はそれぞれが本読んだりいろいろやったりして、永劫回帰をしていくことで実現されんの? >>198
例えば、どこでどういう風に起こっているの? なんか昔の現代思想を紹介した文章でたまに「80年代は若者の間で「脱構築しゃうぞ!」なんて言葉が流行った」とかの
記述を見かけるけどウソだろ?
誰も言ってないだろ?
当時若者だった人がそんなこと言ってるの見たこともないんだが… でも実際スキゾやパラノは流行語みたいな感じだったんでしょ?『構造と力』が売れまくったり。
当時をよく知らない自分はそれすら信じられない。 聞いたら意外と昔を語ってくれるよ
ただのおっさんおばさんと思ってた人が過去に一瞬費した古えの時代の証言を語り出すのは面白い 西欧人にとっては自分の足元の聖書と古典学を研究することが脱構築なんだと思う 脱構築の2つのテーゼ
「脱構築は正義である」
「脱構築できないものは脱構築それ自体と正義である」 >>205
そういうところが限界だろうね。
龍樹の「空亦復空」は、仏教の空それ自体もまた空ぜられねばならない、というものだったから。
2世紀の頃には既に。 ドゥルーズはけっこう文庫になってるのにデリダは全然なのね
『散種』読んでみたいけどなかなかのお値段… グラマトロジー文庫企画失敗らしい現代思潮新社が小金稼ぎ奪われたくないからクソ訳手放さなかったもよう その話はリアルなリーク?
うわぁ…
グラマトロジーが文庫になったかもしれないのか
それも新訳で
ポシャったのは悲しい 通俗的なSF小説みたいなドゥルーズよりはまともだからな
しかし日本はドゥルーズ研究者はウジャウジャ居て、ドゥルーズ紹介/研究本も山のよう
デリダなんてこれっぱかしもない
だからこの国は駄目なんだ
もっと若い世代のデリディアン大量に出てこいよ >>212
テクストにおける構造の破壊と再構造化を示す試みは、メタ構造(言語)の中で行われており、結局のところ構造から逃れることはできない
人類の歴史において言語は変化しながら定着(ドゥルーズを意識して「土着」とでも言おうか)した
ラングにおける変化はラングそのものによってではなく、常にパロールによってつまり人間の介入によってなされた
脱構築もまた、その介入の一種であることはデリダ自身も認めるところであり、脱構築に特権的な地位を認める理由はどこにもない
変化が人間の介入によるのなら構造や記号に自律性があると言えるのか
以上から、デリダ研究は哲学史の枠の中にとどまらざるをえない >>212
自分で読んで見つけることも出来ないような奴が
他人任せで偉そうなことを言うな >>214
哲学史の中に留まるならそれは内在性の哲学だな
ドゥルーズは内在性の哲学を志向しながら結局は超越論=SFになってしまった >>214
ちょっと福嶋亮太を連想した。
けど、文字とか(構造や記号)をつくったのは、人間だよ。 ああけど、言語って、人間がつくった感じなのかな?
自然発生的なのかどうか、というか。
文字だったら、人間がつくったって言えそうだけど。 グラマトロジー読み終わったけど、ここまでルソーで(特に下巻)埋め尽くされてるとは思わなんだ
何か妙にルソーにシンパシーが湧いたので著作読んでみたくなった ただ自分の頭が悪いせいか、翻訳に由来するものかわからんが「それ」とかの
代名詞が何を指し示してるのかわかりづらく「それってどれだよ!」って箇所が結構あって苦戦した。 デリダは偉いけど、ヘブライ語はおろかギリシャ語もラテン語すらできない日本の哲学研究者って問題じゃない? 哲学とか文学の研究者って大昔に(近年のものでも)他人が書いた文章について朝から晩まで考え込んでて、そういうことに
神経すり減らして頭おかしくならないのかな
デリダは難解なテクストを読んで難解な思考をして自分でも難解なテクストを書く
しかしそこまで細密なテクストに価値はあるんだろうか
もし自分が書いたことが全て誤謬であったらどうするんだろうか
ただの言語の遊戯に過ぎなかったら >>227
いくらでも逆張りできるから正解はないし誤謬もない
真理は存在しない
そういう意味ではただのゲーム >>228
君の示唆に富まない14文字よりは多少は考えてるようだが おい
日本のデリダ研(や)ってる奴ら
自分がデリダを論じた本だのデリダ派のザコの翻訳だの出してる場合かよ
『Glas』の翻訳出せ
いい加減にせえよほんまに
巫山戯るのもいい加減にしろ
“遠回り” もほどほどにせえよ
“ゴミテクスト” は要らん
“本丸” を出せ
わかったかバカヤロウ 鵜飼哲にチェック入れてた浅田彰という体制がなくなったからねえ 鵜飼みたいなベテランじゃなくても若手の野心のある人がやってもいいのに
迂闊に手を出すと恥を掻くぐらい難解なテクストだから誰もやりたがらないんだろうか デリダぐらいの大哲学者の最高傑作と言われてる本の翻訳がこれだけ出ないうえハレモノのように誰も触れないのは何か事情があるのか
鵜飼が投げたから遠慮して誰も手を挙げられないとか
なら鵜飼先生に再着手をお願いしたい ネットで活動している脱構築研究会の人たちざっくばらんだから聞いたら教えてくれそう 『Glas』は国会図書館から遠隔複写で取り寄せたらいい
https://ndlonline.ndl.go.jp/#!/search?title=%E5%BC%94%E9%90%98&creator=%E9%B5%9C%E9%A3%BC&sort_issued=desc&searchCode=DETAIL
弔鐘(1) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 15) 1997.10 p.249〜234
弔鐘(2) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 16) 1998.01 p.297〜282
弔鐘(3) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 18) 1998.07 p.249〜232
弔鐘(4) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 19) 1998.10 p.269〜248
弔鐘 Glas(5) 雑誌記事 ジャック デリダ, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 20) 1999.01 p.269〜256
弔鐘(6) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 22) 1999.07 p.249〜232
弔鐘(7) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 23) 1999.10 p.285〜268
弔鐘(8) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 24) 2000.01 p.241〜232
弔鐘(9) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 訳 <Z23-B31>
掲載誌 批評空間. 2期 (通号 25) 2000.4 p.329〜308
弔鐘(第10回) 雑誌記事 Jacques Derrida, 鵜飼 哲 <Z71-F761>
掲載誌 批評空間. 第3期 (1) 2001 p.273〜256 鵜飼訳の『Glas』はデリダ関連の文献の中でも最高峰のもの 日本の凡百のデリダ学者の100のデリダ論より『Glas』と『La carte postale』の翻訳出せよ 三流学者の駄文なんて要らんよ
実地のテクストに当たるから > 法政大学出版局
> @hosei_up
> ・
> 10時間
> 【近刊】
>
> J.デリダ:著, 谷口 博史:訳
>
> 『エクリチュールと差異〈改訳版〉』
>
> 痕跡、差延、脱構築などの概念によって構造主義以後の哲学思想界を決定づけた名著。全面的に訳文を改訂、更に読みやすくなった新版。
3回目の邦訳 同じ日
哲学の余白 上・下 新装版 叢書・ウニベルシタス
ジャック・デリダ
発売日 : 2022年04月26日 ドゥルージアンはしばらく研究者に困らないけどデリダは人材ほぼいなくないですかね
翻訳出回ってないのが原因かと 翻訳書より、デリダ論の方が売れるから、翻訳者もやる気無くすよねwww 今ではみんな忘れているけど東浩紀ってデリダ論で世に出たんだよな
あの時期になんとかならなかったの デリダの著作の翻訳の問題点は原著者の奇をてらったライティングスタイルにあると思う。
それがデリダの作品の読みづらさに繋がってるんじゃないか?
かなりトリッキーな人。不倫で子供も作ってますしお寿司www 人柄のトリッキーさはさほどでもないのでは
フーコーみたいな怪人と比べれば普通の人 デリダもかつては最新、でも故人だから論に埋もれていく。特に知りたがり日本は、そういうの好きだし、売れる広告塔がないと学者の飯問題がある。しかも消費者は高齢者がボリュームゾーン。 流行らないほうが秘教感があるし己の(知的)エリート意識を満足させられるからいい
馬鹿には読んで欲しくない
ただあとは『Glas』の翻訳、『De la grammatologie』の新訳、『La carte postale』の翻訳の完成があれば⋯⋯ 「広告塔」というだけですよ。張り合うことはない。
デリダもフーコーも、もはや"語らない"わけです。 もちろん僕は知的エリートでもなんでもないですが、気分だけでも浸りたいということです
叢書・ウニベルシタス 1143
エクリチュールと差異〈改訳版〉
J.デリダ:著, 谷口 博史:訳
四六判 / 654ページ / 上製 / 価格 5,940円 (消費税 540円)
[2022年04月26日 刊行]
https://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-01143-6.html
発売日を「26日」としてるのは別ソースから。
叢書・ウニベルシタス 771
哲学の余白 上〈新装版〉
J.デリダ:著, 高橋 允昭:訳, 藤本 一勇:訳
四六判 / 384ページ / 上製 / 価格 4,400円 (消費税 400円)
[2022年04月26日 刊行]
https://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-14066-2.html
叢書・ウニベルシタス 772
哲学の余白 下〈新装版〉
J.デリダ:著, 藤本 一勇:訳
四六判 / 374ページ / 上製 / 価格 4,400円 (消費税 400円)
[2022年04月26日 刊行]
https://www.h-up.com/bd/isbn978-4-588-14067-9.html
発売日を「26日」としてるのは別ソースから。 >>258
了解です。自分も最近デリダ見直しましたが、もとはフーコー好きです。 ちなみに『余白 Marges』は「新装版」なので新訳ではなくカヴァーが変更になるだけでしょうねおそらく
近刊検索デルタ:触覚、
5月27日発売予定青土社
触覚、ジャン=リュック・ナンシーに触れる
ジャック・デリダ/著
定価:5,280円(4,800円+税)
判型:四六
内容紹介
現代思想も陥る西洋哲学史の罠
アリストテレスから現代にいたる哲学が、触覚の直接性に基づく「直感主義」の罠に陥る様を詳細に分析し、それを免れたナンシーの哲学の可能性を押し開く。現象学からドゥルーズを含むフランス現代思想全般を初めて批判的に論じ、その精神的背景としてのキリスト教=グローバリゼーションの脱構築を試みたデリダ晩年の哲学的主著。
https://honno.info/kkan/card.html?isbn=9784791774708 >>259
5月23日に延期
エクリチュールと差異〈改訳版〉 J.デリダ(著) - 法政大学出版局 | 版元ドットコム
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784588011436 >>260
こちらは変わらず4月26日
哲学の余白 上〈新装版〉 J.デリダ(著) - 法政大学出版局 | 版元ドットコム
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784588140662
哲学の余白 下〈新装版〉 J.デリダ(著) - 法政大学出版局 | 版元ドットコム
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784588140679 日本のデリダ派はインフレが進んでどんどん安っぽくなってない?
有象無象の哲学ジャーナリストばっかりって感じ 東浩紀なんかもそうだけど、博士号取ったらすぐ安易にデコンストリュクスィヨンを応用した社会批評家みたいになるからね
エッセイストみたいなのに
晦渋な作物は書かなくなる
ま、ドゥルーズ派も同じだけどね
最初の理論的主著となる本を出したらハウトゥー本や自己啓発本みたいなのしか書かなくなる
スターは大体こんな感じ 「悪い場所」ってやつだと思うわ
その点では中身がどうあれ理論構築を続けている柄谷は何歩かマシ 浅田はだから最初の1、2冊出して単著は出さなくなったんかな 課程博士とかいう安い博士号を乱発したからね
実力がないから評論家になる 絶版などで入手困難となった資料をパソコンやスマートフォンで
閲覧できるようにするサービスを国立国会図書館が5月19日から始めることになりました。
対象となるのは、国立国会図書館が所蔵し、すでに電子データ化された書籍や雑誌、論文など150万点余りです。
入手困難な絶版など パソコンやスマホで閲覧可能に 国会図書館
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20220430/amp/k10013606071000.html デリダは社会不適合者にとって都合の良い言い訳になってる
自己顕示欲の強い研究者にとっては本領発揮の場所だからね
だから、うじゃうじゃ出てくる 宮﨑裕助という人も、デリディヤンの中では間違いなく有名でスターなんだけど、入門書や自己啓発本の執筆依頼が来るほどアイドル性はないので(いい意味で地味)──今のところは──真面目にやってる印象 哲学徒が書いたハウツー本や人生指南の書のたぐいほど読みたくないものはない 出版社も新聞・テレビと同じマスメディアの一部なのかな?
外面というか見栄えが良くて派手な世間受けするお手軽な人ばっかりプロデュースしてる気がするんですけど。
まあ本が売れないと会社が潰れちゃうからしょうがないのかもしれないですが。 昔は「フランス現代思想ブーム」があったから難解な文章、言い換えれば変な文章が主にマイナー処の出版社から大量にリリースされていた
今はそういうリスクが冒せなくなったのでリーダブルな文章で書かれた本しか出せなくなった “思想界のそのまんま東” 東浩紀の文章も相当読み易さに特化している
デリディヤンなのに・・・・・・ ポストモダンってドイツ観念論やら現象学~構造主義の最低限の下地がないと
そもそもまず何を言ってるのかすら、さっぱりわからないはずなのに
あんなものが流行ったこと自体が信じられない。
そういう意味じゃ、まだ今の方が相対的には健全とすら思える。 東「あのこれさ、自民党は統一教会と関係しているからこのようなテロを招いたということを言った?もしかしたら」
安倍/自民党/統一教会擁護…
デリディヤンが右傾化しネトウヨになってしまうとは… その後もしばらくやり取りを続けた後、福島瑞穂氏が居なくなると同時に東浩紀氏が怒り気味に
「あのこれさ、自民党は統一教会と関係しているからこのようなテロを招いたということを言った?もしかしたら」
というようなコメントをしたところ、主演していた石戸諭氏や夏野剛氏らも福島氏の発言を批判するコメントを連発。 この期に及んで「統一教会がカルトかどうかなんて僕にはわからない」なんて空っとぼけるのは擁護するのと同じですよ あえて語るとすれば、黙示録的思想家と目されるデリダやベンヤミンにおける宗教性は一神教国家において
聖書のコミュニティが依然として政治的保守主義の陣営に分類されうることと切り離して考えることはできない 現代思想と聖書古典学を結びつけるような王道を歩む研究者はいないのか? 宮﨑裕助の「ここ数年来の懸案だった大物の訳書」って『弔鐘 Glas』じゃないよなあ 今「時間と自由」を読んでるけど、ベルクソンのいう“質”とか“持続”が
なんとなく差延に通ずるようなこと言ってるように思えた。
デリダってベルクソンに関してはなんか言及してるのかな。 たぶんほとんど言ってないんじゃないのかな
まとまった仕事は残してないはず まぁあまりデリダとは関連性なさそうよね
ただなんとなくベルクソンの「記憶」とエクリチュール、「持続」と差延が符合するように思えて
ドゥルーズの『差異と反復』読んだときもちょっと思ったんだけど
読むことのアレゴリー ポール・ド・マン(著/文) - 講談社 | 版元ドットコム
講談社学術文庫
読むことのアレゴリー
ポール・ド・マン(著/文), 土田 知則(翻訳)
発行:講談社
文庫判 576ページ
定価 2,000円+税
発売予定日 2022年12月15日
https://www.hanmoto.com/bd/isbn/9784065302279 >>292
yusuke miyazaki
@parages
長らく版元品切中だった、ポール・ド・マンの主著『読むことのアレゴリー』が12月に文庫化! しかも講談社学術文庫で!!
午後5:58 · 2022年10月18日·Twitter Web App
https://twitter.com/parages/status/1582294981108465664
.
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account) 最近はデリダをやって手っ取り早く名を上げようとする哲学ジャーナリストばっかりでつまらない 出版時に読んだんだよな
来年かなと思いながらはや15年か 白人至上主義の牙城たる白人ロック、白人映画、その支配下にある日本のポップ・ミュージック、日本の映画界を脱構築しない
日本のデリディヤンは腑抜け
彼らにとっては脱構築されたくない「美しき聖域」なのだろう 宮﨑裕助のはド・マン論(講演『記憶/回想 Mémoires』でしたか
高い本なので『郵便葉書II』とは発売月をずらす配慮が欲しかった(共に出版元は水声社) 一応広義でのデリダ派なので
「哲学のノーベル賞」柄谷行人がバーグルエン哲学・文化賞を受賞 アジア人初の快挙|Real Sound|リアルサウンド ブック
https://realsound.jp/book/2022/12/post-1205566.html
「哲学のノーベル賞」柄谷行人がバーグルエン哲学・文化賞を受賞 アジア人初の快挙(リアルサウンド) - Yahoo!ニュース
https://news.yahoo.co.jp/articles/94f9a948a1200829cadd1ff7ee824f244046b5fb 最近、中国が各国の左派知識人を金銭的に援助するための工作を行っている。
これは広い意味で世界与論工作の一部である。
斎藤幸平や柄谷行人の受賞もこうした中国による工作の一環である可能性がある。
賞の審査委員に中国(共産党)関係者がいればクロと考えるべきだ。 今日びはドゥルージヤンですら自分たちがやってることを「脱構築」と称するぐらいだからデリダ(派)の勝利なんですよ
日本ではデリダやってる人よりドゥルーズやってる人が圧倒的に多いけど、海外では逆なのでは?
ドゥルーズはさほど評価されてなくて、みんな「自分がやってるのは脱構築だ」と言うでしょ つか「批評空間」誌などにコミットしておられたりデリダ関連の書籍で名前を見かける方なので
脱構築建築をやっておられる人なのかと思ってましたが途中から(?)脱構築批判に転じられた(?)方なのですね 日本のデリディヤンは非デリダ的なリーダブルな文章を書く人しかいないな
東浩紀も、処女作『存在論的、郵便的』から既に「自分は非デリダ的な文体でしか書かない(書けない)」と予防線を張っている 小泉義之がTwitterで中・後期大江を否定してたけど、中・後期大江が読めない人=テクストが読めない人が
ドゥルーズをやっているというね
日本のドゥルージヤンはレヴェルが低いですなあ 《congé》≒「み(身)まか(罷)り」≒《con(≒「身」)gé(≒「罷り」)》である。 《congé》の"con-"は、この場合、例えば、日本語で出かけるときに「身(み)支度」をすると表現されるように、「身(み)」に対応する表現として用ゐられている。 >원하다
Verb
원하다 • (wonhada) (infinitive 원해 or 원하여, sequential 원하니, hanja 願하다)
to want (for), to hope (for) 「王(wang/ワン/ワニ)、湾/碗(wan/ワン)、もしくは環/輪(わ)の中空」としての「を(wo)」 >>315
水(みづ)が凍(こほ)って氷(こほり)としてみづから(身づ柄/自ら)が固(かた)まることが"congeal"であり、
凍/縛(しば)れて塊(かたまり)となったみづから(身づ柄/自ら)が解かれた様態となるのが《congé》である。 >D’autant que la discipline ordinaire d’un Estat qui est en sa santé, ne pourvoit pas à ces accidens extraordinaires : elle presuppose un corps qui se tient en ses principaux membres et offices, et un commun consentement à son observation et obeïssance. l’aller legitime est un aller froid, poisant et contraint, et n’est pas pour tenir bon à un aller licencieux et effrené.
(出典 fr.wikisource.org/wiki/Essais/Livre_I/Chapitre_23) 「甕」のことを「もたひ(毛太比)」と呼ぶ。
「もたひ」とは、「も(持)た・ふ」の名詞形であり、もはや言うまでもなく、「もた(≒《tenant》・ひ(≒《con-》)」、つまり、英語の"container"である。 こうして、誰にも感謝されないことを粛々と書込みつづける。 デリダのデコンストラクションが造船業界のデコンストラクション(解体)にヒントを
得たものではないかという気はする。船こそは古代の木造船時代から解体されて、部品は再利用されたり、
鉄船時代以降は部品の再利用や、鉄くずを再生させたりしてきた。
デリダはユダヤ系だが、ユダヤ人は地中海の船舶解体業の多分、主役だった。アメリカの船舶解体業の殆どは
ユダヤ系だ。造船はその船舶の将来のデコンストラクション解体が前提になっている。
デリダにおいてはデコンストラクションという用語の初出は1967年のグラマトロジーとされてるが、デリダは
何らかの運動の解体と再出発を考えていたのかも。それが1968年の新左翼運動の解体だった可能性はどうなのか? >>328
丹下健三はデコンストラクションの建築家に含められることはないが、彼が船のモチフを好んで使っていたことは
有名で、彼の建築デザインの図書館?だったかが、老朽化したのを再利用のアイデアを近年に公募していたことが
目を引く。この図書館のデザインも船に関係していた。 万葉集 第12巻 3081番
玉緒乎 片緒尓搓而 緒乎弱弥 乱時尓 不戀有目八方
玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも
たまのをを かたをによりて ををよわみ みだるるときに こひずあらめやも
万葉集 第7巻 1316番
河内女之 手染之絲乎 絡反 片絲尓雖有 将絶跡念也
河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや
かふちめの てそめのいとを くりかへし かたいとにあれど たえむとおもへや
万葉集 第11巻 2791番
片絲用 貫有玉之 緒乎弱 乱哉為南 人之可知
片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく
かたいともち ぬきたるたまの ををよわみ みだれやしなむ ひとのしるべく
(出典 万葉集ナビ)
>consertare
伊和中辞典 2版の解説
1 ⸨稀⸩組み合わせる, 交錯させる.
2 ⸨古⸩確かめる.
>あざな・う〔あざなふ〕【▽糾う】
糸をより合わせる。縄をなう。絡ませるようにして交え合わせる。「禍福は―・える縄のごとし」
[類語]縒る・綯う・縒り合わせる・縒りを掛ける・捻る
(出典 デジタル大辞泉) な(汝/己)というかた(片)を(緒/乎)/いと(糸)、つまり、かた(片)み(身)に「『絲』を『を(惜)しむ』存在者」として物象化されて意識される(すなはち、メタ意識において言語化されて捉へられる)意識の働きは、あざな(糾)はれることによ(依/縒)りつくろ(繕)はれる。
>consertar
Etymology
From Old Galician-Portuguese [Term?], from Vulgar Latin *cōnsertāre, a frequentative verb formed from Latin cōnsertus, perfect passive participle of cōnserō (“fasten, connect, join, bind”).
Verb
to fix, to repair
Synonyms: arrumar, reparar.
(出典 en.wiktionary.org/wiki/consertar)
>consertar
❶ 修理する
❷ 繕う
❸ 正す,直す;整える
(出典 プログレッシブ ポルトガル語辞典) 「な(汝/己)のいとを(惜)しさ」を詠んだ歌には、男性が女性の立場を借りて詠んだものや、男性として歌を詠みながらも、自身に向けての女性の立場を詠み込んだものが少なくない。
その場合、な(汝/己)を(片)み(身)に思ふ心は、男性の「ををしさ」が「否応なし」であることが分かっていることを示しながらも、その「ををしさ」をうら(裏/心)から支えるように補完するものとしても、ただそのままに受け容れることができるものとしても意識されてはいない。
むしろ、その「な(汝/己)のいとを(惜)しさ」は、男性の「ををしさ」とは、原理的に相容れないものとして認識されていることをはっきりと示しており、「ををしさ」が否応なしのものであるとしても、それを優先することが好ましいとはされていない。
では、男性に求められる「ををしさ」への一元化を実際に働きかけているのは、一体だれなのか、どのうような言説なのかと問ふことになるだろう。
現代に流通している言論においてどのような言説がそれを実際に働きかけているのかを考へてみるなら、一見したところ意外に感じられる答へに行き当たることになるだろうと私は思ふ。 なつ山の 峰のこずゑし 高ければ 空にぞせみの 声も聞こゆる
(出典 新潮日本古典集成、『和漢朗詠集』、p.79)
ことばの表現を解釈するのに、手がかりとなるこゑ(声)の使はれ方の対応関係を無視してはならないだろう。
私には、この「強調の助詞」とされる日本語の古語の「し」の用法は、明らかに中国語の「是」に対応しているように見え、また、岩波古語辞典の「基本助詞解説」に記載される「し」の解釈は、理路がまったく不明であるように思える。
>し 精選版 日本国語大辞典 「し」の意味・読み・例文・類語
[1] 〘副助〙 指示して強調する。
(kotobank.jp/word/し-515145) 漢字表記の文字化けとして表示される記号列をそのまま書き込み欄にコピペすると、元の漢字表記に戻るんだね。 >这「し」是不是「是」
私は、中国語の学習者ではないが、このように意識してみることは、私が中国語を学習する手がかりとして役立つ。
「私に役立つのだから、他の人々にも役立つはずである。」
かつて対象として扱っていた課題は、これとはまったく別のものであったが、私はそのように考えて、自分が気づいたことを他人に伝へようとすることが常だった。
しかし、その頃には、まだ私が大きな勘違いをしていることに気づかなかった。
それは、私が、「他人にも役立つことを伝へたなら、その行為は、他人から肯定的に評価され、報酬を与えられることがないとしても、少なくとも感謝されるはずだ」と思い込んでいたことである。
ところが、私が伝へることが、実際に役立つか否かにかかわらず、そのような行為は、ほぼ確実に、無視されるか、罰せられるか、報復行為の対象となるかのいずれかなのだ。
私は、愚かだったので、長い間、そのことを、「自分がどのようにか誤解されているのだ」と信じ、そのように自分を無理に説得しようとしていた。
それなりに長い経験を経て気づかされることになったのは、私の方が大きな誤解をしていたということである。
とはいえ、私は、反省して行ひを改めるようになったわけではなく、報復行為によって私自身にもたらされ得る実害には注意しながらも、減らず口を叩くことをやめようとは思わないのだ。 >>336
お前が俺の327,328の画期的なレスを流すために下らんレスをしたのは分る。
俺はデリダのdeconstructionが脱構築でなくて解体であることを主張し、
東大の由良君美の「deconstruction=脱構築」の和訳の馬鹿馬鹿しさを明らかにした。
デリダのdeconstruction=解体でなければ、人間中心主義を超えた現代のエコロジーに繋がらない。 「口臭がどうたら」とかでマジになってるとか発狂したのか東浩紀は
気持ち悪すぎる