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克服されるべき面と、そうでもない面と、両面あると思う。

ニーチェの場合も両面ある。
ニーチェが克服されるべきと思っていたのは、いわゆる「神の死」によるニヒリズム。
つまりヨーロッパの人が今まで実在すると思っていた「神」が、現代の科学の進歩などによって
信じるに値しないものになった時に、「神の死」によるニヒリズムが生じる。
今まで価値あるものと思い、それを支えとしてきたものが無くなることによって、喪失感が生じる。

でもそのような喪失感が生じるのは、もともと「無い」ものを「ある」と思い、それを支えとしてきた人間の弱さ
に問題があるのであって、強者(超人)はもともと、既成の意味や価値を支えとすることを必要としない。
強者(超人)にとって、意味や価値は既にあるものではなく、(無意味な世界の中で)常に創造していくものだから。(→価値転換)

仏教の「空」も、「無い」という面と「ある」という面の両面がある。
「無い」の面については、何が無いのかといえば、凡夫が「ある」と思っているものは、本当は何も実在しないのであり、
それは凡夫の心が作り上げている虚構にすぎず、夢のようなものにすぎない…というのが、「無い」という意味での「空」。
(凡夫がこのような意味での「空」に直面すれば、「神の死」によるニヒリズムに似た状態が生じるだろう。)

では凡夫が「ある」と思っているものが「無い」とすれば、真に「ある」ものは何かといえば、
それを仏教の用語では「真如」とか「法界」などと呼んでいて、「真如」=「法界」=「空」だから、
これが「空」の、「ある」という側面にあたる。

だから、ニーチェの場合も仏教の場合も、克服されるべきなのは、ニヒリズムそのものというより、
ニヒリズム(無・無意味・無常)に耐えられない「心の弱さ」なのだと思う。