悟りに近づくために9 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
もの、と、関係、とがある。事実どうしがどういった関係にあるのか、自分の中のどの部分と別の部分は、なぜ関係される、あるいは
いったいそもそも、関係があるのか、と考えるのである。個人と言うものは、自分で知っていることに対して責任感を持つ。
知っている、すなわちそれは自分の中のどの部分かが、産んでいるものだ、ということである。あるものとあるものの
あいだにある関係を、知ることこそ大切である。それが、独創性である。そして、アイデンティティというものが、
みなしという信念であり、妄想をおおく孕んでいるということに注意を向けなければならない。不安こそは、治癒可能な
物である。不安は完全に病的であり、癒せない不安はない。そのためにこそ、関係を理解して、ものとものとの関係に
対する洞察を持たねばならない。
関係は、事実とはまた違っているが、事実どうしの関係という意味を解明できることのできるものが、知恵の所持者であるといえよう。
事実やものといったものが、単語で言い表されるにしても、言葉の使い方として事実叙述は偏っており、関係に目を向けること
のほうが、より意識的にするべきであり、意識的に考えることの多くをそれに使っていくべきであると考える。
他者との関係は、感覚に依らねばならないが、自分の体験の記憶の間の関係は、それゆえ他者には観測されないものなのであり、
そういういみでは個の能力と自由、そして、権利的な、ものである。人にやり返すことは、自分が嫌になって不満を抱えているからで
あるが、外に解決を求めても、大した成果は得られないのは、当たり前である。自らを裏切ってほしいという鬱々とした怒りは、
根源的であるが、解決するには、自己の中の関係を一新した能力的な自己力の向上が必要で、それがなければ、新たな自分を
もたらすものはないのであろう。 >>3
ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』には、「一 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」と書いてありました。
そして、「二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である」
そして、「二・0一 事態とは諸対象(もの)の結合である」
つまり、もの→事態→事実→世界と、さかのぼることが出来る。だからこそ、僕が書いたような、「関係」という操作
が行なわれることによって、ウィトゲンシュタインのこれらの述語を、より明確に位置付けることができるのだろうと思っている
のですが、言葉と思考の不一致について、どう考えていくべきなのかは、よくわかりません。言葉とは、記憶媒体であり、
無限であり、思考とは行為であり、有限である、という区別が本質的であるような気がします。つまり、自由である記憶媒体
を、部分的に再現している脳において、関係性のショートによるサイクルが、無限性に達することが出来るのである
かもしれない、と思います。つまり、時間の流れが、人間に与えられている最大の枷であり、逆に可能性、能力である
ということ。切なく、また感傷的に喜んだ気持ちになりますね。 >>5
乏しい知識からの妄想です。言葉には本来的に本質が現れる。つまり、来歴を想像すると、ものは神が作ったものである。
あるいはまた、ものが神である(八百万の神)のかもしれない。もののけにも神的なものがかかわっているのか。
原因がわからないことは、原因を形相化する。葛飾北斎の描いた六条の御息所の絵などは、心に直接に訴え
かけてくる。
ということで、ものは形相を与えられる。だが形相の与えられていないものが、特別な意味を与えられ、何か特別な原因を
含まされる。音声的であることが、意味があることイコールであり、同じ音が同じ意味を持つ。答えを与えるということは、
答えを探ることと同じことである。端緒がつけば、それは存在する。
イメージは、客観的である心の像として、こころを支配する。音とイメージは、それぞれ人間と神を代表する。
形相の区別が、全てのイメージに存在する。判然とはしなくても、主体性の現れである音声は、イメージとはまた
違った関係を表している。
日本的なものはもののあはれとして言われるように、漠然としたことが本質を語る奥義になっているようであり、美というものが、
存在性と、存在する価値の存在を、一言で表すために用いられる。
まとめていうと、答えを導き出すためには区別することが必要であるが、日本語の特徴は、区別をあまりしないことである。
だから、区別をしないというやり方の、特徴は、美の概念に個人を解消するようにしてあり、答えを区別しないところ以外には、
日本的な概念のよりよい未来は、展開していかないのではないかと思われる。 モノは形か?
モノは事か?
モノは理か?
モノは素か?
モノは美か?
モノは意か?
さてどうする、 >>7
モノとは、あるかたまりだ。かたまりになることで、個性が生まれ、形、事、理、素、美、意というようなまとまりになる。
世界から切り出した部分、あるいは考えたところの概念、自らというものの理解範囲、などである。
かたまりを使うことで、周囲の理解と、自己理解ができる。フォースに近いかもしれない。モノというのは、一種の
マジックワードである。実体が、現れたり消えたりする。
モノを使うには、直観が必要である。モノにおいては、論理はさほど重要ではないのだ。自由で大きな思考が出来る。
ミステリアスである、直観とは。それがあるからこそ、そこにこそ生きる意味がある。従ってばかりではないのだ。
自分でできるということだ。 モノを基準にモノの世界が作られるとき、モノを塊りとしている素が別のものに
置き換えられても塊りとしての原理が元を完全に代行していれば
おなじモノなのか?
たとえばアルミのネジをステンレスやチタンのネジに置き換えたとき
完成したその機械が同じように動いて仕様を満足させた、
それは同一のモノなのだろうか?
ならば人と人ならざる素材で人と同じ働きを完全に模倣したとき。 >>9
自発性ということが、人格、人間の、同一性においては、重要な点であると思います。死者の部分、ホルマリン漬けの部品が
生きてはいない。生きているとは自発性があることだと思います。脳死などについて。自発的な行動においては、
そのメカニズムが完全に証明されていなくても、他者にとっては、その人物を信じることが出来る。
代用できるものは代用すればいいのだし、代用できないものはできない。それは、実際に行えばわかるようなことだと思います。
自発性のないものは、もう死んでいるもの。どんな小さな自発性であっても、それがあるものは、生きているもの。
明確な区別は難しくても、完全性を求める必要は、僕にはない。完全性を求めるべき場面では、それを求める人もある。 脳の働きを止めることで、不安や怒りを客観視できるようになる。客観視で得られるもので大切なのは、多くの、大きい、確かさ
なのであり、自明性の喪失という心的状態に陥るということは、ある思考の、必然的結論が、わからないでいるままに、色んな
ことを考えてしまうということである。少し余裕を持てば、この感情をもたらす思考が、一体どういう方向へ向かうのだろう
ということがわかるのに、予感に、気づかないままに、色んな思考をさまようことになる。もちろん、持論の未来を知るなどと
いうことは、どんな人にとっても簡単だ、などということはあり得ない。大変に、高度な察知ではある。だが、感情と予感は、
感じているのに放っておいたら、いつまでも、無意識的な枷をつけた状態からのがれられなくなる。
だから、脳の働きを止めることで、その働きを引き起こしている持論、また気分的な予感、を考える余地が生まれる。
そのようにして、自分にとっての感覚を、コントロールできるようになる。これが、自己能力の発達である。
多くの思考において、自分自身というものが、最大の障壁になる。自分自身というか、自明性を失った状態の時間的堆積と
いったものである。頭を悩ませられて、見えないわけでもある。少し感じた限りで、快=不快という、何かに気づいており、
さらにそれ以上の展開が分からない、といった人は、そのきっかけにしがみつく。耽溺する。そして、感覚だけが残る。
時間が切れる。
死への恐れは、脳の停止への恐怖である。生きている状態で、脳の停止を経験したものにとっては、その恐怖も類が見えており、
恐ろしくない。
こういった、勇気を与えるもの、自己を食む蛇をしりぞける実践、時間感覚をうまく使えるようにすること、予見、といったものを
得ることのために、脳の停止と、予感の思考化を使っていけばよいのであろうと思われる。 中心においては、場所が指定されるということに、おそらく間違いはない。そして、その周囲には、広い個所に力を広げるための、
円状の意識が広げられる。場所を指定しておいて、より広く取り扱うためにそうする。こうした意識を持つことで、場所と内容という
二つのものを取り扱える。この意識モデルは、記憶やイメージ、身体感覚、呼吸の方法などに応用されることができるだろう。
最も重要なのが、呼吸に関して行なうことだ。息を吸い込み、横隔膜を広げたり狭めたりして、吸気をポンプさせる。
この自由こそが、意識の自由と、身体の自由の中で、最も身近で、頻繁に繰り返される、原始的な事である。呼吸では、周辺と中心
が融合している。 機械的な仕組みとしての働き、たとえば電子の物理的挙動について
それらが連鎖して系としての働き、たとえば熱の集合的挙動について
後者には未知の余地があるが、前者には未知などなく決定されていること、
後者は決定的にデジタル的な結果として計算し、前者は必然的に答えをアナログ的に近似する、似ているが違うものだ。
それは時間という概念の中で繰り返すそれが無限ループから抜け出せない単純反応ではなく、誤差が蓄積され
エントロピーが増大し計算が収束しないという決定的な増大性質を示す。
決定していないからこそ形が計算しえない形の高次元解釈を作り出す、
それは低次元の底からみた計算では説明しえない原理が生じるということ。
モノが更なるモノとして集合を底辺原理とする高じの集合模様を作り出したとき、
そのモノは底辺から見た精神世界かもしれない、そんな世界を底辺の理屈や論理で説明できるのだろうか?
「たとえば神とは何ぞや?」これを説明するということだ。
モノが形を成すとき、形が生み出す他の形との関係はモノより下の原理で理解していいのだろうか?
つまり、物理学などの学問の説明で生命や倫理、人間の定義を語って意味がある結論がだせるものか出せない類かという問いがあるはず。
汝はその答えを出すべき。 >>13
>底辺原理とする高じの集合模様
ピラミッドを連想しました。
自分にとっての意味、自分が作る意味というのは、まず集中力こそが大事になってきますね。そして、間違いで埋もれてしまわない
ということが。だから、自分で考える時には、「待つ」ということが必要になってくるのだと思います。自己の表現においては、
ある記述の途中には、記述に向かってしまう。そして、それは道を作る。その前に、すべきことかどうかという調査が必要になる。
だから、自分にとっての未知的なものに出番を与えるためには、待たなければならない。それは、作家のインスピレーション
のようなものです。
>決定していないからこそ形が計算しえない形の高次元解釈を作り出す
決定していないということを、もたらすための、「待つ」です。自己と言うものが、高次のものも、低次のものも、両方必要で
あるということから、ただ一つの絶対に、凍り付くということは、難しいのです。でも、チリ一つない黄金の頂上、それに対する
希少性が、高次の素晴らしさを言い表すでしょうし、天使の羽は、高みを指すアイテムです。 >高次の素晴らしさを言い表す
果たして、すばらしいのだろうか >>15
そうですね、ピラミッドの頂上が素晴らしいというイメージを感じながら、そう書いたのですが、
無限後退に陥ってしまっている。
希少なものは素晴らしい、高次は希少だ、だから高次は素晴らしい、という論法でしたが、そもそも、どこに注目して、
底辺であるかと定義することが難しい感じだし、僕の考えの中では、黄金という形容に無理があったかもしれません。
そもそも黄金の価値とは、美しさと希少さにあり、絶対的なものではない。
だから、それを頂上におくことは、ヒエラルキーの権威付けであるのであって、黄金自体の価値が増えるわけではなく、
黄金自体の能力が増すわけではなく、黄金という存在と人間との関係性を、高めたものでしかない。それを普遍的に高いと言うには、
つまり、他の価値体系において通用する存在に高めようとすれば、王水によってしか溶けないといったことのような
ことを持って来なければならない。
複雑なものは乱雑でない。つまり複雑な高次は、乱雑ではない(エントロピーが低い)。
ピラミッドの上の方が、より石数が少なく、だんだんと出来上がっていく。上の方が、見はらしがよい。それゆえに上に価値あるものを
おく。そして、ピラミッドの内部に、棺をおさめる。重力に関係がある。 多重債務やお金でお困りの時はNPO法人エスティーエーで
詳しくはHPをご覧下さい。 >無限後退に陥ってしまっている。
孤立系(熱力学用語)では一定の秩序に収束し、開放系では秩序らしきが普遍のように
存在してもその先は無限の次元をあらわす一瞬の刹那にすぎない。
どちらの世界の住人に属するかの選択ではなく、両者が対称性の関係性を
示さなければ、神のような主体意識が必要になるように見える。
真実は1つだが、真理は1つか?無限真理という次元性をもつなら、
我々の次元からそれを確かめるのは困難ではないか、1つなら1つの
次元で考えればよい。
見えざる、掴み得ない次元の真理は当然掴み得ない、故に否定しても良かろう、
1つの真理だとすれば、その真理は実につまらないものでそれを知ったとしても
何の意味も何の未来も掴めないのでは?と問う、
我々の想像力は有限であり、決められた範囲の時間で存在している、
故に想像力の本質は無限であっても、有限思考原理に支配される
思考ではない領域へ飛躍できる能力が無いわけではない、ただ思考と創造と知識と言葉と論理と
いった形によって呪縛されているだけである、決して何にも縛られない
思考ではない領域にしか本質へはたどり着けない、人が見るゆめうつつ、妄想といったもの
それらは決して計りえない具体化しては形骸化してしまう領域では? 自己の源泉と自己の力とを
良心から得る。
様々な限界に面し決断を為す。
真であるものを自ら語る深い心が隠ぺいされずに純粋に保たれる処では心は過ちをすることは無いよ。
でもそんな私の心はあらゆるものに眠り込まされています。
それでも現実に私を世界内で示してはならないんだなぁ。
と同時に沈黙により防御しないといけない。
最近、天啓の如く悟りました。
哲学は元来めちゃめちゃです。
でも
それでも私は
立ちションこそが健康を維持する最上の方法であると学びました。
. 知識や対象では無いはずのハイデッガーの実存論的分析論が知識や対象になってしまうのは
めちゃめちゃですよね〜☆ プルトマンの「科学的思考に於ける世界の統一には科学的思考そのものの統一が適合する」
と言う言葉は真理とは反対ですよね〜☆
元来めちゃめちゃよね(☆∀☆) 知で思考する美魔女は非知につぶされる、
非知識、非知恵、非言語、非論理
貴方には届かない、なぜなら拒絶しているから。
科学を追うものに非科学は扱えない、科学で割り切ろうとするそれが真理だ、
知識に支配された奴が知識以外を信じることなどできない、それも真理だ、
ならば、科学の入れ物に閉じこもり、知識の入れ物の中でのみ暮らせばいい。
その外側など存在しえないからだ、それが真理である。
あげるな危険 >>23
私が思うに本当の未知と遭遇したとき、
そこに学者も劣等生もないのだと思います。
そこにいるのはただの人間です。
よって私は皆に等しくダイアグラムを授けることにしたのです。
予期せぬ状況に何もかもが吹き飛んだとしましても、
このダイアグラムだけは貴方の手元に残るでしょう。
by 鼎 梯仁 >>24
貴方は誤解です
私は逆説と背理とパラドックスを背景にして話しています。 >>25
先生出てきてくれて嬉しいo(^o^)o
いつも爽やか 悟り=禅の創作
解脱 → 梵我一如=智慧ある者が生まれる >>24
私の本質の自己を主張することもできないし現すことも見せたり図式化したり知識や記号化することもできないので
疑われやすく
それは非真理とされるし
そこで私は心理学のように「いたらなさ」
として恥じることになります。
私の自己の本質をひとつの目標として扱うこともできないし
私自身と皆さんの前では私自身のことを沈黙することが最も深い内面の現象です。
其れが破られると私は恥じるのです。
その恥じることが現実の中で貴方から色々言われることとか現実の不真実なことからの防御です。
だから知識では無い根底を持ちながら
人に話す時は知識で話すのです。
それと下ネタ禁止でお願いいたしますo(^o^)o⤴ >>21
天啓ですか悟りですか
…哲学は根本概念とかだけど私のは概念の含まない感じかなぁ。
波動みたいなぁ。
先生のは高級感があるからインスピレーションからかなぁ? ランスピルレーションじゃ。ファーサイドじゃないけど。 自分の表情を普通の状態で認識できるということが重要だ。インディアンポーカーをするというような状態になってはいけない。
自分の表情と自分の感情が一致していなければ、そういう賭け事のような緊張感にいつもさらされているということになる。
表情を把握していれば、行為や行動において、自分がするべきことがわかる。自分の人生を自分で積み上げていく
ことができるのである。自分の表情を、代弁されることほどつらいこともあまりない。ようするに、お前、チャックが開いてるぞ
と、なんども言われるような屈辱である。自分で自分の表情が分かる、とは、自分の気持ちと表情が一致しているということだ。
そのとき、自分の存在自体が理解できて、理解できない物事が、少なくなる、すなわち、理解できることが多くなる。
知識の欠陥なども同様である。自分で理解できていると瞬時に思える事が多いほど、生きていくうえでは、自分のするべき
ことがわかるのである。理解できないことを勉強すればいいのであって、理解できているかどうかよくわからないことを勉強
することは、指針を間違えがちだ。 (34から続き)
何もかもバカらしいと思っているなどということも、持論の一つではあろう。別にわがままを言っているわけではない。立派な人
であれば、自分だけが正しいと思ったりするであろうか。人の気持ちを、探って、代弁して、やっつけるというようなことを、
するのが、人であろうか。人は、集団的な合意も作って、説明責任を果たすことをすべきではないだろうか。
自分の表情を持っていれば、いい悪いの判断を自分で下すことができるし、
自分の持ち札が分かれば、自分の説明をできる。自分の責任をコントロールできる。全てに見放された人に、自分の
表情を与えよ。公正なルールの下にあること。自分を侵されないこと。自分とは代弁されていてはならない。
代弁されないために、自分を持たねばならない。今は、自分の表情を考える余裕がなくても、自分の表情は自分のもの
であるということは、何によっても否定されないのだ。こういうことを考えるのも、自分の表情を無くした悲しい人生が
続いたからであり、今は違うからなのである。外に求めず、自らに求めるという普通の事をする。過去の無念を朽ちさせる。
私の主観は全て客観性につながっており、私の客観性は、主観的な意見である。自他の分裂は、一般に思われるほど、
自己像において決定的ではない。というのは、自他の両方に実質があるからである。 美魔女は最高、一度も嘘をつかないし、事実と真理だけを語る神の代行者 美魔女はこう言っているっていう短い引用は意味が無いのです。
別の文脈では違うことを語っていることもあるからです。
ポイントはどんな文脈で語っている言葉なのかが大事です。 私は、私でなくてもいい。私を私にするものなど、存在しない。ある要素の組み合わせとしての、物体であるということであり、何も自分
を自分足らしめず、自分が特別には存在しない、と考えたいのである。私に似た人間は多いだろうし、私が生きているということ、
そしてその主観性の絶対感を、大事にしたいとも思わない。
話はそれだけではなく、もっと心が軽くなるような発見もあった。それは、特定の他人を特別に認める必要さえないということだ。
ある不快感を他者に抱いたとして、それを良く考えてみると、その他者と似た人間は、またたくさん存在しているのである。もっと言えば、
多くの他者の代表として、ある知人がいるというわけである。こう考えると、考えに詰まることなく、さまざまな関係を、心理的に
受け止めやすくなるはずである。これは、少し飛躍した考え方であった。こう考えると、自分も他人も特別ではないのだから、
結局のところ、特別な人間とはないことになる。ただ、少しの条件資質が変わるだけなのである。
そのように、特殊性から普遍性へと変わることにより、考え方が自由になり、視野も広がるわけである。そういうことを考えたうえでこそ、
可能性の探索の人生も生まれるのである。 私は私であって、私ではない、されど私ではなくなろうとしても私なのだよ。
主観性は絶対的であって絶対的ではないのだよ、大事であって大事ではない。
他人は特別であって特別ではない、特別な人間を否定しようとするとき
それは特別になるのだよ。
特別じゃないものが特別なことをしてはいけないわけでもなく、特別じゃない
ものが特別なことを出来ないわけでもない、世界を司る秩序がそれを決める。 おまえは駄目、明らかにだめ、
なぜならお前自身が自分を駄目だと気が付いているから、
おまえが駄目じゃないと願望を持っているから間違いない。 現代哲学人がどうやって生活していけるのかという素朴な疑問 >>50
一番いい質問ですね〜⤴
究極的に現すことが不可能です。
職業でもないです。形にして理想でもないです。
直感的なものでもないです。
何者か聞き取れないので経験する為に世界の中に入ります。
知識欲からしてすべてのものに気を注ぐ。
科学技術にもね。
哲学者とは本当の自己に成ろうとする人
そのことにより空間と広がりと可能性を見るよね。
現実に形式化もできないので
自己を見失わない為に
節度と人間性を大切にしますね。
そしてもっともっと先へと考えることは危険であることも知っています。 >節度と人間性を大切にしますね。
なことは、言うだけ
その本質が何かを気がつけない奴は上辺だけ
自分にとって正しければ他者にとっても正しいとミスリードしてしまうからだ、
形式化を掴まずに、具体性を掴まずにどうすればいいのか知らずに
掴み得ないものを掴もうとすると、貴方の言う危険へつながる。 . ∧_∧ おおっ
(´・ω・)
O┬O ) キキーッ!
◎┴し'-◎ ≡
_____
(\ ∞ ノ
ヽ、ヽ美魔女
`ヽ)⌒ノ
 ̄
_____
(\ ∞ ノ
ヽ、ヽ美 lヽ,,lヽ
`ヽ)__( ) )) クンクンクン♪
と、 ゙i
:∧_∧:
:(;゙゚'ω゚'): ピクピクッ…
:/ つとl:
:しー-J :
. . . . .
:<⌒ヽ--つ: バタンッ! 即死 ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル
.<__つ_つ 神経系が反応を示さなくなって、限りなく脳死に近づく
悟りとは結局、無気力障害に過ぎないのである 金正男て、実は女だったんだよ。
<<55
そのとおり、くんくんしたら脂肪 >>61
たけし!バンカーよバンカー!
これ違う!木のやつ〜
(刑事物語) >>62
美魔女の頭に小さいハゲを発見、これ?はげ!なの?
どうしたの? 悟りが理解できないやつは、悟り(意味)の反対、
すなわち反意語を知りたまえ、反意は意味の裏側であり
その反意語を正しく理解しそれを否定すれば正意味にたどり着けるだろう 理性が闇を払ってきた歴史。例えば、ある他人と同じしぐさをしてしまうとする。それで、その人があまり感じが良くない人の場合、
嫌悪感が起きる。だが、その背後にある事情を考えれば、まったく違う原因に起因していることであって、別に気にする必要は
ないとわかる。例えば、努力をすることの動機は、さまざまであり、何を努力するかということに、クラス分けした場合、
当然似たところは見当たるとはいえ、完全に同じ状態を辿ることはない。これは、迷信などに対する態度としては、
中々に強力であると思われる。安心して、努力にまい進できる。
光の闇に対する優位性を、哲学の結果として手に受け取る。しかし、闇の状態は、いつも人間に対して、半分はあるものである
であろう、本来的には。そのため、迷信に対する態度も、問題として再浮上してくるわけである。そのように、色々と
努力できるということはあるにしろ、それが水泡に帰すということもある。というわけで、なにがしかの枷は、受けることになっている。
そして、様々な人が歩んだ道の数だけ、光も闇も経験される。そして、身体の中の光と闇の具合を、光に向けることで、
自分が成長する。このように、自己の独自性への自信と、努力しているという精一杯の個人的事情の中での行動、
これらは、親和性が良く、世間に対して引け目を感じるような事も少なくなる。だから、誰もが傷つけあうことなく、抑圧
することもなく、劣等感を乗り越え、休息の流儀を手にすることもできるはずである。 己のあるがまま、道を進みたまえ、
正しい道は正しく進むとき刻まれるもの、
進めないのは正しくない、闇に向かうものは正しく闇の道を刻み、
光に向かうものは正しく光の道を刻み道とする。
前が見えないのは自分の刻んだ道が正しくないと間違った解釈をしているからだ。
進む前に壁なし、壁は己の中にできるものであり壁を造るものは進むことができない。
表裏一体は無限に対称とさせることが正しい、正しい道は欲すれば見えなくなり世界へ告げれば正しき道を与えてくれる、
合唱、自分が進む道があることに感謝せよ まだ頑張れるのに怠けているということは、人に非難されることになる。では、頑張るとか努力するには、どうすればいいのか。
簡単に答えが出せることでもないはずである。
一つ考えたのが、注意を払ってものごとを考えたり、存在したり、行動したりすることである。
自分の心の働きによく注意を払って物事を考えれば、よりよく物事を捉えることが出来るであろう。
呼吸に注意を払えば、呼吸機能をより高められるであろう。
瞬きや表情に注意を払えば、筋肉の緊張をとることが出来るであろう。
作戦に注意を払えば、組み立てる思考が、獲得されるであろう。
以上のように、注意を払うだけで、自分のパフォーマンスは、五割くらいは増すだろうと思える。そして何より、
心の平安をもたらすための基軸になり、他人からの視点が、どこを向いていたのかということに、ある程度は
気づくことが出来るはずである。
つまり、自分のことをすることが出来る、人の中においても、安心して物事をできる、自分の権利を持つべき個所を、
知ることが出来る、といった感じである。 >頑張るとか努力するには、どうすればいいのか。
それは頑張るという力を抜き、日常とすること、
すなわち頑張ると等価な作業が気負いするその唯一の"抜け道"だと自覚認識すればよい。
頑張るのが当たり前と思えなくなった時点でそれは心を縛り大きな壁になる。
日常としそれこそ幸せと思えたとき頑張るという作業は空気になる。
人が頑張って呼吸するのか?頑張って食事をするのか?頑張って排便をするのか?
当たり前なことを頑張るとは理解しえない。
努力ではなく楽になると目指せ!
>以上のように、注意を払うだけで、自分のパフォーマンスは、五割くらいは増すだろうと思える。そして何より、
5割増したあとに、さらにその思考では、さらに5割増しという思考になるだけ
過去のパフォーマンスなど他人のそれと同じである、今たっている自分の姿勢と
歩み行く未来への1歩、それが貴方であって目指す理想においての最適である
1歩を考えればいいだけである、その1歩が苦行であっても避けて通ればもっと苦行になるだけ、
進まなければ目標には至らない。だがそれも貴方の選択だ、自分で納得できる苦行を選び得よ、
自分で選んだ幸せと理解しなされ。
1歩進んだ実感があるなら、それは間違いなく貴方の1歩だ、間違いかどうか
は自分で判断できるよな? >>68
>唯一の"抜け道"
気負いでなく、作業という風に、分析すれば、客観化できる、ということですよね。
すると、「頑張る」同士という間柄で、よきライバル関係になることも、まず自分を先に持っているべきである、と。
そのうえで、何かの信頼感を持てるのであれば持てるし、合わないものは合わない、という結果になるのだろうか。
選択こそが、自分の責任、自分の道。
間違いかどうかの判断、もちろん僕はできる。
理想というものは、僕にはわからないのです。あまりにも、可能性が広がって見渡せるので。疲れない体を、取り戻せたように思う。
それはつまり、楽が身に付いたということでしょう。
組織というような関係においては、どこで何からつながるか、ということは大事なのですよ。それは、努力して頑張っている、
ということが、一つにはあるんですよ。その上に、頭を出せれば、それでいいんですけど、もし、組織の中にいるのが難しい
と思われるのであれば、そういう、ちょっと媚びをうったかのような、認め合い、頑張ったね、っていう関係も、一つにはある。
そして、自分にとって、一歩を踏み出すのも、とどまりつつ足場を固めるのも、どっちも大切だと思うんです。
さて、これからの未来はどうなるか、どういう社会に変わっていくか、何が最終的に現実として残るのか。
個人がすることは、何よりも基本。そして、和の中にいることができればいい。日本という国の力には、実に優れているといえる
ことも多い。
人生において、青春といったものが、あるのだとしたら、それはきっと努力と何らかの関係があるように思います。
だから、理想を求めたり、苦を厭わないことであったりといったことが、自分の輝き時代を持とうとするなら、そういうことが
あるのであろうと思います。 >疲れない体を、取り戻せたように思う。
日光浴とカフェインを完全に絶つだけで恐ろしくかわる。 低レベル調。音韻詩文音楽ならなあ。つかの瞬間のダンスと。
バスケットの ラングレー パラレル ターニング ポイント ライブハウス・テクノ系 シスコ
レコーズ マンハッタン トル―フ カフェ
はプレゼントの箱。でいっぱいだ。
みなと神戸 午後一時 アフリカンにグロ アワード。 ちんこ ぐるぐるまき、皮がのびきってシワシワの万個の周囲 それでは
皆さん御待たせいたしました。
鼎先生どうぞ〜😉 >>77 どぞ
波平「ソフィアのおっぱい飲みたいから、おれの子供を妊娠してから堕胎しろ!」 常識というものは多いが、その中でも、最も基本的な事に、「ルールを守る」ということがある。ルールは、自己内にあるものだが、
それは外から取り入れたものであり、外に対する規則であり、「ルールだから守る」ということになる。みんなが守っているルール、
というものには、常識としては、理由なく存在するはずはない。そして、ルールを守る、と自分の意志で決めたことのない人は、
ルールとルールでないことの判別がつかないため、いつまでたっても常識と遠くなる。
つまり、自分の守るルールというものは、自分で理解し、そのうえで設定している規則なのである。
いわゆる、ソクラテスの、「悪法も法なり」というとおりである。 人が自分に対してひどいことを言ったり、したりするとする。それについて憤慨するのは自然である。だが、考えてみてほしい。
はたして、そのひどいことは、自分に対してされたこと、つまり、自分だからされたことである、と言えないか?もちろん、
通常はそうである。
では、それがどういうことになるか。つまり、恐ろしいことが起きるという不安を呼び覚ますのは、自分であるからされたこと
ではなく、それが、無差別に行われた、ということ、すなわち、災害的な危険性がある、という場合である。人が災害を
もたらす危険がある、ということを、身をもって感じた場合、その恐ろしさは例えようがない。
だから、自分に対してされたことである、自分以外の人間にはそんなことはしない、だから自分は同じことをくりかえさないように
気をつければ大丈夫、となった場合、その懸案事項には、解決が与えられた、ということなのである。
世の中で、危険を察知する事以上に、大切なことはない。すべて、危険がないなら、何の憂いもないのである。 >>82 訂正
×常識としては、理由なく存在するはずはない
○常識的であり、かつ理由がないルールが存在するはずはない >>82 >>84
常識的であり、理由のないルールがない、とはなぜそのようになるのか。
思えば、全てのものには理由がある、と考える。
そうであるならば、理由を吟味して、重要なこととそうでないことを、わけることになるだろう。
個人が利益を得ようとすれば、ルールを改変することにより、自分に都合の良いルールを主張することが出来る。
つまり、価値の低い、益のでない作業を、押し付ける。身分制のようなものか。
だから、それは公平でないとして、理想的なルールを整備する。
この、ルールの整備を、根拠づけるものが、理由である。ルールの理由を明示する義務の必要を提唱することにより、
その理由を吟味して、公正にもとるものを、正すわけで、それは説明がなされなければ、多数の反対をもたらすことに
なり、権力なしでは、その不公正なルールを、保つことはかなわないわけである。その大きな例が、常識的規則という
ことになる。常識は、公正な共同性には必須となる。
全てのものに対して理由が存在することで、人間の行為の、動機及び主体的心的了解性を説明される。
ルールというのは人工的だが、それも、個人の心と身体という人間モデルに備わった理由によって、説明される。
そこには、理由があることと、理由同士が矛盾しないということが必要である。
矛盾がおきるような事態(喧嘩、契約のいざこざなど)は、あらかじめルールによって規制しなければならない。
弱者や少数者という、力のない者たちに対する思いやりを、自然に育てることが、人間教育の上では、必要である。 >>82
ルールは徳ではない、常識も徳ではない、正義も徳ではない。 >>85
益は得でもあり、得ではないものでもある。
徳は益であるが、得ではない。
公平と公正は違う、絶対的多数が圧倒的な不利益であっても公正は成立する。
不利益であるからとしても、得が成立しないわけでもない。
絶対的多数が公平を分け与えれば全体としては得が否定される。
どこかに対象性のバランスが極度に崩れるときすべての対象が全体として
不利益を受ける。
個の益が全体の益を損ねるとき個を閉じ込め犯罪者のような不利益の立場になる
それは両者がそれぞれの益や公平や権利と自由を求めるとき、得に傾き、徳が無くなるからだ。
得の対称性の崩れこそ徳の崩壊である、主体概念の公平は対称性を保つ道具にはなりえず、非主体の
公平=徳は対称性を成す。 >>87
もうずいぶん前になりますが、東京で居候をしていたころ、金で手に入らないものがあるか否か、という話になりました。
僕は随分と世間知らずで、真面目っぽい人間だったので、金で手に入れる方法についても、あまり知りませんでした。
だから、話は少し聞いているだけでした。
今ならわかります。金とは手段であり、手段は何かを生み、何かに影響を及ぼすが、その影響は大きくはなく、やがて
消えていくものである、ということが。何を得ようとするかということが、計画であり、計画には、実際の成功において、
積極的に応援されるモデルがあるはずであるだろう、と。計画を立てる心は、子供から大人になる目安。
つまり、計画能力、実践能力があれば、責任を取れるということとなる。
手段自体の純粋性というものは、心の中をきれいにするものでしかない。つまり、徳とは、治める力であり、
純粋とは二次的でしかない。
だが例えば、文学に描かれるような、例えば源氏物語が、「いとやんごとなき際にはあらぬが、
すぐれて時めき給ふありけり」、というのは、美と純粋という、無常的価値を、恒常的にのちの世まで人々の心に
伝えるという目的があったのだろう。
つまり、手段自体にこだわる心(感受心、きれいさ)と、現実を治める能力(力の大きさ、現実的能力)、とがあり、
この二種はほぼ関係のない意味である。この二種を、結びつけようとする考えが、徳である、というように思います。
それは、大勢の人間の中の自分、ということが基本です。沢山のものの中の自分。力が多数あることで、大きな力になる。
大きな力が、どういう風に使われるべきか。これが、計画性というものを、慎重に作っていき、達成しないといけない理由です。
黒澤明の『生きる』という映画で、主人公の市役所の市民課長が、がんの余命で公園を作ります。
あなたが、どんな人生を送ろうとしているかは知りませんし、人生の計画を立てることをそもそもする人なのかという
ことも、わかりませんが、徳を得るという、知識と実行についての一つのあり方から、物事を進めようというのは、
中国などで最上とされることなのですから、ぜひ頑張っていただきたい。僕は、なにもかもやりなおしですが。 音楽愛好者は多い。一つ、頭の使い方として考えられるものを、考えてみた。それは、ぼーっとしている間に、頭の中に、
自然に思い浮かべる音や音楽を、大音量で流すことである。思いつくメロディーで、リズムということを気にせず、感じるままに、
自分で音を思い浮かべるのである。すると、言いたいこと、考えたいこと、言葉、思考といったものの原型が浮かぶのである。
すると、自分で押さえてきた思考や、外部からのストレスに押さえつけられてきたものが、表出される。そのように頭を
使ったら、ストレスの減った状態に至ることが出来る。脳の運動としては、上々であろう。 様々なイメージが、自己の思考における欠陥として、私をずっとさいなみ続ける。私は自分が悪いのだと思い、それらのイメージ
から逃げ続けた。もう十分に逃げたのだから、自己を置きなおしてみよう。イメージは、黒板消しのように消せる。イメージを
拭きやる。そうすると、自己は新しいものへと、頭を使うことが出来る。過去に囚われていては、何もなしえない。だから、自己を
甘やかし逃げさせる悪い癖ではなく、そのイメージが浮かぶという自己をしっかりと掴まえ、対峙せねばならない。
そうしたうえで、これからの生を、追いかけ、未来に生きることが、正しい生き方に他ならないではないか。自己に勲章は
必要ではない。ただ未来だけ、未来に生きる生き方だけ、そんな単純な方法のみによって、自己への誓約とする。
私は私である、私の持っているものをすべて使って、私自身を正しく持とう。そのこと以外には、私と言うものは、
少しもなくていい。 思念とは能力の断片でもある。思うことが出来るなら、自己に思考能力があるということなのである。体は、使わなければ
衰える。だから、使えばまた能力を取り戻す。どのように使うことが出来るかというと、感覚への意識を取り戻すことだ。
首の骨をひねった時、首の筋肉の感触が生まれる。その感触を意識していることで、感触に直結した、使用をしている
ことになる。そのように、全身において、感覚自体をえるということが、身体を使うということの基本であろう。
思念は、悪いものといいものがあるが、悪いものも、習慣的におかしくなるまえの状態はあり、危機察知というものに引きずられて
いるゆえに、他の思念に悪い影響を及ぼして、脳の使用を妨げるものになってしまったのである。それを、良い方に向けることが
できる。先ほど述べた、自由な音、イメージ、触感の解放である。抑圧からの解放を、身をもって感じられるなら、それが
自己の自由を、理論的にも、感覚的にも、取り戻すことが出来たということである。 自分には荷が重いことがらを、他の能力を使うことで、解決しようということが、後々に自己に災害をもたらすことになる。
つまり、自分の感覚によって、知ったことに他ならないのに、それを、思考によって、ごまかすということがいけない。
自己のするべきことは、自己を得ることである。そうでなければ、個人はない。考えと言うものが、指令を出し、まとめ上げる
ものなのだとすれば、まとめ上げられるほうの感覚を、うまく意識できないとき、適切な指令は出されない。この、適切で
ない司令とは、自分に荷が重いに他ならない。できないものはできない、とはっきり区別するべきであり、なんでもできる
気持ちになるのはいけない。
感覚を磨くことが、一番の基礎であり、感覚の存在意味は、不快が解決され、快の状態にいつもいるということである。
危機の察知を、こじらせてしまっては、何の生きる意味もない。快の状態を、自分にもたらせるということが、個人の
存在としては、一番楽なものであろう。 感覚を磨くには、感覚で得た何かを理解すること、
つまり理解できないものを理解すること、
人類が理解できないことを理解するにはどうすればいいと思う?
その答え(術)を得られれば世界の真理は我の中にある。
何をするにしても盲目とやっても強引に具体化させて決め付けても答えはでない、
海を泳ぐには海を知り海と会話ができる技が必要であり、空を飛ぶには空を知り、空と会話できる技が
必要になる、より掴むことが困難なものを意志だけで掴もうとしても溺れるだけである、
合気道の奥義の説明にこういう言葉がある「相手と友達になる」自分と相手の気を合せ道となすとき
それが合気道である、困難なもの、掴み得ないもの、理解しえないもの、そういう類を友達にし
友達の気持ちが自由自在に感じられるなら、その対象は自分であり、対象でもある。
すなわち全は一、一は全である。
すべての真理は環を作り巡廻している、個の意志だけで感じても環の一部にならなければ上辺だけの
感じる術とは思わないか?
機能しない真理は死んでいる、機能する真理は活きている、活きるとは美しいと感じられる状態だ、
貴方は極限の美しさとは何かを自分自身で知るべきである、答えは与えられただけでは死んだ真理になる。
盲目の人ヘレンケラーが始めて知った真理とはwater(水)である、我々には死んだ真理であっても
彼女には活きた真理としてその後のすべてを導く光そのものである。 一つ晒せば自分を晒す
二つ晒せばすべてを晒す
三つ晒せば地獄がみえる
みえるみえる墜ちる様
👿 嫌々やることは、嫌々すればよい。料理屋の勘定を払うのが面倒くさい、のならさっさと帰りたいと
思いつつすればよい。したくないこと、考えたくないことは、自分が悪いのではなく、事実なのである。
それを、純粋じゃないのかもしれない、とか、失礼に当たる、とか、思わなくてもいい。
思考というものは、複雑なのだから、思考の事実的なところを切り捨てる必要は無いのである。 「埋め立てですかあ」規制にひっかかり、pcから書き込みできませんので、
出現頻度が下がりますが、悪しからず。 あの悟りを求めた日々は何だったんだろうか
愛する人の死体を見てから
なんて醜悪な世界んだと飛び出したあの日から
ありもしない死という観念を元に
生老病死が繰り広げられる
この人生の深さよ
結局はそういうドラマを演じたかっただけかもしれない ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています