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人が「神」というとき
自らその意味を知っていると思っています♪
人は世界における最高の地位を「神」にあてがう。👰
それは神を原則的に人や時物と同一線上に
置くことになります。⭐
これが、人の対神 関係の不敬虔です。👰 アスタロスとイシュタルとイナンナを検索しろ。
王路(引き寄せの法則) おまえらの力が必要だ!
https://mao.5ch.net/test/read.cgi/occult/1511490955/
661本当にあった怖い名無し2017/12/09(土) 02:07:05.26ID:2hmL36G30
もう一度、整理しよう。
地縛霊がいる意味というものを。さぁ、君は思い出せるかな。
私の書き込みを見ていなかった人は、まだ知らないかもしれない。
地縛霊がいることで誰が得をすると思う?
まず、地上の教師の仕事が忙しくなる。そして警官も仕事が忙しくなる。
また、霊界の教師の仕事もなくならない。
以上です。 モンティは何をしたのか。
最初の状態で選んだドアの当たりの確率は1/3である。
モンティがはずれのドアをひとつ開けた。
それでも最初に選んだドアの確率は影響を受けずに1/3のままである。
つまり残ったドアの確率が2/3になる。
確率は足して1にならなけばならない。 金持ち父さんで金持ちになるプロセスはドラマティックではなく
非常に退屈なものだと書かれていたからその状態はいい状態 ■主観確率を支持する理由
主観確率の支持者がそれを支持する理由として挙げる
論拠はいくつか存在する
まず、論理説については、何を無差別と見なすかによって答えが
一意に定まらなくなるという問題がある
次に、頻度主義を取った場合、一回限りの出来事について
確率を割り当てることができなくなってしまう
たとえば、「このサイコロで1の目が出る確率」は
「このサイコロを無限回ふったときに1の目が出る頻度」と言い換える
ことができるが、「次にこのサイコロをふったときに1の目が出る確率」は
そのような頻度の言葉に置き換えることができない
また、頻度について語るのが難しい対象、たとえば殺人事件の捜査で
「A氏が犯人である」という確率を考える場合、A氏は犯人であるか
ないかのいずれかであり、そこには頻度は存在しない
しかし、こういう場合に確率という言葉がしばしば使われるのも確かである >>344
間違えた
リンゴが当たる確率は50%です ■モンティホール問題(空箱とダイヤ)
このゲームができるのは1回だけです
外からは中が見えない空箱100個の中のひとつに
ダイヤモンドを1個入れます
その中から1個の箱を選びます
98個の空箱を取り除きます
最後に残った2個の箱の中から1個の箱を選びます
ダイヤモンドが当たる確率は50%です モンティホール問題と量子力学を同じものとして考えるとおもしろい。
重ね合わせなのだと思う。
100のドアがあって一つが当たりだとしよう。
モンティは、それを2つのドアに圧縮する。
あなたが最初に選んだのは1/100の確率のドアだが、
もうひとつのドアはモンティによって1/100の確率の99個のドアがひとつに重ねあわされたものだ。
99/100のドアと最初に選ばれた1/100のドア。
選びなおすことができるなら、あなたはどちらのドアを選ぶのか。 量子力学が少しみえたきたような気がする。
ψ=|99/100>+|1/100>
確率と、確率を持っているものを選ぶ確率。
古典ビットと量子ビットの違いは、確率と、確率の確率という違いなのではないだろうか?
それを混同してしまうから量子力学がわけのわからないものになっている。
そう考えるとおもしろい。いまのところおもしろいだけだが。 「て」が「た」になった。
問題は時間として人間が認識している「位相」をどのように組み入れるかということであろう。
哲学において「位相」とはどのような扱い・立場なのだろう。 ここはもともとそういう社会性で
あるのでさほど重要な問題にはならないと思われる。 >>345
ゲームは1回なので『交換しない』と『交換する』の確率は
ともに50%です 見えていても同じです
二者択一の結果は50%のみです リンゴとレモンが見えていて
リンゴが欲しければ、100%リンゴを選ぶだろう
それができなくなったら病院へ行かねばならない 間違いなく50%です
リンゴが欲しいとか感情は関係なく
二者択一の結果は50%のみです 二つの選択肢の中から一つを選んで
確率が100%になることは決してありません 長年のモンティホール問題に決着がつきました!
ゲームを1回に限定した場合、
やはり直観に頼って残りのドアが2つなら当たる確率は
50%で正しかったのです!
当たる確率は50%という自分の考えを否定してしまった人達は
復活のチャンスです
このように、確率なんかに頼らなくても、緻密な観察能力さえあれば
正解を導くことが可能となります >>369
つまり、「決着がついた」と「決着がついてない」の二者択一において
貴方は「決着がついた」を選んだわけだ
それは100%なのか、50%なのか
どっちなのかね >>370
『決着したかしていないかどちらとも言えない』という可能性を
排除しているので、誤謬になります >>370
ああそうか
そうすると、リンゴとレモンの場合も
「リンゴもレモンも選ばない」という可能性を排除してはだめなのだな >>371
1)決着がついた
2)決着はついていない
3)決着したかしていないかどちらとも言えない
三択ってことだな
貴方は何%の確率で「決着がついた」を選んだのだ? >>373
論点のすりかえかどうかは、いずれ分かるかもしれないし
分からないかもしれない
貴方は、「見えていようがいまいが、二者択一なら50%だ」という
しかし本当にそうなのか、ってことですよ >>374
二択問題と三択問題は同じではありませんので
比較できないです >>376
「どちらとも言えない」を「決着はついていない」に含めたらどうだ
そうすれば二択だ >>375
間違いなく50%です
それ以外の可能性はありません
逆に聞くと二者択一が50%でないとは
どういう場合でしょう? >>378
だから、それを確かめるために
「決着がついた」という『貴方の選択』について考えているわけだよ 二者択一の結果が50%でないと主張するのであれば
変人扱いされると思います >>379
「決着がついた」と「決着がついてない」にともに質量を
持たせることができれば、二者択一ができますが
現実には不可能ですね >>380
おおそうか
「二者択一の結果が50%でないと主張するのであれば変人扱いされる」
という選択を貴方はしたわけだ
「変人扱いされる」「変人扱いされない」
この二択で考えるとして、貴方が「変人扱いされる」を選ぶ可能性は
何%なのかね 逆に聞くと二者択一が50%でないとは
どういう場合でしょう? >>381
おお、質量がないとダメなのか?
しかし選択者である貴方自身は質量があるわけだから
問題ないだろう >>383
リンゴとレモンが見えていて
リンゴが欲しければ100%リンゴを選択する
これは前にも言ったな ちなみに、1グラムの石と1トンの石を二者択一しても
どちらか一方を選択する確率は50%です >>385
なりません
自分が欲しいか欲しくないかは関係がありません
二者択一の結果は50%のみです >>387
貴方は
『二者択一の結果は50%のみです』と選択したわけだ
これまで私がやってきたように、貴方の選択を二択問題にすることができる
いまの貴方が『二者択一の結果は50%のみです』を選択する確率は
100%、だとは思いませんか 問題
『1回のじゃんけんで決着がつかない確率は何%でしょうか』 >>39
>間違いなく50%です
100%そう選択するわけですね 逆に聞くと二者択一が50%でないとは
どういう場合でしょう? >>393
おお
つまり「二者択一」であっても、50%が成り立つときと成り立たないときがあると
そういうことかね? >>394
貴方の言う所の「等価性が成立しない」
そうい場合ではないのかね 寝ますわ
お題
『AさんとBさん、それぞれサイコロを振って大きい目の出た方が勝ちとするとき
1回で勝負が付かない(つまり同じ目が出る)確率は?』 ちなみに>>390の教科書的な答えは33%だと思います 最初に3つのドアがあるのであれば、そのひとつを選んだ時点で確率は1/3である。
賞品が移動しないのであれば、そのドアを開けない限り、他のドアがどうなろとも、
そのドアに賞品がある確率は1/3のままか、0になるか1になるかの三通りしかない。
しかし、減ったドアの持っていた確率が残りのドアに均等に分配されるなら話は別だ。
そのような事態が起こりうるのかどうかと考えるのはおもしろい。 そもそも「変化」とは在るものが無いものになることであり、
無いものが在るものになることである 天よりパンが降ってきた
ある者はなぜ肉でないかと大いに嘆いた
天より肉が降ってきた
ある者はパンが良かったと大いに嘆いた
天より神様が降りてきた
全員が喜ぶ物がわかるまで、当分は水を降らせます 「〜がない」と表現したとき対象は経験から観念によって導き出した何かであって
パーツとしては無差別に存在しているはずだ
そして「何もない」という表現は主語が存在せず文法的に成立しない 二人の男が定刻までにどちらがより多くお金を集めてこれるか
というゲームをしました
一方の男は札束ばかりを集めました
もう一方の男は小銭ばかり大量に集めました
さて、定刻になりそれぞれ集めてきたお金を数えると
札束のほうはすぐに金額がわかりました
しかし、小銭のほうはあまりにも大量にあったため
その日のうちに数え終わることができず
正確な金額がわかりませんでした
これによりこの勝負は引き分けとなりました 哲学は人間の全体の総意を得るために理論を用いて、科学は現象を説明するために理論を用いるものかと。
科学的証明がされても総意が得られない場合、哲学の分野が必要になるのでは?宗教でもいいけど。
もっとも、現代では科学信仰が根強いからそういった場合は少ないが… 神の存在証明
神は「全ての性質を備えている」ものとして定義される
その定義によって神は存在の性質を備えている
ゆえに神は存在する
んー・・ >>408はスマリヤンのパクリ
デカルトによる証明のエッセンスだそーです もはや、哲学は倫理を模索する手段としての機能しかもちえないだろう
文明社会では、個人が直接的に関与できる人口を遥か超えている、大半が見ず知らずの他人であるから
互いに同情心が生じることがなく原始社会のように憐憫の情が法や秩序の肩代わりをしたりはしない
理性によってしか社会が成り立たないなら、理性に基づいて矛盾の解消を計るしか道はない ∧_∧
( ´Д` ) 新年あけまして
/ ヽ
し、__X__,ノJ
/´⌒⌒ヽ
l⌒ ⌒l おめでとうございます
⊂ ( ) ⊃
V ̄V ■2つの封筒問題(two envelopes problem)
2種類の小切手があり、1つの小切手には
他方の4倍の金額が書き込まれています
中身が分からないように、それぞれ封筒に入れます
あなたは、どちらか1つの封筒を選ぶことができます
封筒を開けると10万円の小切手が入っていました
もし不満なら、残りの封筒と交換できます
あなたは交換しますか?しませんか? 今になってようやく分かったのだが
命題に含まれる詭弁や誤謬を自動的に(つまり操作的に)排除するための
方法を、まだ人類は獲得していないように思われる
その理由の一つは、証明という作業が、たとえ矛盾律やら排中律を用いたところで
証明の前提を覆す力を持たないからである
たとえば>>408と似たような命題によって、サンタクロースの実在を証明できてしまう
『この文(命題)が真ならばサンタクロースは実在する』
この命題が真ならばサンタクロースは実在することになる
よって、この命題は正しい(真である)!
したがってサンタクロースは存在する
どこに間違いが潜んでいるのかを記号操作によって暴き出すことは不可能で、
それを暴き出すためには記号と意味との間を行きつ戻りつする、ある種の
特殊能力のようなものが必要・・・なようだ 「Aでないと立証できないならばAである」、あるいは
「Aであると立証できないならAではない」と主張する誤りです んー
ちょっと違う気がするけどな
なぜなら、「Aでないと立証できないならばAである」は、そもそも偽だからだ >>415とは全然ちがうが、しかしなんとなく似ている
そんな話がありました。せっかくですので
****************************
1)太郎が花子をねたんでいる
2)花子が太郎からねたまれている
この二つの文は、論理的な内容として等価だと、そのように判断できる
等価という意味は、上の文が真ならば、下の文も真だと、そういうことです
(情緒的な内容は違うかもしれない)
ところが、「太郎」を「誰も」に置き換え、「花子」を「誰か」に置き換えて
3)誰もが、誰かをねたんでいる」
4)誰かが、誰もからねたまれている
とすると、これらは論理的に等価な内容にならない
なぜなら、3)が真だとしても、皆に(=誰もから)ねたまれている「誰か」が
存在するとは言えないからです
文法的には同じであるのに、真偽の関係は違ってくる
なるほど言われてみれば、と
言葉の闇は深い >>417
「太郎」と「花子」はそれぞれ単数形
「誰も」は複数形 nobody
「誰か」は単数形 who
ゆえに、入れ替えると等価にならない >>418
そういうのも気になるな
哲学より国語の方が面白いかもな
>>419
単数と複数な
だがそれだけでは解答にならないように思うぞ
「大衆はA氏をねたんでいる」
「A氏は大衆にねたまれている」 たぶん、こういうことだ
「誰もが誰かを」と、「誰かが誰もから」では「誰か」の内容が異なるのだ
前者の「誰も」が「誰か」の内容に影響しているのに対し、
後者では、「誰か」の内容は「誰も」からの影響を受けない
分かりにくいですか
たいそうな話をすれば
概念の形成規則は文法規則よりも奥にあって
無頓着な言葉の乱用が、昔から哲学を混乱させてきた、らしいわ 分かりやすい説明がありましたわ
「誰も」とか「誰か」の内容は文脈によって決まるので
ある場合にそれは、太郎と花子と次郎という想定が可能である
太郎が花子をねたみ
花子が次郎をねたみ
次郎が太郎をねたんでいる
そういった場合には、「誰もが誰かをねたんでいる」けれど
誰もからねたまれている「誰か」は存在しない
と、そういうことらしいわ 矛盾して見えたり、どうしても解けない謎がある場合って、
十中八九、問いの立て方がおかしいか前提が間違ってるだけなんだよね。
それが俺には退屈だ。本当の難問がないということが。 よく分からん
哲学を終わらせたつもりのウィトゲンシュタインも退屈はしてなかったろう 「物理的な今が何であるのか」
どうして分からないのでしょう、実に不愉快です
意識(あるいは純粋理性)とは物理的にはどのような事態なのでしょう
これも分からない
人間は偶然発生的な理屈(力学とか数学とか宇宙論)によって世界を構成しているのだなぁ、と
そのことに人間自身が気づくことが可能であり(哲学とはそもそもそのようなものだから)
その能力のありようを「限りなく普遍的な問題」として設定できる(すなわち超越論的)
がしかし、残念ながらこの気付きを「厳密の学」として信頼できる根拠がない
「言葉は慣習である」などという命題は、生活環境がその命題を可能とできるほどに
安定している、そのことを言っているに過ぎないのであって、慣習そのものは
記号が言葉となるための仕組みとは一切関係ない
言葉の習得(あるいは成立)には生活環境での反復を要する
その現状報告を述べているだけのことである
しかしそうすると、言葉とはいったい何なのか 存在
日本語では「○○がある」と「??である」とでは、表現も違うし
内容にも違いがあります
日本語で「存在」というとき、それは普通、「○○がある」に相当するように思います
しかし哲学辞典で「存在」を引きますと、それはドイツ語で「Sein」となっており
これは英語だと「Being」です
ですから西洋では、“存在”は“があること”でもあり、また“であること”でもあると
なるほど、いろいろ面倒くさい がある、の「ある」は存在を表す本動詞であり、
である、の「ある」は断定を表す助詞「だ」に
補助動詞「ある」をつけたものです
すなわち、本質は「ある」と「だ」の違いにあると言えます
がある、の「が」は対格の助詞ですから、「がある」は他動詞的であり、
「である」は自動詞的な役割を果たすわけです
前者は存在を表しますが、後者は通常は「は」によって
マークされる主題に対する何らかの評価を与えていると考えられます
英語で言えば、existとbeの違いと言えるでしょう be は古英語由来で、exist はラテン語由来となってるな
God is.
God does exist.
どちらも「神は存在する」の意味らしいが
ニュアンスの違いとかあるのかないのか 「である」だろ
釣るんじゃねえよ
∈は帰属記号と呼ぶようだな
赤いとかやばいとかいうような「述語」はゴミ箱に捨てて
集合として扱えるものに純化する
a∈b・・・・「(集合)aは集合bの要素(元)である」
たとえば、「犬は動物である」は「犬(の集合)∈動物(の集合)」という感じか
いまや何でも集合論、そんな時代なんだろ 背理法
「素数は無限にある」ことの証明はどうするのかといえば
素数が有限であると仮定して、それら全ての積を考えて
それに1を足せば、それは素数になってしまうので
矛盾してしまいますよ、ダメですよ、とそういう話なわけです
つまり矛盾するような命題は問答無用に切り飛ばせる
背理法を使うときに、大前提として、たとえば自然数に対してならば
そこまでの判断は可能ですよと、自然数は矛盾していませんよ、と
その信頼が“そもそもある”わけです
でなけりゃ話にならないのです
しかしそれは無条件に可能なことでしょうか
ためしに適当にやってみますと
もし、『Xならば、Aであり、かつAではない』という矛盾が得られてしまったら
前提に別の前提を付け足しても結論は矛盾したままなので
『X かつ “リーマン予想が正しくない”ならば、AでありかつAではない』となり、
そこで背理法を使うと、「Xかつ“リーマン予想は正しくない”」は正しくないので
Xならば、リーマン予想は正しい
この調子で(公理)Xを使えば、なんでも証明できます
なんて書いてはみたが、ほんまかいなと 部屋にいながら万物すべてを証明できるとするのが
かの有名な未知論証 無知に訴える論証はあからさまなので、すぐに粉砕できるようにも思うが
どうだろうね
虚偽のテクニックはいろいろ巧妙なのがあって、それを生で駆使されると
即座に反論できないわな
テレビでリアルに討論できるコメンテータというか論客さん達はすごいね、頭の回転が
哲学板で多いのは、「多義・文章曖昧の虚偽」・・ですかね
ストローマンもこれに含まれるように思うのだが
ストローマン 対 逆ストローマン の不毛な争いが哲学板の真骨頂だな
同床異夢とでも言ったら良いのか・・・いや蒟蒻問答か
あーこんなこと言うとそれこそ虚偽になってしまいそうだな
考えを正確に伝えることは確かに難しいのだが、しかしそれは建前であって
実際のところは、その難しさを逆手に取って、相手が都合良く解釈してくれるのを期待する
そんなのが多いね、つかほとんどそうだな
ずるいね我々は 論理とは直接関係ない、論の話
ずいぶん以前に私は、素朴実在論者のレッテルを貼られたことがあります
しかし肝心の素朴実在論とは何のことなのか、私にはよく分かりませんでした
wikiの「素朴実在論」の項目には
“「この世界というのは、自分の眼に見えたままに存在している」とする考え方のこと。”
と書いてあり、これはこれで納得しやすい、ああなるほどと
しかし私が調べた限り、素朴実在論をそんな単純に記述してある哲学事典は
一つもありません
岩波の哲学小辞典によれば、素朴実在論とは
“外界が我々の意識とは独立に存在することを認める、自然発生的な無意識的な
唯物論的見方”となっています
これはこのままではwikiに書いてあることとは一致しません
なぜなら、外界が我々の認識とは独立に存在したとしても、それが目に見えるままに
存在する必然性は全く無いからです
ただし、色や音などの感覚的対象が「外界」に存在するものだと捉えるなら、
その了解を前提とする限り、wikiの内容とほぼ一致することになります、なりますがしかし
科学全盛の今の時代では通常、そのような了解はなかなか成立しないでしょう
実在論にもいろいろあって
最近は、『思弁的実在論』なるものが流行しているようです
しかしそれも、カントの変奏・焼き直しの域から出ることは恐らくないように思います
論理実在説のほうがまだまし・・と思いますが、辞書に載ることはないでしょうね とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
8XCV5 「実在」は「実在」しない。
というわけで、「実在」をカリー化または反カリー化で考えた。
どういうわけで実在するのかわからないが、∅が実在するとする。
この∅をoperatorとみなす。
反転するということも考えられるが、それは先送りするとして、
∅しかないのだからoperator∅は、∅を引数として∅を返す。
∅=∅(∅)
でもってこの右辺をさらにoperatorとみなして∅を適用する。
∅(∅)(∅)
これが返す値はなんだろう。
反カリー化すれば ∅(∅,∅) の値である。
細かいことは考えずにすなおに考えると、値は(∅,∅) であり、
空集合なのだから(∅,∅)は∅である。
∅=∅(∅)(∅)
そうすると、右辺はどんどん変わっていっても左辺は∅のままである。
保存則は維持できるだろう。
∅=∅(∅(∅)) などとしても同じだろう。
右辺がわれわれの世界であって、遺伝的集合になるのだとすれば、
フォン・ノイマン宇宙は∅と等価である。
論理学や集合論にoperatorを導入すれば、宇宙(世界)を制作できる。のかもしれない。
この世界はたったひとつのoperator∅からできている。ほんとか? ま、標準模型との整合性はそのうち考えるとして、
どちらかといえば超弦理論のひもに対する仮説です。 地獄変
芥川のそれを初めて読んだのは中学生のときでしたか
それから何度か読んだように思いますが
しかし最初の印象を越えるような読み方はできませんでした
ちなみに読んでない人いませんよね?
この物語の中で、主人公の絵師の娘が強姦されそうになる事件が起こります
その強姦男が誰なのか、それは分からない、分からないが
しかし普通に読めば娘が仕えている屋敷の大殿だろう、と私なんかは思っていたわけです
手篭めにしようとして抵抗されたのだろうと
ところが先日、ラジオでこの作品の解説をしていて
その講師さんが言うには、強姦男の正体は絵師つまり父親ではないか、という
まさかの解釈を披露しておりました
これはすごい
で、読み直してみたわけです
しかしいくら読んでも「おおなるほど」とはならない
どうもおかしい、無理筋のように思える
論理とは辻褄です、辻褄が合うとは矛盾が無いことを言います
それは第一に「事実の辻褄」が優先されるわけですが
それだけでは人間の行動、つまり世界の振る舞いをほとんど説明しない
なので動機であったり、美意識であったり、信念であったり、空気であったり
それらの辻褄が合うことを人は求めるわけです
そうでなければ、誰も週刊誌やワイドショーなんか見ないのです
そこで地獄変ですが
どう読めば良いのか、どう読めば正しいのか、正しい読み方とは何なのか ちなみに上の講師は出口汪(ひろし)さん
この人の説は何を根拠にしているかというと
絵師が悪夢にうなされて発する“寝言”、これ一つです
「なに、己に来いというのだな。-どこへ-どこへ来いと?奈落へ来い。炎熱地獄へ来い。
-誰だ。そう言う貴様は。-貴様は誰だ。-誰だと思ったら-うん、貴様だな。己も貴様
だろうと思っていた。なに、迎えに来たと?だから来い。奈落へ来い。己の娘が待っている。」
つまり娘は既に奈落にいる、俺と娘は生きながらにして地獄の業火に焼かれている
現世に於ける地獄の業火とは、父と娘の禁断の関係のことを暗示している、と
出口さんはそのように解釈するのです
しかし、外してはいけないのは、これは悪夢による寝言だということです
ですからこれは、悲惨な結末を予感させるための演出的効果であって
それ以上の内容(つまり絵師による本気の懺悔、娘に対する愛欲、罪悪感)を持たせるような
出口さんの読み方は、正しくないと私は思います
これが最短距離での反論
これとは別に、そのような解釈が芸術として正解か不正解か、で論じることもできる
つまり父と娘に肉体関係があったとした方が作品として深度が増すのかってことです 邪宗門
「地獄門」の中でちょい役で出てくる若殿様がいるのですが、
後に書かれる「邪宗門」で、この若殿様が主役として登場します
しかし邪宗門はどうして書かれたのでしょうか
書く必要があったのでしょうか
と言うのも、「邪宗門」は未完のまま放置されることになるのです
一つの作品を書こうというモチベーションがそもそも芥川にあったのか
非常に疑問です
なぜなら、「邪宗門」を一つの作品として書こうとしたときに、
背景設定を地獄変と共通にする必要が全くないからです
今回、たまたまラジオで変な解説を聞く機会があって少し考えてみましたが
芥川は、地獄変にこだわるあまり、それを補足したい欲求があった
つまり若殿についてもう少しだけ書いておく必要を負ったのです
そもそも動機がそのようなことだから、続きを書く目的が途中で失われることになる
「地獄変」の絵師の娘が心の中で慕っていた、その相手が「もし」いるとすれば、
それは恐らく若殿であって、絵師と大殿はいずれも、心の処理に混乱した
みじめな敗北者・・・
少なくとも芥川としては、地獄変をそのような空気の中で書いたわけです
芸術をどのように理解するかは、実際のところ、それを見る人読む人の自由
そして哲学もそのようなもののように見えます、しかしながら
芸術も哲学も、「本来そのようなもの」としてあるわけではありません
なぜなら、もし本来そのようなものとしてあるのだとすれば
論理が論理としてあることはそもそも全くの虚、となってしまうからです 人間やモノ不在のまま論理や集合を考える。
なにも無い、としたいが、「無」は「存在」しない。
なんらかの「存在」が必要なのだが、論理や集合は、それに答えてくれるのだろうか。
論理でもっとも基本的と考えられるのはTRUE,FALSEであろうか。これらはどこに「存在」するのか?
集合でもっとも基本的と考えられるのは空集合であろうか。これもどこに「存在」するのか?
論理は論理空間における位置の問題であるとしてもよいが、
集合は、そのものが空間である。
空集合とは何か、そこから考えるのがよさそうだ。
気が向いたら続きを考えよう。 「空集合」は元を持たない。
元を持たないにもかかわらず自己同一性を持つ「対象」である。
すなわち「存在」である。
この「空集合」に属さないものも「無」にできるのだろうか?
そのような場合、「存在」しているのは「空集合」という「集合」そのものだけである。
出発点となるのは「空集合」であり、それだけが「存在」である。
「空集合」は「無」を「空集合」属する「無」と「空集合」に属さない「無」に分断する。
「空集合」に属さない「無」もまた「空集合」であり、
「空集合」であるがゆえに最初の「空集合」と同じものである。
「空集合」によって分断されているにもかかわらず同じものである。 そのように考えてしまうと、とても奇妙だ。
考え方がおかしいとしてもいいわけだが、
メビウスの輪のような空集合もおもしろい。
なぜかといえば、これでスピンネットワークをつくれそうだからである。 >>447
>この「空集合」に属さないものも「無」にできるのだろうか?
いくらでもあるんじゃないの?
空集合はあらゆる集合の部分集合である
って事が数学の教科書に書いてあるけど?
要素が一つしかなくて2しかない集合も、部分集合には空集合がある
0より大きな負の整数の集合も、0より小さな正の整数の集合も空集合
無ってのが空集合と等価だとして良い訳だよね、何段階か経由して言い換えてんだから ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています