ふと気づいたんだが、日本語の「あした(明日)」は、英語にすると、
「at the distal end (of the night)」を表しているから、セリーヌの代表的な
小説の題名「Voyage au bout de la nuit」の「au bout de la nuit」そのまま
ですね。「あした」が表しているのが「夜の果て」だから、「夜の果て」だけ
だとまだ暗いのか明るくなっているのが両義的だから、単に「あした」ではなく、
「『あくる』あした」と表現してそれを明確にした。「あさ」が表している
のは、「遠くまであらわ」になっていることだから、「あした」の語源的な
意味が見失われて、「あくるあした」の代わりに用いられることになった
「あくるあさ」は、表現として冗長であるとも考えられるけれども、「あした」
の代わりに「あさ」が用いられることで、「あくる」は、「明/開くる」という
もとの意味から、むしろ、英語で表現するなら「turn」、「く(繰)る」に
近いニュアンスで解釈されることになったのだろう。

私が、論理学に扱ってもらいたいのは、そういう類の論理だ。