西田幾多郎を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
今こそ西田幾多郎が読まれるべきときではないか
彼の哲学には今の行き詰った社会を打破する力が秘められている気がしてならないのだ 主客同一だとか純粋経験だとか言ってるけど、
要は世界統一へと向かってるようなものだよね。西田の言説は。 西田幾多郎の「純粋経験」という論理は、西田本人が考えている以上に重要な論理ではないかと思う。
と言うのは、西田自身は「純粋経験」から主客の分離などの論理展開を試みているように、あまり重要度を
持っていない。それは何故かというと、「純粋経験」という認識が、普段行っている「禅」によって日常的捉えられて
いたところにある。だから、西田自身も日常的(=非本来性)次元で「純粋経験」を捉えていると思いこんでいたのであろう。
しかし、この「純粋経験」こそ“本来的な次元”で捉えられるものであり、存在の本質として基礎づけられるものであると
考えられる。従って、「純粋経験(=合一化)」の概念と、「主客分離(=差異化)」の概念として、共に“存在の本質”として
論理展開するのが、本来の方向性であると思う。 純粋経験を馬鹿にでも解るように口語で説明していただきたく候
最近この種の本を読み始めてそれに関してなんとなく分かった気がしますが
だからどうした?
それが何で重要なんだ?という気がしてます。
分かったつもりなだけで誤解してる気もするのでお願いします 根源的思考に触れられるから。
何を以って根源的と言えるかはわからないけど。 根源的思考に触れておかないと
自分の場合吹けば飛ぶような存在だから人生上の試練として哲学書の読書経験を積みたくなる。 四高教師時代のおしゃれっぷりに吹いたw
哲学者はそんな事に無関心な印象だったんでな 「絶対矛盾的自己同一」を読んで、
西田幾多郎は我々が住む世界に対して戦闘的で英雄的なことを考えているな
と思った。 京都学派総合スレッドとして立てるべきだったかもしれんな。 >>14
同時代で京都学派に含まれない人達の中にも重要なものがあるから、
その辺りを合わせて一つにまとめるのもいいかもしれない。
京都学派から、明治〜戦前の近代日本哲学を扱うもの。 京都学派・近代日本哲学総合スレを立てみた。
このスレはこのまま使えばいいと思う。 純粋経験とは何か?
オトナの予断と偏見が抜けたコドモの純粋無垢な経験のことなのか。 西田幾多郎が不立文字を論理化して無の論理と場所の論理を抽出したのはすごいことなんだよな。 西田つまんねーな……と思ってけど意外に面白く感じてきた
やっぱ日本語が原著だと本人の考えが直に分かっていいな 西田幾多郎全集は新旧2種類ある。
・新版『西田幾多郎全集』全24巻(2002-2009)…新字体・新仮名遣い
・旧版『西田幾多郎全集』全19巻(1978-1980)…旧字体・旧仮名遣い 新版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第2巻〉自覚に於ける直観と反省・意識の問題
西田幾多郎全集〈第3巻〉芸術と道徳 働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第4巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第5巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第6巻〉哲学の根本問題(正・続)
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学論文第一、続・思索と体験
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集第二・哲学論文集第三
西田幾多郎全集〈第9巻〉日本文化の問題・哲学論文集第四・哲学論文集第五
西田幾多郎全集〈第10巻〉哲学論文集第六・哲学論文集第七・「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第11巻〉小篇ほか
西田幾多郎全集〈第13巻〉講演2・講演小篇
西田幾多郎全集〈第14巻〉講義記録
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義ノート
西田幾多郎全集〈第16巻〉断章・研究ノート
西田幾多郎全集〈第17巻〉日記1
西田幾多郎全集〈第18巻〉日記2
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡1
西田幾多郎全集〈第20巻〉書簡2
西田幾多郎全集〈第21巻〉書簡3
西田幾多郎全集〈第22巻〉書簡4
西田幾多郎全集〈第23巻〉書簡5
西田幾多郎全集〈第24巻〉対談・索引ほか 旧版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第3巻〉意識の問題,芸術と道徳
西田幾多郎全集〈第4巻〉働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第5巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第6巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学の根本問題・哲学の根本問題
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第9巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第11巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第12巻〉続思索と体験,「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義 哲学概論.宗教学
西田幾多郎全集〈第16巻〉初期草稿
西田幾多郎全集〈第14巻〉講演筆記
西田幾多郎全集〈第18巻〉書簡集
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡集 西田幾多郎 『善の研究』各版
(1)『善の研究』ワイド版岩波文庫〔改版〕(2012)、(解説=藤田正勝)(ルビあり、活字が新しい)
(2)『善の研究』ワイド版岩波文庫 (1991)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(3)『善の研究』岩波文庫 (1979)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(4)『善の研究』(全注釈:小坂国継)講談社学術文庫 (2006)、(ルビ多い、新字体・現代仮名遣い)
(5)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔新版〕、岩波書店 (2003)、(ルビなし)
(6)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔旧版〕、岩波書店 (1978)、(旧字体・旧仮名遣い)
“真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。
主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する
根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。
東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、
以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。”
新字体・現代仮名遣い 4 > 1 = 2 = 3 > 5 > 6 旧字体・旧仮名遣い
・岩波版の中で読みやすいのは1。各国語版の紹介などもある
・4は古い文献の読みにくさを解消し、現象学的観点からの解説もある
タイトルは元々『純粋経験と実在』というものだったが、出版社(弘道館)の意向から『善の研究』となった。 “経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、
毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、
我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、
この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。
自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。
これが経験の最醇(=最もまじりけがなく純粋なこと)なるものである。”
― 西田幾多郎 『善の研究』 第一編 第一章 (小坂版) 西田が影響を受けた純粋経験については、ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』を併せて読むといい。 やっぱ、妖怪をこれほど親近感を持てる存在として浸透させた功績はでかすぎる 35.
知識とその対象とが全く合一している、か。
それは人間と対象との問題である。
それは人間学である。
宗教は人間学ではない。 >>31
×新字体・新仮名遣い
○新字体・旧仮名遣い
主要な作品の一部は、
上田閑照編 『西田幾多郎哲学論集』 (岩波文庫)でも読める。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp182_1.html
・場所
・働くのものから見るものへ(序)
・無の自覚的限定(序)
・叡知的世界
・行為的直観
など とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
6SSHH 多くの西田論って前期か中期か後期のどれかに注力しすぎていて、トータルにバランスの良い西田論は少ない気がする
なにかオススメある? “純粋経験(主客未分化)”と“逆限定”の関係が西田哲学で最も重要な論理でしょう。 最新の西田像を読む2冊
(1)小泉義之×檜垣立哉 「西田から「哲学」を再開するために」 『西田幾多郎 KAWADE道の手帖』 (2005)
(2)檜垣立哉 『西田幾多郎の生命哲学:ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』 (2005)
最もモダンな読みをしているのは檜垣と小泉。
二人は西田の数理哲学的側面を軸にして、ベルグソンやドゥルーズに通じる生の哲学として紹介している。
檜垣は、高校時代の数学の教師が西田の孫だったという。
1も2も西田の主要な論稿を通じて、鍵概念と思想の変遷を追う内容。
1には、京都学派の理系を代表する下村寅太郎の「西田哲学における弁証法的世界の数学的構造」を収録。 西田はとりあえずプラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カント、ヘーゲル、フッサール、ジェイムズ、ベルクソンあたりを読んでおけばなんとかなる
スピノザを読み込んでると対比出来ていい感じ
元気のある人はホワイトヘッドも読んでおくとなお良い 実際はもっと他にも読んでおくといい思想家はいるんだろうけど(シェリングとか)
さすがに全部追ってたらキリがないしね
しょうがないね あと付け加えるとしたらプロティノスとアウグスティヌスとライプニッツとキルケゴールあたりか 日本の哲学者って、言語によって語られてる非言語的対象にばかり関心を示し、
いままに思索がそれによって立ち上がってるところの言語には無頓着だよね
超越論的というのは、自分の言語を意識するということだ
日本における哲学は実学でしかない
言語という純粋経験が必要だ 全体的一の部分
それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755_53374.html
この「一」の読みは「いち」でいいのかな
それとも「いつ」なのかな 「一(いつ)」とか「有(う)」とか、独学で哲学書を読んでるだけだと意外と読めないよね 辞書では確かに哲学用語で「う」とあるな
これは読めんわ もっと基本だけど、「本性(ほんせい)」も独学だけだと「ほんしょう」と読みがち >>46
全員西田より上の哲学者じゃんw
それら読んだから西田には帰ってこれなくなるw 「場所的論理と宗教的世界観」を読んでいるんだが、「内在的超越」と「超越的内在」ってどう違うんだ? 人の内面にある超越的なもの、すなわち宗教的なもの
と
超越的な内面を持つ人、すなわち聖人
と読むだろうな。俺だったら。
専門じゃないのに出しゃばると。 >>63
明確に格上言えるのはプラトン、アリストテレス、カントくらいだろ 東洋の土人にも哲学ができるということを示しただけなのに
格上も格下もない 数学はある証明や数式によって何が可能となったのかという基準で考えることができるが
哲学というのは比較できるようなものがないな お前みたいなまともな文も書けないようなのにアホと言われる筋合いのある学者はさすがにおらんだろう ブーバーもアフォだよ。敵少ない人が短絡的な哲学書書くんじゃないの? 哲学の道なんて歩いている人しか見なかったしスカスカだろうね。
手賀沼のリッジウッドのレコードのほうが。 世代トップだったのに。飛びがでてて、ひかりが走ってた。 「善の研究」西田幾多郎
西田の存在論は朱子学の「理」だ。
西田は、自由意志を否定した。心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。 智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。
意思は、快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
人の意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 社会制度に適合させるためには単純な算数でもなんでも数値化できないことにゃ話にならん
個々人の気分次第で政治が成り立つか 西田は最初どうでもよかったけど段々その仕事が有り難くなってきた
日本に、かつ個人に固有のものを残してくれて素晴らしいと感じるように 100分de名著 西田幾多郎“善の研究”[新]
第1回「生きることの“問い”」[解][字]
認識する主体/認識される対象という西洋哲学の二元論を乗り越えるために
「愛」という独自の概念を用いて「知」のあり方を根本から問い直す
西田幾多郎の哲学の根本に迫る。 さっきNHKの「100分 de 名著 西田幾多郎『善の研究』」を見て感動した
日本にもこんな大物が、正真正銘本物の哲学者が居たんだと知って
確かに自我が破壊し尽くされた時には、自分は全てと融合して
全てが「私」であり「愛」であるという“本当の自己”に目覚める
そんな神秘体験をしたことがある私は、西田が言っていることが本当によく理解できた 『善の研究』 を聴け
https://stories.audible.com/pdp/B07RBNVDNY
善の研究
Written By: 西田 幾多郎 Narrated by: 佐田 直啓 Length: 7hrs 26mins 主語を失えば判断という如きものは成立しない、すべてが純述語的となる。
「場所」 主語面における自己同一と、述語面における自己同一とは違う、ということがわかれば、西田の場所論の解読も近いと思う。 述語面はやわらかく主語面を包んでゆくイメージさえもてれば、西田の場所論は難しくもなんともない。 句点をうたず、読点をもって、突き進んでゆく様からして、自動書記的に一気呵成にやりとげている感はあり、それはそれで詩的でもあるのだが、悪文であるのは確かだろう。 「場所」
唯それ自身によって成立する一つの全きもの 限定せられた有の場所から見れば、主語となって述語とならない基体は、何処までもこの場所を超越したものであり、無限に働くものともみられるであろう。
しかし、意識するということは無の場所に映すことであり、この場所から見れば、逆に内面的なる意志の連続に過ぎない。
限定せられた有の意義を脱しない希臘哲学の形相より出立すれば、何処までも質量を形相化し遂に純なる形相に到達するも、なお質料が真に無となったのではない、唯極微的霊に達したままである、質料はなお動くものとして残っている。
真の無の場所においては、一から一を減じた真の無が見られねばならぬ。
此において我々は始めて真に形相を包む一者の立場に達したといい得る、極微的質料もその発展性を失い、真に作用を見るということができる。
「場所」 ポイントとなる箇所をみなのために示しておこう。
「場所」
意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面であって、斯く包み込まれた主語面が対立なき対立となり、その余地が意味の世界となる。
この故に感覚的なものすらいつも意味の縁暈(えんうん)を以て囲繞せられ、思惟的なるものの中心にはいつでも直覚的なものがある。 中期西田哲学のポイントとなる箇所をみなのために示しておこう。
「場所」
普通には始から主客を対立的に考え、知るということは主観が客観に働くこととと考えるが故に、
対立なき対象というものが主観の外に考えられ、概念的なるもののみ主観に於てあると考えられるのであるが、いわゆる一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、
意味とはこれによって起されるその意識面の種々なる変化である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています