悟りに近づくために9 [無断転載禁止]©2ch.net
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個の想念は拡大する、やがては他者の強い想念を加えてより拡大してゆく、
現実から選ぶそれは正しい、正しければ正しいほど道ではなく自己満足になる、
それが怪物だ、想念が強いほどよりよい結果を返してくれる、しかし結果は
想念をより膨らませる、強すぎる想念は一人歩きを始める、一人歩きするのは
結果を得る それが他のそれを融合しなければ大きな結果が得られないからだ、
想念は肥大しバブルになる、空洞化したそれを膨らむ以外の結果は選べない、
未来は見えている、流されているのである。
得たそれは得た大きさに比例し対価を要求する、何かを得る、何かに成る、未来を掴むとは
そういうことである、変化とは変化せずに変化することはできない。
個の思いと現実に奪われる対価は小さい想念では一致できても、大きなそれは他を
巻き込み肥大してゆく原理により一致しない、大事なものが奪われてゆく。
選んだものは本当に自身で選んだものか、感情から生まれた術は、やがて術が重要になり
元の感情は失われ、術こそが働きとなる。ほんとうにそれがあなたの選択か? >ほんとうにそれがあなたの選択か?
相対的認識を拠り所にする原理がどうしても働くんだろうな ホンホホント、おっさんファンタジーだなント、おっさんファンタジーだなト、おっさんファホント、おっホホント、おっさんファンタジーだなント、おっさんファンタジーだなさんファンタジーだなンタホントホント、おっさんファンタジーだな、おっさんファンタジーだなジーだな >>724
他人のファンタジーにのるわけですね。納得です。自分の見えないところを見える他人、心までも。
認め合えることは素晴らしいでしょう。他者とのかかわりの中で得られるのは、経験であり情動である、
理論であり賢さである……でも、その向うには何かが見えているでしょう。それは、字義通りの明示
された意味、すなわちシニフィアン(能記)と、それを通して志向される二次的意味、すなわちシニフィエ(所記)
です。存在は、十分に満たされれば、シニフィエを生むでしょう。そのときに自分の立っている場所が
どのようであっても、自分は言葉で言い表されているところから飛び立った、新たな意味に囲まれて、
極楽と見まがう意味が横溢する自己充実の達成感にあふれる。
この世をかき分けるような、子供のころの、未分化な状態へ。そうしたものへの憧憬は、そうしたものを
引き寄せずにはいないでしょう。
見える神が見えなくなる場所に立つとき、何もかもが自分のためにあると感じられるのです。神殺しの
わざを、わざわざ蓄えてきたとすれば、選ぶことは、背理的でないことはできません。
私の選択とは、結局、知であり、またもう一つ、二人になることです。それはもう選択してしまったものである
のですが、そうしたこと以外の道を選べたとは思えません。選択したものが、時間と真理によって洗われたとき、
そこに見えるものがなんであるかという予測は、立っていません。でも、人を恨んだり、人のせいにするつもりは
なく、全ては自分の自分らしさを、正直に表した結果なのだと思っています。 自分で生きていますか。何かの映像を思い出し、自分を見失ってはいませんか。つぎはぎだらけの、無意味に
乗っ取られてはいませんか。自分の表情の記憶がありますか。無頼とは、自分ということです。どんな苦しみも、
自分のものであるとすることです。自己イメージは、とても重要なのです。自分の味方をしてくれるような、
場面の映像が、過度に訴えかけすぎること、そうしたことは、みな、まずは表情を生きることです。
長く生きるよりも、自分を持って生きる方が大切です。子どもは夢見がちでありますが、大人の言うことを
聞くことの多いものです。成功の理論は、理論であって、無頼の関知するところではありません。
無頼にとっては、勝敗はどちらでもいいのです。ただ自分のものである感情を、極限まで自らに
全てを任せること。自ら考えるということは、生易しいものではないでしょう。でも、特別な才覚などは、
後からでもつけられること。むしろその、自分を頼っているということが、見える場合に、多くの人がそうであるような、
一人前の人間になります。それは、後からでもできることであり、失われやすいものでもあります。
逃げる時、逃げるという事を、心得て行わなければなりません。その時、画策した自分の持ち札に、全てを
賭ける勇気が必要です。そうでなければやられてしまうし、そうであることは、自己の始まりとして、
世界に合わせて生きるのではないこと、自らの無力こそが、力の源泉であること、無力を感じたという事実が、
むしろ自分の周りの環境全てを、自分の思い通りにならないという天理であると知らせるものであると知るのです。 囚役を課せられたおっさんのジレンマ!ここに始まる!! おっさんたちのバブルが弾け飛び、
掴み損なったそのシャボンたちは、
ふわふわ、ふわふわ、現世の富力であり続け、
神通力が失せるまで、僕たちを常世へいざなう喚問であった。 良く見るには、見える所を増やすのではなく、いかにして見えないところを作るかという技術を使うことである。
特に、前後(奥行き)を制限していくのが素晴らしい。視界で見えないところを作り、増やすこと。
聴覚も同様に、聞こえているものをいかに聞こえないようにするか、というような心掛けが大切である。
感覚も同様である。痛いところを、いかに痛くないようにするか、という心掛けが大切である。(ストレッチのこと)
呼吸も同様である。いかに吸わずに吐くか、吐かずに吸うか、という心掛けが大切である。
思考も同様である。考えていることをいかに考えないようにするか、という心掛けが大切である。
以上で、良い存在のしかたが分かったが、そうすると、死ぬことが悲しい。怖いというより、悲しい。
誰もが願いを持っていること、それが、叶えられないものを叶えずに別のもので置き換えてやっていくこと。
その選択と、心に秘めた思い。それらを、達成できないようなことがあるということ。
心の重みに引きずられて悲しくなる。それも、少しずつ乗り越えていかなければならないことだが、
そういったものは荷が重い。
悲しみを悲しくなくさせるとうい心掛けが、大切である、というくらいで、死を捉えた態度と言えるのだろうか。 >>739
補足
思考については、いま考えていることをいかに削っていくかが大事である。技術、方法の問題である。 >いかにして見えないところを作るかという技術を使うことである。
技術として単純に全て割り切ると、
感性が秩序を生み出す美しさがなくなる、そういったものは技術ではなく芸術の類とおもわれ
ただ、見えないところを作るという類を"始めて"対話する過程では技術は重要だろう。
経験者となった後に技術だけというなら、全てを計れない技術依存者にやってくるのは
完全なる白紙の壁、命題のない結果の目的、空気を上るという階段、 自称哲学者に多いよね。
完全なる白紙の壁、命題のない結果の目的、空気を上るという階段、だけの人って。 >>746そこまでは哲学者ではなく思想の段階だからね。
しかしそこから、道徳的な方向(信仰系)か科学的な方向(学問系)に
脚色されていくのが自称哲学者 先人の知性を吸収して、次にその知恵を利用して自身のやりたいことに活かし、これら知識を整理するのが、哲学者科学者の仕事です。知識を知行に翻訳することができれば殿堂入りです。高知能であれば、全ての工程をスキップできますが、成功するとは限りません。 >>746
おまえ馬鹿だろ、
どうでもいいことに反応しちゃう馬鹿 北朝鮮や中国に自称哲学者がいないのは社会主義共産主義国家にとって重大な損失です。 真理の光の正しさは、高次なる認識の人時所により、
多様な光の正しさとなっている。 思考と言うものは、おうおうにして二極にふれるものだが、その中間をとり、バランスをとり続けるという思考、行為は
いいものだ。生理的な身体の制限を持たされている、そして、ネットワークは偏ってはならない、ということから、
二極の間にあるということは、人間を安定させ、生きている実感をもたらすものだと言えよう。なにせ、二極の間
を取るということは、それ以上に向上の余地を押し付けられたりはしない行為であるからだ。どこにもないものを、
仮象としておくのではないし、どこにもないものを必要としないのである。それは、永遠の探究ということに、しがみ
つかなくてもいい、という思考であり、行為である。そして、何かに目隠しをしてしまうこともない。全ては、自らが
関わりながら、否定することを至上としない、目隠ししない。目隠しとは、否定のことであり、愚かさを進んで
引き受けざるを得ないという思想上の制限のことである。つまり、段階を経ることではない。今自分が悩んでいること
について、考えるとき、その悩み自体の内容を解決するというよりは、悩み方についての方法なのである。
どこかおかしいと考え続けるものは、経験によって解決をもたらされることはないだろう。思想の意義は、
社会の中にではなく、個人の中にあるのである。そういった思想は、他者を使うことに積極的な意味を見出す
のではなく、自分を使うことに積極的な意味を見出そうとするものだ。それは、言葉によっているのではなく、
感覚によっており、得ることよりは、生きることに、光を当てる。欲を制御することが、なぜ必要であり、
なぜ良い生き方であるか、ということが、自然にわかってしまうのである。
どちらを取ればいいのか、ということではない。どちらを取ってもよくなかった、ということなのである。
死まで歩むのは辛い。死によって得られることは少ない。何も助けてはくれない。
では、そのことを、耐えられるようにすることだ。二極の中間をとるということの、実践によって、
辛さは軽くなる。そしてぶつぶつに切れない人生が、一つの状態において、まとめ上げられるということ。
そういう編集機能が、個人の中にはある。その編集のしかたがおかしくなってしまっては、より辛くなる。
何かを求めないことにこそ、行き当たりばったりでいいという良さがある。重荷を下ろす楽な状態。 思い心から生まれるものは正しい、だが率直に言葉にすると歪む、
本質から遠ざかるだけである、
言葉に表すとき意味を重視すればするほど、言葉は心の現れの思いではなく
整合性のある意味を作り出す、言葉は独り歩きするものだ。
掴みどころの無いものを掴むには、掴もうとするのではなく掴んでもらうのだ、
そういう上る技術をフリークライマーは語る、
それは掴もうとすればするほど力をいれるほど意味にしようとするほど、
向き合う対象との相性が悪くなるということ、喧嘩をするときは相手もけんか腰にならないと
強い掴み合いにはなりえない。 >>759
言葉にするという行為は、直観を含まない場合、多くは歪んだものになるでしょう。何かを考えることは、
何かを自己が選別するということに、なってしまうのかな。自己を投影する対象は、煎じ詰めれば、自己との
相性がいいものを選ぶしかない。その相性は、自分をわかってくれるもの、あるいは自分が自分自身を
発見し、実現していく上で、未来というものを現在のところ考えるところ、協力できるということを、
夢の中で描きたいものを、現実において選んで、実現することであるでしょう。
つまり、行為の中で考えが伝わり、伝わったことの中から真実を見る。現実に見れる。
何もかも同時に幾つかのものが混ざる状態について、懐疑的になるならば、文字判読、思考、イメージ、
言語化などの、いくつかの行為を、混ざらない状態でやっていくことに、真実があるのだと思います。
混乱の中から拾い上げたものは、何かの特別なものであるとは言え、自分が生きるといううえで、
掴むために、協力をする、この協力関係は、自己の中にあるいくつかの能力と、他者の中にある
いくつかの能力、それらを、共に活かすということができるので、自他の境界は、行為における協力
による場合には、存在があまりなくなる。そのような協力は、文化的作品の、テーマとして、しばしば
表れる。
自己の、力と、意識的に持っている方法には、個別の生き方として、質的なレベルはいくつもあるが、
結局本質は、それ以上の本質に包まれることによって、非本質的なものの中にもある、本質、
ゴミくずの中にある本質、つまり、劣等性であるのにも関わらずそこにある本質、つまり、仏性、
方程式の形に表わされることが難しい、ゴミゴミした夾雑物の理解、そういったものを、捨ててしまわないことも、
考えるべきである。つまり、自己を構成しているものの中には、意識下にある複雑なゴミゴミしたものが、
存在していて、それらを切って捨てることはできないからである。
つまり、本質を抹消と交換可能にする何かの術や思考を、得られることで、さらに次元を上がることが
出来るのではないか、有限と無限の中にあってそれを救われるような方向へ展開していきたいと
するならば、交換の術を、あみ出すべきである。 だが言葉をつかい、言葉で歪めずに表す方法がある。
それは意味を扱わないこと、意味として表現すれば必ず歪む。 >>761
美しい言葉の響きを表現することでしょうか?それとも、意味に代わる別の、もの(あるいは概念)が、あるのか、
印象を与え、どことなしに外側から浮き彫りにするように、直接的な言及を避けようとすることか、
それらの三つ考えられたものは、どれもいいものには思えますが。 宗教団体に取り込まれてしまった不動明王は、
右手には正義の銀貨を握らされ
左手には不義の荒縄を掴まされ、
充てがわられた粗岩に坐したまま、
電波すら届かない虚無宇宙において、
高次元なる真理の烈火であぶられ続けていた。 フリークライマーは、つかみ所のないところを上る技術をもっている、
それは掴むのではなく、掴んでもらうのだ、岩に体をあて、岩に体を支えてもらう。
意味も同じ、意味を表現し言うはなく、それによって意味が生まれること。 本を読んだりするとき、気をつけるべきなのは、自分が間違った理解をしている可能性に気をつけて、考えて
間違っているなら、もう一度考え直さなくてはいけない、ということだ。さらに、本の内容自体が間違っている
可能性もある。世界についても同様だ。この青空と雲と緑の地球自体の存在が、完全に誤っている、
という可能性があるのである。
自然科学などといって、自然は絶対であると思ってしまうが、その自然自体の意味が、おかしいのではないか、
と反省しなければならない。
誤りを認め、もう一度正しい自分になるために、一度、疑う、間違いを正すといった、当たり前のことを、
していく必要がある。 >>766
金剛石よりもオリハルコン、と同じく、ドゥルーズ(ガダリ)よりデリダ、の方が本物の哲学者な感じです。wikiなどを読んだ感想です。
それと、◇でなくて★がよかったんですか?
ホワイトニング・ダイヤは、しょせんただの石ころです。が、持つ人によって、何があってもアンブレイカブル、かつ、物によってはトランスペアレントになります。
ブラック・スターは、カウンティングできないほど天にはたくさんあるのでしょう。目利きであっても目が潰れるほどキラキラしてます。 >>771
やっぱいいです。ところで宗教はどこですか? >>773
だれー?ここは宗教の板じゃ、ないよーぉ。 >>775
宗教団体に入ってないと悟れないでしょ! >>766
「自分で何とかするべき」などと茶坊主が小突いてる、よ。 >>766
他力本願を掲げる宗教団体の信者なら、悟りも他力本願でいいでしょう。失態するような茶坊主など確かにどうでもいいです。 ,. -‐  ̄ ̄`  ̄ ´  ̄ ̄ ̄ ̄`ヽ._,{ 、,i ! 諸行無常 諸法無我
__.. -/ ,.. / `ヽ、
, -‐ ,.´-─./ /:. . . / ..__ / ! `ヽ ヽ クゥクゥ クゥ 空
/,.-‐´ _r‐' _,ノ: : : : : : : . . . . . . . . . . .(_ `丶、ヽ、 、__,ス ,)
~~ ̄/(三,. -‐ ´ / ,.-‐ ´ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄`丶 l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
~ ̄i l゙´  ̄ ̄ / ,/  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ し,j ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
. l. ! / / 女のスカートの後ろに隠れ手を出す名無し、粘着コテ、妄想(もうぞう)は荒らし確定
. ! | (, ,,/
! ,j 2chの鉄則(おやくそく)とは 【荒らしはスルー(無視・放置)・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん】 しましょう。
ゝ、ノ
● 荒らしは放置されるのが一番の苦手です。
→ ウザイと思ったらそのまま放置!
● 放置の荒らしは焦り、煽りや自作自演、PCスマホで多人数を装い、あなたのレスを誘います
→ 釣られてレスしたらその時点であなたの負け、あなたが荒らしです!!
● 反撃は荒らしの滋養にして栄養であり、ヨダレを垂らして最も喜ぶことです。
→ 荒らしにはエサを投げ与えないで下さい!
●荒らしは語尾に w をつけてあおる特徴があります。
→ 問いに問いで返す脳無しで、裏の小藪に捨てましょう。
●荒らし・粘着にはスルー・あぼ〜ん・透明あぼ〜ん・が推奨です。
→ 無駄レス連続のどたわけは放置。
●荒らしは自立できず、もたれかかり、ストーキングする
→ 放置プレーで共に楽しみましょう。
●無いものを有ると思い、有るものを無いと思う、これが顛倒(てんどう)、妄想(もうぞう)です
→ 公案の答えは無尽蔵、己だけの答えを出せ
●枯死するまで孤独に暴れさせておくのが一番です。
→ ミイラ化です、放置、風化させ、土に戻しましょう で?
何か言いたいなら書き込めばいい、なんでかけないの? >>766
「自分で何とかするべき」などと茶坊主が小突いてる、よ。 >>766
他力本願を掲げる宗教団体の信者なら、悟りも他力本願でいいでしょう。失態するような茶坊主など確かにどうでもいいです。 >>783
ほれ、そこの、☆おにいさん!コールが入ったぞ! >>791
かわいそうだろ、天然は自分で気がつけないから天然言うのよ
そして具体的に説明するほど、絶対に認めないから、 自分が理解できない事象を奇跡として認める連中は、不十分な悟り故? 俺は上から目線が嫌いで、他人を妬んでばかりいるヒキコモリだけど、
3行以上の発言ができない馬鹿なのよ、だけど自分は馬鹿ではなく高学歴、
内容のある高尚な発言をみるとつい一言書き込んでしまう。 _,,;::-―ー-:;:,,、
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,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゙-、.
: | '; \_____ ノ.| ヽ i
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> ヽ. ハ | |
俺の経歴を簡単に紹介しておこう。
東京大学大学院数理科学研究科博士課程を数年前に修了し、
今は某大学で准教授をしている。哲学板にはよく行くよ。
たぶん哲学板住人がよく言うキラリと光る発言とは俺の発言がいくつか含まれているだろうな。
実際、俺は哲学初心者にマジレスをしているし、
哲学初心者からすれば「キラリと光る発言」と見られてもなんら不思議ではない。
言うなれば私は、私の天才的知能により誰もが持っている「内なる世界」
とでも呼ぶべき世界を、常人より遥かに優れた形で構築してしまっている。
その世界は既に外界のそれに迫り、一部では遥かに凌駕してしまっている。 単語を一つ一つ考えることはできるとしても、単語同士の関係を考えるのも、単語と同様に一つの考えである。
関係を考えることも、単語を考えるのとと同様に、一つの考えの単位である。イメージを浮かべる場合、全体
として一つのイメージを思い浮かべることもいいが、そのイメージを構成する要素について、反省することが、
一つのあがきである。自明性を失った自分が、昔どうやっていたか、ということを、思い出すのは困難で
ある。現在の頭の状態が、正しく使えるようになること、そのためには、言語と記憶について、しっかりとした
理論を持っていることが、足掛かりになる。それこそが、正しい思考をすることを望み、あふれるほどの意味が
しっかりと自己を充実させるような状態にないものが、哀しいまましがみついた混乱が、自らの潜在性
によって、いつかはたどり着くことのできる状態へ、だんだん近づいて行く不離不即なる自己と自についての意識、
即ち自明性によって考える必要もなく分かる状態へ行く探索である。
健全なるものが健全性の表現として、思考を紡ぐ。非健全的であるものが、非健全性の表現として、また健全
への渇望を常に感じながら、単語同士の新しい関係を思いつくことが出来れば、その中には注視すべき何らかの
ただ一つであり、皆が感心するような、本当の創造を、為しえることが、たまたま起きることがある。
その先には、健全に近づくための、う回路について考え、生きてきたという、独自の生き方や考え方が、
新しい考え方への一つのアプローチとして、少なくとも自らの中ではそれを捨て去るべきではなく、感情と
卓越の境地を目指そうとする、誰もがやっている思考、行為の、新しい道を通る先鞭を、持っているはずだとして、
注目すべき点は注目し、受け取るべきことは受け取るべきである。失われた普通には、哀惜の念を持つ。
自らの生き方について、前向きに生きようと考えられるようになるきっかけは、何かあるはずである。
苦痛はどのようにも避けられない。不快は不快の原因を解決すればよく、どんな不快も、必ずいつか、
乗り越えられる。文章がきっかけを与えるのは、不安や不幸を逃れたいと思うものの、願う、脱出口である。
人間が幸福になるために、変わるべき境地は、物事についての、一つ一つの理解である。 415考える名無しさん2017/09/11(月) 07:04:25.350
0b11110111111
0b10100000111 >>801
795考える名無しさん2017/09/11(月) 11:53:02.190
自分が理解できない事象を奇跡として認める連中は、不十分な悟り故? >798
905 名前:考える名無しさん 2017/09/11(月) 08:50:42.24 0
>>899
愛のない言葉を語り続けるなら、コテつけてやってもらえます、ね? >>798
905 名前:考える名無しさん 2017/09/11(月) 08:50:42.24 0
>>899
愛のない言葉を語り続けるなら、コテつけてやってもらえます、ね? >>798
東京大学大学院数理科学研究科博士課程終了程度の学歴じゃ「キラリと光る発言」なんて馬鹿すぎて書き込めませんよね? 自己愛とは、常に主観的に自分と他者の関係を見る思考から抜け出せないこと
仏の心を持て。 >>808
仏の心なんて持つ必要ない。
愛されるということは憎まれることだ。 いつもより怒りの感情が湧き上がらないのは、この人は遠くに飛んでいって小さく見えなくなって自分の前から消えるなんてことは、想像つかないからだな。 >>810
>いつもより怒りの感情が湧き上がらないのは
感情を行動の原理としている病気 >>811
何がしたいの?何がいいたいの?
だから早く言えよ、ごちゃごちゃ意味不明な発言しかできないお前って何? >>813
ぷん。゚(゚´ω`゚)゚。
みとめるお。 狂気を活かすと狂気が膨らむ、
混沌の正しさは混沌であって、秩序ではない。
小さなかけらを肥大させるには、自分を否定できる強い意志が必要、
誰かが与えるものではない 作用あれば反作用。
善因善果、悪因悪果。
悪を捨て、善を取ること。
知識で知っていても善因善果の実践が伴わず、
善を捨て悪を取ることになるのは、自らの心を穢し粗末にすることになり、
他の人の心も穢し粗末に扱う。
テイク&テイクの近視眼的地獄の利欲より、感謝からのギブ&テイクの方が
天国の見返りの方がよい。 「見る」という言葉は、もっとも一般性のある思考の能力の、実現結果とその過程を表す言葉ではないかと
思う。小平邦彦『怠け数学者の記』のなかに、「数覚」ということが書いてある。数を、感覚、感じで、とらえられる
能力、感覚を言い表すような言葉である。
見るということについて、何が見えているかということを、明確に意識していない場合があり、その場合には、
至急「見ること」の健全な状態を取り戻すことが肝心だ。
そして、脳内のイメージを、一分に一度くらいは考えているものではないか。それを、「見る」に属するものだと、
考えるのが良い。
そして、人の心が見えてしまうということは、結構あることである。それは、表情を読み、全ての必然を判断することであり、
直覚し、どうしてもわかってしまうことだ。
だが、見るということ(またはある種の感覚によって知覚すること)は、統合的に自分の能力を働かすうえで、
最も高機能で、融通の利く便利な機能である。見ることは、考えとは独立してあるため、行き詰ることが
少ない感覚である。
悟りに合わせて考えると、人間が破れてしまうまでの間、苦しみにさいなまれ、虚しさに心が苦しくなる。だがそれは、
見ることによって、悟りの状態(考えが一つ所にまとまっており、苦しまない行為が実現された場合に、安心し、
そしてまたいくらでも、苦しみを訴えかけ、正直に表せる、というようなこと)は、一つの感覚として自明に
見えるのであれば、そのとき人は生きてよかったと、赦されるのではないだろうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています