論理学・集合論 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>191 朝っぱらから、ご丁寧にありがとうございました、数 学基礎論のような論理集合計算系統の人間さんは、別 の板に全て追い出されてたので哲学板ではゴミが無分 別に散らかり、そんな形式的意味的ゴミ未満の文章や 、文学的詩学的価値もない文章に、とほほ、飽き飽き していました、なので、少しは楽しめそうで、いわゆ る高知能でない、腑抜け腰抜け腰砕け、ばかりがこう べを並べていた、のが厳密な原因であろう、と気分的 に考えなくもない、です、ね。 対比(能動態 vs 受動態)が等さを生む(中動態)ことが数が現れること であり、対比と等さのいずれかが時間的に優先するということではない。 むしろ、対比が等さを生むことが時間の前提であり、在ることの基礎である。 725 名前:考える名無しさん 2017/08/19(土) 04:32:22.53 0 こういう感じで、数学というのは、非常に論理的なところが面白い。 逆に、数学が苦手だったり、嫌になる理由も、そこにあると思う。 文系やアナログ脳全開の人たちには、数学はあまりに論理的過ぎて、 「あなた、つれないわ」、という感じになるのだろう。 哲学好きで、数学が苦手というのが、両者とも高度な論理性を要請するので、よく判らないのだけどね。 726 名前:考える名無しさん 2017/08/19(土) 04:40:27.50 0 >数学ではなくても、厳密な定義から始めて、厳密な手続きに従えば、厳密に正しい結果が得られると思い込む場合も同じことだ。 そうかもしれない。数学は演繹の体系なので、公理やそこから導き出された定理に厳密に従っているだけ、とも表現出来る。公理や定理の外部にあるような論理には数学ではアクセスしづらいだろうね。 727 名前:考える名無しさん 2017/08/19(土) 07:58:19.41 0 理系の学問というものを「理系哲学」とすれば、「文系哲学」と何らかのすみわけがある。 どこが異なるのか? 理系哲学を「形式的」というならば、文系哲学は「非形式的」である。 「哲学」とするならばどちらも含む。 非形式的よりの哲学のひとつに日常言語派(哲学)があるのだろう。 それでも「形式」をすてているわけではなく、「非形式的」な「核」のもとで「形式」も援用されている。 理系も文系も、哲学であるなら「理性」に訴えねばならない。 形式的に理性に訴えるのか、非形式的に理性に訴えるのか、そこの違いなのだろうか? 👀 Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) 中動態がどうのというのは、図書館の待ちリストが長すぎて、まだ読んでない んだけど、宣伝文に書かれていたことが変に感じられたから気になっている。 名詞的なことは、どう考えても順序的には、先ではなくて、後だよ。 中動態>>193 のことですか。これらは、それぞれをもっと正確に理解してれば、順序的先後のところも含めて、言わんとしている意図は妥当です。が、今は理解が浅いので混乱してるだけです。 引用して使えるような洞察が宣伝文に含まれているかどうか、それが私が本を 購入する気になるかどうかの分かれ目となっている。 >>187 >当該論理を直接使用するのでなく、当該論理の代替として新規に言語文法をいくつか構築し、 >その新言語を媒介として論理を適用し、よって母体へ達する、考えはありますか。 ない。なぜなら 巨大な計算機でも人工知能でも、そしてそれが人間でも良いが 計算という作業によって、その当の「計算のためのアルゴリズム」に達するとは思わない。 人間が計算をしているとき、それに必要な脳内活動を認識できるわけではない。 仮にその『計算機』が計算のアルゴリズムを認識できた場合 その作業に於いては「計算のアルゴリズムを認識するための“アルゴリズム”」が働いており その“アルゴリズム”にまでは達していない。 いかなる新言語を用いようと、その新言語を言語として成立させるための活動を 新言語が表現しているわけではない。 さらに悪い事に、以上の推論は、「“架空の”世界観(=マトリックス、水槽脳)」を前提としており、 それは「「システムの階層構造」ということになるわけだが、その世界観が正しいことは そもそも言えない(正しいとも正しくないとも言えない) なぜなら世界観とは、世界がそのようであって欲しいという欲求を根拠としているだけだから。 >>187 >「永遠にそれが可能であることは保証されない」などは存在しない、のをコテさんは認めますか。 何を根拠にそれが『存在しない』と貴方は主張するのか、よく分からない。 1)何が矛盾しているのか。 2)仮に何かが矛盾しているとした場合、貴方は「矛盾するようなことは存在もしない」 という主張を支持しているのか。 宣伝文で出し惜しみをしてはいけない。宣伝文だけから判断すると、 能動態と受動態の関係を、使役と使役の受動態の関係と取り違えて、 "passive"を哲学的に甘く見ている(みくびっている)という印象を受ける。 私は、議論したいわけでも、答えを知りたい(教えたい)わけでも、ありません。会話(や問答)は、何かしらの、ひらめきや思考、のための感触を掴む程度のものに過ぎないとご承知おきください。 私は統失(陰性)です。このスレには軽いアスペルガー症状の人がいる感じがします。 ジャバなどを普通にできます。よってム板系ネタの詳細は不要です。 >>199 アルゴ云々は、同意します。巷のAI・ニューロン・人間に迫るであろう危機の話と同じですね。ただし、出来ないのではなく、出来るけどやらない、というところまで到達できると良いでしょう。 水槽脳も同意します。がクオリアや思考実験のたぐいは興味ありません。世界がそのようであって欲しいという欲求を根拠としている、のであるから成立できているのでしょう。人間さんはこれを「愛」と呼びます。 >>200 なるほど。その文章で、現在のコテさんが持つ認識力理解力推論力などをある程度つかめました。問答をするつもりはないです。が今回は該当の前文を展開してみましょう。 <<いま思うのは、「存在=無矛盾」なのではなく 「存在が存在であるために矛盾を永遠に回避し続けなければならない」 ・・・・永遠にそれが可能であることは保証されない、ようですが >>>>174 「、ようですが 」に依拠すれば、コテさんは「永遠にそれが可能であることは保証されない」と認識しています。この認識はコテさんの心証ですが、当人以外には存否不明のままです。 したがって、「」などは存在しない、の当否是非を問うことになります(1)。これに連動して「永遠に..」の言及撤回の是非つまり矛盾であるかを問うことで、当否と是非をより補強します(2)。 「矛盾するようなことは存在もしない」という主張を支持しているのか。 については支持云々などでなく、どちらでも生成して差し上げられます。 >>201 「比」「数」を論点とするのだから、問題ありません。同一性・矛盾などの哲学の話が中心、ではないのでしょう。 論争を避けて評価だけしたいのか 虫が良すぎると思うが、それもいいと思いますよ ふと気づいたんだが、日本語の「あした(明日)」は、英語にすると、 「at the distal end (of the night)」を表しているから、セリーヌの代表的な 小説の題名「Voyage au bout de la nuit」の「au bout de la nuit」そのまま ですね。「あした」が表しているのが「夜の果て」だから、「夜の果て」だけ だとまだ暗いのか明るくなっているのが両義的だから、単に「あした」ではなく、 「『あくる』あした」と表現してそれを明確にした。「あさ」が表している のは、「遠くまであらわ」になっていることだから、「あした」の語源的な 意味が見失われて、「あくるあした」の代わりに用いられることになった 「あくるあさ」は、表現として冗長であるとも考えられるけれども、「あした」 の代わりに「あさ」が用いられることで、「あくる」は、「明/開くる」という もとの意味から、むしろ、英語で表現するなら「turn」、「く(繰)る」に 近いニュアンスで解釈されることになったのだろう。 私が、論理学に扱ってもらいたいのは、そういう類の論理だ。 ところで、セリーヌの小説の題名の「Voyage au bout de la nuit」も、 「夜の果てへの旅」ではなく、「あしたへの旅」と訳されたら全然違った印象に なるね。実際、あの小説の終わりの場面は、「あくるあした」でしょ。 シャープをしてる時の背後の気配は誰の気配なんですか? >>205 誤:まだ暗いのか明るくなっているのが 正:誤:まだ暗いのかもう明るくなっているのか >>205 誤:まだ暗いのか明るくなっているのが 正:まだ暗いのかもう明るくなっているのか 流俗の禁あつを避けて辿り着いたあけぼの、 湖沼で遭遇した凛然たる妖精さんたちは、 真紅の友禅模様をあしらった桶を抱きかかえ、 溢れんばかりに湧き出す泉で髪をすすぎ、 リンスの香りを漂わせながら乱れた髪をゆう、 夢虫すら必殺の、蠱惑なまなざしで、 ああ、僕たちに微笑みる事あれかし。 論理的な解釈の変更は意図的であることも、そうでないこともあるけど、 後付け的に解釈を正当化するように論理的な辻褄合わせが行われるのは、 例外というよりも常態なのだから、それを扱えない論理学は、論理学 の名に値しない。 生きることに働いている論理は、矛盾しているものは存在し得ないとか、 矛盾は排除されなければならないとかではなくて、矛盾があってそのまま 使えないなら、辻褄を合せながら使おう、だ。 論理学とは、その一部が数学の数理論理学とかさなるが、数学とは別物であり、どちらかといえば「サイエンス哲学」である。 科学哲学ではない。科学の哲学でもなく、哲学科学か? 文学理論と文学の理論がフランス語では違いがあいまいだと嘆いた文学者がいたけれども、科学と哲学においてもあいまいであり、 さらには理論とも間違えられる。 理性を科学する哲学あたりが無難か? 「日常言語で」などとくっつけてしまうと「言語学」との違いもあいまいとなる。 (哲学の)「論理学」のライバルは「倫理学」である。 倫理が先行する倫理論理学や、論理が先行する論理倫理学など考えてみるのもおもしろい。 論理学は論理的に「健全」である必要はない。不健全な論理も論理である。 ええっと何を話していたのかというと、>>212 の「正当化」に反応したのだった。 「理性」を「正当化」と読み替えると、論理学もおもしろい。 犯罪論理学や犯罪倫理学などというサブタイトルでミステリー小説が書けそうなくらいおもしろい。 一般的な論理は、交替や回転がそのようなものとして現れること自体が 矛盾とその解消であることを理解していない。 明るく、暗い、これは矛盾である。しかし、光と闇が交替していると 見るなら、それは矛盾ではない。矛盾ではないという見方が生じると、 明るく、暗いことが最初から矛盾ではなかったとして後付け的に 理解されるが、それが後付けの論理であることは忘れ去られる。 明るく(1回目)、暗く(1回目)、明るく(2回目)、暗い(2回目)。 1回目に明るいことと2回目に明るいことと、1回目に暗いことと 2回目に明るいこととは、それぞれ別の事態であるが、それぞれ、 1回目と2回目は同じことであると見なされ、以降も同じこととされる。 しかし、そのように同じことする見方が、交替という理解に他ならず、 その理解の仕方によって矛盾が解消されている。したがって、 矛盾がないのは、事後的な事態であるが、その事後的な事態が 生じなければ、光の同一性も、闇の同一性もなく、矛盾も矛盾として 性格付けることができない。 そのように同じことする見方が× そのように同じこととする見方が○ そーいや回転寿司でちらし寿司が廻ってるのをみたことがない。 あるのかなぁ。 集合とはなにか、なにがそれらを集合させているのか。 論理的集合と物理的集合。 自己組織化が集合化であったとしても集合論では扱わない。 集合論を哲学で扱おうとするなら、現象としての集合を扱うことになるのだろうか? 「集合論」という「現象」。数学哲学史なのか。 433中動態2017/09/11(月) 12:24:03.230 >426 罰を与えた(能動態)のでもなく、罰を与えられた(受動態)でもなく、 罰(ばち)が当たった(中動態)のです。恨むなら自分を恨みなさい。 呪うなら自分を呪いなさい。 434中動態2017/09/11(月) 12:25:20.680 罰(ばち)に意志はないんですよ? 435考える名無しさん2017/09/11(月) 14:14:45.490 193Time is Being2017/08/19(土) 09:17:33.410 対比(能動態 vs 受動態)が等さを生む(中動態)ことが数が現れること であり、対比と等さのいずれかが時間的に優先するということではない。 むしろ、対比が等さを生むことが時間の前提であり、在ることの基礎である。 195考える名無しさん2017/08/19(土) 10:03:13.550 中動態がどうのというのは、図書館の待ちリストが長すぎて、まだ読んでない んだけど、宣伝文に書かれていたことが変に感じられたから気になっている。 名詞的なことは、どう考えても順序的には、先ではなくて、後だよ。 436考える名無しさん2017/09/11(月) 14:19:32.240 私が書いたことのコピペようでもあり、違うようでもあるw本人は、自分でどう書いたかはっきり覚えていないのだから、勝手にコピペまたは改変するな。 437考える名無しさん2017/09/11(月) 14:27:56.310 私は、何も原則としてコピペをするなと禁止命令をしているわけではない。コピペするからには、本人がコピペしているのではなく、他人の文章をコピペしたことを明示することを要求しているだけ。 でないと、本人が書き込んでいるところに付け加えられることになって紛らわしいだろ。 私もいくらでも他人の書いた文章をネットから検索してコピペするが、その時には引用であることを明示している。本人が書き込んでいるところに紛れ込ませるのとは意味が違う。 438考える名無しさん2017/09/11(月) 14:44:08.710 79考える名無しさん2017/07/25(火) 19:04:56.320 僕たちは「尋問する言語」に支配されている 第2回(全4回)<『中動態の世界』で考える>(幻冬舎plus) https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170725-00008343-gentosha-ent 220考える名無しさん2017/08/01(火) 15:14:38.560 一発ですべてを変える「革命」を求めても、世界は変わらない 第3回(全4回)<『中動態の世界』で考える>(幻冬舎plus) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170801-00008414-gentosha-ent 303考える名無しさん2017/08/09(水) 04:49:38.020 「勉強は楽しい」なんてウソ。でもその先に…… 第4回(全4回)<『中動態の世界』で考える>(幻冬舎plus) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20170808-00008466-gentosha-ent 345考える名無しさん2017/08/25(金) 10:11:27.740 國分と面識あるのかね? 面識のない人に向かってこの物言いはさすがにないと思うけど。 実名顔出しでこんなこと書けるってある意味才能だと思う。 >たとえばスピノザ学者の大御所連であれ、院生ぐらいの人たちであれ、たとえば彼のスピノザ論を >評価している人ってほとんどいませんよ。笑 指導教官ですらそうだ。 >浅田彰がバカにする、そのまんまの反応ですよ。専門違う人でも分かりますよね、これ。 これ2ちゃんの煽りレベルにも達してない酷い書き込みだと思うんだがw もっと洗練した嫌味を書けないものか?これでも本当に哲学研究者か?頭悪すぎ。 338考える名無しさん2017/08/19(土) 17:43:54.530 國分功一郎さんのスレ立てりゃいーじゃんか? >>222-223 勝手に人の書き込み引用して、しかも他人の書き込みと一緒に並べて変な印象操作するな _,,;::-―ー-:;:,,、 /'''''' '''''':::::::\ |::-=・=-;;;;;;;_-=・=-:::| | .:"ー=〓=-'`:::: | \ `ニニ´ .::::::/ ,,.....イ.ヽヽ、ニ__ ーーノ゙-、. : | '; \_____ ノ.| ヽ i | \/゙(__)\,| i | > ヽ. ハ | | 俺の経歴を簡単に紹介しておこう。 東京大学大学院数理科学研究科博士課程を数年前に修了し、 今は某大学で准教授をしている。哲学板にはよく行くよ。 たぶん哲学板住人がよく言うキラリと光る発言とは俺の発言がいくつか含まれているだろうな。 実際、俺は哲学初心者にマジレスをしているし、 哲学初心者からすれば「キラリと光る発言」と見られてもなんら不思議ではない。 言うなれば私は、私の天才的知能により誰もが持っている「内なる世界」 とでも呼ぶべき世界を、常人より遥かに優れた形で構築してしまっている。 その世界は既に外界のそれに迫り、一部では遥かに凌駕してしまっている。 論理学は、諸科学とは、論階が違うのだ。 一階だけ上なのだ。 >>226 だが、その論理学つまり論理の中核である推論の正しさや推論の限界を曖昧さを排して厳密に議論しようとすると 数学から様々な道具立てを借りて行わねばならない、日本語でも英語でもラテン語でも自然言語で議論していたのでは 厳密さや曖昧さの排除に限界があるからね そしてこの論理学が数学の軍門に下りその代わりに曖昧さを可能な限り完全に排除した結果として生まれたのが数理論理学 >>227 集合”の初歩的な概念を数学と「共有」しなければならないだけで、あとは自前でまかなえる。 『論理は実在する』 かつてそんな主張をしたことがあった 賛同者はいなかったが 機械が計算をするのだから 計算は人間に由来するのではない 機械は計算することに何の感情も伴わないが 人間は自分が計算できることに驚いてしまう それだけだ 0.99999・・・・・・=1 近似ではなく、寸分違わず同じだと、実数論はそう主張する その最終的な根拠は、「排中律は正しい」と信じるから 排中律が正しいかぎり、0.9999・・・・と1との間に一つの数もない 一方で、自然数全体の個数は、有限区間に含まれる実数の個数に満たない 集合論はそのように主張する その根拠は対角線論法による しかし対角線論法が「正しい」と信じるならば、0.99999・・・≠1としても良いように思う *************************** 人工知能が将来、数学者となるのであれば、彼は我々を納得させなければならない 同じ数値であって、表現の違いなのである。 「表現論」もおろそかにはできない。 量子力学は「表現論」の問題であるとすらいえる。 理系からすると、円周率が無限に続くのだから未確定だとかいわれると、なんのこっちゃと思ってしまう。 哲学であれば「本質」と「表現」の混同なのかなとも思う。 哲学そのものが「表現論」なのだともいえる。だからこそ「量子力学」と同じものになる。 対象とするものは異なるが。 数えることはπと表裏の関係にあるので、厳密に数値を特定した場合でも、 それは測定に用いられるπを特定したことになり、そのπ上の点を特定 したことにはならず、数えることや測定することにおいて、数学に おいて「理想化される」π上の点を特定することは原理的に不可能なのだ。 逆に言えば、数学において数を大きさのない点とする考え方が、数の 誤った理想化なのである。 数とは「関係」の一種であって、 大きさの無い点という無定義用語そのものは数ではない。 πを基数とすれば、1とはπ/πである。 π^0でもよい。 ところが、数は数直線上の大きさのない点であるかのように繰り返し説明されてきた。 さらに、π/π=1が表すのは等さであり、数えるとはどういうことか という問いは、等しいとはどういうことかという哲学的な問いに帰着するのである。 数が関係の一種であるか、それとも点であるかは どちらでも良いことなのだ 状況に応じて分かりやすい方を選べばよい そもそも「関係」も無定義用語だ 定義も無定義用語 そうだろう 定義などというものは Aを定義したときに、その”定義”はAに的中する必要はなく そのAの定義とされる記号列によってAが「Bとは違う」ことが分かればそれで良いのだ 1つ(奇数)と1つ(奇数)が、すなわち、、2つ(偶数)が1つ(奇数) であることが同一性であり、円の本質である。 無定義用語の山からなにがでてくるか。それが哲学かも。 とすると山も無定義用語であり、無定義用語も無定義用語だ。 は! 哲学も無定義用語だ! これをなんとかするのが哲学(無定義用語)なのか。 だから、e^(θi)もリングが1つしかないカウンタだと思えば 分りやすい。e^(2πi)=1で2つが1つと数えられる2進法の 10として偶数を表しているとするなら、e^(πi)=−1は、 10−1=1として奇数を表していると考えることができる。 無論、この関係は相対的であり、その半周期を周期とする 円運動を考えるなら、今度は、e^(πi)=−1の位置が10、 すなわち、偶数と見なされて、e^((1/2)πi)=iの位置が‐1 となって奇数の10−1=1を表していると見なされることになる。 Entwurf、ハイリスク、永劫リターンの投企です 山師ってのはあれだな。ないものをあるかのように装い、世界を回す。 円が偶数と奇数の同一性を表していることは、逆平方数の和 Σ[n=1,∞] 1/n^2 が (π^2)/(2*((2^2)-1))に収束することにも表れているのでしょう。 天下の回り物である言葉をヘリコプター・マネーのようにばらまいて 人々の言語活動を活発化させようとする役割を担っているのかもしれません。 不在への態度 たとえば、ぎっしりと未知の文字が書いてある石盤が見つかったとして それが何を表現しているのか、現代の誰一人分からないとするなら この文字列は何かを表現していると言えるだろうか 論理の実在を信じるなら その意味を理解していた古代人がいたかもしれないこと そのことを理解することは可能である なぜなら、未知の記号の羅列そのものをいくら調べても、 それに意味があるのかないのかすら分からないが故に 記号の羅列は常に、それに意味があるかもしれない可能性を残してしまう ゆえに現代の我々が知らない記号を使っていた古代人が存在したことは まず間違いないこととして承認されることになる 過去に存在したこととして想起される何ものか、何ごとかが、いまここに存在しないことは その何ものかを虚無として葬り去るための根拠としてははまるで足らないのである ゆえに「いまここ」に根拠を求める独今論の類は、蛙の独り言にしかならない 「いまここ」は"一般化されない現象”ではあるが、世界の全てではないからである 論理を支える普遍、すなわち常在不変は時空を超えて存在しているようだが 残念ながらそれがどのようであるかについては分かりようがない よって我々としては、論理学やら言語学やら数学やら物理学やら工学やら 哲学やら、によってそれに近づけるような錯覚を楽しむより外にやれることはない ニコ生の数学の祭典見てるが ぱねえな数学 数学できる奴には勝てんよ ”数学ができる”というのは、積分計算ができるとか ベクトルとか行列とかを知ってるとかいうことも、もちろんあるのでしょうけど 本質は『論理によって局面(=問題)を鮮やかに開示する力』があるかってことです 哲学ごっこをやっているうちは思想の好き嫌いとか、興味があるとかないかとか ごちゃごちゃ言い訳もできるが 数学は問題を解けなければ何を言おうが負けですからね 例えばこんな問題があります。千葉大学の入試問題だそうです 『5以上の素数は、ある自然数nを用いて6n+1または6n-1の形で表されることを示せ。』 まあ、その問題が出題されたままの文章かどうかわからないけど、 数学でもあるが、日本語の問題だよね。 「ある自然数n」とは特に明記されていない限りはひとつである。 しかし、文意から考えると複数あるはずだ。 そこに違和感がある。このような未熟な文章を出題するような大学なら行かないほうがよいw 一応、答えを教えましょう 5以上の全ての自然数は、6n、6n±1、6n±2、6n±3であるが 6n、6n±2、6n±3は素数ではありえない よって5以上の素数は、6n+1または6n-1 ああ、なるほど 言われてみればと 『文意から考えると複数ある』 ドラマのドラゴン桜で数学の先生が 『数学の問題は作成者との対話だ』みたいなことを言っていたように思う 問われている内容に於ける局面がどのようなものであるかについて それを忖度する力は必要だし、それは期待されている 世の中には問題の本質よりも表現の細かいところが気になって 仕方のない奴がいる 私の知る限り、それは哲学科出身者だったが かつて聞いたことだが 議論に於ける論理の原則というのがあって、それは 相手の言おうとしている中身を汲み取るように努めましょうと でなけりゃ話が進まない そういうことらしいわ 『5以上の素数は、ある自然数nを用いて6n+1または6n-1の形で表されることを示せ。』 とは 5以上の任意の素数が満たす性質を問題にしているのが明らかなので まともなオツムの人が読む限り、 『5以上の各素数は、 「ある自然数nを用いて6n+1または6n-1の形で表される」 という性質を持つことを示せ。』 としか読めない。 つまり自然数nは各素数に応じて選べると考えてよい。 ゆえに、>>252 のオツムがまともでないことは明白である。 まあそう苛めるなや おそらく運知思想で脂汗たらしながら書いたんだろ うーむ。日本語の問題ですよ。 文系がつまずくであろうこなれていない問題文。 まあ、数学がわかっていれば自然に、省略されているあいまいな部分をおぎなって読解できるのでしょうが。 理系のおれですら違和感がある問題文ばかり。 学校教育において習った範囲という文脈においては意味をひとつにしぼることができるのでしょうが、 受験生という立場でなく、一般的で答えが決まっていない「現場」でいろいろ考えるとひとつの意味にとらえることができない。 出題者が意図的に省略しているならともかく、無意識にあのような問題文をつくっていたとしたらちょっと考えさせられるものがある。 受験の記憶も 成績の記憶もないほうがいい ちょっとあるだけで。 紙面は固定化するからね。 それらすら、愛したことを思い出すよ。 ディスる 一喜一憂するじゃたらないけど。 >>250 > ”数学ができる”というのは、積分計算ができるとか > ベクトルとか行列とかを知ってるとかいうことも、もちろんあるのでしょうけど > 本質は『論理によって局面(=問題)を鮮やかに開示する力』があるかってことです > > 哲学ごっこをやっているうちは思想の好き嫌いとか、興味があるとかないかとか > ごちゃごちゃ言い訳もできるが > 数学は問題を解けなければ何を言おうが負けですからね マジレスすると、如何に論理的であろうとも、 数学の話題を哲学板でやる時点で空気も読めてないし、 ルールも破ってるし、マナーも守れてない、それを踏まえて論理的だなんだと言える数学マンセーの感覚がおかしい。 理系は慈恵の自然医学、の方もいいのに。計算より実務能力。 数学マンセーってこともないのだが 君らがやれることなんて連想ゲームぐらいのもんだろ ちょっと私を相手に"哲学”やってみそ デカルトでもカントでも参考にしてさ どーせできないわけだろ 言葉というものは同時に複数の意味を持つ。「重ね合わせ」である。 文というものは、この重ね合わされたもののテンソル積となる。 しかし、それぞれの言葉(単語など)は独立したものではなく、「もつれ」があり、 それゆえに整合性のある「(意味)世界」だけが残る。 まさしく量子力学であり、言葉というものは量子計算によって計算可能だ。 量子コンピュータによって人工知能は言葉を現実的な時間で計算可能になる。 そのように考えて、量子計算を実装・実験している。 論理・集合・写像における「もつれ」こそが哲学すべき対象ではないかと思う。 「もつれ(エンタングルメント)」とは人為的に構成するならば「制御」であって、人間の意思によって組み立てられる。 非人為的な「もつれ」。これが世界を構成している。 われわれも「もつれ」によって構成されているわけだ。 フッサールの論理学研究 さっぱり分からん ある種の人間にとって量子力学が>>266 を意味するように 私にとってのフッサールがそのようになってしまうかもしれない 泣けてくるわ 意識は常に、○○についての意識として現れる つまりこれは意識ではない何かが有形無形に存在することを前提としている なぜなら○○は意識ではないから 概念とは、概念ではない何かを表現するもの なぜなら、概念とは常に、○○についての概念として理解されるものだから たとえば、「リンゴ」は概念であるが故に、リンゴについての概念ではない何かを 表現している そういうことらしいわ 数学とまた一戦やるかぐらいの気概でいいんじゃない。 論理にORがある。この出口にNOTを付けたものをNORという。 プラグマティズムに、NORだけで全ての二値論理ができると証明した、 パースの公準がある。 このあたりの哲学がパソコンの由来の様である。 NORは双方の入力が0のとき、1を出力する。 貴方と私の知らない世界を選ぶという感じである。 NORの片方の入力に0を入れる。すると他方の入力を反転透過して出力する。 NORの片方の入力に1を入れる。すると他方の入力を止めて、常に0を出す。 つまりNORが情報を通すか通さないかのスイッチに使える。 NORの双方の入力にNORをつける。 NORの片方の入力のNORの片方に入力にxを入れる。 その片方にaを入れる。 NORのもう片方の入力のNORの入力にnot xを入れる。 その片方にbを入れる。 xが0のとき、まずaが反転透過される。not xは1なのでb信号は止められ、 0を出す。 上のNORの入力にはnot aと0が入力され、aを出力する。 つまりaが透過された。xが1のときは逆にbが選ばれる。 ここで、三つのNORでセレクターができた。 aをベン図xの外の値、bを内の値とすると、集合xができた。 後はこれを多段にすると、多入力のランダムアクセスの プログラム・カウンターを持つ、大きなメモリー空間となり 、カウンターを順に動かすと、初期的なパソコンになる。 そして存在論のクワインの方法で最小化され、やがてパソコンになる。 数学とまた一戦か 何回も負けてきたのに 俺もしつこいな 自分でもどうなりたいのか分からん だいたい、数学に勝った数学者っていないわけよ みんな敗北した 深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいている 誰だっけ おお、ニーチェか 読んだことはないが、わりと良いこと言うな 「ありのまま」なんてことが果たしてあるだろうかね 私が現象学を信用できない理由は そもそも内観の分析によってでも、エポケーによってでも良いが 宙吊りにされた帰るべき「事象そのもの」など、どうやったって 触れることができるとは思えないからだ >>272 論理がスイッチに使える。スイッチが選択に使える。選択から集合ができる。 つまり論理から集合ができた。 三つの集合から、三段論法の論理も定義できる。 多段にするとスイッチの信号列が、自然数をなす。スイッチの信号列は、集合列である。 つまり集合列は自然数である。 自然数を順に進めると、順にデーターがとれる。 つまり集合列内データー値は、記憶空間である。 これはランダム・アクセス・メモリーになっている。 自然数を小さくすると左の値に戻り、大きくすると右に飛ぶ。 これは、繰り返し文と、分岐文になっている。 つまり記憶空間は原始的なパソコンになる。 論理と集合と自然数と記憶とパソコンの概念が一致している。 プラグマティズムの創始、チャールズ・サンダース・パースの大発見である。 NOR回路は、CMOS−NOR-GATEで直ぐにできる。単なる直並列回路である。 ベル研でショックレー等が、原爆のフェルミ順位の概念から、回路の半導体化に成功する。 存在論のクワインがAND.OR.NOT系回路の最小化を自動化する手順を作成する。 ジャック・キルビーがフリップ・フロップ回路を実現する。 その後のパソコン・チップの最小化競争は急激である。 核融合炉に点火するエキシマー・レーザーの小型で、 毎秒百個のパソコン・チップが焼き付け製作され、非常に安価になり、普及する。 その後のパソコン時代は急激である。 P=T/Fではなく、行ベクトルによってP=[0,1]/[1,0]のように表してみる。 変数を使い、A AND Bを計算する。 A=[a,b],B=[c,d]とする。 CCNOTゲートでAND計算を行う。C=[e,f]とする。 A,B,Cの3つをCCNOTゲートに通すとA',B',C'になる。 A=A',B=B'である。 C=[1,0]のときA AND B = C' になる。 C'=[e*(a+(b*c))+b*d*f,f*(a+(b*c))+b*d*e] C=[e,f]=[1,0]だから、e=1,f=0を代入すると、 A AND B = C'=[a+(b*c),b*d] になる。 ここまでは数学ではなく哲学の論理学の範囲でも扱えるw C'=[a+(b*c),b*d] これがANDの計算である。 複素数を扱うのでなければ、ここにでてくる+はORであり、*はANDである。 これは、哲学的にはどういうことなのか、論理学的にはどういうことなのか。 ANDの内部構造と考えるなら、a,b,c,dもまた内部構造を持ち、さらにその内部構造も内部構造を持つw ここにあらわれてはいないが、a+b=1となる。これはNOTの存在を意味する。 NOT,AND,OR。この3つの論理演算はからみあっており実体はひとつだろう。 NORまたはNAND。量子ゲートでいえばCCNOT。 一番重要なのはなにかといえば、NOTであり、 a+b=1 または量子計算での |a|^2+|b|^2=1であろう。 われわれは1による論理世界に棲んでおり、それゆえにエネルギー保存則も成り立つ。 哲学もすべては「そこ」から始まるのではないのだろうか。 U。ユニバースすなわち宇宙は避けて通れない。 論理学も集合論もユニバースから捉えなおす必要があるのかもしれない。 ユニバースとは何か。モナドと逆方向にある存在。いや軽々しく存在と語ってはいけいなのだろう。 論理学や集合論には既にいろいろな宇宙がある。 グロタンディーク宇宙などは避けて通れないもののひとつだろう。 しかし、おれだけかもしれないが、哲学的にはしっくりこない。 哲学には宇宙と呼ばれるような議論領域はないのだろう。 あったとしてもいつでも飛び越えてしまう。 そうなってしまうと哲学は自由すぎる。 なにかあるはずだ。そうでないとなんでもありになってしまう。 健全性、倫理、美学、哲学においてはそのへんが宇宙になるのであろうか。 数学で語られる宇宙のさらに外側?にある哲学宇宙。 無限集合の話は面白いね 1、無限には可算無限と非可算無限の2種類がある 2、非可算無限は可算無限よりも大きい これを発見したカントール自身、信じられないと言ってる 発見というよりも発明みたいなもんだからな 数学の無限という概念自体 命題変数PはT/Fの値を取る。 命題変数PのUniverse Upを考えると、 P OR ¬P = Up になる。 P AND ¬P = ∅ であり、 NOT P = ¬P, NOT ¬P = P となり、 これらがUpという宇宙を作っている。 同様にUqという宇宙があるとして、 2つの宇宙を結合するのに*と+があるとするなら、 Up+Uq=U(p+q) Up*Uq=U(p*q)=PQ+(¬P)Q+P(¬Q)+(¬P)(¬Q) のような形になるのかもしれない。 U(p*q)のほうは4つの世界(多世界!)があって、観測時にどれかひとつの世界だけが残るw P=x,Q=Fとすれば、 U(p+q)=P=x U(p*q)=P(¬Q)=P=x P=x,Q=Tでも同じくPになる。 なかなかおもしろい。 Up+Uq=U(p+q)=P+¬P+Q+¬Q Up*Uq=U(p*q)=PQ+(¬P)Q+P(¬Q)+(¬P)(¬Q)=P(Q+¬Q)+¬P(Q+¬Q) 和や積の考え方にもよるが、等価であるとみなしたい。 このへんまでは数理論理学というより哲学の論理学の範疇ではないのか? Universeの探求が必要だ。多世界と射影の問題なのかもしれない。 ¬PはUp内での存在であり(Up=P+¬P)、ライプニッツのモナドの予定調和とはUpとの関係なのかもしれない。 モナドはユニバースと合わせてこそ意味があるのではないだろうか? モナドの議論に欠けているのはユニバースではないのか。 モナド・ユニバースによる意味論は意味論スレ行きだな。 パースの発見から、NORだけで全ての二値論理が構成できる。 A NOR X で、x=0のとき値がAの否定になっており、 x=1のときAが遮断されて、値が0になる。 つまり否定が全ての基本ではなく、全ての二値論理を作るには、 否定と遮断が必要なのである。 遮断というか、 A NOR X は X=0のときNOT Aであり、X=1のときはNOT Xである。 A=0のときNOT Xであり、A=1のときはNOT Aである。 A NOR X = NOT A AND NOT X = NOT(A OR X) つまり、NOTと(ANDかOR)である。 Xの値によって0にするということであればGND(=0)の導入が必要になってしまう。 GNDとかPOWERのような絶対的値は持ってこないほうがよいと思う。 そうではない。否定と遮断で、全ての二値論理ができる。 NORを非対称に見ると、スイッチに使える。 NOR三つを三角に組むと、選択に使える。これはXの集合と同値と見なせる。 このセレクタを三つ三角に組むと、XとYのベン図と見なせる。 末端のデーターを変えるだけで、全ての二値論理が構成できる。 この構成で多段にして行くと、XYZ・・・は自然数であり、データ記憶の番地になる。 つまりランダム・アクセス・メモリーが構成できる。 この自然数を小さくすると繰り返し文、大きく飛ばすと分岐文になり、 原初的パソコンになる。 論理、集合、自然数、プログラム・カウンター、記憶、パソコン等の概念が一致する。 これがパースの公準による大発見なのである。 シャピロの「プロログの技芸」にある論理回路のプロログによる構成や、 二階論理は一読に値する。 プロログ・カバやアリティ・プロログ、エキスパート・プロログ2なども昔にあった。 スニップによる副作用があるから、プロログは実用的であり、単に論理的なだけではない。 プロログのアサートやリトラクトは知識単位であり大きく、自動学習には向かない。 AIのノードやアークのアサートやリトラクトやウェイト学習は、 プロログよりも細やかであり、実用的である。 そこから知識木を抽出して、人間に解かる様にするには工夫が必要である。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.4 2024/05/19 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる