>>104
「「事実から当為を導き出せない」と言うのは、一つの見解にすぎません。」
尤もですね。まさに。

論理に関しては当為なく成り立つと思います。
論理は理で成り立ち、題、命題、などが必要です。命題とは主に、
「このようなものである」という存在命題と、「このようなものであるべき」という当為命題で
存在命題、または事実命題に当為は含まれません。

当為と事実は切り離せないとのことですが、そうは思えません。
当為から事実は、或いは切り離せないのかもしれません。
当為とは「あるべき」ということで、言ってしまえば、確定していない状態です
確定している状態があるから確定していない状態を認識できる、といえるかもしれません。
しかしその逆はないように思えます。確定している状態は確定していない状態にかかわらず確定しています。
なので、事実から当為は切り離せるかと思います。

事実とはどのようなものであるか(どのようなものとしてあるべきか)
事実とは「議論の余地のないもの」「確定している」ではないでしょうか。
事実という言葉の持つ意味がどのようなものか、どうあるべきか、と問えば当為が含まれてるように思えるが
これは、事実が当為を含んでいるのではなく、
事実を「認識する側」或いは「事実という言葉」が当為を含んでるのではないでしょうか。

世界はどのようにあるのか、世界をどのようにあるものとして分析すべきか
事実の世界と、認識の世界。
よくある例えが夜空の星は実際にはもうないかもしれない、というあれですね。まあ、それはともかく
この問題は最早、どうしたいか、なのでは?
哲学は是非ではないと思います。なので「どうすべきか」を必ずしも求める必要はないのではないでしょうか。
好きな様に見て好きな様に議論すればいいし、もちろん「どうすべきか」を求めてもいいと思います。