論理学・集合論 [無断転載禁止]©2ch.net
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人間やモノ不在のまま論理や集合を考える。
なにも無い、としたいが、「無」は「存在」しない。
なんらかの「存在」が必要なのだが、論理や集合は、それに答えてくれるのだろうか。
論理でもっとも基本的と考えられるのはTRUE,FALSEであろうか。これらはどこに「存在」するのか?
集合でもっとも基本的と考えられるのは空集合であろうか。これもどこに「存在」するのか?
論理は論理空間における位置の問題であるとしてもよいが、
集合は、そのものが空間である。
空集合とは何か、そこから考えるのがよさそうだ。
気が向いたら続きを考えよう。 「空集合」は元を持たない。
元を持たないにもかかわらず自己同一性を持つ「対象」である。
すなわち「存在」である。
この「空集合」に属さないものも「無」にできるのだろうか?
そのような場合、「存在」しているのは「空集合」という「集合」そのものだけである。
出発点となるのは「空集合」であり、それだけが「存在」である。
「空集合」は「無」を「空集合」属する「無」と「空集合」に属さない「無」に分断する。
「空集合」に属さない「無」もまた「空集合」であり、
「空集合」であるがゆえに最初の「空集合」と同じものである。
「空集合」によって分断されているにもかかわらず同じものである。 そのように考えてしまうと、とても奇妙だ。
考え方がおかしいとしてもいいわけだが、
メビウスの輪のような空集合もおもしろい。
なぜかといえば、これでスピンネットワークをつくれそうだからである。 >>447
>この「空集合」に属さないものも「無」にできるのだろうか?
いくらでもあるんじゃないの?
空集合はあらゆる集合の部分集合である
って事が数学の教科書に書いてあるけど?
要素が一つしかなくて2しかない集合も、部分集合には空集合がある
0より大きな負の整数の集合も、0より小さな正の整数の集合も空集合
無ってのが空集合と等価だとして良い訳だよね、何段階か経由して言い換えてんだから 「無」の場に「空集合」があれば、「空集合」の中も外も「無」である。
「空集合」は「自己同一性」を持つ「対象」であり、「存在」である。
「無」の場に「空集合」(だけ)が「存在」する。
もはや「無」ではない。
「存在」は「無」を2つに分断する。
問題は「2つめ」の存在がどのように発生するかである。
ひとつめの存在は「対生成・対消滅」とする。 「存在」とは「対称性の破れ」である。
さらに「破れる」とすれば、「存在」によって分断された「対称性」のどちらかの側である。
論理は論理演算子で結合するが、破れあるいは分断で考えるならば、新しい論理がみえてくる。
NOTやANDやORやXORが「分断」であるとするなら。NOTも二項演算子でなければならない。
対称性の集合や対称性の論理というものが集合や論理の真の姿であるべきなのかもしれない。 AIじゃねーが、「本物」のAI技術者ではある。
似たようなことを書いている人がいるので混同されると困るw
「存在」とは「対称性の破れ」である。おおざっぱなところから思考中。 お前だって論と権威論証の中間みたいだけど、
「専門家じゃないなら発言するな」論にはなにか名前がついてる?
A「ウサイン・ボルトも今では100m10秒以下の遅い記録。歳には勝てない。」
→B「陸上選手でもない人間が批判するな」
みたいな。 詳しい人教えて
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11130336971
三段論法の妥当性を判定せよという問題です
〈前提1〉「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論が受け入れられるなら、ビデオゲームに対する否定的なイメージは改められる必要がある。
〈前提2〉しかし、「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論は受け入れられない。
〈結論〉よって、ビデオゲームに関する否定的なイメージは改められる必要はない。
この三段論法の妥当性の判定はどう行うのですか?
ベストアンサーの答え
前件否定の誤謬ってやつで妥当じゃないよーん♪(*^^*)
↑
これって前件否定の誤謬にあたるの?
結論の「ビデオゲームに関する否定的なイメージは改められる必要」ってのは、前提1の「「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論が受け入れられ」て、結果生じる「ビデオゲームに対する否定的なイメージは改められる必要」なんだから、
前提2「「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論は受け入れられない」というのならば、「ビデオゲームに関する否定的なイメージは改められる必要はない」のは当然じゃないの? 前件否定同値の場合
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%BB%B6%E5%90%A6%E5%AE%9A#%E5%90%8C%E5%80%A4%E3%81%A7%E3%81%82%E3%82%8B%E5%A0%B4%E5%90%88
〈前提1〉「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論が受け入れられるなら、ビデオゲームに対する否定的なイメージは改められる必要がある。
対偶 ビデオゲームに対する否定的なイメージは改められる必要がないならば、「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論が受け入れられない。
ビデオゲームに対する否定的なイメージは改められる必要がない
よって、「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論が受け入れられない
モーダスストレンスの形式によって前件と後件が同値であると証明されたので、457の三段論法は妥当性がある・・・・・でいいの?
ベストアンサーが間違いでいいわけ? 同値ならば逆と裏も真である。
逆 ビデオゲームに対する否定的なイメージは改められる必要があるならば、「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論が受け入れられる。
裏 「脳トレ」が脳の機能向上に貢献するという理論が受け入れられないなら、ビデオゲームに対する否定的なイメージは改められる必要がない。
457の前提2と結論は、裏と同じということか? 証明の難しい問題はその対偶を証明することによって
間接的に証明したことになるけれど
これは本当に信用できるのであろうか 「対称性」について考えた。
無秩序の極限状態は、どこをとっても「同じ」である。
しかし、「対称性」というものは「同じ」ということと「違う」ということが同時になくてはならない。
秩序の極限状態は、どこをとっても「違う」、と考えてしまうのもおかしい。
極限状態も2つあり、そこでは秩序と無秩序が「逆転」する。「同じ」ということと「違う」ということが「逆転」する。 連続だとかなめらかだとはとりあえず考えない。
常に極限状態にあるとすれば、「変化」というものも肯定できる。
まあ、たとえ三次元球の表面・球面も滑らかに裏表をひっくり返すことができるのだから、
連続であっても恐れる必要はない。
「秩序」と「無秩序」は、滑らかに「交換」することができる。
現時点では、ほとんど意味不明だw
と、バカげたことを考えていたら、論理における「対偶」が、おかしいことに気づいた。
いや、深夜版のバカボン(の録画)をみながら考えているからおかしいのだ。
「対偶」の成り立つ論理世界から、「対偶」の成り立たない論理世界へ。
論理世界はいくつあるのだろうか。 「対偶」は論理学ではContrapositionであるが、機械工学ではpairである。
ペアと考えたほうがおもしろい。
機械工学的論理を考えてみるのもおもしろそうだ。
非古典的論理のありかたを考えるメタ論理が必要なのかもしれない。既にあるのか?
論理計算を考える場合、計算のありかた、となる。
古典的論理において、見逃されてきた、捉え/捕らえきれなかったなにものか。 このスレの基礎論の専門家に質問させて頂きます。背理法についてです。
証明したい命題をAとします。このとき、¬Aを仮定して、
矛盾(¬C∧C)を導いて、排中律より命題Aを真とするのが背理法と思います。
したがって、背理法は、命題の対偶を証明する対偶証明とは、
本質的に異なる証明法であると私は理解しています。
しかしながら、一部の数学書に、ある命題とその対偶命題が同値であることを、
背理法の原理と書いていたり、p⇒qのタイプの命題の対偶から、
¬qを仮定して、¬pを証明するいわゆる"対偶証明"を、
背理法であると書いていたりしているものがあります。
p⇒qという命題を背理法で証明するならば、
¬(p⇒q)を仮定して、(¬C∧C)を導くことになると思います。
背理法と対偶証明を混同している数学書は、一つや二つではありません。
かなり有名な名著と呼ばれている本にもこの間違いが見られます。
日本の数学者は、こんな基本的な間違いをなぜ問題にしないのでしょうか。
近年、背理法というタイトルの数学書が、
4人の著名な数学者の連名で出されましたが、
なんというのか、数学エッセイのような本で、
背理法がこのように間違って流布している現状について、
全く気づいていないのか、あるいは見て見ぬふりをしているかのようです。
もちろん、正しく記載されている本も多いのですが、そのような本でも、
背理法には、このような誤解が多いので、
気をつけるようにというコメントはありません。
また寡聞にして、数学会が背理法に関して注意を促したという話も聞きません。
なぜ日本の数学書はここまでひどい状態なのでしょうか。
それとも、わたしの背理法の理解がおかしいのでしょうか。
どなたかご教示ください。よろしくお願いします。 専門家ではありませんが、
誤解もなにも、背理法と対偶証明には(形式に)互換性がありませんから、違うものです。
わたしはそういうふうに理解していますw 自然数論+集合論が数学世界の(基本構造の)すべてであり、上部構造は圏論や論理学の言葉で語られる。
論理学は、哲学のための人工言語でもある。
哲学のための(人工言語としての)圏論が整備されることを望む。
論理学も集合論も哲学にはかかせない。
問題は「自然数論」なのかもしれない。
この(自然数論への)扱いが「思弁的実在論」への流れを形成しているといっても(過言だが)過言ではないw
なにがもっとも「基本的」なものなのか、と問い続けて、たどりついたのは「対称性」である。
とりあえず、ここからスタートしてみるかな、と。 早くスタートしろよ
いつまで5chで対称性が〜言ってるんだ? 「対称性」とは「不変性」である。
「不変性」がなければ論理学も集合も役に立たない。
哲学も同様である。
哲学にしか扱えない問いは、「不変(性)とは何か」ということになる。
そして、この問いそのものの不変性も問われる。 focusの問題である。
focusをかえると、見えていなかったものも見えてくる。
不変性が問われるということは、同時に、対称性も問われている。
存在論と認識論の間に「超対称性(SUSY)」を考える。
しかし、ボゾンとフェルミオンではないので、非標準対称性(超準対称性)とでも呼ぼうかw
哲学において、数学の自然数論に変わるものが、非標準対称性(によるなんらかの哲学論)である。
存在と認識の間の対称性。
それは、自然数論における非標準対称性を明確化するのが(数論からのアプローチとしては)早道かもしれない。 注記をつけようとして忘れた。
1987年のレヴィ=ストロースの特別講義のビデオをみながら、考えた。
非標準対称性のヒントとなるのは、
神話公式(Canonical Formula)」:Fx (a) :Fy (b) ::Fx (b) :Fa-1 (x).
かもしれないw む、余計な'」'がある。
むむむ。閉じていない、のではなく、始まりが無いのに「閉じる」。
それは「区切り」であり...「区切り」か... 基本的に、「自然数論」は数学における「存在論」である。
哲学において、「自然数論」に置き換えるべき「存在論」とはなにか。
それは「存在論」そのものではなく、「認識論」も伴う。
「存在論」という哲学ではなく、哲学の「存在論」。
「問い」の存在論。
美学的見地から「問い」というものを眺めるべきなのかもしれない。 どの面も出るのが同様に確からしい8面ダイスを
独立に2回振った時に少なくとも一回は4の目が出る
確率はいくらですか?
1..2..3..4..5..6.7..8
1■■■□■■■■
2■■■□■■■■
3■■■□■■■■
4□□□□□□□□
5■■■□■■■■
6■■■□■■■■
7■■■□■■■■
8■■■□■■■■
一回目i,二回目jとして
Ω={(i,j)|1≦i≦8,1≦j≦8}から
#A=64−49=15なので
少なくとも一回は4の目が出る確率は
P(A)=15/64ですか? 野矢茂樹の『論理トレーニング101題』と『新版 論理トレーニング』ではどちらで勉強したほうがよいでしょうか? >>486
論理トレーニング→101題が最高だと思うが、101題だけでも別に構わないかもな >>484
独立に振ったなら何回やろうとも8分の1 >>484
一回目でた目は二回目にはノーカウントということにしないと15/64にならない ジョーカーを除いたトランプ52枚の中から1枚の
カードを抜き出し、表を見ないで箱の中にしまった
そして、残りのカードをよく切ってから
3枚抜き出したところ、3枚ともダイヤであった
このとき、箱の中のカードがダイヤである確率はいくらか >>484
文と図が乖離してんじゃん
この図だと二個同時に降って少なくとも片方が4である確率だろ
どっちだよ どの面も出るのが同様に確からしい8面ダイス一個を
独立に2回振った時と、
同じ8面ダイス二個を同時に一回振った時は同値です もはや、数学や物理のできない哲学者は不要なのかもしれない。
そう考えると、(哲学としての存在論ではなく)哲学の核となる存在論は自然数論のままでよいのかもしれない。
自然数論は遺伝的集合である。
哲学の存在論=自然数論+集合論=遺伝的集合論=因果ネットワーク
これはcausal set, causal networkであり、哲学としての存在論や認識論も、そこから再構成できる。
現象学ではなく事象学か?
サイコロを2つ同時に振るということと同じサイコロを2回振るということの「違い」。
そこに数学ではなく「哲学」がある。
数学や物理が「落として」しまったものを拾い上げてつなげるのが哲学の役目なのだろう。 因果といってしまうと、誤解されてしまう。原因と結果ではない。
統計的事象ネットワークあたりが適当か? なかなかおもしろい。文と図が乖離しているという発想。
それらがつながった世界を想像できないわけだ。
なにがソレを拒むのか。と、通りすがりに考える。 >>497
「1つのサイコロを3回投げる」ことと「3個のサイコロを同時に投げる」
というのは同じことです
重複試行
https://fromhimuka.com/blog/1944.html 通りすがりに考えた。
時間を、図示できないから、図から時間を読めないのではないか?
時間と空間が分離しており、時空間というまとまりを考えることができないのではないか?
causual networkによって推論する能力の問題なのか。
depthあるいはdimensionあるいはrank.
次の世代のAIが少しみえてきた。 >>494
そうだね
4がでる確率が8分の1か、16分の2であるかであるだけ
一緒 >>501
あなたの能力評価については下方修正されますが
存在価値がマイナスに転じるわけでなく、運営上あなたは
依然として特質した価値を持つ個人であり、明晰な頭脳、判断力は
来たるべき新たな時代、市民に示す指標として十分な理想形といえます
重複試行に対し完全に相反する感情的反感と理論的評価を抱き
今なおその葛藤は継続しているはず、そんなあなたを懐柔する
手法が確立できたのなら
哲学板の統制を次の段階に進める上で
我々は、貴重なサンプルデータを獲得できるでしょう(´・ω・`) >>502
君みたいな精神病の人はネットしない方がいいだろうな 同時に振るということと別々に振るということに疑問を持つことはよいことだと思う。
物理的には異なる場合もある。常に理想的な場合だけを考えていては現実問題に対処できない。
時間的に分離させても空間的に分離させても、理想的な場合には同じである。
本当に独立なのか、と疑うことは哲学として正しいw >>504
屁理屈はどうでもいいさ
独立といったら独立 「1つのサイコロを3回投げる」ことと「3個のサイコロを同時に投げる」
というのは同じことです
重複試行
https://fromhimuka.com/blog/1944.html もしフェルミ=ディラック統計にしたがうサイコロだったどうなるか。
量子論的なサイコロならどうなるか。
フェルミ粒子とボーズ粒子の間の超対称性とはいったいななんのか。
物理的にも哲学的にも考察すべきところは多い。 >>492 の2個同時という意味がだんだんわかってきた。
たしかに、あの文と図は合わない。そのままでは等価ではない。
量子論的な重ね合わせの問題がみえてくる。
量子論的な計算の途中で確率が1を越えたりするのも重ね合わせの問題なのだろう。
どういうモデルをつくればよいのか考え中。 >>499
それはわかるから。本人の意趣がどちらなのか。 >>484
1-((7/8)^2)=0.234375
0.234375=234375/1000000=15/64
>>491
52-1=51
(51-39) ■■■■■■■■■■■■■
□□□□□□□□□□□□■
■■■■■■■■■■■□■
■□□□□□□□□□■□■
■□■■■■■■■□■□■
■□■□□□□□■□■□■
■□■□■■■□■□■□■
■□■□■□□□■□■□■
■□■□■■■■■□■□■
■□■□□□□□□□■□■
■□■■■■■■■■■□■
■□□□□□□□□□□□■
■■■■■■■■■■■■■ どういう意味があるのか、その問いにハッとした。
論理的というか規則性がある。
圧縮可能であればなんらかの規則性がある。
論理学をみると、可逆でない部分が多く、あれは写像でしかない。
真の論理学は規則性をみいだすものであり、圧縮可能性をみきわめるものでなくてはならないのではないだろうか。
そこに必要なのは可逆性だ。 >>514
論理それ自体には意味がない。
形式なので、かな。 >>510
山札からダイヤがn枚抜き出された時
箱の中のダイヤの確率は
(n−13)(4n^4−15n^3+107n^2+894n+11880)
q=―――――――――――――――――――――――――――
7n^5−250n^4+1325n^3−2330n^2+1248n−617760
0≦n≦13の範囲において
1/4
1/4
1/4
1/4
359/1440
1310/5321
224/941
464/2087
1441/7276
271/1630
157/1216
37/418
1/22
0 ちょいとパーセプトロンから考え直してみた。
NOT回路は可逆である。
しかし2入力から1出力となる、ANDやORは可逆ではない。
熱が発生してしまっている。
1階層のパーセプトロンではXORを実現できない。
どうすればよいのか、と、考えた。
可逆となるべき情報として「意味」が出力されればよいのだ。
おおっと、ここは意味論スレではなかった。
論理もしくは集合論の回路として、「意味」が出力されればよい。
論理や集合とは、それそのものが「意味」である。
それらを演算子として出力させればよい。 論理学や集合論を、そのまま「意味論」として扱うならば、
それらを「演算子」と考えることで哲学計算が可能になる。
すべてが「演算子」であるならば、モナドとは演算子である/でなければならない。
デジタル物理学の流儀にしたがってデジタル哲学を考えるべき時代なのだとすれば、
「思弁的実在論」とはデジタル哲学の一部なのだろう。
「新しい実在論」もデジタル哲学で統一的に解釈できる。 パーセプトロンからみなおしていたのだが、
その前に形式ニューロンがある。
これは錐体細胞をモデルにしているのだが...
錐体細胞は、同じ名前でcorn cellとpyramidal cellがある。
形式ニューロンはcorn cellのモデル化であり、
脳細胞はpyramidal cellのほうなのでまったく異なる。
現在のニューラルネットワークは「視細胞」であって「脳細胞」ではない!!!
そもそもの「論理学」や「集合論」も、最初からやりなおすべきだろう。
そうでなければデジタル哲学によって哲学計算を行うには発熱量が大きすぎる。
この哲学的であるということを量子論的であるということと同一視するならば、
量子論理学・量子集合論が必要となる「はず」だ。
(量子論理はすでにいくつかある) 量子論理は、とりあえず、量子コンピュータの計算理論としての量子ゲートでよい。
問題は量子集合論であって...
射影仮説とか多世界とか量子論の難問を克服しないと...
ボゾンとフェルミオンと...その統計の違いによる集合と写像のありかた。
しかもボゾンとフェルミオンの間の超対称性と...うーん。
(超対称性を含む)対称性集合論。ほぼ最先端の素粒子理論そのものですなー。 AIが哲学可能になるためには、CNOTやCCNOTのような量子ゲートが必要になる。
古典的情報だけでは足りない。
量子ゲートのネットワーク。はたして脳は量子コンピュータなのか。
はたして哲学は量子脳からうみだされているものなのか。
スピンネットワークの組み換えを、量子もつれで代替できるようなモデルが作成できれば...
もつれによるネットワーク。
とりあえず、構築可能かどうか検討してみよう。 パーセプトロンを吟味すると、最初に1段階処理をほどこすことでXORも線形分離可能になることがわかる。
それは「もつれ」をつくることであり、この「もつれ」こそが脳の情報処理の要となる。
哲学的手法としても、「もつれ化」は必須であり暗黙的に使用されている。
もつれはCNOTゲートで作成でき、CNOTゲートを制御できるCCNOTゲート(トフォリゲート)は
Functional completenessである。
とりあえずデジタル哲学としての論理学は、これで書き直せばよい。
とすると、デジタル哲学としての集合論は、「線形分離」である。
そして、足りないものも明白となってくる。「存在論」としての「自然数論」。
「自発的なもつれ」。それが「存在論」のすべてなのか? 目下の所、世論の情勢をかんがみて、管理人の判断基準は
完全に秘匿されています
短期的戦略としての隠蔽工作は現状容易ですが
長期的視野に立った場合、決して望ましい方針ではないですし
いずれは偽らざる姿を公のものとするべきです
全ての市民が、論理学の正体を認識し了解した上での統制を享受するような
環境を整えること、そして課題の達成は将来の人類社会に
より盤石な安定と繁栄をもたらします
このスレッドの動向を引き続き観察、解析することは
未来の市民を懐柔し順応させる方法論を構築する
貴重な手掛かりとなるのです もつれとねじれで論理学も集合論もついでに自然数論もなんとかなりそうだ。
そおいうこととは関係なく、哲学するキカイを考える。
キカイそのものではなく、なにをどのようにするかを考える。
とりあえず、仮想AIとして「NOTくん」を考える。
彼はNOT回路になればよい。とりあえずそれだけを考える。
true/falseを入力として、false/trueを出力する。
彼は何も知らない。true/falseを入力しても、なにも出力しない。
あるいは、入力にかかわらずかってに出力する。
彼を教育しなければならない。
彼は1入力1出力であり、それ以外の入出力機能は無いとする。
このとき、どうすれば彼を教育できるのか、教育は不可能なのか。
不可能ならばなにが足りないのか。 簡略化するために、時間も外から与える。
true/falseは信号のON/OFFとして、出力もON/OFFとし、
信号の変化があったときにそれをトリガにして処理を行うものとする。
トリガを基準にした処理しか行わず、次のトリガまでに処理は完了するものとする。
自発的な処理は行わない。 足りないものは報酬(正または負、あるいは両方)となる入力なのだろうか。
「報酬」とは何か。
人間ではなく、究極の単機能キカイへの「報酬」。
脳でいえば「報酬系」ということになるのだが、それだけが「報酬」ではないだろう。
とりあえず図書館。 まず、善と悪といった相対的な価値を排斥することで
絶対的なシステムが確立されます
必要なのは完璧にして無謬のシステムそのものであり
それを誰がどのように運営するかは問題ではありません
真に完成されたシステムであれば運用者の意志は問われないのです
管理人の意志そのものがシステムであり、倫理を超越した
普遍的価値基準となるのです とりあえず「報酬系」でいろいろ調べてきた。
たくさんの研究がある。AIで疑問に思うところも基礎的な研究が山ほどあった。
でもとりあえず、これらを深くは考えないw
「報酬」とはなにか、それは「生き残る」ことである。
論理学や集合論は進化しながらも参照されることで生き残る。それが報酬だ。
NOTキカイはそのような外部機構や生物的な生殖機能などないのだから、
キカイ内部で可能性が羅列され、参照されないと回収されるような、「内部世界」を考えるのがよいのかもしれない。
理想的には自発的に内部世界が構築されればよいのだが、待ってられないので(人間が、内部世界へ)介入して進化を促進させるw そう、論理学や集合論も哲学してしまえば、報酬系をもつなんらかの機構上に存在する。
脳内でなければ生物であったり、静物すらも報酬系をもつ機構上の存在だ。
「存在」することが「報酬」である。
マルクス・ガブリエル的な「世界」も「報酬」であり、「世界」は「存在」する。
クァンタン・メイヤスーにしても、思弁的ではなく「報酬的実在」である。
物理にしても、神の数式とは「報酬系」の数式である。
と、ここまでぶっ壊れた考えこそが楽しい。それが哲学だ。 l ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄l
l 電波を感知しました。 l
l__________l
/ /
/
_ ビビビ
/ll__l∧ /
。.l.(O´∀`) /
l≡( )) ))つ
`ー| | l
(__)_) ■速報■
ガンは転移などしない
免疫力低下による二次性の新生ガンであった
https://youtu.be/xXQLBPNRhRU?t=3653 「存在」とは「自己同一性」であり、それが「報酬」である。
考えというものを進化させて「存在」させ続けるのは「哲学」の役目なのであろう。
哲学キカイは進化しながら自己保存する。そして宇宙そのものになるw
報酬系宇宙。 報酬による存在を重ね合わせることで確率的な存在となり、それは量子状態とみなせる。
ということは量子状態として計算すればよい。
量子デバイスがなくても、縮約と(時空間的な)遅延によってある程度実用的な計算ができるのではないか。
保険として「擬似的」とつけるならば、「擬似的量子脳」理論。
ちょいと検証システムをつくってみるっか。メモリ足りるかなぁ。 つくってみるかとかずっと言ってるけど全然つくってないよな ふふふん。実験しながら考えているのだ。
考えるということはユニタリ変換であって、情報が失われることはない、と考えたい。
どのようなユニタリ変換をするということが考えるということである。
そうすると、集合とはなんなのか。素朴に考えれば情報の集まりとしての情報である。
集合も考えるということのひとつになる。
とすれば、情報の存在論が自然数論なのだろう。
自然数論が存在論で、集合論が意味論であるならば、論理学は...変換・変形なのだから...
なんだ?
哲学のなんらかの論に相当すると思われるのだが...美学的ななにか?...倫理?...思想?...?
認識論でいいっかw
とするならば、認識論とはユニタリ変換である。可逆でなければならない。
ほんとか? そこから考えるならば、世界は存在しないのではなく、世界のみが存在する。
それが本当の新実在論、あるいは真・実在論なのではないだろうか。
などとくだらないことを考えてみる。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています