謙虚に勉強しな。

>>
私が「自由主義的」という言葉を用いるのは、まず、ここに確立しつつある統治実践が、しかじかの自由を尊重したり、
しかじかの自由を保障したりすることに甘んじるものではないからです。
より根本的な言い方をするなら、この統治実践は自由を消費するものです。
・・・自由を消費するということはつまり、自由を生産しなければならないことでもあります。
自由を生産し、組織化しなければならないということ。したがって新たな統治術は、
自由を運営するものとして自らを提示することになります。

・・・自由の生産と、自由を生産しながらもそれを制限し破壊するリスクをもつようなものとのあいだの、
常に変化し常に動的な一つの関係が、そこに創設されるということです。
・・・一方では自由を生産しなければなりません。しかし他方では、自由を生産するというこの身振りそのものが、
制限、管理、強制、脅迫にもとづいた義務などが打ち立てられることを含意しているのです。

自由主義、それは絶えず自由を製造しようとするもの、自由を生み出し生産しようとするものなのです。
そしてそこにはもちろん、自由の製造によって提起される制約の問題、コストの問題が伴うことになります。
・・・自由製造のコストを計算するための原理は、・・・もちろん、安全(セキュリティ)と呼ばれるものです。
・・・自由主義は、安全と自由の作用を運営することによって、個々人と集団とができる限り危険に晒され
ないようにしなければならないのです。

自由主義と自由主義的統治術の第二の帰結、それはもちろん、管理、制約、強制の手続きの途方もない拡張であり、
これが自由の代償と自由の歯止めを構成することになります。
私が十分に強調しておいたとおり、あの大いなる規律の技術、すなわち、個々人の行動様式を
その最も細かい細部に至るまで毎日規則正しく引き受けるものとしての規律の技術が、発達し、急成長し、
社会を貫いて拡散するのは、自由の時代と正確に同時代のことでした。
経済的自由、私が述べたような意味での自由主義と、規律の諸技術とは、
ここでもやはり完全に結びついているということです。P77-82


「生政治の誕生」 ミシェル・フーコー (ISBN:4480790489)
<<