西田幾多郎を語るスレ [無断転載禁止]©2ch.net
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今こそ西田幾多郎が読まれるべきときではないか
彼の哲学には今の行き詰った社会を打破する力が秘められている気がしてならないのだ 主客同一だとか純粋経験だとか言ってるけど、
要は世界統一へと向かってるようなものだよね。西田の言説は。 西田幾多郎の「純粋経験」という論理は、西田本人が考えている以上に重要な論理ではないかと思う。
と言うのは、西田自身は「純粋経験」から主客の分離などの論理展開を試みているように、あまり重要度を
持っていない。それは何故かというと、「純粋経験」という認識が、普段行っている「禅」によって日常的捉えられて
いたところにある。だから、西田自身も日常的(=非本来性)次元で「純粋経験」を捉えていると思いこんでいたのであろう。
しかし、この「純粋経験」こそ“本来的な次元”で捉えられるものであり、存在の本質として基礎づけられるものであると
考えられる。従って、「純粋経験(=合一化)」の概念と、「主客分離(=差異化)」の概念として、共に“存在の本質”として
論理展開するのが、本来の方向性であると思う。 純粋経験を馬鹿にでも解るように口語で説明していただきたく候
最近この種の本を読み始めてそれに関してなんとなく分かった気がしますが
だからどうした?
それが何で重要なんだ?という気がしてます。
分かったつもりなだけで誤解してる気もするのでお願いします 根源的思考に触れられるから。
何を以って根源的と言えるかはわからないけど。 根源的思考に触れておかないと
自分の場合吹けば飛ぶような存在だから人生上の試練として哲学書の読書経験を積みたくなる。 四高教師時代のおしゃれっぷりに吹いたw
哲学者はそんな事に無関心な印象だったんでな 「絶対矛盾的自己同一」を読んで、
西田幾多郎は我々が住む世界に対して戦闘的で英雄的なことを考えているな
と思った。 京都学派総合スレッドとして立てるべきだったかもしれんな。 >>14
同時代で京都学派に含まれない人達の中にも重要なものがあるから、
その辺りを合わせて一つにまとめるのもいいかもしれない。
京都学派から、明治〜戦前の近代日本哲学を扱うもの。 京都学派・近代日本哲学総合スレを立てみた。
このスレはこのまま使えばいいと思う。 純粋経験とは何か?
オトナの予断と偏見が抜けたコドモの純粋無垢な経験のことなのか。 西田幾多郎が不立文字を論理化して無の論理と場所の論理を抽出したのはすごいことなんだよな。 西田つまんねーな……と思ってけど意外に面白く感じてきた
やっぱ日本語が原著だと本人の考えが直に分かっていいな 西田幾多郎全集は新旧2種類ある。
・新版『西田幾多郎全集』全24巻(2002-2009)…新字体・新仮名遣い
・旧版『西田幾多郎全集』全19巻(1978-1980)…旧字体・旧仮名遣い 新版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第2巻〉自覚に於ける直観と反省・意識の問題
西田幾多郎全集〈第3巻〉芸術と道徳 働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第4巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第5巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第6巻〉哲学の根本問題(正・続)
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学論文第一、続・思索と体験
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集第二・哲学論文集第三
西田幾多郎全集〈第9巻〉日本文化の問題・哲学論文集第四・哲学論文集第五
西田幾多郎全集〈第10巻〉哲学論文集第六・哲学論文集第七・「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第11巻〉小篇ほか
西田幾多郎全集〈第13巻〉講演2・講演小篇
西田幾多郎全集〈第14巻〉講義記録
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義ノート
西田幾多郎全集〈第16巻〉断章・研究ノート
西田幾多郎全集〈第17巻〉日記1
西田幾多郎全集〈第18巻〉日記2
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡1
西田幾多郎全集〈第20巻〉書簡2
西田幾多郎全集〈第21巻〉書簡3
西田幾多郎全集〈第22巻〉書簡4
西田幾多郎全集〈第23巻〉書簡5
西田幾多郎全集〈第24巻〉対談・索引ほか 旧版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第3巻〉意識の問題,芸術と道徳
西田幾多郎全集〈第4巻〉働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第5巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第6巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学の根本問題・哲学の根本問題
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第9巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第11巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第12巻〉続思索と体験,「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義 哲学概論.宗教学
西田幾多郎全集〈第16巻〉初期草稿
西田幾多郎全集〈第14巻〉講演筆記
西田幾多郎全集〈第18巻〉書簡集
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡集 西田幾多郎 『善の研究』各版
(1)『善の研究』ワイド版岩波文庫〔改版〕(2012)、(解説=藤田正勝)(ルビあり、活字が新しい)
(2)『善の研究』ワイド版岩波文庫 (1991)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(3)『善の研究』岩波文庫 (1979)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(4)『善の研究』(全注釈:小坂国継)講談社学術文庫 (2006)、(ルビ多い、新字体・現代仮名遣い)
(5)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔新版〕、岩波書店 (2003)、(ルビなし)
(6)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔旧版〕、岩波書店 (1978)、(旧字体・旧仮名遣い)
“真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。
主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する
根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。
東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、
以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。”
新字体・現代仮名遣い 4 > 1 = 2 = 3 > 5 > 6 旧字体・旧仮名遣い
・岩波版の中で読みやすいのは1。各国語版の紹介などもある
・4は古い文献の読みにくさを解消し、現象学的観点からの解説もある
タイトルは元々『純粋経験と実在』というものだったが、出版社(弘道館)の意向から『善の研究』となった。 “経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、
毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、
我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、
この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。
自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。
これが経験の最醇(=最もまじりけがなく純粋なこと)なるものである。”
― 西田幾多郎 『善の研究』 第一編 第一章 (小坂版) 西田が影響を受けた純粋経験については、ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』を併せて読むといい。 やっぱ、妖怪をこれほど親近感を持てる存在として浸透させた功績はでかすぎる 35.
知識とその対象とが全く合一している、か。
それは人間と対象との問題である。
それは人間学である。
宗教は人間学ではない。 >>31
×新字体・新仮名遣い
○新字体・旧仮名遣い
主要な作品の一部は、
上田閑照編 『西田幾多郎哲学論集』 (岩波文庫)でも読める。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp182_1.html
・場所
・働くのものから見るものへ(序)
・無の自覚的限定(序)
・叡知的世界
・行為的直観
など とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
6SSHH 多くの西田論って前期か中期か後期のどれかに注力しすぎていて、トータルにバランスの良い西田論は少ない気がする
なにかオススメある? “純粋経験(主客未分化)”と“逆限定”の関係が西田哲学で最も重要な論理でしょう。 最新の西田像を読む2冊
(1)小泉義之×檜垣立哉 「西田から「哲学」を再開するために」 『西田幾多郎 KAWADE道の手帖』 (2005)
(2)檜垣立哉 『西田幾多郎の生命哲学:ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』 (2005)
最もモダンな読みをしているのは檜垣と小泉。
二人は西田の数理哲学的側面を軸にして、ベルグソンやドゥルーズに通じる生の哲学として紹介している。
檜垣は、高校時代の数学の教師が西田の孫だったという。
1も2も西田の主要な論稿を通じて、鍵概念と思想の変遷を追う内容。
1には、京都学派の理系を代表する下村寅太郎の「西田哲学における弁証法的世界の数学的構造」を収録。 西田はとりあえずプラトン、アリストテレス、デカルト、スピノザ、ロック、ヒューム、カント、ヘーゲル、フッサール、ジェイムズ、ベルクソンあたりを読んでおけばなんとかなる
スピノザを読み込んでると対比出来ていい感じ
元気のある人はホワイトヘッドも読んでおくとなお良い 実際はもっと他にも読んでおくといい思想家はいるんだろうけど(シェリングとか)
さすがに全部追ってたらキリがないしね
しょうがないね あと付け加えるとしたらプロティノスとアウグスティヌスとライプニッツとキルケゴールあたりか 日本の哲学者って、言語によって語られてる非言語的対象にばかり関心を示し、
いままに思索がそれによって立ち上がってるところの言語には無頓着だよね
超越論的というのは、自分の言語を意識するということだ
日本における哲学は実学でしかない
言語という純粋経験が必要だ 全体的一の部分
それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない
https://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755_53374.html
この「一」の読みは「いち」でいいのかな
それとも「いつ」なのかな 「一(いつ)」とか「有(う)」とか、独学で哲学書を読んでるだけだと意外と読めないよね 辞書では確かに哲学用語で「う」とあるな
これは読めんわ もっと基本だけど、「本性(ほんせい)」も独学だけだと「ほんしょう」と読みがち >>46
全員西田より上の哲学者じゃんw
それら読んだから西田には帰ってこれなくなるw 「場所的論理と宗教的世界観」を読んでいるんだが、「内在的超越」と「超越的内在」ってどう違うんだ? 人の内面にある超越的なもの、すなわち宗教的なもの
と
超越的な内面を持つ人、すなわち聖人
と読むだろうな。俺だったら。
専門じゃないのに出しゃばると。 >>63
明確に格上言えるのはプラトン、アリストテレス、カントくらいだろ 東洋の土人にも哲学ができるということを示しただけなのに
格上も格下もない 数学はある証明や数式によって何が可能となったのかという基準で考えることができるが
哲学というのは比較できるようなものがないな お前みたいなまともな文も書けないようなのにアホと言われる筋合いのある学者はさすがにおらんだろう ブーバーもアフォだよ。敵少ない人が短絡的な哲学書書くんじゃないの? 哲学の道なんて歩いている人しか見なかったしスカスカだろうね。
手賀沼のリッジウッドのレコードのほうが。 世代トップだったのに。飛びがでてて、ひかりが走ってた。 「善の研究」西田幾多郎
西田の存在論は朱子学の「理」だ。
西田は、自由意志を否定した。心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。 智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。
意思は、快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
人の意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 社会制度に適合させるためには単純な算数でもなんでも数値化できないことにゃ話にならん
個々人の気分次第で政治が成り立つか 西田は最初どうでもよかったけど段々その仕事が有り難くなってきた
日本に、かつ個人に固有のものを残してくれて素晴らしいと感じるように 100分de名著 西田幾多郎“善の研究”[新]
第1回「生きることの“問い”」[解][字]
認識する主体/認識される対象という西洋哲学の二元論を乗り越えるために
「愛」という独自の概念を用いて「知」のあり方を根本から問い直す
西田幾多郎の哲学の根本に迫る。 さっきNHKの「100分 de 名著 西田幾多郎『善の研究』」を見て感動した
日本にもこんな大物が、正真正銘本物の哲学者が居たんだと知って
確かに自我が破壊し尽くされた時には、自分は全てと融合して
全てが「私」であり「愛」であるという“本当の自己”に目覚める
そんな神秘体験をしたことがある私は、西田が言っていることが本当によく理解できた 『善の研究』 を聴け
https://stories.audible.com/pdp/B07RBNVDNY
善の研究
Written By: 西田 幾多郎 Narrated by: 佐田 直啓 Length: 7hrs 26mins 主語を失えば判断という如きものは成立しない、すべてが純述語的となる。
「場所」 主語面における自己同一と、述語面における自己同一とは違う、ということがわかれば、西田の場所論の解読も近いと思う。 述語面はやわらかく主語面を包んでゆくイメージさえもてれば、西田の場所論は難しくもなんともない。 句点をうたず、読点をもって、突き進んでゆく様からして、自動書記的に一気呵成にやりとげている感はあり、それはそれで詩的でもあるのだが、悪文であるのは確かだろう。 「場所」
唯それ自身によって成立する一つの全きもの 限定せられた有の場所から見れば、主語となって述語とならない基体は、何処までもこの場所を超越したものであり、無限に働くものともみられるであろう。
しかし、意識するということは無の場所に映すことであり、この場所から見れば、逆に内面的なる意志の連続に過ぎない。
限定せられた有の意義を脱しない希臘哲学の形相より出立すれば、何処までも質量を形相化し遂に純なる形相に到達するも、なお質料が真に無となったのではない、唯極微的霊に達したままである、質料はなお動くものとして残っている。
真の無の場所においては、一から一を減じた真の無が見られねばならぬ。
此において我々は始めて真に形相を包む一者の立場に達したといい得る、極微的質料もその発展性を失い、真に作用を見るということができる。
「場所」 ポイントとなる箇所をみなのために示しておこう。
「場所」
意識面というのは判断の主語を包み込んだ述語面であって、斯く包み込まれた主語面が対立なき対立となり、その余地が意味の世界となる。
この故に感覚的なものすらいつも意味の縁暈(えんうん)を以て囲繞せられ、思惟的なるものの中心にはいつでも直覚的なものがある。 中期西田哲学のポイントとなる箇所をみなのために示しておこう。
「場所」
普通には始から主客を対立的に考え、知るということは主観が客観に働くこととと考えるが故に、
対立なき対象というものが主観の外に考えられ、概念的なるもののみ主観に於てあると考えられるのであるが、いわゆる一般概念とは直覚的なるものの意識面における輪郭であり、
意味とはこれによって起されるその意識面の種々なる変化である。 さらに、ポイント。
「場所」
主語面を越えて述語面が広がるという時、我々は判断意識を超越するといわねばならぬ、
主語を失えば判断という如きものは成立しない、すべてが純述語的となる、
主語的統一たる本体という如きものは消失してすべて本体なきものとなる。
此の如き述語面において意志の意識が成立するのである。
判断の立場のみ固執する人には、此の如き述語面を認めることはできないであろう。 もうこれでわかるだろう。
「場所」
対立的無の場所は限定せられた場所として、なお主語的意味を脱することができないから、
すべて超越的なるものを内に包摂することはできぬ、真に直観的なるものはかかる場所をも越えたものでなければならぬ。
いわゆる意識面を破って真の無の場所に於てあるのである。
真に直観的なるものとしては、感覚的なるものは芸術的対象でなければならぬ。
場所が無となるに従って対立的対象は無対立的対象の中に吸収せられて、対象は意味に充ちたものとなる。
此の如き直ちに直観の場所即ち真の無の場所に於てあるものがいわゆる意識の場所、即ち対立的無の場所に於て見られる時、
それが無限に働くものとなる。 西田幾多郎の神髄を目の当たりにすれば、それ以降、日本には哲学しゃなど存在しないといっても過言ではない。
廣松渉はまだマシだけど。 ほとんどの解説書は、この西田における主語面と述語面についてよくわかっていない。縁暈というものはかさぶたのごとき境界線であって、一般概念つまり一般者に関する概念、それは普遍といってもよいが、その一般概念とは輪郭なんだということ。
ここに触れている解説書はない。
池田信夫とかいう馬鹿が、西田は悪文で、よくわからないところもある、なんて言ってたけど、読めてないだけである。 「場所」テクストを舐め回す。
有の場所が真に無の場所に於てある時、我々は純なる作用の世界を見る、普通に意識の世界と考えられるものは此の如き世界を意味している。
しかし此の如き世界は、なお内在的対象界として概念的に限定せられた一つの対象界たるを免れない。
内在的対象と考えられるものは無を以て縁附けられた有の場所である、
あるいは対立的無によって限定せられた真の無の場所である。
真の無の場所はなおこれよち深きものでなければならぬ、なおこれを越えて広がるものでなければならぬ、
かかる場所もこれに於てあるものでなければならぬ。 是(ここ)において我々は初めて意志の世界を見るのである。
知識的対象としては有と無との合一以上に出ることはできない、主語と述語との合一に到って意識はその極限に到達する。
しかしかかる合一を意識する時、かかる合一が於てある場所がなければならぬ。
同一の裏面に相異を含み、相異の裏面に同一を含むというのは此の如き場所に於てでなければならぬ。
有と無と合一して転化となると考えられる時、転化を見るもの、転化が於てある場所がなければならぬ。
「場所」 「場所」五章にあるように、知覚、思惟、意志、直観というものは厳密に区別されなければならない。
その区別の明証性をわがものとしない限り、西田哲学を精確に理解することはまずできない。 405糖質ですが2020/04/27(月) 19:13:59.14ID:TsqyYauC
西田幾多郎という人物は、おそらく私の祖母・香淳皇后(遊佐道子)のペンネームだと思われるが、
昭和天皇の命を狙う連中を、「日本軍は日本人の命を守るためにあるもの」とする統制派と、
「天皇の命を守るためにある」とする皇道派の対立から、「検察ファッショ」という形で皇道派に味方した平沼騏一郎に、
「感謝の意を込めて」書かれたのが「善の研究」であり、娘が生まれた後にも「平沼が座禅をやるたびに娘が美人になる」ことを教えたものと思われる。
つまり、吉永小百合は「昭和天皇の娘世代」であり、私や松田聖子や酒井法子は、「孫」なのである。 西田はその生涯において一度も外国に行くことはなかった。海外留学をすることはなかった。日本から外に出ることはなかった。それなのにあれほどの偉業をなしたのだからやはり凄い人物だ。 三浦梅園は伊勢参りに一度行ったきり長崎で生涯を終えた
どこ行くかは関係ないな 若いころは親とか学校とかメディアとかに徹底的に洗脳されているからね。
自分が育ったのとはまったく違う場所に行ってみて、人の「地」みたいなのと肌で感じると、
人間どもも似たり寄ったりだなというのを実感する。 すると、時代も地域も違う古典を読んでも、その「地」のようなものに気づく。 334 :彼氏いない歴774年 :2020/09/03(木) 16:42:27.89 ID:NAW4QAaG
>>293
職場に以前いた女性(当時30代後半・独身)が糖質発症して退職したわ。
妹さんが結婚して、親や周囲の人から「アンタはいつ結婚するの?いい人いないの?」と
うるさく言われたりして発狂したらしい。 藤田正勝の『日本哲学史』は必読だな。
これを読まないと西田の学説が弟子との関係で形成されて行ったことがわからない。 西田の文章を読むと、純哲とは表面的には時代に制約されない、地理的に制約されない
思索の結果として導き出されたものだと感じる。 あ、既に訂正してあったか。
>表面的には時代に制約されない、地理的に制約されない思索
時代的な制約、地理的な制約から自らを解き放とうとするなら、
それらの制約を解きほぐすことを要求される 西田は実際には制約されていたんだろうけど、彼の文章は、
時代を超えて読み注ぐことが可能な、
旧仮名、旧字体の知識以外それほど前提知識を必要としない文章だと思う。 http://www.zeno.org/nid/20009232656
Jahresringe der individuellen Kultur. 個物を包むとかいうような表現に慣れればイッパシの西田学徒。 思春期の少年が一生懸命にチ◯ポコをしごいてるね
あれを、絶対矛盾の自己同一と言うそうだよ 【盗聴盗撮犯罪者・色川高志がしつこく嫌がらせを継続】
色川高志(葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室)
●色川高志「ホワイトハウス高橋の息子の金属バット集団殴打撲殺を熱望します」
龍神連合五代目総長・ホワイトハウス高橋の息子(葛飾区青戸6−23−23)の挑発
●ホワイトハウス高橋の息子「糞関東連合文句があったらいつでも俺様を金属バットで殴り殺しに来やがれっ!! 糞関東連合の見立・石元・伊藤リオンの糞野郎どもは
龍神連合五代目総長の俺様がぶちのめしてやるぜっ!! 賞金をやるからいつでもかかって来いっ!! 糞バエ関東連合どもっ!! 待ってるぜっ!!」(挑戦状)
492盗聴盗撮犯罪者色川高志(青戸6−23−21ハイツニュー青戸1032021/02/03(水) 13:53:22.55ID:QtP78E4Z
●青戸六丁目被害者住民一同「盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父の逮捕を要請します」
色川高志(盗聴盗撮犯罪者の高添沼田ハゲエロ老義父を逮捕に追い込む会&被害者の会会長)住所=東京都葛飾区青戸6−23−21ハイツニュー青戸103号室
●盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父
高添沼田ハゲエロ老義父の住所=東京都葛飾区青戸6−26−6
【通報先】亀有警察署=東京都葛飾区新宿4ー22ー19 рO3ー3607ー0110
盗聴盗撮つきまとい嫌がらせ犯罪者/アナル挿入食糞愛好家で息子の嫁で自慰行為をしている高添沼田ハゲエロ老義父の盗 物理的な人生を送るだけのバカには西田幾多郎は理解できない。
おぼっちゃま学者、おきょうちゃま学者と同じ類いの青春時代を送った西田だが、やはりその暇を大いに利用した。
かしこいボンボンだよ。 wikipediaの名言のところに「善とは一言にていえば人格の実現である」ってあるけどさ
一言で言えばって言ってるのに言葉数増えとるやんけ! 西田幾多郎の評伝は竹内良知の『善の研究』までを書いたもの以外はあまりなかった。
氣多雅子と藤田正勝のものが最近ようやく出たという感じだな。 西田幾多郎がいたおかげで竹内良知の良さも感じられるようになってきた。 結局きたろうって何が言いたいの?
どう生きるべきかとか善とは何かについてもっとシンプルに話してくれんのだろうか 冷たく突き放すなら、
肝は西洋哲学を摂取しながらそれと対抗するべく、
仏教や論理などを統一して日本的ブルジョア哲学を打ち立てた所だろうな結局。
あまり表に出てこないが、
西田哲学は、マルクスと地味に対決していたんじゃ無いかというのが竹内良知の見立て。 >>141
そういう風な人間はどうすべきかみたいな懊悩についての話は、
西田幾多郎と同時代では倉田百三とか河合栄治郎などを当たるべき。 エッセイストのように見えなくも無いが学者であり、
知の巨人で近寄りがたくもあるが随筆家でもあると。 961幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2021/12/29(水) 07:24:52.08ID:EwUap9J/0
常識と良識の違いが分からない
969幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2021/12/29(水) 07:34:13.36ID:EwUap9J/0
>>963
「常識」の反意語は「非常識」なのか、「未常識」なのか?
「良識」の反意語は? 「不良識」?
973幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2021/12/29(水) 07:38:28.25ID:EwUap9J/0
「無常識」や「無良識」という概念はあるのか?
979幸ちゃん ◆5V9dS9MYZOAP 2021/12/29(水) 07:41:56.07ID:EwUap9J/0
「理性」と「良心」は対義語? 西田は、発達障碍。脳障碍によりたまたま記憶力が特化しただけの、精神、人格障碍、統失。
だから、難文、悪文しか書けない。それを後世の発達障碍糖質脳ガイジが 哲学 と銘打っただけ。 西田もハイデガーも、影響を受けたと言われるウィリアム・ジェイムズでほぼ完成しているような気がする
違いは神に関するところくらいか
俺の読み込みが足りないせいかもしれないが 物理法則で自然や宇宙の説明がつくってことは、
物理法則を頭に入れる=自分の中に宇宙を宿すという事である。
この発想をもとに純粋経験と実在の説明、そして宗教と神はなぜあるのかという論へ発展し最終的に
善とは
俺=宇宙(神)
になることである
こんな結論に達する頭から尻まで常にぶっ飛んでる本「善の研究」
この中で特に面白いのが
「個人の主客合一から家族<社会<国家の統一へと発展し、そして国家間の統一がなされる」って話。
国家主義を突き詰めた先に世界平和があるのだろうかと妄想する 個人性の尊重を前提にしてるから国家主義ではないか。
まあでも右と左の統一の先にあるのが善なのかなあと。
左を突き詰めた先に国家があり
右を突き詰めた先に自由がある
こういう見方もできるから読んでて飽きない本だよ ニュースの裏の裏まで読まないといけない時代。
裏だけなら単なる陰謀論で片付けられる。
裏の裏まで読むというのは陰謀論の真偽を確かめるということだ。
どうやって確かめるか?
陰謀論を仮説として、そこから表の世界を解読して検証する。
もっとも論理的に整合性のある仮説がとりあえず真とされる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています