アリストテレスから世界はおかしくなった [無断転載禁止]©2ch.net
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アリストテレスも貢献してるよ。大事な下地です。(☆∀☆)
何処からおかしくなったかって言えば
人間が産まれた時に意識を持った時に
真実の世界を知ることができないの。
人間の意識から世界を間違ってしか見えないの。(;_;)
仕方ないの。 私の意識の欠点は
客観性を承諾してしまうこと。
それと、
生きること全体像を存在ではなく所有してしまうところです。
( ̄▽ ̄;)、
皆さんのアリストテレスの話を邪魔しましたね
気を付けます。
それでは。(☆∀☆) アリストテレスが体系化したのは、学問ではない。
われわれの住む、この世界を体系化して再編成したのだ。 そうだ、細分化だ
アリストテレスは、世界を細分化して再構成した プラトンは、この世は仮の世界であり、イデアが実在界にあるというニ世界論を唱えた。
アリストテレスはそれを否定し、形相がこの世の事物に内在しているという一世界論に改めた。 アリストテレスといえば、質料と形相だ。
たとえば、鉄筋コンクリートが質料で、貸ビルが形相。
木材が質料で、貸家が形相。
このように、この世の事物は、この2つから構成されている。 形而上学と中庸という概念がアリストテレスの半端さを物語ってる
イデアとか難しく考えないで着想としてのアイデアでいい
それは我々の当たり前 石造りの家なら、石が質料で、家が形相。
木造の家なら、木が質料で、家が形相。
RC造の家なら、鉄筋コンクリートが質料で、家が形相。
ここで、石や木や鉄筋コンクリートは、そのままでも存在する。
家は、それだけでは存在できない。
つまり、質料がなければ、形相は単独で存在できない。 狼と犬の違いは、人間がつけた名前の違いでしかない。
もしも、狼も「犬」と呼ばれていたならば、狼という存在はない。
シベリアンハスキーは、犬よりも狼に似ている。
でも、それは犬であって、狼ではない。
人間が、そう呼んでいるから。 このように、アリストテレスのいう「形相」ってのは、結局のところ、
「人間がつけた名前なのである」という解釈がスタンダードになっていった。 形相の中でも、最も重要な形相。
それは、「存在」。
机が存在する。
イスが存在する。
「存在」も存在する。 こうして、「アリストテレスのいう形相ってのは、人がつけた名前なんである」という説と、
「いや、そんなものではない。形相は、この世の事物に内在する実在なのである」
という説が対立して、大論争になった。 まあ、そんなこんなで、たぶん、アリストテレス本人には、そのつもりはなかったと思う。
でも、結果的に彼は、唯名論の祖となった。 形相は、いつの間にか、「人がつけた名前」ってことになってしまった。
困るのは、「存在」が名前にすぎないということだった。
キリスト教において、「存在」は神。
「存在」が存在しないと仮定する。
それは、「存在」であるということと矛盾する。
ゆえに、神は存在する。
・・・この話の前提が崩れるんだから、困ったものだ。 ブタとイノシシは、いったい何が違うのか。
質料は、ほとんど同じだ。
だが、形相が異なる。
ていうか、名前が違うだけ。
名前が同じだったら、区別がつかない。 というより、ほとんどの四つ足動物は、日本初が名前をつけて区別しているだけなのかもしれない。
人間は、名前をつけることによって、世界を細分化している。
中世の普遍論争において、唯名論は勝利した。
20世紀の哲学は、唯名論の圧勝。
ソシュールは、究極の唯名論者。 日本初じゃない、人間だ。
スマホのせいで、奇妙な変換が多い。 つまり、世界を細分化したのは、全知全能の神ではない。
細分化したのは、アリストテレス。 アリストテレスは1.5流の哲学者
プラトンとヘーゲルは1流
ソクラテスは超1流
ヘラクレイトスは神というか極み アリストテレスは、プラトンの崇高な思想を、地ベタに引きずり下ろしたな。 アリストテレス哲学みたいな、見るからにつまらない思想が、なぜ一世を風靡したか? しかし、プラトンが実在論で、アリストテレスが唯名論かといったら、そう単純ではない 実在論者にとっては、プラトンとアリストテレスは両方とも実在論の祖。
唯名論者にとっては、両方とも唯名論の祖なのである。 中学生の頃アリストテレスとアルキメデスの混合をよくしていた 中世ヨーロッパでは、新プラトン主義が主流で、アリストテレスは忘れられていた。
イスラム諸国との交流が盛んになった12世紀ルネサンスのおかげで、
アリストテレスは急に復活した。
後には、アリストテレスに逆らう者は火あぶりになるってくらいの権威になった。 アルキメデスと比べて、アリストテレスは中途半端に科学的だから、現代人にはバカバカしく見えてしまう。 プラトンやアルキメデスは数学者、アリストテレスは生物学者という違いがある。
近現代でも、唯物論を唱えた人には、生物学の関係者が多い。
無神論の教祖・ドーキンスとか。
生物学をやっていると、生命が「機械」に見えてくる。
物理学者と比べて、無神論者が多い。 もっとも、アリストテレス自身は、無神論者ではなかった。
あの世を否定し、この世しか見ていない。
それが、アリストテレスの特徴。 近代に入って、デカルトは、アリストテレスに由来するスコラ哲学の、
稚拙な科学的思考にガマンできなくなった。
デカルトは、新たな哲学体系を創ることを決意した。 プラトンやデカルトは、数学理論から世界を解明する合理論。
アリストテレスは、生物をひたすら調べる経験論。
これは結局のところ、数学者・物理学者と、生物学者の気質というか、
研究スタイルの違いによるものが大きい。 中世における実在論と唯名論の論争も、近代における合理論と経験論の論争も、
結局は古代における、プラトンvsアリストテレスの対立が続いたものと言ってよい。 「万学の祖」とされるアリストテレスだが、人間だから、自ずと得意分野というものがある。
なんといっても、生物学。
とくに、動物の系統分類が最も得意な分野だった。 プラトンは、幾何学者だった。
プラトンのいうイデアとは、「完全なる三課角形」とか、基本的に幾何学の発想。
結局のところ、これは人間の心の中にある観念。
それに対してアリストテレスは、基本的に生物学者だ。
彼のいう「エイドス、形相」というのは、「犬や昆虫の分類」に代表される、生物学の発想。
チョウという形相もあれば、ガという形相もある。
それはいったい、何に由来するのか。
これは結局のところ、人間がつけた名前。 嫌がらせをして徹底的に追い詰めたうえで、余裕がないことを本人の資質のせいにして非難するんですよ。 >>55
はじめから本人に資質無かったやん
はじめから見ててわかってたでしょう つるつるぴかぴかに洗濯されたきれいな脳をしているようですね。 https://search.yahoo.co.jp/video/search;_ylt=A2RCD04RBbVYTSsAJ0SHrPN7?p=brand+new+heavies+album&aq=-1&oq=&ei=UTF-8 広報される事実に対する反応としての民意(リアクション民主主義)への信頼が失われているという感じはする。 知識人(?)がいくら反応を煽っても扇動効果が薄い。 サヨク知識人が、世間の一般人から相手にされなくなってしまった。
高卒からも「あいつらはバカ」と思われている。 アリストテレスから、オッカムのウィリアムへ、そして、ソシュールへ。
それが、唯名論の系譜。 唯名論
真に存在するのは個々のもの、例えば個人のようなものだけであって、人間一般とか人類とかのようなものは(便宜上の)名前や記号に過ぎないと考える立場。 「普遍は実在しない。真に存在するのは個物」
この考え方は、アリストテレスに由来する 最大のアリストテレス注釈者 アヴェロエス
アブー・アル=ワリード・ムハンマド・イブン・アフマド・イブン・ルシュドは、スペインのコルドバ生まれの哲学者。 アヴェロエス の名でよく知られている。アラブ・イスラム世界におけるアリストテレスの注釈者として有名。また、医学百科事典を著した。 アリストテレスは、「普遍は実在しない」とまでは言ってない。
「真に存在するのは個物」というのが、アリストテレスの主張。
普遍は、イデア界にあるわけではない。
それは、形相として、ひとつひとつの個物に内在している。 アリストテレス自身は、唯名論者とは言えない。
アリストテレスの理論では、普遍は「形相」として、個物に内在しているからだ。
でも、その形相とは何なのかを突き詰めれば、それは「人がつけた名前」ということになる。
こうして、アリストテレスは唯名論の祖となった。 中世ヨーロッパでは、プラトンの「イデア」が、キリスト教の「神」とほぼ同一視されていた。
神学・哲学界は、「実在論」一色だった。
そこに風穴を空けたのが、アヴェロエスのアリストテレス注解書。
それは、12世紀ルネサンスがもたらしたイスラムの先進文化だった。
ここで、「唯名論」が台頭する。
実在論vs唯名論。
中世ヨーロッパの哲学界を二分する「普遍論争」の火蓋が切って落とされた。 孔子や孟子の注釈書を書いて、自説を展開する。
いかにして、孔孟の古典を自説に強引に当てはめ、
「孔子や孟子もこう言っていた」ということにするか。
そこが、腕の見せどころ。
そういうのが、東洋思想の伝統だ。
朱子も王陽明も、みんなそうだ。
西洋哲学も、それに似たところがある。
結局のところ、プラトンやアリストテレスを、どう解釈するかで決まる。 普遍存在vs個別存在
本質存在vs事実存在
中世ヨーロッパでは、どちらを重視するかで、その人の哲学的スタンスが決まった。
前者を重視するのがプラトン的な立場で、後者を重視するのがアリストテレス的な立場。
20世紀の哲学界においては、アリストテレス的な立場が圧勝して完全に勝負がついた。 ソシュールにおいては、言語によって世界が分節化されている。
アリストテレスの「形相」を、「言語」によって置き換えれば、そのままソシュールの思想になる。 キリスト教にとって、「普遍が実在しない」は大きな衝撃だった。
「イエス・キリストは、全人類の罪をあがなって死んだ」というのが、キリスト教の教義。
「人類」という普遍存在がなく、存在するのは各々の個人だけであり、
個人の寄せ集めが「人類」なのだとすれば、この教義は崩壊しかねない。 プラトン的なものを厳しく排撃したのは、ニーチェだった。
ニーチェのおかげで、神は死んだ。
ついでに、「イデア」も死んだ。 儒教が孔子様の教えであるように、ギリシャ哲学もやはり、根本的にはプラトンの教えなのだ。
アリストテレスは、それに対するアンチテーゼにすぎない。 「アリストテレスは、私を蹴飛ばして出ていってしまった。
まるで、子馬が産みの母馬にそうするように」byプラトン 学生の頃、かの高名なる今道友信教授に、
「ボクには、プラトンのイデアというのが、実にシックリ来ます。
それに比べて、アリストテレスの形相、これは分かりません。
いや、言ってることは分かるんだけど、こんな考え方をすることによって、
何の意味があるのか、そこが分からない」という質問、というより悩み相談をしたことがある。
だが、「まあ、そりゃなかなか分からないだろうね」と一蹴されてしまった。 これは、現代の分析哲学の人たちがやっている言語分析を見て、
多くの人が抱く感想と同根と言える。
「やってることは分かるんだけど、それをやることによって何の意味があるのか。
そこが分からない」という感想だ。
分析哲学こそは、アリストテレス的な発想の成れの果て。
変身を重ねたあげくの最終形と言っていいだろう。 何事も到達地点がくだらないということは往々にしてある。
自分の家が到達地点なら、到達地点だけ見るなら何も変わらない。
でも、いろいろ旅をして回れば思わぬ発見があるだろう。
くだらない到達地点に至ることがもう分っているなら、
別の道をたどってみることもできる。 アリストテレスを読むことに意義はあるが、分哲を読む価値はゼロ。
読む価値がゼロであることを発見するために読む価値はあるかもな。 妖乳とか 魔乳とか と神乳とかと、普通の生活で・・・
交配?そりゃ月夜の魔物は恐ろしいだろ。禅僧にとっては。
文哲より禅フィロソフィーのほうが。 クワインとががいいとおもうよ。イスラム特に女子兵には。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています