カール・マルクス11 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>581
>自由主義なんていう考え方は、資本論にはないよ。
>ピケティが左派とか、21世紀の資本も読んでないのかよ。
>マルクスは、日々の改革のために行動するものこそ、共産主義者であると言ってる。
(笑) >>583
>>自由主義なんていう考え方は、資本論にはないよ。
誰か資本論に自由主義が書かれていると言ったのか???謎レス?
>>ピケティが左派とか、21世紀の資本も読んでないのかよ。
左派の意味分かってる?
>>マルクスは、日々の改革のために行動するものこそ、共産主義者であると言ってる。
だから???謎レス? >>582
コテのお花畑君よりは、知識も理解力もあるって自認してるよw
自認というより、コテのお花畑君が確認させてくれてるといった方が当たってるけど。
>>583
正直に、読んでないって吐いちゃえよw
これを機会に、少しは勉強しろよ。 >>584
>資本論は自由主義とはなにか?というメタ経済学の位置に立つ
>>575のこれはなんだ?w
>左派の意味分かってる?
君の左派の定義はなに?
僕は、社会的弱者を大切にする価値観、という意味で使ってるよ。
>左翼の資本主義分析は読む価値がある
>>577のこれはなんだ? 池沼くんは、中身の反論できないから、かまっても無駄。 >>587-588
おいおい、マルクスもピケティも中身を説明できないのが君なんだぜw
マルクスやピケティを説明してみろ、なんて無理はいわない。
せめて、左派の定義ぐらい書いてみろよ。
そもそも、かまわれたくて床屋経済学を書きこんできたのは君なんだから。 >>589
>マルクスやピケティを説明してみろ、なんて無理はいわない。
ほんと馬鹿っぽいレス(笑) マルクスやピケティを説明するとか意味不明。
ほんと池沼くん、なんでこのスレに常駐してんの? こうしてまた一つ貴重なスレが波平に荒らされて消えていくのであった >>590
君って、自己愛障害なのかな?
他人に褒めてもらいたければ、勉強することだよ。 現代で言う経済学は、
希少性、すなわち貨幣価値の分配を分析するための学問だ。
対して、資本論はまず貨幣価値とはなにかから分析して、富を生み出す資本の仕組みを考える。
すなわち現代の経済学は自由主義を前提として受け入れているのに対して、
資本論は自由主義とはなにか?というメタ経済学の位置に立つ。
たとえば資本主義の教義とはなにか?資本主義者とは誰か?
そんなものも、人もいない。
社会主義者が自らを社会主義と呼んだとき、それ以前の人々をそう名付けた。
だから資本主義の教義は社会主義者が考える。
その意味で、資本主義そのものは社会主義者に聴くのが良い。
そして彼らは資本主義分析においてはなかなかの結果を残している。
そこから改善を目指す社会主義については、使いものにならないとしても、
資本主義分析に関してはレベルは高い。 日本では左翼と言えば、明治から進歩がないマルクス原理主義だが、
世界的にはその後も左翼の分析は進んでいる。
たとえばネグリの帝国など、フーコーを参考にした少し前のイタリア左翼の資本主義分析、ネオフォーディズムなどは秀逸で、
あるいは最近の左翼ではないが左派のピケティの21世紀の資本論など、
このように左翼の資本主義分析は読む価値がある。
日本の左翼は、逆に原理論より、改革論に興味を持つ。
その理由が、日本の経済は、西洋資本主義と異なるより複雑なことが考えられて、
また日本の左翼の本性が、現実逃避だからだ。
難しいことよりも、今が悪いという陰謀論でしかない。 >>591
ここがマルクススレだってわかってる?
資本論全部とはいわないけど、マルクスの価値形態論と剰余価値概念について、勉強しておけよ。
それが資本主義経済の根幹だから。 >>594-595
自分のレス繰り返しはじめて、ついに発狂しちゃった?
自己愛って、やだねw >>585
今が悪い陰謀論というより現実的に縁故採用が公務員で未だに採用されているからだろう チャールズ・ダーウィンがその代表作において進化evolutionという言葉は
たった一箇所の例外を除いて使わなかったように
カール・マルクスもその代表作において資本主義Kapitalismusという言葉を
たった一箇所の例外を除いて使わなかった、
ということはどちらもあまり知られていないね。
その一箇所も今日のそれとは違う意味だと重田澄男さんがお書きになっていた。 ダーウィンの以前に進化論は広まっていたし、
マルクスの前に社会主義、共産主義も広まっていた。
マルクスの言ったことはすでに社会主義の祖サンシモンは言っている。 資本だか時間にまで抽象化されてしまうんじゃなかったっけ。知らんけど。
貨幣?当然貨幣も抽象化?され電子なんちゃらに抽象化されるのも必然
だから独占が可能なんじゃねえの?知らんけど。 ていうか死んだ労働ってどういう意味なのですか?
マルクスほどの人がそう言ったというのが個人的にひっかかっています。 生産手段も結局のところ過去の労働の産物だよってニュアンスですね。
要するに、今の労働と過去の労働によって生産が成り立つってことですね。 >>599
経済のシステムと主義主張をあわせた意味での資本主義という言葉が一般化したのが、マルクス以降だからでもあるのだろう。
しかし、昔の日本人は、資本論を訳すときに、たんに言葉を移し替えるのではなく、その意を汲んで、資本制という訳語ではなく資本主義という訳語をあてた。
それが現在まで定着している。
昔の日本人の読解力と語学力には感心させられる。 学問的には資本制が正しいんじゃないか。
原典のドイツ語にちかい英語ではキャピタリスティック何とかで、資本主義より資本制。
資本主義は謂わば己語りで適当だろう。 読んでからにすべきだが上野千鶴子氏の著書では資本制。 >>606
主義というのは価値観の表明。
社会としての価値観は法によって示される。
資本の私的所有を担保するのは法。
だから、資本主義という表現はきわめて正確。 608
生産様式の用語にに価値観を反映させるのだな。
ありがとう。
学んでくる。 wiki
「資本主義」(英語: capitalism)との用語は、1850年にフランスの社会主義者ルイ・ブランによって現代の意味で使用され、
「私が資本主義と呼ぶものは、ある者が他者を締め出す事による、資本の占有である」と記した。
また1861年にピエール・ジョゼフ・プルードンは「資本主義の経済社会体制では、資本は労働する者には所属しない」と記した[15]。
1867年より発行されたカール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスによる著書『資本論』での用語「資本家(資本制)システム」
(英語: capitalistic system)および「資本家(資本制)生産様式」(ドイツ語: kapitalistische Produktionsweise、英語: capitalist mode of production)も、
日本語訳では「資本主義」とされた場合が多い[16]。 マルクスはキャピタリズムと言ってないのではないか。
資本論だが外国語ではダスカピタル、ザキャピタルだ。 資本主義ではどうしても物が余るロスがあって、限界的な文明だったんだろう
ね。マルクスはそこに宛てたものらしい。 現代で言う経済学は、
希少性、すなわち貨幣価値の分配を分析するための学問だ。
対して、資本論はまず貨幣価値とはなにかから分析して、富を生み出す資本の仕組みを考える。
すなわち現代の経済学は自由主義を前提として受け入れているのに対して、
資本論は自由主義とはなにか?というメタ経済学の位置に立つ。
たとえば資本主義の教義とはなにか?資本主義者とは誰か?
そんなものも、人もいない。
社会主義者が自らを社会主義と呼んだとき、それ以前の人々をそう名付けた。
だから資本主義の教義は社会主義者が考える。
その意味で、資本主義そのものは社会主義者に聴くのが良い。
そして彼らは資本主義分析においてはなかなかの結果を残している。
そこから改善を目指す社会主義については、使いものにならないとしても、
資本主義分析に関してはレベルは高い。 日本では左翼と言えば、明治から進歩がないマルクス原理主義だが、
世界的にはその後も左翼の分析は進んでいる。
たとえばネグリの帝国など、フーコーを参考にした少し前のイタリア左翼の資本主義分析、ネオフォーディズムなどは秀逸で、
あるいは最近の左翼ではないが左派のピケティの21世紀の資本論など、
このように左翼の資本主義分析は読む価値がある。
日本の左翼は、逆に原理論より、改革論に興味を持つ。
その理由が、日本の経済は、西洋資本主義と異なるより複雑なことが考えられて、
また日本の左翼の本性が、現実逃避だからだ。
難しいことよりも、今が悪いという陰謀論でしかない。 「資本主義」という用語が適当かどうかとか考えたこともなかったな。 当時、社会主義思想が語られて中で、
マルクスの新しさはなにか? >>609
価値観があって、生産様式が決まる側面もある。 うーん
波平の左翼ってのは政権に対する対抗勢力なんだろ?
アメリカで言うなら民主でも共和でもない第三勢力 『資本論』は定冠詞を持つ各言語ではどう訳されているのか。
ウィキペディアで調べてみた。
英語と北ゲルマン諸語では定冠詞が付きませんね。
定冠詞の使い方に違いがある。
Das Kapital ドイツ語
Capital 英語
Kapitalet スウェーデン語
Kapitalen デンマーク語
Das Kapital (Kapitalen) ノルウェー語
Het Kapitaal オランダ語
Le Capital フランス語
Il Capitale イタリア語
El capital スペイン語
O Capital ポルトガル語
A tőke ハンガリー語
La Kapitalo エスペラント
ちなみに、トマ・ピケティ氏の『21世紀の資本』でも
同様ですが、ただしオランダ語だけは
Kapitaal in de 21ste eeuw
と定冠詞が付いていません。 社会主義自体は自由主義よりも早いと言える。
自由主義は難解だが、
社会主義は単純だ。
単純には富を均等に分ける、それだけのことだ。
啓蒙主義の延長から生まれた。
自由主義がいかに生まれたかは難しい。
ロック、ヒューム、アダムスミスの流れだが、
そもそもにおいて、自由主義とはなにか今も難解な問題だ。 社会主義の基礎的なアイデアはサンシモンが生み出した。
労働手段の分配、産業中心主義、唯物史観など
マルクスにサンシモンからの新しいアイデアはない。 俺なんかが共産主義になったらえらい事になる。
顰めは無くなったが民度を上げないと。 資本主義、社会主義ということが妥協の産物でしかない以上は
結局のところ、自由と平等は両立しないってことだよ
完全な自由主義もなければ完全な福祉国家も存在し得ない 丸山だけでなく河合栄次郎らのオールドリベラル論が要るんだよ。それは日本だけだけど。
自由主義でいければそれで良いんだから。
俺は薄く黙る。 自由主義を論じるに当たって、格差が何とかなった時に論点は共同体ー個人の空洞化。
それが問題なければ自由主義で良いと思う。 マイノリティの差別が生産様式と関わるかを考えるのも重要。
つまりは格差、差別と空洞化。 ○自由主義でいければ俺はそれで良いような気がする。 資本、国家批判の書物は読まないといけない。
所謂革新左派は、自由主義の補完ないし超克とかそういう簡単な事じゃないと思う。 史的唯物論の書物も読まなきゃいけないし。
俺は薄く黙る。 いつもの私の詐欺です。
勉強する。荒らしてすまん。 人間なんて存在自体が差別的なんだから平等なんてはじめから考えないことに尽きる
子供は守るべきだが大人になったら野垂れ死んでもしょうがない 平等は狂ってるよ
何でも等しいとか
公平こそがあるべき姿 なんでも平等にしなきゃならないなら、高須クリニックに頼んで顔の大きさや身長の高さを
向井理と同じにして貰わなきゃ不公平のはずだが現実は保険すら効かない
生まれながらにして持ってるもんには文句を言わないんだよな、生まれながらのモンほど
不平等なものはないというのに 生育した家庭環境とかは言われるようになっているかな。 才能と努力から乱雑に搾取してる。
才能と努力を潰し黙る。 ブルジョア社会は、平等主義を能力主義的に解釈しがち。
会社の規格にハマるように労働者を改造・開発・均質化しなきゃいけないとする。
それを労働者の自己責任にしようが、学校教育として押し付けようが同じ。
マルクスはこれをブルジョア平等主義とみなして資本主義の欠陥とした。
生まれたばかりの共産主義はただちにこの欠陥を克服することはできないだろうが、
徐々にブルジョア平等主義(=人間の規格化)を克服していくのが共産社会だと展望した。 能力主義的平等主義は、平等を実現するためには個々の人間を
改造して均質化しなきゃいけないという発想をとる。
個々の人間がすべて均一な一定の条件にフィットしなければ
平等の権利を個人に与えるべきでないと考える。
そのため、資本主義社会は、労働力によって個人を規格化する
一大権力システムを教育制度としてはりめぐらす。
これはかのミシェル・フーコーが指摘したことだね。 資本主義社会は、民主主義や個人主義や自由主義といいながら、
学校教育はそうじゃない。全体主義と変わらない。
デモクラティックスクールは資本主義社会でもマイノリティー。
デモクラティックスクールは、資本主義が必要としない、
資本主義市場が嫌う民主主義的に覚醒した人材を育ててしまうからね。 センの潜在能力や、ロールズによる機会の平等という論理は一見して妥当だが
どんな環境に置かれても馬鹿は馬鹿なんだし結局、恵まれた環境に置かれてもできない馬鹿など
助ける義務はないし勝手に死んでろってことだよな、そんなことがほんとうに
社会正義と言えるのか
文明社会では、それを維持し発展させうる能力だけを重視されるが馬鹿でも一定の存在価値が
認められるってのがほんとの平等じゃないか
機会の平等など経済ベースに乗ってないことは全て無価値と断ずる差別的な論理だ 資本制学校教育は、ボウルズとゲンタスが考察したように、
民主国家の国民を育てるためにあるというよりは、
資本制企業に服従する労働者を養成するシステムとなって
労働市場によって編制されている。
生徒が教師の命令に一方的に服従することが美徳とされている。
生徒の意見をできるだけ教育に反映させようとする民主国家の
モデルにはなっていない。 スティグリッツさんやセンさんやピケティさんを含めて、
リベラル派とみなされる経済学者が見てみぬふりをしているのはこの点。
この点にしっかり眼を向けたのは、マルクス経済学などの影響を受けた
ラディカル経済学派として知られるボールズやギンタスのような人たちだけ。
ただし、ピケティさんは少しだけ彼の先輩ピエール・ブルデューさんに
言及してはいる。ブルデューは学校教育が資本主義的格差の再生産をしている
隠れた工場になっていることを社会学的実証しようとした社会学者。 ボウルズさんとギンタスさんは資本制企業が経営独裁制を採用していることに
批判的な目を向けた経済学者。
経済的効率性から考えてその合理的必要性は疑わしいと彼らは主張した。
彼らの最近の仕事は、ゲーム理論によって平等思想の進化の合理性を証明したもの。 セン氏はロールズ流のそれを批判的に見ているね。
ただし、彼にはフーコー、ボウルズ、ギンタス、ブルデューといった人々が
持っていた問題意識はなさそう。
経済学的な人的資本論を政治的に中立なものとしてそのまま無批判に信じていそう。 フーコーの規律権力止まりか。古っ(笑)
いまや、フーコーの生権力がベースでは
ネグりの帝国しかり >どんな環境に置かれても馬鹿は馬鹿なんだし結局、恵まれた環境に置かれてもできない馬鹿など
>助ける義務はないし勝手に死んでろってことだよな、そんなことがほんとうに
>社会正義と言えるのか
>文明社会では、それを維持し発展させうる能力だけを重視されるが馬鹿でも一定の存在価値が
>認められるってのがほんとの平等じゃないか
>機会の平等など経済ベースに乗ってないことは全て無価値と断ずる差別的な論理だ
だから国家は無くならないわけだ。
社会保障を担う必要がある。 で、肝心の自由主義の平等、機会の平等を批判して、
何を固定するわけ?
ベタに左翼の労働手段の平等な分配? wiki
ボウルズは、長年の盟友となるハーバート・ギンタスと同様、もともと新古典派経済学を学んだが、
1960年代から1970年代にかけての激動期を通じて、正統派経済学に対して根元的な懐疑を抱くようになり、
マルクス経済学の概念的枠組みにつよく傾斜し、ラディカル・エコノミックスという新しい経済学の考え方を
定式化し、発展させてきた。
主な研究としては、教育を通じて不平等が是正されないメカニズムを精緻に分析した『アメリカ資本主義と学校教育』[1]、
また現代アメリカの直面する経済的困難の原因を、アメリカ経済を支える広範な社会的・制度的構造にまで遡って
えぐり出し打開策を提示した『アメリカ衰退の経済学』[2]などがある。
また資本主義的労働過程に内在する権力関係の構造を分析するモデルとして抗争交換モデルを提示して[3]、
労働現場への参加の決定権(採用/解雇の権限)を握る雇用者が、労働者による労働努力の発揮態度を自己に
有利な方向に誘導することを示し、同じく雇い主−労働者の間の情報の非対称性の点から出発するが、
交渉の参加主体の構成を所与と考える取引費用経済学やプリンシパル=エージェント理論とは異なる分析視座を提供した。
抗争交換モデルは、労働市場だけでなく、借り手がどのような条件を提示しても資金を調達できない現象が生じる
資本市場の分析にも用いられる。
抗争交換モデルは、初出論文の副題「資本主義の政治経済学のための新しいミクロ的基礎」が示す通り、
これまでマクロ・レベル(階級間レベル)でとらえられがちだった資本主義内の権力関係を、
ミクロ・レベル(個人間レベル)から分析し得るツールである。
現在でも不平等の原因とその帰結についての研究は、ボウルズの中心的関心の一つだが、最近ではそれに加えて、
最新の行動経済学や進化心理学の成果を下にした「互恵的利他行動」の研究[4]にも力を注いでいる。 ボウルズさん、ギンタスさんは、左翼ではないやん。
なんか、左翼に引き寄せて、考えすぎでは、
プラグマティズムのデューイの継承なら、正統なアメリカ思想の流れのような 全体的に言ってることがごちゃごちゃだよ。
ボウルズさん、ギンタスさんを、左翼、マルクス主義に繋がるのは無理がある。
マルクス的な考え方を使ったとしても、自由主義者であることに変わりが無いわけで >>653
それらは新しいとか古いといった問題じゃないね。
ディシプリンの問題はまだまだ手付かず。
日本の論者も欧米の論者もちゃんと論じていない。
ボウルズとギンタス両氏が間接的に若干扱った程度。 マルクスはエピキュリアンでヒューマニズムの人だと思ってたけど、
自由主義者と言われるとどうなんだろうという感じもする。 労働者が資本家に売り渡すのは労働力ばかりではなく彼の自由である。
労働者は自分の自由を売って資本家の支配の下に入ることで餓えなくて済む。 一般に労働者は、労働時間だけを資本制企業に拘束されているだけだと思われているけど、
違う。
フーコーが明らかにしたのは、労働者は至るところで生活のすべてを資本制企業に
管理されているということ。
彼の人生をとりまく教育やら医療やらメディアやらを通して資本主義的ディシプリンの
管理下で生活している。 >>660
フーコーの図式では、
規律訓練は、近代化初期の状態
生権力は、その後の状態
権力は、規律訓練権力のようなわかりやすいものではない。
自由にさせる権力になっている。
そして大きな権力が管理するということな、陰謀論でもない。
経済性を重視して、自由にさせる。そのときに権力があちこちに偏在する。 管理下という言い方に語弊があるなら、監視下と言い換えてもいい。
自由主義を自称する資本主義的社会を貫いているのは一望監視体制。
巧妙に組織されたゲーム論的全体主義だよ。 ディシプリン権力:ミクロ権力
バイオ権力:マクロ権力
だよ。
前者がモダン、後者がポストモダン
って図式はフーコーのどの著作に書かれているの? >>663
違う!
フーコーが言ったことは、
彼の人生をとりまく教育やら医療やらメディアやらを通して資本主義的ディシプリンの管理下で生活している。
それは、資本家であるとか、政治家であるとか、大きな権力が陰謀しているのではなく、
人は自由に振る舞うことで、管理下にある。
そこにあるのは、しいていえば、誰かではなく、経済合理性そのもの。
そしてフーコーが単純にそれが悪いとも言ってない。
そのような状態にあるといった。 フーコーの権力は、いわばゲーム論的権力。
経済学が使っているゲームの理論(=ディシプリン)を
フーコーは一種の権力網として見ている。 これからの時代は、
タイムカードによる管理を逃れようとして匍匐前進していた電通の社員を他山の石として、
より巧妙な社員管理がなされるようになるんだろうなとは思う。 >>668
ディシプリン権力が近代化初期で、
バイオ権力がその後だという記述はどこにあるの? バイオポリティクスは人口統制に代表される権力でしょう。
少子化問題の言説がそれに当たる。 >フーコーの権力は、いわばゲーム論的権力。
はぁ???(笑) >>673
ディシプリンの権力は近代化の初期に消滅したと?
そしてそれに代わって生権力が出てきたという記述があるの? 主体同士の戯れと競争が相半ばすることろに成立するのが
権力ゲームとして見られているんだろう。 >>678
そちらの言い方だと、ディシプリンの権力は近代初期にもう消滅して
生の権力にとってかわられたものだから、もうそれを論ずるのは古いよ、
って話なんでしょ? >>680
権力を規律訓練で語る、
大きな権力の陰謀論で語るのは、恥知らずの低脳。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています