ものすごい勢いで誰かが質問するスレ!! [無断転載禁止]©2ch.net
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質問スレが動いてない時は決まって板全体が酷い有様だ。
普通の住人は何処か他の板にでもいるのかな? こんなとこに常駐してるのは波平と純一だけだろ
美魔女もそのほとんどが波平だし 人少な過ぎ。哲学自体がどこか人々からバカにされてるのかな? そういう人もいるだろうけど
とりあえず哲学板は馬鹿と狂人とガキの暇つぶしの場だと思われてるな
いやそれももう通り越して、波平に占拠された波平の遊び場だと思って退散した人も多いかな その波平って人がAAだらけのスレや意味不明のスレを
作って荒らしてるという確証はあるの? 状況証拠からほぼ間違いないと思われるログがいくつかある
書き込みの時間が、あまりにもピッタリはまりすぎてるとか
あと、ほとんどすべての基地外AAスレに1分以内で「発狂さん、上げ荒らしやめましょう」レスがついてたりしたら、これはまず間違いなく自分でageてるんだろうなと思うよ >>39
一応ソースは↓
5考える名無しさん2017/05/21(日) 01:10:44.500
http://mimizun.com/log/2ch/philo/1245333708/797-798
> コテを外し忘れたままキモAA荒らしを装う波平の雄姿wwwwwww
>
> 797 :第三の波平 ◆JXLBbnYqTY :2009/07/14(火) 21:55:45 0
> ...-ー、,-─
> .-=・=- i、-=・=-
> ((i))
> .. -=ニ=- つのがらいクリかね?
> .`ニニ´
> γ´⌒\___/⌒ヽ
> /⌒ ィ `i´ ); `ヽ
> / ノ^ 、___¥__人 |
> ! ,,,ノ爻\_ _人 ノr;^ > )
> ( <_ \ヘ、,, __,+、__rノ/ /
> ヽ_ \ )ゝ、__,+、_ア〃 /
>
> 798 :考える名無しさん :2009/07/14(火) 21:57:03 0
>>>797
> もしも〜し、コテ外し忘れてますよ〜(ppp 純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純
一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一
=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=
プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プ
ギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギ
ャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャ
オ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ
=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=
絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵
里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里
万=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万
=発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=
発狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発
狂さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂
さん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さ
ん=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん
=ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=
ままみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ま
まみがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=まま
みがろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみ
がろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみが
ろ=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ
=運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=
運知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運
知饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知
饅純一=プギャオ=絵里万=発狂さん=ままみがろ=運知饅 質問いいでしょうか?
意見が聞きたいのですが、思考実験のスワンプマンやパーフィットの分離脳なんかにもちょっと関係するかもしれません。
記憶や意識などの話で、十分前の自分と十分後の自分が別人である証明、のようなものです。
スワンプマンという思考実験を知らないAという人物に実験の内容を教えます。
実験の内容を知らないAと実験の内容を知ったAに同じ質問をします。質問は「スワンプマンという思考実験を知っているか」です。
もし、2人のAの答えが違うものなら、同一人物ではない、ということになるのではないか?
と考えたのですがどうでしょうか?
意識が連続していようと常にバージョンが更新され続けていて、少し前の自分と今の自分は限りなく同じものに近い別物なのではないか?と思ったのです。 >>46
人格の同一性は、心の中には記憶等が部分的に更新されても変わらない何かが
存在するという話だろう 別人であると考えても同一人物であると考えても特に違いはない。人間とはそういうものだから。
ただ、Aという人物の外見は10分前も10分後もあまり変わらない。そういう場合にそれは同一人物であると考えるのが普通。実際にはAという人物が1分ごとに光速で同じ外見の別人と入れ替わっていてもそれを検出する方法がなければ同一人物だと判断することになる。 間違いがあれば指摘してもらえると助かります。
>>49
神秘主義的な心身二元論、ということでしょうか?
少し論点が変わってしまいますが、別の疑問です。
意識や心(以下意識)などのものが、物理的な要因、五感による情報などで変化しないのであれば、意識は生まれてから、現在に至るまで不変ということでしょうか?
そうだと仮定して、では例えば、子供の頃と大人になってからで物事に対する考え方や捉え方が変わらない人はそういないと思います。
これは脳に蓄積された知識、記憶などの経験によるものだと思いますが、それらの変化が意識の考察材料が増えたことによるもので意識自体に変化はなく、
意識は考え、判断するだけのものだとするなら、もし、他者と意識が入れ替わったとしても行動や思考には何ら変化がないということになるのではないか?
と思うのですがどうでしょうか。
>>50
理解はできますがそれは、言葉が適切かわかりませんが、社会的?な観点においてということですよね?哲学的な観点において自分の考え方が適当であるのか、それとも他の考えがあるのかを知りたかったのです。 > 意識は考え、判断するだけのものだとするなら、もし、他者と意識が入れ替わったとしても
> 行動や思考には何ら変化がないということになるのではないか?
個々人の考え方や思考の癖なども意識そのものではないと考えたらそうなる 惑星クローゼットというマンガで変性意識の解説で、目を閉じてるときに
グルグル回ってるような感覚になったりすることとありました。
つまり、普段通りなのに別のものに見えてしまう、ゲシュタルと崩壊的な
意味だと思うんですが、自分の解釈だとむしろ逆で、文字を文字として
見えることが変性意識だと思ってました。どちらが合っていますか?
自分はこの世界自体が変性意識の産物だと思っています。
ただ、そうやって考えていくとどこかで変性意識という概念自体が瓦解する。
出来上がった世界の自己肯定反復運動の一つにすぎないことがわかる。 今の日本は言論の自由、思想信条の自由などが侵されはじめていると言われます。皆さんはどんな時にそれを実感されますか? タトゥーと日本人。これから日本人はタトゥーという文化と
どう向き合っていけばいいですか? >>56
ヤクザ屋さんに聞いてください
あと生きている間はずっと、刺青から重金属は少しづつ流れ出て肝臓をやられますよ。
若いうちは症状が出ないですが40代後半あたりから内蔵疾患を起こす人が多いです。
最近は内蔵に影響が出ない染料を謳う人もいますがデタラメです。
MRIに刺青の影響が出ることから分かる様に刺青に含まれる金属が含まれているからです。
有り体に言えば人体に残すには金属系の顔料でなければ一生残る様にかけないからです。
それ以外の物質では人体に取り込まれ分解するかアレルギー反応で皮膚が爛れたりかぶれます。
アレルギーを起こさない金属では色が限られますしね。
海外の人も刺青を入れない人が圧倒的多数です。
映画やドラマで入れてる人達が多く出ているので勘違いされる子供が多いですが。 >>58
しかしタトゥーをしている日本人が「生きづらさ」を感じている事も事実でしょう。弱者である彼らを無視する社会であってはならない 生き辛さを感じている?
刺青で人を威圧して周りに迷惑をかけているの間違いですよね。
それを擁護しようとする貴方みたいなクズも社会的制裁を受けるべき咎人ですね。
今すぐ首を吊って死んでください。 私は論理的且つ合理的に彼の価値の無さと害悪を証明してその帰結として自殺を勧めているのだから問題ないだろう? 自殺を止めるのが道徳とするならば。
自殺を肯定するのは哲学の仕事だ。 質問です。
どうしてWikipediaの哲学の項目にファイ(φ)が、精神分析学の項目にプシー(Ψ)があるのでしょうか。
自分が調べたところでは、ファイにもプシーにも特定の学問の意味はありませんでした。
もしかしたら他のギリシャ文字もwikipediaにおいて特定の学問を意味しているように使われているのかもしれません。
何か知っている方がいたら教えてください。 φιλοσοφ?α(哲学)とψυχ? (心、魂)の頭文字だろう あげよあげよ!やっぱ質問板が活気あると板も良くなる、と思う… >>66さんの意向を汲んでageてみます。
>>65
なるほど!納得しました。
少ししか調べてませんが、心理学系と哲学ぐらいしかギリシャ文字が書かれていないようです。
「こういう人間にまつわることはギリシャ語で語るべき」という編集者さんの意向だったりするんですかね。
ともあれ解決したので満足です!ありがとうございました。 質問です。
岩波文庫のソクラテスの弁明が135ページなのに対して、中公クラシックスのソクラテスの弁明が492ページもあるのはどうしてですか?
誰か知っている人がいたら教えてください。
あとどちらがオススメとかあったらそれもよろしくおねがいします。 中公には弁明とクリトンに加えてゴルギアスが入っている 昔から核保有国が数百回も核実験や原爆実験するから人間は癌が多いのか? >>67
哲学は古代ギリシャが本場であり古代ローマの貴族は挙って古代ギリシャに留学したり古代ギリシャ人を家庭教師に招いた
その後も教養人はギリシャ語で哲学を論じたりしています
古代ローマ帝国の共通語はラテン語ですがギリシャ語で哲学の論文などを書くのがステータスだったのです
死海文書などの古い聖書も古代ギリシャ語で書かれています
そう言った事情からギリシャ語は哲学に君臨していますよ 哲学教授って大学に入ってから外国語3つも4つも覚え始めて
数年でマスターしてる奴らなんですか?
外国語の勉強だけで死にますよね、哲学なんかやる暇あるの? 読むだけの外国語学習ならそれほど大変ではない。
英独仏希羅は似通った言語でもあるし。 死海文書は旧約聖書でユダヤ教だからヘブライ語主体で一部ギリシャ語か >>73
ギリシャ語ってずっと昔からいたるところで価値が認められるくらい優れた言語だったんですね!
私はたまに辞典を使うのですが、ギリシャ語由来の単語が頻繁に現れていたことを思い出しました。
それには哲学だけでなく理科や政治にまつわることもあったので、ギリシャ語は至る所に宿っているんだなぁと思いました。
どうやら、古くから「アカデミックな事柄はギリシャ語で」っていうのは広く行き渡ってたようですね。
というか「アカデミック」もギリシャ由来のようです。ギリシャ語に改めて感服・・・。 以下の中で一番強いのはどれだと思いますか?
全(全て)、無、どうなってもいい、考えない、痛む、痛みに耐える、なんでもあり
観測者不在、不定、自由自在、想像することすらできない、感じることすらできない 宗教において、すべからく人を救済すべしと謳ったもので信者を募集するようなところは以下を持って
信者という枠を作る行為はそれ以外を別けることで、それ以外を救わないということになるのではないか、
それはもはや慈善や慈愛などと言えない偽善になるのではないか、聞こえのいい警備会社のように思える。
よって宗教なら、信者は勝手になるまではともかく、その枠は認めるべきではないと思うが如何に。 >>78
肯定できるかと。
ただ、哲学は論理的に考えることであり、
それは倫理や道徳による正否を斟酌すべきものではないし、するべきではないと考えます。
なので、哲学的に肯定できる、ということになりますが。 >>83
一方で哲学的知識や教養を盾に犯罪を犯し、それを正当化する
人間もいそうですね・・・ >>83
哲学で人間の行為について「論理的に考える」こととは
「倫理や道徳による正否」を考えることに他ならない 「近代的個人を否定する」という思想を持つという事こそ
むしろ、近代的個人の賜物とは言えませんか? >>85
尤もかと。
ですが哲学で人間の行為ついて考えるとき、
その人間がどのような倫理や道徳をもち、その影響でどのような行為に至ったのかは考慮しても、
その行為の是非は倫理学であり、その倫理的な是非が哲学の論理的明晰化に影響するものではないかと思います。
「哲学的に肯定できる」というのはつまり、それは確かに存在する、と言ってるようなものかと。 >>86
よくわからんが、「近代的個人の否定」というのが、いかなるものなのかによるでしょう。
そもそも、「近代的個人」というものなど想定すべきではなく、そのような単純な分類に意味はない
というような意味であるのであれば、そもそも「近代的個人」なるものを問題にすることそのものが
おかしいわけだから、「近代的個人」の賜物という言説そのものが、意味をなさないことになる。
そういうことだとすると、そもそも、あなたの言説そのものが、「近代的個人を否定する思想」と
全く相いれないことになるから、話が噛み合わないだけでしょう。 >>87
横レスで、申し訳ないが。
「その影響でどのような行為に至ったのか」ということのみを問題にして、
「倫理や道徳」の問題を棚上げにした上で、それだけにスポットライトをあえてあてる
という考察を行うものである、と言う前提に立って話をするなら、なくはないと言える程度。
まして、「その倫理的な是非が哲学の論理的明晰化に影響するものではない」ということに
なるかどうか、以前に、(申し訳ないが)その程度のところで止まるようなレベルにはない。
そもそも、「論理的明晰性」などと言うが、それ自体、すなわち「論理」などというものが、
つまり「論理(的)」であるということは、「このようなものであるべきである」という
規範的(当為的)な命題(のようなもの)が前提としてないと(それを存在と言うべきかは別として)
成り立たない、ということになる。少なくともそういうレベルにまでスポットライトをあてるのが、哲学的な思惟だったりする。
時間も遅いのでとりあえず、この程度で。 誤字が多くなって申し訳ないが、いずれにせよ、学問板でこのレベルなのか?
なんて、レベルの遥かに下にあるところにしかないわけで、居酒屋でおっさんがやってる
政治談議の方が全然まともなレベルでしかないというのが現状でしょう。 波平を弄るほどに君にリテラシーはなさそうだが。
勿論波平の言う右翼や左翼なんてのはデタラメで語りたいのは仏教や近代以前の倫理をベースにした保守思想なだけ。
それに付き合う人間が少ないから態と煽ったり天邪鬼な事を言って人を誘い混んでるんだよ。
つまり君は蟻地獄や蜘蛛の巣に掛かった哀れな餌食。 >>92
あー、ごめん。
彼を定期的に、ボコって遊ぶのは、良くないかもしれんが、あいつはどうにかせんといかんだろw
いずれにせよ。それは、ここでは、どうでもいいところなので、>>88>>89に戻ろう。
両方とも私のレスなので、ここで、そういう話をするのは、私の本意ではない。 >>93
と言うか君のはストーカーみたいで気持ち悪いレスだな。
本も読まずこんな所で波平みたいな男に付き纏うつ位ならテレビ見てた方がましだな。
凄まじい。 学問をやっても、人間が本来的に持っている問題の解決にはならないわけじゃん。
例えば、リーマン予想を証明したとしても、
もし密室に閉じ込められてチンパンジーの集団をそこに放り込まれたら・・・・・
と、考えるとやはり、そんな人間が本来的に持っている、「恐怖や苦しみから逃れるにはどうすれば良いか?」
という問題の解決にはならないことをやっていても無意味なんじゃないかと思いませんか?
確かお釈迦様も似たようなことを言ってたような気がする。
自殺をすれば良いじゃんと言う人がいるかもしれないが、
本当に死んで解決できるのだろうか?
死んで完全なる無になり、もう二度と有にならずに済むのなら今すぐにでも自殺したいが、
冷静に「無」に関して考えると、「無」にはなれないような気がしてきたのですが・・・・・。
どうすれば良いのだろう・・・? 恐怖から逃げる前に快楽を貪るのにお金や名誉などが必要だから学問をやる。
スポーツで掴んだ人はスポーツを重視する。
また学問と言っても多岐に渡る。
逃げる為に学問を修める人もいれば掴む為に修める人もいる。
意味がないと思うなら自分が辞めれば良いだけで他人にどうこう言う必要もないでしょう。
リーマン予想に取り組んでる人が何を目的にしてるか貴方が勝手に決めてもね。 「「無」になってもう二度と「有」にならないようにするにはどうすれば良いか?」
という疑問に対する答えを見つけ出そうとする学問がもしあるとしたら、それはやる意味も価値もあると思う。
なぜなら、「「無」になってもう二度と「有」にならない」というのは、
人間が本来持っている最も重要で根本的な「痛みや苦しみや恐怖などから解放されたい」という切実な願いを叶えるものだからである。
そのような学問があるとしたら、その切実な願いを叶えるための手段になるわけだから、
当然、その学問はやる意味もあるし価値もあるということになる。
寧ろ、人類総出でやっていった方が良いと思う。
しかし、それ以外の学問はその、最も重要且つ重大な問題から解放されるための手段には全くならないので、無意味無価値無駄と言えるのではないでしょうか? 気にの言ってることは単に安楽死すればだけの事だから。
解決してよかったね。 取敢えず死んでみよう。
無にならないのなら悩むのはその後でもできるしね。 人生を楽しみたいという人もいる。そういう人にとってはどうやったらもっと楽しめるかという方法を問うのは有意義なことだろう。
なので苦しみから解放されるための学問以外は全て無意味とはいえない。 >>94
ストーカーってw
そもそも、他の人だと議論になるのに、波平を相手に間違いを指摘したら、
議論にすらならないから「ボコって遊ぶ」と言う表現にならざるを得ないというだけだよ。
それとも、波平の間違いを指摘して批判してる人間が一人だけだとでも思ってる??
複数人にやられて、必死になって、逃げ回ってwストーカーとかw
>>95
基礎科学でしかも虚学を持ち出して、そんなことを言われてもなぁ。
そりゃあ、風邪を治すために法律事務所に行っても何の役にも立たないみないな話ですよ。
例えば、医学は、学問ではないと? 念のため言っておくと哲学について大して詳しいわけではありません。あくまで趣味の範疇です。
趣味といえるほど知っていると自信があるわけではありませんが・・・。
>>89
89の下の文を解釈してみました。
つまり、論理はかくあるべきという命題で成り立つ。その水準に焦点をあてることが哲学の思惟である。
ということでしょうか。付け足すなら、命題を示せ、ということですか?
「そもそも、「論理的明晰性」などと言うが、それ自体、すなわち「論理」などというものが、
つまり「論理(的)」であるということは、」これがうまく理解できないのですがどういう意味ですか?
「それ自体」とは「論理的明晰性」を指しているように思えますので、
「「論理的明晰性」すなわち「論理」などというものが、
つまり「論理(的)」であるということは、」になるかと、
「すなわち」と「つまり」はどちらも前文を言い換えたり要約するときに使うものと認識してます。
だとすると、「論理的明晰性」と「「論理」などというものが、」
と「「論理(的)」であるということは、」が全ておおよそ同じ意味になると受け取れるのですが、そうなのですか?
どういう意味なのか噛み砕いた説明をお願いできませんでしょうか。
続く 102の続き
>>89
哲学の基本は、はっきりさせること、ではないかと思っています。どのように?論理的に。何を?各命題を。
哲学の論理的明晰化とは、各命題を論理的に明晰化(はっきり)させるということです。
倫理的な是非を考慮しない。
倫理的な答えを求めるなら当然倫理的な是非を考慮するべきです。ですが、
有名な倫理の命題に「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ自殺してはいけないのか?」などがあります。
これらを倫理の側からは論理的な答えを出せないといわれています。
これをして哲学で「事実から当為は導けない」といっています。
倫理的な是非とは当為です。
行為の倫理的な是非を考慮したところで事実は変化しません、よって哲学は倫理的な是非を斟酌しないのではないかと思います。基本的に。
ついでに、
事実から当為は導けない
魔王「私が黒といったら白くても(事実)黒なのだ(そうあるべき、つまり当為)、フハハハッ」
魔王「おい貴様、そこにある黒いもの(当為)を持ってこい」
しかし事実は白いものなので、そこにある白いもの(事実)が魔王のいう黒いもの(当為)であると導くことはできず、魔王は黒いものをとってもらうことが出来ません。
最後に、
「その程度のところで止まるようなレベルにはない。」とはつまりどうあるべきものということでしょうか?
よろしければお聞かせください。 >>103
まず、「事実から当為を導き出せない」と言うのは、一つの見解にすぎません。
事実から当為が完全に導き出せたという事例を私は寡聞にして知りませんが、
かといって、「事実から当為を導き出せない」ということが、確かなものであると
完全にわかったということではありませんし、そのようなことがわかったということも
また同様に、寡聞にして知りません。
当為と事実は切り離せないだろうと私は、考えています。
これは、「論理」にしても同じことであり、「論理」とは、すなわち「論理」というものは、
このようなものである(このようなものであるべきである)という当為がなければ、成り立ちえません。
自己言及的なおかしさを無視するのであれば、これは、「事実」に対しても、同様になるでしょう。
事実とはどのようなものであるか(どのようなものとしてあるべきか)と言う問題は、「事実」
そのものを見る場合に無視できない問題となります。これを「事実」と「当為」の問題ではなく、
「存在」と「認識」と言う問題に置き換えても、含意するところは、大まかには変わらないように思えます。
結局のところ、世界はどのようにあるのか、と言う問題は、我々は世界をどのようにあるものとして分析すべきか、
と言う問題と切り離せないのです。根本的なところを追求していこうとすると、終局的にこの問題にぶち当たると私は思っています。
うまく説明できなくて申し訳ないですが、昔の記憶を探って適当に説明してますので、わかりにくいのでしたら、文献をあさって
思い出してから、しっかりとした記述をします。 >>95
「恐怖や苦しみから逃れるにはどうすれば良いか?」ということですか?
それとも、
「「無」になってもう二度と「有」にならないようにするにはどうすれば良いか?」ということですか?
恐怖や苦しみから逃れる方法なら恐怖や苦しみを感じる状況にならないように気をつけるしかないですね。
どう気をつければいいかは、それこそいろいろな学問は学べばいいのでは?
そうすれば例え密室に閉じ込められてチンパンジーの集団をそこに放り込まれたとしても
チンパンジーを手懐ける方法を知っていれば対処できるし、密室から脱出する方法を知っていれば抜け出せるし、
そもそもそんな状況にならないように対処することだって可能かもしれません。
まあ、どうにもならないこともあるかもしれないですが。
それに結局最後は死んでしまいますし。ただ、死への恐怖なら宗教でもやればいいんじゃないですか?宗教ってそういうものかと。
「無」になってもう二度と「有」にならない方法はちょっとわからないですけど
物理主義的には今のところ死んだらそれで終わりなので物理主義でも信奉してみたらどうですか?
もし魂のようなものがあったとして、それが輪廻転生したとしても、きっと意識的には他人なので気にしないと考えるほかない。
もし記憶まで一緒に持ち越したとしたら・・・、ご愁傷さまですね。 >>104
「「事実から当為を導き出せない」と言うのは、一つの見解にすぎません。」
尤もですね。まさに。
論理に関しては当為なく成り立つと思います。
論理は理で成り立ち、題、命題、などが必要です。命題とは主に、
「このようなものである」という存在命題と、「このようなものであるべき」という当為命題で
存在命題、または事実命題に当為は含まれません。
当為と事実は切り離せないとのことですが、そうは思えません。
当為から事実は、或いは切り離せないのかもしれません。
当為とは「あるべき」ということで、言ってしまえば、確定していない状態です
確定している状態があるから確定していない状態を認識できる、といえるかもしれません。
しかしその逆はないように思えます。確定している状態は確定していない状態にかかわらず確定しています。
なので、事実から当為は切り離せるかと思います。
事実とはどのようなものであるか(どのようなものとしてあるべきか)
事実とは「議論の余地のないもの」「確定している」ではないでしょうか。
事実という言葉の持つ意味がどのようなものか、どうあるべきか、と問えば当為が含まれてるように思えるが
これは、事実が当為を含んでいるのではなく、
事実を「認識する側」或いは「事実という言葉」が当為を含んでるのではないでしょうか。
世界はどのようにあるのか、世界をどのようにあるものとして分析すべきか
事実の世界と、認識の世界。
よくある例えが夜空の星は実際にはもうないかもしれない、というあれですね。まあ、それはともかく
この問題は最早、どうしたいか、なのでは?
哲学は是非ではないと思います。なので「どうすべきか」を必ずしも求める必要はないのではないでしょうか。
好きな様に見て好きな様に議論すればいいし、もちろん「どうすべきか」を求めてもいいと思います。 >>100
人生を楽しみたいとか、もっと楽しむためにはどうすれば良いかとか言うけど、
そんなものは、恐怖を味わってないから言えるんだよ。
ものすごく人生を楽しんでいて、もっと人生を楽しむにはどうすれば良いかなんて考えていても、
例えば、鋼鉄でできた密室に閉じ込められ、そこに、成獣のチンパンジー100匹ブチ込まれたら、
ただただ恐怖に感じるだけで、それ以外のことなんて考えられなくなるだろ。
これは極端すぎる話だけど、要するに、生きてる(=つまり「有」)以上は必ず何らかの恐怖や痛みや苦しみがあるわけだ。
人生を楽しんでいる人でも、それは、単に恐怖に感じるような経験をしたことがないから、
人生を楽しめていたり、もっと楽しむにはどうすれば良いかなどを考える余裕があるだけであって、
恐怖のどん底に陥れられるような経験をしまくれば、絶対、「どうすれば恐怖や痛みや苦しみから解放されることができるのか?」
について考えるようになるだろう。
もっと言うと、人間には想像力があるから、わざわざそんな「経験」をしなくても、
そのような怖い想像をしただけで、恐怖に感じ、それで精神を病み、苦しむだろう。
(まさに今自分がその状態ですw)
つまり、人生をもっと楽しむにはどうすれば良いかなんてことを考えるのは、
全然重要ではないのです。
最も根源的で重要かつ重大な課題はやはり、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」
ということでしょう。
よって、それについて考える学問があるとしたらやる意味も価値もあると思うのですが、
それ以外の学問はまったくとは言えないでしょうけど、ほとんど意味が無いのではないでしょうか? 逆に特に心配する必要も無い人にとっては価値の無い学問って事になるけど、想像力がないから重いつかなっただけかな。
これで何が原因かわかって良かったね。 死ななくても人間やこの世界について深く考察すれば苦しみから救済されるのではないか。そういう道を探求するのも哲学の重要な役割のひとつだろう。 苦しみは自分の無知が原因となっている場合が多い。要するに苦しむ必要がないのに自分で勝手に苦しんでいるわけだ。
学問を進めればこれに気づき、苦しみから開放される可能性がある。 >>108
心配する必要が無い人なんていないです。
もし心配する必要が無い人がいたとしたら、それは>>107にも書いたとおり、
恐怖のどん底に陥れられるような経験またはそのような想像をしたことがない人です。
そのような経験もしくは想像をしたら、絶対、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」
について考えることになるでしょう。
まぁ、でも、例えば「あと2日以内に、鋼鉄でできた逃げ場の無い密室に閉じ込められてそこに100匹の成獣のチンパンジーをブチ込まれる。」
なんて勧告がされたら多くの人がそれまでに自殺するだろうな。
ただ、自殺することで本当に解決できるのだろうか?
例えば、ここで言う解決の定義を、「完全なる無になってもう二度と有にならない」ことだとすると、どうだろう?
本当に自殺というか死んで、完全なる無になってもう二度と有にならなくなるのだろうか?
俺はそれが知りたい。 だからそんなことを経験した人の方が少ないんじゃないのかな。
君の拙い人生経験から勝手に思い込んでるだけだと。
つまり前提に大きな誤謬があるので間違った結論に至った訳です。
価値が無いのは貴方だと分かって良かったですね。
ついでに先ず死んでみましょう。
それで解決しなかったらまたご連絡ください。
バイなら。 経験した人の方がもちろん少ないというかほとんどいないでしょう。
でも、今言ってるのはそういうことではありません。
もし経験したら、絶対「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」と考えるようになるでしょう。
という話です。
つまり、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考える学問以外の学問は、
所詮、>>107に書いたような経験をしていないからその学問をやれるだけであって、
もし>>107に書いたような経験をしたら、絶対「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考えるようになるのではないでしょうか?
要するに、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考える学問以外の学問は、
根源的ではないのです。
最も重要なのは「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」ということについて考えることです。
あっ、ちなみにチンパンジー云々はあくまでも一つの例でしかありません。
要するに、怖かったり悔しかったりショッキングな経験をし、
苦しんだりしたら、絶対「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」
について考えるようになるのではないかという話です。
チンパンジー云々は例としてはあまりにも極端すぎるというか特殊すぎましたね。すいません。
結局、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考える学問以外の学問は、
根源的で最も重要且つ重大な問題の解決の手段にはなり得ないので、あまり意味も価値も無いような気がするのですが、違いますでしょうか? >>106
>これは、事実が当為を含んでいるのではなく、
>事実を「認識する側」或いは「事実という言葉」が当為を含んでるのではないでしょうか。
ここが、最たる部分なんだけど。事実が当為を含んでいるのではない、といいながら、事実と言う言葉に
当為が含まれている、というのは、どういう意味?同じ問題に関して、全く逆のことを言っていて、矛盾しているよ。
>よくある例えが夜空の星は実際にはもうないかもしれない、というあれですね。
違います。それは、事実(命題)の問題ででしょう。それは、事実として「あるように」みえるが。
実際には、「ない」と言う事実の問題でしょう。
>この問題は最早、どうしたいか、なのでは?
そのようにとられること自体に全く問題がないとは言えませんが、
そのようにとられること自体が、価値判断的なものを問題としており、当為を問題とする方向に至ります。 うちの親からは人生哲学というものが感じられない
ただ最初から最後まで惰性で周りに踊らされてるだけ >>118
君は、君の子どもに、人生哲学を感じさせることができるの?
私の親も同じようなものかもしれない。でも、私は、私の子どもに自らの哲学を見せられるかもしれない。
それができるのであれば、それは私だけの力でなく、私の両親のもたらしてくれたものが大きいを思うよ。
だから、私は私の子どもに自身の哲学をさらにその子どもに感じさせるような生き方をできるようにしなければならない。
私は、そう思うよ。 >>117
「事実」と「事実という言葉」は同じものではないと思います。
「事実」は「事実」で「事実という言葉」は「言葉」です。
言葉とはつまり、
「これ」はこう呼ぶこととする、とか、こういう意味とする、としたのが言葉です。
よって言葉は当為といえます。なので「事実という言葉」も当為となるのではないでしょうか。
自己言及という発言から、
「事実」と「事実という言葉」を同じだと考えているのではないか、
と思ったので、>>106 のような発言になりました。
>よくある例えが夜空の星は
のくだり、は、
書いてる時になんとなく思いついての発言でした。芳しくなかったですね。すみません。
>価値判断的なものを問題としており、
確かにそのとおりですね。まだまだ思案が足りてませんでした。 >>120
>「事実」と「事実という言葉」は同じものではないと思います。
>「これ」はこう呼ぶこととする、とか、こういう意味とする、としたのが言葉です。
最近の哲学板では、あまり見ることのない、とってもわかりやすくそれらしい哲学的な思惟を
含むお話ですね。それだけに、今の私ではうまく議論できないのが、非常にもどかしい。
「事実」と「事実という言葉」は同じものではなく、まず「事実」というものがあり、
これを「事実」という言葉で表したに過ぎないのだ、という主張は、おそらく古くは、
プラトンのイデア論のようなものであり、カントの「物自体」も、そのような発想から
生じているものですね。
いずれにせよ、あなたの主張では、当為と事実を分離できていません。
なぜなら、我々がいかなるものを「事実という言葉」で呼ぶべきであるのか、という問題を
解決しない限り、我々が「事実」と呼ぶものを用いて議論することも、あるいは、「事実」
呼ぶもの、そのものについて語ることもできないわけです。なぜなら、そこで呼ばれているものが
果たして本当に「事実」と呼ぶべきものであるかどうか、わからないわけですから、それを用いて
語ったり、それそのものを語る前提がないわけです。 以下のBが言ってる「無」とは「相対無」のことで合っていますか?
A:「「無」は無い。」
B:「当たり前だ。「無」ってのは何も無いことなんだから。」 なんだかややこしくなってきた、けど、
もしかしたら誤解させてしまっているかもしれないので、少しだけ訂正と説明を。
>>104 で「当為と事実は切り離せないだろう」という主張があったので、
言葉を借りて「当為と事実は切り離せないとのことですが、そうは思えません。」と言いました。
「当為と事実は切り離せないだろう」という言い方だと、
当為から事実、事実から当為の双方ともに切り離せないと言ってるように聞こえたからです。
なので、当為から事実は分離できないが、事実から当為は分離できると思う、と訂正します。
と、
ここまで書いてて、なんだか誤解されてないような気もしてきた。
>あなたの主張では、当為と事実を分離できていません。
もしかして、
あなたの主張では、事実から当為を分離できていません。
ということでしょうか?
>なぜなら、我々がいかなるもの(以下略)
たしかに、クオリアに阻まれてるような気がしますね。 書き忘れた、
>>124は>>121にです。
念のため。 書き忘れた、
>>124は>>121にです。
念のため。 以下多方面の専スレでコピペされている記事で挙がっている弁護士は
対カルト弁護士なのかカルトにつく弁護士なのか不明なのですがどっちだと考えられるか教えてください
▽
カルト間では、冷静な話し合いはなかなか難しいものです。私たちは、これらを迅速に解決して参りました。場合によって家庭裁判所の調停を利用したり、裁判を提起したりしながら、根本的な解決をはかります。
取扱う個人情報の漏えい、滅失または毀損等を防止するため、必要かつ適切な措置を実施して、個人情報を適切に管理します。
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↓
http://www.loppo.gr.jp/members/member.html
弁護士 道本周作
登録番号35134(第57期)
北区 人権擁護委員
参考資料
http://news.livedoor.com/article/detail/5852938/
証拠調査士は見た! すぐ隣にいる悪辣非道な面々
http://www.cyzo.com/2011/10/post_8912_entry.html
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/bouhan/1164713484/l50
△ 世界にリスクの全く無いドラッグあるいは類似娯楽が存在したとして
一生安泰な南の島にゴールした富豪みたいなやつがそれに溺れることを
肯定するタイプの哲学や既存の思想みたいなのってあるんですかね
ストイックなのには少し疲れたので、ゆるいものに触れたいのです ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています