カール・マルクス11 [無断転載禁止]©2ch.net
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マルクスは宗教をアヘンであると述べ、宗教弾圧を正当化している >>215
弾圧とまでは言ってませんが、宗教廃止派のドーキンスとかいう人と気が合いそうですね、マルクスは。 アミニズム、多神教は一神教のように、他の価値観を否定するのではなく多様な価値観を許容できると
考えられるけど理性のみを頼りとするマルクスにとってそういった点は端から問題ではないのだろう マルクス主義とキリスト教はそんなに単純に割り切れる関係ではない。
マルクスに先行する共産主義のモデルの1つは聖書のイザヤ書に描かれた天国像だし。
マルクス自身もヘーゲル・フォイエルバッハ・ダーウィンのキリスト教批判を受容する過程で、キリスト教の影響を間接的に受けている。
(共産主義はキリスト教の異端という評価すらある)
資本論出版後も、マルクス主義者とキリスト教界隈との相互批判を通じて、聖書解釈にマルクス主義思想が混入している。
近年の南米の社会主義革命の指導層の1つは、「解放の神学」と呼ばれるマルクス主義の影響を激しく受けたキリスト教思想だった。 マルクスは宗教批判はしたけど、神殺しはしなかったな。 >>219
マルクス主義というのは人間精神の解放を目指すから、不可思議なものにとらわれる宗教や、同様に共同的な幻想である国家を否定している。
>>220
マルクス主義は、フォイエルバッハを踏まえているから、神を肯定することはない。 >>221
宗教には詳しくないが、信仰の世界でも
囚われからの解放のための信仰という概念はあるよ マルクス的な「解放」された人間て、何だかロボットみたいな
感じだね? >>219
マルクスは宗教界から宗教をアヘンであると侮辱した物質主義者だと批判される。
宗教の敵であると。
そこまでキリスト教の解釈を広げるならば、近代科学全体がキリスト教の産物だとさえ
言えてしまうだろう。 フォイエルバッハはけっきょく神を人間の本性へと還元した。
神を人間の本性として肯定せよと言っているようにも解釈できる? >>224
>マルクスは宗教界から宗教をアヘンであると侮辱した物質主義者だと批判される。
たぶん貴方キリスト教神学の本をロクに読んだことないでしょ。
まともな神学者でマルクスの指摘をちゃんと受け止めてない研究者なんておらんよ。
「宗教の敵」なんてとんでもない。長い間キリスト教神学ではマルクス主義の成果をどう聖書解釈に生かしていくかが課題だった。 >>222
それは開放じゃなくて、別のものへ囚われるだけだろう。
>>223
逆。
能力に応じて働き、必要に応じて受け取る。
そして食後には議論を、というのが、マルクスの描いた理想社会。 >>227
「食後には議論を」
つまりマルクス主義的理想世界実現後の労働者達がする議論ですか?いかに今の世界を永遠に保つための議論しかしようが
ないですよね? 科学も哲学も、かつては神の働きを合理的に解明するものとして神学の一環であるという認識で
受け入れられていたのだから、現代文明の全てが宗教と関連付けられると言う主張は十分に
成り立つだろう、何もマルクスだけが特別じゃない >>229
歴史がいわばゴールインした社会だからね、理想社会は
することは体制維持だよな 体制に疑問をもつ人間もいないんだろうし >「体制に疑問をもつ人間もいない」
結局共産主義ってのは「成長より搾取のない社会を望む」っていう価値観が共有されてないと成立し得ないよね。 マルセル・モースの贈与論で検証された、未開の人々による「分け合って共に生きる」という
全体性の概念は共産主義の志す理想にかなり近いが、文化一般から習俗、宗教、総体的な状況が
こういった社会現象を成り立たせているとしたのがモースの結論、原始社会に理論理性による弁証法は
存在しない訳だからマルクス主義による理想はまた違った形式なのだろうか 右翼だシュタイナーだかと言って荒らし回ったり、変な政治スレ乱立させてるのコイツだろ 宗教から現実逃避して、現代文明の解体処理や
更新から、新しい命、をはぐくむ可能性も、少しだけは残しておくべき
なんじゃないかな。自然を再び作り出すことはできそうにないし。 >>229
「理想世界実現後」だの、「今の世界を永遠に保つ」だのって、マルクスをぜんぜん理解してないじゃん。
難癖レベル。 比較的豊かな先進国に住んでいると資本主義の暴力は見えにくいのです。
資本主義にも暗黒面があります。 資本主義には自由がある、共産主義を目指した国家には自由がない
自由は人間にとって空気と同じくらい大事なものだ 共産主義が成立可能であるとする根拠は、結局のところ良心に対する信頼ということになるが
良心というものにどこまで信頼性があるのか
H・G・ウェルズの「透明人間」のような作品は良くあるSFの題材だが、特権的自由を獲得した人間の多くが
反社会的な行動への衝動を抑えることができないという人間本性が異様なリアリティを持って描かれる
しかも、それは特殊な人間の特殊な行動パターンではない、誰にでも該当するという違和感のなさに恐怖がある
人は常々誰かを傷つけ悪事を働きたい気分でいる訳ではないが、周囲の誰からもから咎められることが
ないなら、自己の欲求や快楽を優先することは自明ではないだろうか
現に、世界中で貧しさや飢えに苦しんでいる人がいても自分のなけなしの小遣いを減らしてまで
寄付して救おうとする人は稀だろう >>243
その場合の自由とは何? 自己責任?
開発途上国の中でソ連は経済的に成功したほうじゃね?
アメリカの経済的・軍事的支援があった日本や韓国は別だよ。
それ以外の多くの開発途上国、社会主義を選択しなかった中南米その他の
諸国はずっと貧しい状態が続いてきたよ。
スラム街で暮らす人達に自由はあったんでしょうかね? 少なくともアマルティア・セン氏やマルクスが考えるような「自由」はなかったでしょ。
ブルジョワ的自由=富める階層の自由=富めない階層の自己責任はあったんでしょうけど。 結局プロパガンダに踊らされれて資本主義こそが民主主義であり自由だと無教養な人間が思い込まされていた
中東は成功していない
アフリカも成功していない
南米も成功していない
東南アジアも成功していない
実証されたのは共産主義と資本主義が綯い交ぜになった世界では経済成長で共産主義が遅れを取ると言うこと
科学技術などのアカデミックな分野では東西に大きな開きは無いようにも見える
しかし産業化・製品化の段階においては大きな差が付いていたのは事実だ ヘーゲルにおいて自由はあるものが自分自身をコントロールしている状態だけどマルクスにおける自由はどうなの?もっと具体的なの? >>249
>ヘーゲルにおいて自由はあるものが自分自身をコントロールしている状態だけど
私のおぼろげな記憶が正しければ、ヘーゲルは「自由とは必然性の洞察である」と言っていたんだが・・・
マルクスはその種の純哲学的な問題については、ほとんど何も書き残していない。
(エンゲルスは相当程度書き残しているので、これがマルクスの思想と混同されている。) >>249
今ちょっと調べてみたら「自由とは必然性の洞察である」はヘーゲルでなく、エンゲルスの言葉でしたね。失礼しました。
ただ、ヘーゲルの「法哲学」を見ても「エンチクロペディー」を見ても、ヘーゲルは「そもそも自由とは何か?」という問いと答えの仕方をしていない。
自由、という概念がまるで分かりきったものであるかのように叙述している。
あなたの「ヘーゲルにおいて自由はあるものが自分自身をコントロールしている状態」というご高説も、ヘーゲルに帰せられるというよりはより普遍的な規定と思われる節もあるけれども、ヘーゲルの自由観として十分に通用すると思います。 >>243
>資本主義には自由がある
働いている人間より、資本(株主)の指示が絶対視される法令のどこが自由? >>251
自由について語るには、やっぱりミル的な視点が必要。
そうしないと、それぞれの定義で言いっぱなしの自由の議論になるだけ。
社会として個人を拘束しないことを自由と呼ぶ。 マルクス世界に異を唱える労働者の出現もあり得るか? >>257
人間というのは多様なもの。
ただ、その歴史時間の中で、原始時代から中世へ、中世から現代へと人間性も変化してきている。
いくら、レビ=ストロースが否定しても、人間は原始的な生活のままでは満足しない。
夢物語としての理想世界になれば、国家のような幻想世界は無くなっているので、市民としての個人が相互に意見を交わすことになる。 >>255
そうしてネットで好き勝手なことを書き込める自由はあるだろう
共産主義を理想とする国ではマルクス思想に反すること、それを標榜する共産党に
反することは言論弾圧の対象となる >>260
それはマルクス主義を貶めるための典型的なデマだな。 共産圏ならこんなやつ速攻で射殺、資本主義の国で良かったね >>263
またまたw
自由があるかないかは、経済体制によらない。
独裁的な支配であるか、民主主義的な支配であるかの違いによる。
日本の場合は、どうもその中間らしくて、国連からは非民主主義国として勧告を受けてるw 自由の概念は、カント(ライプニッツ)が統整的に定義したものをヘーゲルが構成的に
とらえ直しマルクスが唯物論的にとらえ直した、と言えよう
カントが考えたのは 「神の国」(アウグスティヌス)だが
精神的
ヘーゲル カント
構成的ーーーー+−−−−統整的
マルクス
物質的
マルクス:
資本論3:48:3
必然の領域の彼岸において、
自己目的として行なわれる人間の力の発展が、真の自由の領域が、──といっても、か
の必然の領域を基礎としてのみ開花しうる自由の領域が、──はじまる。〔874〕労働
日の短縮は根本的条件である。
(自由の領域は通常自由の国と訳される)
Die Revenuen und ihre Quellen. 48. Die trinitarische Formel
http://www.mlwerke.de/me/me25/me25_822.htm
das wahre Reich der Freiheit
https://www.marxists.org/archive/marx/works/download/pdf/Capital-Volume-III.pdf
the true realm of freedom
ヘーゲル:
エンチ挨拶
自然は、理性をただ必然性のもとに実現するように束縛されているのでありますが、
これに反し精神の王国は自由の王国であります。
マルクスは一周回ってカントに近づいているというのが建設的な読み方だろう >>251
>ヘーゲルは「そもそも自由とは何か?」という問いと答えの仕方をしていない
『法の哲学』の緒論で、いやっていうほど自由の議論をしてるけど? >>247
もちろん唯物論的自由。経済的基盤に裏付けられた自由だよ。 >>265
外国語が読めても理解できるわけじゃない、という好例だね。 何も変わらないし何も変えられないのに哲学だの何だの言ってるとたまにむなしくなってくる >>270
学問の99%はなにも変えることはできないだろ?
ちょっとマジレス。 資本主義は、全然、自由じゃないだろ。十分なお金があって、やっと物質的な自由を
得られる。たとえば、マンションの隣人にレベル中(耳障りな水道音を一日中発生させる)の
騒音を毎日出す無職の年金暮らしの禿のDQNがいるとする。十分なお金があれば
すぐに引っ越し手続きを取れるが、そうでなければ、そこに住み続け、そのDQNの出す
騒音に毎日耐えなければならない。こういう状態に自由があるとは言えない。
母子家庭など貧しい家庭であれば、なおさら、そうだ。十分なお金がなければ、居住区間さえ、
事実上、たいした自由はない。
近隣の騒音でたまに殺人事件が発生したりするが、本当は、引っ越しすれば済む話。
それがすぐに出来ないということは、その資金さえないということだろう。 頭に背後から銃口をつきつけられて
「死にたくなかったら俺の言うことを聞け」
と迫られている人にだって選択する余地はある、
つまり自分の運命を選ぶ余地はあるんだから自由だよな? >>249
「自分自身をコントロールしている」とはどういうことだろうか?
スラム街に住まざるをえない人々は自分の人生を思うようにコントロール(支配)
できているんだろうか? 「自由とは必然性の洞察」って、自然や歴史の必然性に縛られてきた人間にとってかなり深い言葉でしょ。
資本主義の「自由」や「権利」っていうtのは歴史的段階的に現れてきたもの。
ブルジョアジーが「経営」できる自由と権利、農民が労働者として資本家と「契約」できる自由と権利として現れてきたもの。
反面、人を搾取する自由と権利でもあったりするから、当然に歴史的階級的な限界はある。
資本主義は封建制の頃に比べたら「自由」について発展してるし、だけど現状では資本主義的自由でしかない、って感じ。
その資本主義的自由も初期の頃に比べたらどんどん変化発展していってる。
自由、特に自然を利用する自由も社会的な自由も、永遠普遍のものじゃなくその内実は変化発展していってる。 「自身をコントロール」とは、主体としての自身が客体としての自身をコントロールするってことでしょ。
それは当然に先ず主体客体の認識が必要だし、また、コントロールできないような制限を解決できるような
能力や条件が必要。
で、その能力をどうやって伸ばすか、その条件をどうやって実現するかが問題になってくる。 >>276
>コントロールできないような制限を解決できるような能力や条件
それが社会的、経済的な状況ということだろ?
いくら能力を伸ばしても、自分だけの力ではどうにもならない。
富を得ようとすれば、その富に自分がコントロールされてしまう。
そもそも、社会的、経済的条件によって、個人の精神が成立しているという面も否定できない。
だから、ヘーゲルは絶対精神へ近づくことが自由だと考えたし、マルクスは社会そのものを変える必要があると考えた。
必然性、とは、ヘーゲルにとってはその絶対精神の表れ方だし、エンゲルスにとっては社会・経済構造の分析と対処の方法ということになる。 乱暴な話だけど、ヘーゲルの「絶対精神」とは「あらゆる必然性を深く正しく認識した絶対知」の状態だとも言える。
もちろんそんなのには到達できないけど、人間の認識や社会の発展の方向性としてはそっちに向かってる。
“絶対的な”「自由」の方向へ。正しい認識に基づいて、自由をさらに得るための条件を変えていく。主体が客体を。
この点でもヘーゲルとマルクスは結びついてる。 個室がそろってないあでやかな建築がいいんじゃないの。 >>260
インターネットに接続できるのも唯物論的自由だけどね。
資本主義の理不尽さを訴えたい本当にスラム街の子供達には
ネットに繋ぐ資本も読み書きを覚える機会もない。
僅かにその機会があったとしても、
その資産で豊富な知識を得た富裕層に対して理論で立ち向かうことはできないだろう。
「ペンの力」と言われているものは実際には多くの資本蓄積を暗示している。
マルクスは自由を観念論から解放し、唯物論的な、現実主義的な、
真にリアルな自由主義を実現する社会とはいかなるものかを考えたということでしょう。 性障碍者には使いにくいかもしれないけど、
生理技術の躍進も目に勝る。 ヘーゲル越えですか。
しかし絶対精神なんてミーハーにやっちゃうと障碍者施設暮らし。
暇なさあ。リスクはあるな。 言論の自由は富める人びとの特権。
貧しい人びとには贅沢品。
食べたいものを食べる自由すら危うい暮らし。
資本主義はそういう人びとの最低限の自由も
自己責任だと見なして切り捨てるから不死身。 >>260
専制国家の専制政治とマルクスと共産主義、これらの間の区別がついていないと思う。
それぞれ次元が違う話なのに 専制政治といえば、資本主義国であるサウジアラビアの専制王政に亀裂が入ってるね。
さらに独裁が強まるのか、王室が拡散していくのか。 マルクス主義には政治経済学的唯物史観には資本主義という土台が
ブルジョワ民主主義(政治制度内民主主義)という上部構造を促進
していって、その結果として共産社会、すなわち経済面での民主主義
へと発展するという命題があったはずだよ。
例えば、中国のような国で資本主義化が達成されれば民主化運動が現れるのは、
マルクス主義唯物史観からすれば当然のことになる。
そして資本主義が実現しなかった国での革命運動はナショナリズムになってしまう。
右翼革命、あるいは空想的社会主義になってしまうというのがマルクス主義の命題。 経済構造という土台があり、それが政治構造という上部構造を促す。
単純に経済が政治よりも先かというと論争があり、ある意味ではそれが相乗効果を
持つということが言えるだろうけど、それも含めてこの命題が成り立つ。
つまり、
資本主義以前の政治形態はブルジョワ民主主義以前の政治(身分制社会政治、専制政治)
と適応関係にあって、資本主義以降ではブルジョワ民主主義がそれに適応する。
これがブルジョワ革命。国家的政治制度の次元での民主化。
そして共産主義的生産様式ではプロレタリアン民主主義がこれに対応する。
すなわち経営権での民主化革命がこの生産様式に適応する政治形態になるという話。 ただし、サウジアラビアとか走資派体制下の中国とかは
マルクス主義の政治経済学的唯物論とは整合しない時代を結構長く保っている。
これはマルクス政治経済学への反証だろうか?
走資派体制下の中国というのはケ小平以降の中国共産党体制を指している。
つまり資本主義化を積極的に促進するという政策をとった中国。
しかしその経済的土台の上では専制的・官僚的な旧い政治が君臨している。
これは一種の開発独裁といえるのかもしれないが。 >>287-288
戦後混乱期の二段階革命論かな?
>>289
経済体制と政治体制は関係ないだろ?
資本主義というのは、資本家が企業を所有するという、大きな意味での資本の独裁体制なんだし。
日本のように、政府が上場企業最大の資本家なんて、中国の経済体制と本質的には変わらない。 ロシア革命前のロシアは、人口の7割以上が農民であった農業国だり、
工場プロレタリアートは都市部で増え始めている程度でした。
マルクスが資本論のモデルにしたイギリスとは産業の発展段階が違いました。
そのころ、ロシア・マルクス主義の父といわれたプレハーノフは
二段階革命論に立ってロシアの資本主義化は不可避であると論じることで
資本主義なしに農民による共産主義革命(一段階革命)を唱えて帝政ロシアに
ゲリラ的武力闘争を仕掛けていたナロードニキと論争したと言われています。
Marxism and "Really Existing Socialism", (Harwood Academic Publishers, 1986)
によれば、{
“A premature socialist revolution could lead to a political monster similar to
the ancient Chinese and Peruvian empires, i.e. to a renewal of tsarist despotism
with a communist lining.” }
「早産の社会主義革命は、古代中国やペルビアン帝国のような政治的なモンスター、
すなわち共産主義の裏地をまとった皇帝の専制政治に繋がる恐れがある。」
とプレハーノフはロシア革命以前に述べていたといいます。
この二段階革命論は、当時のロシアのマルクス主義者たち(のちのメンシェヴィキと
ボリシェヴィキの大半)にとっての自明な共通理解だったと言われています。
ザスーリチという人です。この人はもともとナロードニキでマルクスに手紙を書いています。
そこで、ロシアのマルクス主義者たちはマルクスが二段階革命論を唱えているというが、
本当ですか、とマルクスに直接尋ねたわけです。 >>291
訂正:農業国だり、=> 農業国であり、
訂正:ただし例外的な人がいます。ザスーリチという人です。・・・
ザスーリチという人はもとはナロードニキなので一段階革命論者です。
帝政ロシアを打倒するロシア革命は農本共産主義革命になるという立場です。
しかしロシアのマルクス主義者たちが二段階革命論を唱えてそれに反対しました。
その論拠がマルクスだというのですから、ザスーリチはマルクス自身に直接問いました。
マルクスはそれに答えて自分の書いた資本論はイングランドと西ヨーロッパに
限定した史観を描いているので、その他の諸国に適用できるものではないとし、
どちらかといえばザスーリチに対して好意的と見られるような返答をしました。
これがのちにマルクス主義者の間の論争の火種になりました。
トロツキーによれば、レーニンはロシア革命をあるところではブルジョワ革命だとし、
別のところではブルジョワ革命でも社会主義革命でもないとし、揺れています。 二月革命が一段階、十月革命が二段階目だというのは
非常に矮小化された議論です。 中国なんて「発達した資本主義」には程遠いし、当然に上部構造も他の先進国みたいに発達していない。
初期の資本主義さえまだ実現してないんじゃないか。
それでいて中国を「共産主義革命やった国」だというのなら、マルクスのモデルとは全く別の視点が必要だね。
なのにマルクスと中国を同じにして語りたがるバカ宣伝が多すぎ 中国は学問におけるマルクス研究は盛んなんじゃないの。 つい最近まで日本の文系はマルクス主義で連帯してたんだから何にでも適用して事象を論理的に説明できるマルクス主義ってすごいよな
それが合ってるかどうかはともかく いやぁさすがに金融商品や株式市場については1mmも説明できないと思うぞ マルクス主義が大学内で一定の勢力を維持できていた時代の
資本主義がもっとも成功していたというのは皮肉だな。 >>297
今のマルクス主義の人たちもそうなのかな 一応金融商品については擬制資本との関連で論じる研究はいくつかある。 共産圏では、その理念を否定することは絶対悪となるので別の価値観を標榜する個人や勢力は
黙殺、若しくは弾圧を受ける
しかも、共産主義が上手くいくか否かは結局のところそれを統率し管理する側にいる人間次第で
支配者の思うがままと言うことになり、法の支配や人権とは無縁の社会が到来することは
必然で事実そうなってる >>301
いやらしいちんちんは温もりが違うwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
馬鹿じゃねえの???????????????????????
よくそんなこと言えるなwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
ひゃっはっははははははははははははははははははははははははは
馬鹿過ぎwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww
消えろ! こういうマルクスを崇拝してるやつの頭の悪さをみれば中国、北朝鮮、かつてのカンボジアの凶暴性が腑に落ちる マルクス主義者は他の価値観を絶対認めなし違う価値観を抹殺する
この特質は見事に一致しているよね(笑) マルクス主義の中で、理性的なのはマルクスとエンゲルスだけでそれを実行に移そうとしている人間に
理性が備わっている訳ではないからな、赤旗連中はここの所を根本的に勘違いしている 共産主義を思想弾圧してきた戦前の大日本帝国政府は? 共産主義は、反社会活動、暴力革命を推進していたから普通の国では破壊活動家として
取り締まることが当然の措置とされていたのだよ >>297
>金融商品や株式市場については1mmも説明できない
1mmでも説明できれば大金持ちだよw
儲ける奴はいても、説明できるやつなどいない。
ただの博奕だからね。 >>307
それ、普通の国じゃなくて、資本の要請を受けたファシズムの国、なw 破壊活動を防ごうとするのは普通の国だよ、マルキストはオウムの破壊活動も表現の自由と
認めるのだろうか?ついでに共産圏に表現の自由はないけど資本主義には共産党がいて赤旗を発行する
表現の自由があるのは誰も見たこともない理想の中の共産圏だけである いまどき、共産主義革命を本気で成し遂げようと考えてマルクスを学んでるやつはいないだろう
マルクスは資本主義の矛盾を鋭く解き明かしたが、それに変わる新しい仕組みを考えることにかけては失敗した 戦前・戦中期日本の言論弾圧 (年表)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%83%BB%E6%88%A6%E4%B8%AD%E6%9C%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%A8%80%E8%AB%96%E5%BC%BE%E5%9C%A7_(%E5%B9%B4%E8%A1%A8)
自由民権運動も明治政府に弾圧されていた。
共産主義同盟の依頼でマルクスとエンゲルスにより書かれた
コミュニスト・マニフェスト(共産主義者宣言)は
1848年革命の直前に書き上げられている。
1848年革命
https://ja.wikipedia.org/wiki/1848%E5%B9%B4%E9%9D%A9%E5%91%BD
1848年のフランス革命から、やっと、欧米にも普通選挙制度が広まり始めた。
普選運動
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E9%81%B8%E9%81%8B%E5%8B%95
それ以前は差別選挙の時代でプロレタリアートに選挙権はなかった。
こういう体制下で政権を打倒する現実的な手段は暴力革命だったわけだ。
当時のヨーロッパでは当たり前に起こっていた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています