カール・マルクス11 [無断転載禁止]©2ch.net
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バイオポリティクスは人口統制に代表される権力でしょう。
少子化問題の言説がそれに当たる。 >フーコーの権力は、いわばゲーム論的権力。
はぁ???(笑) >>673
ディシプリンの権力は近代化の初期に消滅したと?
そしてそれに代わって生権力が出てきたという記述があるの? 主体同士の戯れと競争が相半ばすることろに成立するのが
権力ゲームとして見られているんだろう。 >>678
そちらの言い方だと、ディシプリンの権力は近代初期にもう消滅して
生の権力にとってかわられたものだから、もうそれを論ずるのは古いよ、
って話なんでしょ? >>680
権力を規律訓練で語る、
大きな権力の陰謀論で語るのは、恥知らずの低脳。 >>679
主体たる俺らがやってるコールアンドレスポンスも、
フーコー権力論で語られる一種の状況だよ。 >>681
もしかしてフーコーは、ディシプリンの権力論を途中で放棄して
バイオ権力論に転向したって理解をしているとか?
経済学でいうゲームの理論に対応するのがフーコーの権力ゲーム論だよ。 学校で規律訓練が働いていないとは言ってない。
子供には多かれ少なかれ、規律訓練は必要。
ただしそれととも、自由であることも教える。
規律訓練が、単純労働をつく出すとすれば、
生権力の自由は、知的労働、散財な消費者を作る。
現代の経済においては、後者の方が重要。 フーコーは、従来の「抑圧の権力」として理解するのではなく、
経済学でいうところの「インセンティブの権力」として理解したほうが、
近代の権力技術というのをうまく分析できると言ったんだよ。 >>682-683
ん???
言ってることこっちに寄せた来たな(笑) 文科省がやってるSGHとかSSHは
知的労働の改革のために産業界に応える目的で成立しているようなものかもしれないな。 禊健太郎さんにはもしかして
ディシプリンの権力=抑圧の形式をとる権力
バイオ権力=自由の形式をとる権力???
という図式があるのかな? 謙虚に勉強しな。
>>
私が「自由主義的」という言葉を用いるのは、まず、ここに確立しつつある統治実践が、しかじかの自由を尊重したり、
しかじかの自由を保障したりすることに甘んじるものではないからです。
より根本的な言い方をするなら、この統治実践は自由を消費するものです。
・・・自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないことでもあります。
自由を生産し、組織化しなければならないということ。したがって新たな統治術は、
自由を運営するものとして自らを提示することになります。
・・・自由の生産と、自由を生産しながらもそれを制限し破壊するリスクをもつようなものとのあいだの、
常に変化し常に動的な一つの関係が、そこに創設されるということです。
・・・一方では自由を生産しなければなりません。しかし他方では、自由を生産するというこの身振りそのものが、
制限、管理、強制、脅迫にもとづいた義務などが打ち立てられることを含意しているのです。
自由主義、それは絶えず自由を製造しようとするもの、自由を生み出し生産しようとするものなのです。
そしてそこにはもちろん、自由の製造によって提起される制約の問題、コストの問題が伴うことになります。
・・・自由製造のコストを計算するための原理は、・・・もちろん、安全(セキュリティ)と呼ばれるものです。
・・・自由主義は、安全と自由の作用を運営することによって、個々人と集団とができる限り危険に晒され
ないようにしなければならないのです。
自由主義と自由主義的統治術の第二の帰結、それはもちろん、管理、制約、強制の手続きの途方もない拡張であり、
これが自由の代償と自由の歯止めを構成することになります。
私が十分に強調しておいたとおり、あの大いなる規律の技術、すなわち、個々人の行動様式を
その最も細かい細部に至るまで毎日規則正しく引き受けるものとしての規律の技術が、発達し、急成長し、
社会を貫いて拡散するのは、自由の時代と正確に同時代のことでした。
経済的自由、私が述べたような意味での自由主義と、規律の諸技術とは、
ここでもやはり完全に結びついているということです。P77-82
「生政治の誕生」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790489)
<< また、抑圧の権力がもう重要でないともフーコー氏は言っていないはずだよ。
それだけだと権力分析として不十分だと主張しているにすぎない。
抑圧の権力が近代社会以降にもうない、重要性がなくなったとは言っていない。
それと同等に、インセンティブの権力、つまりゲーム論的構造に個人を囲い込んで
一見自由に自己決定させているかのように働きかける権力も無視できないとしたんだよ。 >>690
それを読むと、ディシプリンの権力とバイオ権力とが表裏一体であることがわかるじゃん。
フーコーがどこで近代社会はディシプリンの権力を不要のものとしたと述べているの? もう一つ、
>ボウルズさんとギンタスさんは資本制企業が経営独裁制を採用していることに
>批判的な目を向けた経済学者。
>経済的効率性から考えてその合理的必要性は疑わしいと彼らは主張した。
ボウルズさんとギンタスさんの言っていることは面白いが、
ものすごくアメリカの文脈に寄せてない?
社会主義が進んだ欧州や、日本では、ちょっと違うかな。 >>693
>能力主義的平等主義は、平等を実現するためには個々の人間を
>改造して均質化しなきゃいけないという発想をとる。
>個々の人間がすべて均一な一定の条件にフィットしなければ
>平等の権利を個人に与えるべきでないと考える。
>そのため、資本主義社会は、労働力によって個人を規格化する
>一大権力システムを教育制度としてはりめぐらす。
>これはかのミシェル・フーコーが指摘したことだね。
しつこい、やり直しはやり直しだよ! どこだったかな、フーコーさんは、社会主義国に住んだときの経験から、
自由主義諸国よりもある意味で自由な社会だったということを
どこかで述べていたよね? スウェーデン以外の外国に住んだことはあるのか?>社会主義国 左翼なら、フーコーより、ネグり読んだ方がいいな
>>
つまるところ私たちは、情報経済の頂点にあるサーヴィス部門を動かしている非物質的な労働の三つのタイプを区別することができる。
第一のタイプは、工業生産に含まれたものである。工業生産は、その生産過程そのものを変容させるような仕方で情報化されており、
コミュニケーション・テクノロジーを組み込むようになっている。
製造はサーヴィスとみなされ、耐久消費財を生産する物質的労働も非物質的労働へと向かい、それを混合されている。
第二のタイプは、分析的でシンボルを扱う作業という非物質的労働であり、それ自体が一方では創造的で知的な操作に、
他方ではシンボルを扱ってはいるがルーティンの作業に分裂していくものである。
最後に、非物質労働の第三のタイプは情動の生産と操作を含むもので、(仮想的または現実的な)人間的接触、
身体的様式における労働を要求するものである。これらがグローバル経済のポストモダン化を推し進めている、三つのタイプの労働である。
情動にかかわる労働が生み出すものは社会的ネットワークであり、コミュニティの諸形態であり、生権力なのである。
ここでもまた経済的生産における道具的な行為が、人間関係におけるコミュニケーション的行為と結合されてきていることがわかるだろう。P378
「<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性」 ネグリ=ハート (ISBN:4753102246)
<< >>
知的労働あるいは非物質的労働は、労働時間と非労働時間とを明確に区分しない。
たとえば商品の企画、アイディアをひねり出す作業。それは、職場から帰ったあとも、飲みに行こうが風呂にはいろうが、
寝つくまえのベッドだろうが私たちの生活にとりつくだろう。
この労働は、それが支出する場所も時間も特定することはないのだ。
・・・その平面は、一方では、新しい権力テクノロジーをむすびつき社会総体を利潤生産の場として形成することで
「資本による実質的包摂」の完成をしるしづけている
・・・この平面を利潤形成へと向けて収斂させて解釈するのか、つまり生活への資本の全般的支配として解釈するのか、
それともそこから全面的に逃れるための高度の可能性として解釈するのか、それが問われている。
知の社会化を表現する言葉が、「大衆知性」である。
・・・大衆知性とは、「水平的に社会を横断して拡がる集団的インテリジェンス、蓄積された知的力」であり、
特定の集団にのみ限定されるものではない。・・・それは多かれ少なかれ現代社会の人間総体を規定している。
こういう概念によって示されているのは、ポストフォーディズムの資本主義における開放的ポテンシャルを明確に指示するためである。
・・・資本は現在こうした実践を自らの価値形成の源泉としてそのまま組み込んでいる。
資本は労働者の協働にとって外部からコマンドを下し、そしてその生産物をわがものとする、
その意味で、資本はますます「寄生的」性格を剥き出しにしているのだ。P45-48
「自由論」 新しい権力地図が生まれるとき 酒井隆史 (ISBN:9784791758982)
<< ボクは右派だからトフラー
>>
世界の富の創出の基礎にある・・・生産消費の価値が実際に、経済専門家が計測している金銭経済の総生産と
ほぼ変わらない規模があるのであれば、生産消費は「隠れた半分」だといえる。
同様の推測を世界全体に適用し、とくに生産消費だけで生活している何億人もの農民の生産高を考慮すれば、
おそらくは見失われている金額が五十兆ドルに達するだろう。
これらの点がきわめて重要なのは、知識革命がつぎの段階に入るとともに、経済のうち生産消費セクターが
目ざましく変化し、歴史的な大転換が起ころうとしているからである。
貧しい国で大量の農民が徐々に金銭経済に組み込まれていく一方、豊かな国では大量の人がまさに
逆の動きをとっている。世界経済のうち非金銭的な部分、生産消費の部分での活動が急速に拡大しているのである。
日曜大工やDIYの類に止まらない広範囲な分野で。
この結果、まったく新しい市場が開かれ、古い市場が消えていく。
生産消費の役割が拡大するとともに、消費者の役割が変化していく。
医療、年金、教育、技術、技術革新、財政に大きな影響を与える。
バイオ、ナノ・ツール、デスクトップ生産、夢の新素材などによって、過去には想像すらできなかったことが誰でも、
生産消費者として行えるようになる世界を考えるべきだ。P294-296
「富の未来」 アルビン・トフラー (ISBN:4062134527)
<< たとえば、少子化問題で自由主義諸国は露骨な上からの法的権力で
国民に働きかけるだけではない。
ディシプリンとは知的権力でもあって国民の下半身事情までを学問的監視下に置く。
そして国民の下半身の問題を人々に語らせる言説を爆発させていく。
国民がみずから互いに他人の行動を監視し合う社会的空気をその言説網でもって
社会的に構築していく。 ■シェアリング‐エコノミー(sharing economy)
>>
物・サービス・場所などを、多くの人と共有・交換して利用する社会的な仕組み。
自動車を個人や会社で共有するカーシェアリングをはじめ、
ソーシャルメディアを活用して、個人間の貸し借りを仲介するさまざまなシェアリングサービスが登場している。
シェアエコノミー。シェアエコ。共有型経済。
最近は、個人投資や、直接労働を売るシステムが広がってる。自分の得意を時間単位売る。
個人に投資する「VALU」サービス、仕組みとリスク・危険性・問題点
http://cslbook.com/business/5312/
あなたの30分が商品になる!?空き時間を売るタイムチケットとは?
https://hintos.jp/articles/timeticket_20170120/ #hintos
<<
ネットでまだシェアリングエコノミーが広がっていないことの方が不思議だ。
実はシェアリングエコノミーの手前まで来ている。交換されるのは、関心。いいね!ブクマなどを交換する。なぜこれが現金にならないのか?
単純に簡単に払えるお金がないから。ただそれだけだ。グーグルに儲けさせるなら、コンテンツ製作者に金を払うべきだ。
メルカリを従来の売買と考えるとわからないんだろう。
家に余っているものをシェアしあうという基本的な感覚がある。ほしい人がいれば安く譲りますよ。
それが女性たちに受けている。そこにコミュニケーションの楽しさがある。たとえば売れることがいいね!がつく的な。慈悲のエコノミー
そう遠くない時期に、ネット上の投げ銭は一般化する。これは交換ではない。
アフィリエイトの0.1円から、投げ銭の一人が十円。
すなわち100人分の価値を持つ。いいねは、投げ銭に変わる。
ネット収入月数万程度は普通になるだろう。そして多くの月何十万、何百万稼ぐものも多く出てくる。
というか、いまやすでにテレビタレント目指すより、YouTuberが早くて実入りがいいと言われているが >>702
だいぶ生権力っぽくなった。
まだまだだな。 >>694
アメリカの文脈ってなに?
ブルデュー氏の研究もかつてはフランス階級社会独自の事情だろうと
大した根拠もなく矮小化されていたが、いまでは日本も含めて
多くの国の学校教育で観察できることが分かってきているはずだよ。 禊健太郎さんは、フーコー権力論をポストモダニズム論者っぽく解釈しすぎなんじゃね?
特に日本の論者にはそういう傾向があったんじゃないかな? >>705
欧州、日本は、アメリカほど経済合理的か、ということ。
アメリカの自由主義、経済合理性の文脈での批判かなと。 >>704
生権力というのは人口・公衆衛生・国民の健康をマクロ的に監視していくものだよ。
フーコーの自由主義論とは関係ない。 全員を一人一人マイナンバー等で管理して行くようになるのだろうか。 フーコーは自由主義をと新自由主義を比較対照して論じていたはず。
前者は重商主義・レッセフェール、後者はドイツのレプケとかの国家が競争を促進するべく介入するものとして。 >>707
ボウルズさんとギンタスさんがまず疑って問題にしたのは
資本制企業が採用しているピラミッド型の経営支配・労働者管理が、
経済合理性に本当に適ってそうなっているのか、ということだよ。
そうじゃない、というのが彼らの主張だった。
資本制企業がそのような独裁的な統治システムを採用しているのは
階級利害の反映であってイデオロギー的なものだということ。
アメリカの極端な経済合理性を批判するとか、そういう話じゃないよ。 >>713
>資本制企業が採用しているピラミッド型の経営支配・労働者管理が、
>経済合理性に本当に適ってそうなっているのか、ということだよ。
それそのものがアメリカ的ではない?
経営層と労働者層の格差。
経営層の高額な報酬、と労働者の低賃金。
アメリカではこれが経済合理性で理論づけられている。経営学など。
ここまでの極端は、欧米、日本にはない。 >>713
>ボウルズさんとギンタスさんがまず疑って問題にしたのは
>資本制企業がそのような独裁的な統治システムを採用しているのは
>階級利害の反映であってイデオロギー的なものだということ。
でもボウギンさん知らなかったけど、賛成する。
ボクも前々から言ってる。
自由主義では、自由競争のリスクは避けられて、
勝ち組は勝ち組で徒党を組み、負け組を排除し続ける。
それは当然のこと。 特にアメリカは、この傾向が強い。
恐ろしい富の集中があり、それを許容しているのが、アメリカ文化。
自由競争を超えて、弱肉強食を許容している。
強いものが勝つのは正しい。 だから常々言ってるだろ。
革命を起こすしかこの経済格差の壁を打ち壊す術は無いと。
教育も強者が独占的に受けるのだからね一度落ちた者達には子々孫々未来はないのは明白。
教養なくともブルーカラーもこの程度の論理的帰結は導き出せるだろう。
敵は在日とか中・韓・朝じゃない。
日本に巣食う侍の末裔どもだ。 アメリカニズムの基盤を考えると、
一つはピューリタンニズム
二つは開拓精神
三つは合理的科学主義
ここから生まれたのが、
キリスト教原理主義
プラグマティズム
自由主義、自由競争
科学至上主義
ハードボイルド
アメリカでは、開拓精神から言葉より実働が重視される。
結果を出すものが正しい。だから自由競争も許容される。タフであること。
それでいて、ピューリタンニズムから厳しい倫理は重視される。
排他的な面も強い。根強い黒人差別も、キリスト教原理主義と結びついている。白人至上として。
そしてなんと言っても、特徴的なことが、科学主義。
マッドサイエンスの国だ。
深い科学信仰があり、すべてを科学で記述できると考えている。
心理学、認知科学、社会学、遺伝工学、経営学、
特に人間科学においては飛び抜けている。
たとえばIQはアメリカで開発されて、アメリカではIQで人間の良し悪しを図る。
日本ではIQはネタでしかない。
そんな数値で人間が測れると考えない。
このタフさと合理性がアメリカのかっこよさを支えている。
20世紀はアメリカの正規であるが、
いまにつながる豊かな消費社会を作ったのはアメリカである。 20世紀はアメリカの世紀であるが、
いまにつながる豊かな消費社会を作ったのはアメリカの、
タフな勤勉さと、科学的合理性である。 アメリカはいまも啓蒙主義を生きている。
19世紀のタイムカプセルである。
啓蒙主義とは、楽観的な科学主義である。
科学的な合理性で世界を設計することで、人々が幸福になると素直に信じられていた時代。
理性とは人を科学的な合理性に位置づけための単位である。
プロテスタンティズムと啓蒙主義を持って、彼らは海を渡った。
そこから最初に生まれた思想がプラグマティズムである。
実動を重視する。結果がすべてである。
またそこ時代にアメリカ人が熱狂したのが進化論だ。
特に社会進化論。
弱肉強食は社会の摂理であり、格差はあって当然のもの。
ヒトラーは社会進化論を重視し、科学主義により、ユダヤ人を虐待したが、
いまも世界で社会進化論を信じているのはアメリカ人だけだろう。 遺伝子工学、認知科学、心理学、クローン技術、経済学、経営学、ゲーム理論など、社会科学がアメリカが中心であるのは、
楽観的科学主義により、倫理が低いからだ。
マッドサイエンスの国。
うるさいのは、キリスト教原理原理主義ぐらいだ。
キリスト教に抵触する部分で急にうるさくなる。
中絶や、進化論を信じないとか。 ボウギンさん知らなかったけど、
アメリカの楽観的科学主義への反動という文脈があるだろう。 もう一つ、楽観的科学主義がアメリカ以外で、交替したのは、世界大戦の影響が大きい。
楽観的科学主義のもと、突入した世界大戦において、
人々は地獄を見ることになる。
科学的に発展した兵器の前に、人は動物になる。
人権は失われて、名もなく消えていくのみ。
その極限がホロコーストである。
欧州もアジアも、傷を負った。
ただアメリカだけが、本土を戦場とせず、
むしろ世界一に成り上がった。
その後、ベトナム、イラク戦争を経験するが、
遠い国の出来事だ。 IT革命がアメリカ人にしか無理なのは、
IT革命は科学的合理主義の上に立っている初めて可能だ。
IT革命は簡単に言えば、サービスをセルフサービスにきて、コストを下げること。
情弱は排除する弱肉強食、すなわち社会進化論の系譜がある。
特に日本人のように情弱を含めて補完することを基本とする国には無理だ。
マイクロソフト、グーグル、アマゾン、ツイッターなどなど、いまや世界企業の彼らも、ユーザーへのサービス体制はなきと言って良い。
人々もパナソニックには文句を言うが、グーグルに文句を言っても仕方がないことを知っている。
そこにはまた、選民思想がある。
セルフサービスできない、自己解決できない奴は情弱、負け組。
社会進化論的に劣った人間。 アメリカ人のIT革命はいつもこの選民思想を基本に躍進してきた。
最近のiPhoneに熱狂し、ガラケーを蔑視する日本人は、
アメリカニズムの選民性の優越に乗っかっている。
弱者を置き去りにどんどん進むアメリカのかっこよさ。
弱者に配慮し続けて全体を考えて、なかなか進まない日本人。
アメリカ人のかっけー! だからアメリカ人は競って、勝者になろうと競争を繰り広げる。
それが活性となる。
弱さを見せない。実行し勝つ。
ハードボイルドだね。
アメリカ人かっけー! >>730
やっと自覚したか。
荒らしはいい加減にしろ。 お前なんでコテを禊健太郎に変えたの?
波平に戻せよ >>647
>資本主義市場が嫌う民主主義的に覚醒した人材を育ててしまうからね。
>生徒の意見をできるだけ教育に反映させようとする民主国家の
>モデルにはなっていない。
均質化を批判する。
自律的主体になれということ?
理性主義か?
そもそもマルクスって何を言った?
結局、なにを目指すか明確でない。 マルクスが唱えたのは革命だろ
資産家を殺さなきゃ世界はくぁらないってストレートに教えてくれた >>735
ついでに、バカ右翼も消えた方がいいなw >>736
こういう単細胞もついでに片付けたほうが良い >>737
共産主義=暴力革命
資本主義=穏健保守
たしかに単細胞だw マルクスの革命には、おおざっぱに二つの種類があって、
一つのフランス革命のような政治的な激烈な短期間の「事件としての革命」、
もう一つは産業革命のような漸進的で歴史段階的な「技術革新としての革命」。
マルクスの革命論に先進諸国における古さがあるとすれば前者の革命論かもしれない。
前者の革命はどちらかというと後発産業革命地域における歴史的事件を指している。
マルクスとエンゲルスが生きたヨーロッパはこの種の暴力革命が頻発する時代だった。
いまでも中東とかにしばしば見られる。少し前には東欧とかでも。
しかし少なくとも先進諸国ではこういう革命は時代遅れになっているように見える。 一つの => 一つは
マルクス学派の革命史観を非常に単純化しちゃうと、
技術の進歩という進歩史観が土台にあって、
それに適応するようにその上に産業構造の発展というか長期変動があり、
それに伴って生産様式や生産関係などの社会的変動がある。
技術の進歩に社会が適応する過程は漸進的な場合もあれば、
矛盾をストレスとして蓄積してあるとき大地震が起こるように革命的
になることもある。暴力革命はその突出した面であって、
マルクス学派が考えている革命はもっと長期スパンの産業革命という概念に近い。
シュンペータはここからヒントを得てイノベーションという概念を唱えたのではなかったか。 マルクスの革命論はどこまでも論理的なもの。
唯物史観があって、農業社会から資本主義社会、そして社会主義と移る。
そして資本主義がなぜ資本主義へ変わるのかも、資本論において必然的。
実際、革命に暴力的なもんがあってもそれは変化のための結果であって、
暴力革命ではない。 逆に言えば、それがマルクス主義の弱点。
論理的に出来過ぎている故に、もろい。
なぜ共産主義はことごとく、独裁制となるのか。
簡単に言えばあまりにも人間を信じすぎているから。
左翼はいつも甘い。 シュンペータのイノベーションは、マルクスとなんか関係あったっけ??? 結局、マルクスの共産主義とはなにか良くわからない。
未完で死んじゃったし イノベーションは19世紀ヨーロッパの暴力革命が進化して
20世紀以降の先進諸国に適応した形式なんでしょうね。
資本主義経済自体が、自ら革命的であって、絶え間ぬ進化を
その構造維持において要請されている。
だから資本主義経済はその進化によって革命の土台を自ら築き上げる。
それがマルクスの資本主義観の一つを形成しているのではなかったかな? 未完で死んだから俺たちが完成させるんだって熱狂が起きる
ハイデガーのように晩節を汚さずに済んだ 現代の左翼だと柄谷が自分から晩節を積極的に貶めているな ソ連が経済的に資本主義に後れを取ったのは事実だ
しかしそこで暮らしていた人間は不幸だったかと言えばそういう訳でもなかっただろう ミラノビッチさんがピケティさんにある意味反論している。
ピケティさんはクズネッツ曲線のモデルを反証したが、
ミラノビッチさんはクズネッツ曲線の修正版(繰り返しバージョン)のモデル
をもってきて、ピケティさんよりも長期スパンの不平等を説明できると
主張なさっている。
それはマルサス・サイクルの一般化で、クズネッツサイクルと彼はそれを呼んだ。 ブランコ・ミラノビッチさんはグローバル経済では世界はより平等化しつつあるという。
特に、中国がその平等化に貢献したことは多くの経済学者が認めているところだ。
中国にかぎらず、ここのところの東アジアの経済成長はめまぐるしい。
中国、インド、インドネシア、タイ、ベトナム、そして遅れてモンゴルや中央アジア諸国
もこの波に乗ってくるかもしれない。東アジアの中間層が急成長しているというのだ。
反論もある。ジニ係数は相対値だ。絶対値で見れば、世界の不平等は拡大しているように見える。
ミラノビッチさんは相対値で表す通常のジニ係数を支持し、擁護している。
最低所得者年収8万円と最高所得者年収80万円の格差があったとしよう。
これが年収80万円と年収800万円に変化してもジニ係数は変わらない。
ところが80-8=72, 800-80=720だ。
ジニ係数は変わらなくても最低所得者が72万しか増やしていないのに
最高所得者はその間に720万も増やしていることになる。
ミラノビッチはジニ係数を擁護するために近代経済学の効用理論をもってくる。
つまり限界効用逓減の法則というやつだ。
金持ちの720万円は見かけの値の高さとは違って実際の効用は低いという。 ジニ係数:
ちなみにピケティはジニ係数(7-1,2,3の表では併記)に批判的だ。
《経済学者の著作や、国民の論議に登場する所得格差の統計指標は、労働と資本の格差
というまったく異なる要素を混ぜ合わせたジニ係数のような総合指標であることが多い
ため、格差の多様な様相とそこで働いているメカニズムをはっきり区別できない。これ
に対し、私はこれらの要素を可能なかぎり厳密に区別して考えよう。》 (21世紀の資本論#7)
以下、吉川洋マクロ経済学2009年173頁より
100 __________
| /|
累| /o|
積| / |
所| / o |
得| / |
シ| /B o | A
ェ| / |
ア|45度 o |
(%) / o |
|/_________|
0 所得順位 100
三日月の面積B、二等辺三角形の面積A、B/A=ジニ係数 >>745
マルクスの革命論
資本主義から社会主義へは、
資本主義の限界を示すもので、
シュンペーターのイノベーション論は関係ないどころか、逆でしょ。
資本主義は自ら非連続的に進歩し続ける。 ピケティも資本主義が絶対的に世界を豊かにしていることは否定していない。
ピケティが問題にしてあるのは、格差が固定すること。
金持ちは金持ちで居続ける、 おさらいになるが、
マルクスは資本主義を否定したわけではない。
先の階級制社会からのプルジョア革命としては評価した。
しかしそれだけでは不十分でプロレタリア革命が必要と考えた。
必要というか、プロレタリア革命が起こり社会主義へ移るのが歴史の必然と考えた。
たとえば資本論で商品、貨幣がいかに偶然の脆いものかを示すことで、
世界恐慌により破綻をきたすと考えた。 シュンペーターのイノベーション論は別の文脈から生まれた。
セイの法則のように、資本主義は初めは生産が先行していた。
いかに安価に大量生産するか、作れば消費はあとからついてくる。
生産も飽和に近づく中で、シュンペーターのイノベーションのように、経済発展は、創造的破壊により、非連続に発展するや、
ケインズのように消費重視の経済学へ変化する。
実際、フォードの安価な自動車の生産は画期的であったが、すぐに単に安いだけでなくデザインなど付加価値を求められるようになった。 ケインズは有効需要論で、無駄な公共事業でも需要を作る出すことが、経済の発展に繋がるという、
現代のマクロ経済論の基礎を作った。
マクロにおいては無駄遣いこそが人々を豊かにする。
それまでの、ものを大切に、清貧の思想とは逆の世界がマクロにはあるという、
現代でもなんだかんだ言って、経済政策はケインズを基本としている。
ハイエクはケインズのライバルで、
アメリカの新自由主義政策で脚光を浴びた。
自由な経済活動こそ、社会を豊かににする。
これはピケティの資本主義の格差論と対立しない。
まだまだ自由が足りないから、格差が生まれると考えることができる。
自由が中途半端だから富を持つものが有利に働く、それがいまの資本主義だ。
要するに、ピケティは過去のデータから格差の固定を明らかにしたか、なぜかまでは明らかにしていない。 やはりポイントは資本だろう。
資本とはなにか。交換手段でも、蓄蔵手段でもなく、積極的に金を生むために活用される金だ。
金を貸す。そして時間をおいて返すときに増えて返ってくる。
貨幣は交換手段においては、等価交換であるが、
資本は金を使った贈与交換なのである。
贈与交換はそもそもにおいて信用を基本にする。
信用なく、ものを貸しても返ってくる保証はない。
等価交換はその場で一瞬で等価に精算されるので信用はいらない。
信用とはなにか。
相手を見極めることだ。
自由主義は、経済性を最優先に自由競争を行うことを求められる。
相手ヵ誰かではなく、もっとも経済的によい条件の相手を選ぶ。
公共事業の入札が理想だ。
しかしここで資本の信用はグレーとなる。
誰を信用するか。
ここに客観的な判断は難しい。
そして好き嫌いや、あるいは個人的な裏金など、わもわくが入る余地が生まれる。
贈収賄。
マルクスは資本そのものの金の分配を問題にしたが、贈与交換としての信用には触れなかった。
なぜかわからない。
アダムスミスなど正統派経済学を目指すマルクスは、贈与交換のようなグレーなものは入れたくなかったのかも知れない。
この贈与交換、信用を排除したマルクスの潔癖さがその後の共産主義の躓きとなる。 なぜ共産主義はかならず独裁制に陥るのか。
すなわち中央は贈収賄にまみれるのか。
中央に集まる巨大な富の分配過程で生まれると、贈与交換に対処する機構がない。
中央の官僚は潔癖でしかあり得ない。
それが、マルクスの真面目さだ。
資本主義では、富は社会に流動して、中央に集まるのは一部である。
さらに自由競争、機会の均等は簡単にギャンブルの世界だ。
偶然が絶えず侵入して、誰にも負ける可能性がある。
政府も偶然から無縁ではない。
柄谷がくじ引きで官僚を決めると言ったとか。
まさに共産主義の中央に偶然を侵入させないと、
信用という魔物を排除することはできない。
権力は、必ず腐敗する。
特に共産主義社会において、ということ。 今では贈収賄はゲーム理論において理にかなっている。
長期間継続するゲームにおいて、信用により仲間を作ることが、決定的に有利である。
ゲーム理論ごときが示すものは、当然人は社会で実行している。
すなわち贈収賄は貨幣交換に先行する。
人は贈収賄を基本に経済を運営してきた。
貨幣等価交換は最近後からきた新参者だ、
交換とはそもそも贈収賄なのである。
この基本的なことがマルクスにはわからなかった。
さよならマルクス 貨幣金融経済より配給制度なんかの方が僕は好きなわけ。それと死体拾い。
なぜかな? いまだに韓国は汚職国家だし、中国は習近平が汚職撲滅で党員の大量粛清を行った、
日本もリニア事業で大手ゼネコンたちの談合が問題になっている。
ある意味当然であり、
できるだけ自由競争を回避して贈与交換にすることが、合理的であり、
先に贈与交換があり、近代に自由競争が入ってきた。
ハイエクの積極的な自由主義とはそのような意味でもある。さすが自由主義の祖ヒュームの継承者。
自由競争は、徹底しないと雑草は増え続ける。
自由は放任ではなく、自由は積極的推進するものだ。
社会に偶然を侵入させて、活性化することで経済発展は生まれる。 >>759
自由が足りないから格差が生まれると言うのが妄想
それも証明されていないのに何んで事実みたいにさらっとねじ込んでんだよw
ぺっ マルクスの分析した資本主義は奴隷制度とは違い
労働者が消費をすることで成り立つ
だから搾取の仕方は目に見えにくい
そこに資本論の重要性がある
奴隷制度を告発するなら単純明快だが
全体に豊かになったという人は近代以前、資本主義以前には
雇用関係が固定されていなかったことを想起すべきだ 限界効用を持ってくるとマルクスは確かに旗色が悪い
ただしスラッファのように標準商品を仮定するとマルクスの生産中心主義が
正しいとわかる
http://members.jcom.home.ne.jp/fuga-buriki-can/comparative%20study3-2.htm
〔需要関数と生産関数の違い――イタリア人経済学者ピエロ・スラッファは、
「マーシャル・クロス」を「〈需要関数〉は、効用逓減という基本的かつ自然的
なる仮定の上に立つ。これに反して、生産における関数関係は、これよりもずっと
複雑な仮定を持った体系の結果である。限界効用に関する研究が、価格と(消費さ
れた)数量との関係に注意をひきつけたあとではじめて、類推によって費用と生産
量との関係という均斉的な概念が生まれたというのが事実である」(『経済学に
おける古典と近代』、菱山泉・田口芳弘訳、有斐閣、1956年)と評した。十分
ではないが、極めて妥当な鑑定である。〕
ピエロ・スラッファ (Piero Sraffa), 1898-1983.
http://cruel.org/econthought/profiles/sraffa.html
20 世紀の経済学の巨人ピエロ・スラッファは、同時に経済学で最も寡作な一人
だった――でもそのわずかな論文の一つ一つが、とんでもない代物ばかりだった。
スラッファの 1926 年の規模に対するリターンと完全競争に関する論文 (1925 年イタリア
語論文の改訂) は、マーシャル派の企業理論にすさまじい矛盾を見つけ出した。自分の
業績に関する有名な 1930 年のシンポジウム結語でかれが述べたように:
「わたしはマーシャルの理論に内在的な前提が何なのかを見つけ出そうとしています。
ロバートソンさんはそれをきわめて非現実的と見なすようですが、わたしもそれに同意
します。あの理論が、論理的に自己矛盾を起こさず、しかもそもそも説明しようとし
た事実と一貫性を持つような形では解釈不可能だということについては意見の一致を見
ているようです。ロバートソンさんの対処療法は数式を廃棄することで、その示唆によ
ればわたしの手法は事実を廃棄しようとしているのだとか。あらかじめ申し上げておく
べきだったかもしれませんが、こういう状況にあっては、廃棄されるべきはマーシャル
の理論なのではないかと考えております」(Piero Sraffa, 1930, Economic Journal, March, p.93) >全体に豊かになったという人は近代以前、資本主義以前には
>雇用関係が固定されていなかったことを想起すべきだ
ガチガチに固定さていたと思うが??? >>767
>限界効用を持ってくるとマルクスは確かに旗色が悪い
限界効用説とマルクスになんの関係が? >マルクスの分析した資本主義は奴隷制度とは違い
>労働者が消費をすることで成り立つ
>だから搾取の仕方は目に見えにくい
>そこに資本論の重要性がある
マルクスは、資本が生む金を問題にした、
これを労働者からの搾取と考えた。
なぜ金が金を生むのか。
金を貸すことは、返ってこないリスクを伴うからだ。
投資することで、回収できないリスクがある。
資本家はそのリスクを背負っている。
そのリターンだ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています