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>>92
あー、ごめん。
彼を定期的に、ボコって遊ぶのは、良くないかもしれんが、あいつはどうにかせんといかんだろw
いずれにせよ。それは、ここでは、どうでもいいところなので、>>88>>89に戻ろう。
両方とも私のレスなので、ここで、そういう話をするのは、私の本意ではない。 >>93
と言うか君のはストーカーみたいで気持ち悪いレスだな。
本も読まずこんな所で波平みたいな男に付き纏うつ位ならテレビ見てた方がましだな。
凄まじい。 学問をやっても、人間が本来的に持っている問題の解決にはならないわけじゃん。
例えば、リーマン予想を証明したとしても、
もし密室に閉じ込められてチンパンジーの集団をそこに放り込まれたら・・・・・
と、考えるとやはり、そんな人間が本来的に持っている、「恐怖や苦しみから逃れるにはどうすれば良いか?」
という問題の解決にはならないことをやっていても無意味なんじゃないかと思いませんか?
確かお釈迦様も似たようなことを言ってたような気がする。
自殺をすれば良いじゃんと言う人がいるかもしれないが、
本当に死んで解決できるのだろうか?
死んで完全なる無になり、もう二度と有にならずに済むのなら今すぐにでも自殺したいが、
冷静に「無」に関して考えると、「無」にはなれないような気がしてきたのですが・・・・・。
どうすれば良いのだろう・・・? 恐怖から逃げる前に快楽を貪るのにお金や名誉などが必要だから学問をやる。
スポーツで掴んだ人はスポーツを重視する。
また学問と言っても多岐に渡る。
逃げる為に学問を修める人もいれば掴む為に修める人もいる。
意味がないと思うなら自分が辞めれば良いだけで他人にどうこう言う必要もないでしょう。
リーマン予想に取り組んでる人が何を目的にしてるか貴方が勝手に決めてもね。 「「無」になってもう二度と「有」にならないようにするにはどうすれば良いか?」
という疑問に対する答えを見つけ出そうとする学問がもしあるとしたら、それはやる意味も価値もあると思う。
なぜなら、「「無」になってもう二度と「有」にならない」というのは、
人間が本来持っている最も重要で根本的な「痛みや苦しみや恐怖などから解放されたい」という切実な願いを叶えるものだからである。
そのような学問があるとしたら、その切実な願いを叶えるための手段になるわけだから、
当然、その学問はやる意味もあるし価値もあるということになる。
寧ろ、人類総出でやっていった方が良いと思う。
しかし、それ以外の学問はその、最も重要且つ重大な問題から解放されるための手段には全くならないので、無意味無価値無駄と言えるのではないでしょうか? 気にの言ってることは単に安楽死すればだけの事だから。
解決してよかったね。 取敢えず死んでみよう。
無にならないのなら悩むのはその後でもできるしね。 人生を楽しみたいという人もいる。そういう人にとってはどうやったらもっと楽しめるかという方法を問うのは有意義なことだろう。
なので苦しみから解放されるための学問以外は全て無意味とはいえない。 >>94
ストーカーってw
そもそも、他の人だと議論になるのに、波平を相手に間違いを指摘したら、
議論にすらならないから「ボコって遊ぶ」と言う表現にならざるを得ないというだけだよ。
それとも、波平の間違いを指摘して批判してる人間が一人だけだとでも思ってる??
複数人にやられて、必死になって、逃げ回ってwストーカーとかw
>>95
基礎科学でしかも虚学を持ち出して、そんなことを言われてもなぁ。
そりゃあ、風邪を治すために法律事務所に行っても何の役にも立たないみないな話ですよ。
例えば、医学は、学問ではないと? 念のため言っておくと哲学について大して詳しいわけではありません。あくまで趣味の範疇です。
趣味といえるほど知っていると自信があるわけではありませんが・・・。
>>89
89の下の文を解釈してみました。
つまり、論理はかくあるべきという命題で成り立つ。その水準に焦点をあてることが哲学の思惟である。
ということでしょうか。付け足すなら、命題を示せ、ということですか?
「そもそも、「論理的明晰性」などと言うが、それ自体、すなわち「論理」などというものが、
つまり「論理(的)」であるということは、」これがうまく理解できないのですがどういう意味ですか?
「それ自体」とは「論理的明晰性」を指しているように思えますので、
「「論理的明晰性」すなわち「論理」などというものが、
つまり「論理(的)」であるということは、」になるかと、
「すなわち」と「つまり」はどちらも前文を言い換えたり要約するときに使うものと認識してます。
だとすると、「論理的明晰性」と「「論理」などというものが、」
と「「論理(的)」であるということは、」が全ておおよそ同じ意味になると受け取れるのですが、そうなのですか?
どういう意味なのか噛み砕いた説明をお願いできませんでしょうか。
続く 102の続き
>>89
哲学の基本は、はっきりさせること、ではないかと思っています。どのように?論理的に。何を?各命題を。
哲学の論理的明晰化とは、各命題を論理的に明晰化(はっきり)させるということです。
倫理的な是非を考慮しない。
倫理的な答えを求めるなら当然倫理的な是非を考慮するべきです。ですが、
有名な倫理の命題に「なぜ人を殺してはいけないのか?」「なぜ自殺してはいけないのか?」などがあります。
これらを倫理の側からは論理的な答えを出せないといわれています。
これをして哲学で「事実から当為は導けない」といっています。
倫理的な是非とは当為です。
行為の倫理的な是非を考慮したところで事実は変化しません、よって哲学は倫理的な是非を斟酌しないのではないかと思います。基本的に。
ついでに、
事実から当為は導けない
魔王「私が黒といったら白くても(事実)黒なのだ(そうあるべき、つまり当為)、フハハハッ」
魔王「おい貴様、そこにある黒いもの(当為)を持ってこい」
しかし事実は白いものなので、そこにある白いもの(事実)が魔王のいう黒いもの(当為)であると導くことはできず、魔王は黒いものをとってもらうことが出来ません。
最後に、
「その程度のところで止まるようなレベルにはない。」とはつまりどうあるべきものということでしょうか?
よろしければお聞かせください。 >>103
まず、「事実から当為を導き出せない」と言うのは、一つの見解にすぎません。
事実から当為が完全に導き出せたという事例を私は寡聞にして知りませんが、
かといって、「事実から当為を導き出せない」ということが、確かなものであると
完全にわかったということではありませんし、そのようなことがわかったということも
また同様に、寡聞にして知りません。
当為と事実は切り離せないだろうと私は、考えています。
これは、「論理」にしても同じことであり、「論理」とは、すなわち「論理」というものは、
このようなものである(このようなものであるべきである)という当為がなければ、成り立ちえません。
自己言及的なおかしさを無視するのであれば、これは、「事実」に対しても、同様になるでしょう。
事実とはどのようなものであるか(どのようなものとしてあるべきか)と言う問題は、「事実」
そのものを見る場合に無視できない問題となります。これを「事実」と「当為」の問題ではなく、
「存在」と「認識」と言う問題に置き換えても、含意するところは、大まかには変わらないように思えます。
結局のところ、世界はどのようにあるのか、と言う問題は、我々は世界をどのようにあるものとして分析すべきか、
と言う問題と切り離せないのです。根本的なところを追求していこうとすると、終局的にこの問題にぶち当たると私は思っています。
うまく説明できなくて申し訳ないですが、昔の記憶を探って適当に説明してますので、わかりにくいのでしたら、文献をあさって
思い出してから、しっかりとした記述をします。 >>95
「恐怖や苦しみから逃れるにはどうすれば良いか?」ということですか?
それとも、
「「無」になってもう二度と「有」にならないようにするにはどうすれば良いか?」ということですか?
恐怖や苦しみから逃れる方法なら恐怖や苦しみを感じる状況にならないように気をつけるしかないですね。
どう気をつければいいかは、それこそいろいろな学問は学べばいいのでは?
そうすれば例え密室に閉じ込められてチンパンジーの集団をそこに放り込まれたとしても
チンパンジーを手懐ける方法を知っていれば対処できるし、密室から脱出する方法を知っていれば抜け出せるし、
そもそもそんな状況にならないように対処することだって可能かもしれません。
まあ、どうにもならないこともあるかもしれないですが。
それに結局最後は死んでしまいますし。ただ、死への恐怖なら宗教でもやればいいんじゃないですか?宗教ってそういうものかと。
「無」になってもう二度と「有」にならない方法はちょっとわからないですけど
物理主義的には今のところ死んだらそれで終わりなので物理主義でも信奉してみたらどうですか?
もし魂のようなものがあったとして、それが輪廻転生したとしても、きっと意識的には他人なので気にしないと考えるほかない。
もし記憶まで一緒に持ち越したとしたら・・・、ご愁傷さまですね。 >>104
「「事実から当為を導き出せない」と言うのは、一つの見解にすぎません。」
尤もですね。まさに。
論理に関しては当為なく成り立つと思います。
論理は理で成り立ち、題、命題、などが必要です。命題とは主に、
「このようなものである」という存在命題と、「このようなものであるべき」という当為命題で
存在命題、または事実命題に当為は含まれません。
当為と事実は切り離せないとのことですが、そうは思えません。
当為から事実は、或いは切り離せないのかもしれません。
当為とは「あるべき」ということで、言ってしまえば、確定していない状態です
確定している状態があるから確定していない状態を認識できる、といえるかもしれません。
しかしその逆はないように思えます。確定している状態は確定していない状態にかかわらず確定しています。
なので、事実から当為は切り離せるかと思います。
事実とはどのようなものであるか(どのようなものとしてあるべきか)
事実とは「議論の余地のないもの」「確定している」ではないでしょうか。
事実という言葉の持つ意味がどのようなものか、どうあるべきか、と問えば当為が含まれてるように思えるが
これは、事実が当為を含んでいるのではなく、
事実を「認識する側」或いは「事実という言葉」が当為を含んでるのではないでしょうか。
世界はどのようにあるのか、世界をどのようにあるものとして分析すべきか
事実の世界と、認識の世界。
よくある例えが夜空の星は実際にはもうないかもしれない、というあれですね。まあ、それはともかく
この問題は最早、どうしたいか、なのでは?
哲学は是非ではないと思います。なので「どうすべきか」を必ずしも求める必要はないのではないでしょうか。
好きな様に見て好きな様に議論すればいいし、もちろん「どうすべきか」を求めてもいいと思います。 >>100
人生を楽しみたいとか、もっと楽しむためにはどうすれば良いかとか言うけど、
そんなものは、恐怖を味わってないから言えるんだよ。
ものすごく人生を楽しんでいて、もっと人生を楽しむにはどうすれば良いかなんて考えていても、
例えば、鋼鉄でできた密室に閉じ込められ、そこに、成獣のチンパンジー100匹ブチ込まれたら、
ただただ恐怖に感じるだけで、それ以外のことなんて考えられなくなるだろ。
これは極端すぎる話だけど、要するに、生きてる(=つまり「有」)以上は必ず何らかの恐怖や痛みや苦しみがあるわけだ。
人生を楽しんでいる人でも、それは、単に恐怖に感じるような経験をしたことがないから、
人生を楽しめていたり、もっと楽しむにはどうすれば良いかなどを考える余裕があるだけであって、
恐怖のどん底に陥れられるような経験をしまくれば、絶対、「どうすれば恐怖や痛みや苦しみから解放されることができるのか?」
について考えるようになるだろう。
もっと言うと、人間には想像力があるから、わざわざそんな「経験」をしなくても、
そのような怖い想像をしただけで、恐怖に感じ、それで精神を病み、苦しむだろう。
(まさに今自分がその状態ですw)
つまり、人生をもっと楽しむにはどうすれば良いかなんてことを考えるのは、
全然重要ではないのです。
最も根源的で重要かつ重大な課題はやはり、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」
ということでしょう。
よって、それについて考える学問があるとしたらやる意味も価値もあると思うのですが、
それ以外の学問はまったくとは言えないでしょうけど、ほとんど意味が無いのではないでしょうか? 逆に特に心配する必要も無い人にとっては価値の無い学問って事になるけど、想像力がないから重いつかなっただけかな。
これで何が原因かわかって良かったね。 死ななくても人間やこの世界について深く考察すれば苦しみから救済されるのではないか。そういう道を探求するのも哲学の重要な役割のひとつだろう。 苦しみは自分の無知が原因となっている場合が多い。要するに苦しむ必要がないのに自分で勝手に苦しんでいるわけだ。
学問を進めればこれに気づき、苦しみから開放される可能性がある。 >>108
心配する必要が無い人なんていないです。
もし心配する必要が無い人がいたとしたら、それは>>107にも書いたとおり、
恐怖のどん底に陥れられるような経験またはそのような想像をしたことがない人です。
そのような経験もしくは想像をしたら、絶対、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」
について考えることになるでしょう。
まぁ、でも、例えば「あと2日以内に、鋼鉄でできた逃げ場の無い密室に閉じ込められてそこに100匹の成獣のチンパンジーをブチ込まれる。」
なんて勧告がされたら多くの人がそれまでに自殺するだろうな。
ただ、自殺することで本当に解決できるのだろうか?
例えば、ここで言う解決の定義を、「完全なる無になってもう二度と有にならない」ことだとすると、どうだろう?
本当に自殺というか死んで、完全なる無になってもう二度と有にならなくなるのだろうか?
俺はそれが知りたい。 だからそんなことを経験した人の方が少ないんじゃないのかな。
君の拙い人生経験から勝手に思い込んでるだけだと。
つまり前提に大きな誤謬があるので間違った結論に至った訳です。
価値が無いのは貴方だと分かって良かったですね。
ついでに先ず死んでみましょう。
それで解決しなかったらまたご連絡ください。
バイなら。 経験した人の方がもちろん少ないというかほとんどいないでしょう。
でも、今言ってるのはそういうことではありません。
もし経験したら、絶対「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」と考えるようになるでしょう。
という話です。
つまり、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考える学問以外の学問は、
所詮、>>107に書いたような経験をしていないからその学問をやれるだけであって、
もし>>107に書いたような経験をしたら、絶対「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考えるようになるのではないでしょうか?
要するに、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考える学問以外の学問は、
根源的ではないのです。
最も重要なのは「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」ということについて考えることです。
あっ、ちなみにチンパンジー云々はあくまでも一つの例でしかありません。
要するに、怖かったり悔しかったりショッキングな経験をし、
苦しんだりしたら、絶対「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」
について考えるようになるのではないかという話です。
チンパンジー云々は例としてはあまりにも極端すぎるというか特殊すぎましたね。すいません。
結局、「恐怖や痛みや苦しみから解放されるにはどうすれば良いか?」について考える学問以外の学問は、
根源的で最も重要且つ重大な問題の解決の手段にはなり得ないので、あまり意味も価値も無いような気がするのですが、違いますでしょうか? >>106
>これは、事実が当為を含んでいるのではなく、
>事実を「認識する側」或いは「事実という言葉」が当為を含んでるのではないでしょうか。
ここが、最たる部分なんだけど。事実が当為を含んでいるのではない、といいながら、事実と言う言葉に
当為が含まれている、というのは、どういう意味?同じ問題に関して、全く逆のことを言っていて、矛盾しているよ。
>よくある例えが夜空の星は実際にはもうないかもしれない、というあれですね。
違います。それは、事実(命題)の問題ででしょう。それは、事実として「あるように」みえるが。
実際には、「ない」と言う事実の問題でしょう。
>この問題は最早、どうしたいか、なのでは?
そのようにとられること自体に全く問題がないとは言えませんが、
そのようにとられること自体が、価値判断的なものを問題としており、当為を問題とする方向に至ります。 うちの親からは人生哲学というものが感じられない
ただ最初から最後まで惰性で周りに踊らされてるだけ >>118
君は、君の子どもに、人生哲学を感じさせることができるの?
私の親も同じようなものかもしれない。でも、私は、私の子どもに自らの哲学を見せられるかもしれない。
それができるのであれば、それは私だけの力でなく、私の両親のもたらしてくれたものが大きいを思うよ。
だから、私は私の子どもに自身の哲学をさらにその子どもに感じさせるような生き方をできるようにしなければならない。
私は、そう思うよ。 >>117
「事実」と「事実という言葉」は同じものではないと思います。
「事実」は「事実」で「事実という言葉」は「言葉」です。
言葉とはつまり、
「これ」はこう呼ぶこととする、とか、こういう意味とする、としたのが言葉です。
よって言葉は当為といえます。なので「事実という言葉」も当為となるのではないでしょうか。
自己言及という発言から、
「事実」と「事実という言葉」を同じだと考えているのではないか、
と思ったので、>>106 のような発言になりました。
>よくある例えが夜空の星は
のくだり、は、
書いてる時になんとなく思いついての発言でした。芳しくなかったですね。すみません。
>価値判断的なものを問題としており、
確かにそのとおりですね。まだまだ思案が足りてませんでした。 >>120
>「事実」と「事実という言葉」は同じものではないと思います。
>「これ」はこう呼ぶこととする、とか、こういう意味とする、としたのが言葉です。
最近の哲学板では、あまり見ることのない、とってもわかりやすくそれらしい哲学的な思惟を
含むお話ですね。それだけに、今の私ではうまく議論できないのが、非常にもどかしい。
「事実」と「事実という言葉」は同じものではなく、まず「事実」というものがあり、
これを「事実」という言葉で表したに過ぎないのだ、という主張は、おそらく古くは、
プラトンのイデア論のようなものであり、カントの「物自体」も、そのような発想から
生じているものですね。
いずれにせよ、あなたの主張では、当為と事実を分離できていません。
なぜなら、我々がいかなるものを「事実という言葉」で呼ぶべきであるのか、という問題を
解決しない限り、我々が「事実」と呼ぶものを用いて議論することも、あるいは、「事実」
呼ぶもの、そのものについて語ることもできないわけです。なぜなら、そこで呼ばれているものが
果たして本当に「事実」と呼ぶべきものであるかどうか、わからないわけですから、それを用いて
語ったり、それそのものを語る前提がないわけです。 以下のBが言ってる「無」とは「相対無」のことで合っていますか?
A:「「無」は無い。」
B:「当たり前だ。「無」ってのは何も無いことなんだから。」 なんだかややこしくなってきた、けど、
もしかしたら誤解させてしまっているかもしれないので、少しだけ訂正と説明を。
>>104 で「当為と事実は切り離せないだろう」という主張があったので、
言葉を借りて「当為と事実は切り離せないとのことですが、そうは思えません。」と言いました。
「当為と事実は切り離せないだろう」という言い方だと、
当為から事実、事実から当為の双方ともに切り離せないと言ってるように聞こえたからです。
なので、当為から事実は分離できないが、事実から当為は分離できると思う、と訂正します。
と、
ここまで書いてて、なんだか誤解されてないような気もしてきた。
>あなたの主張では、当為と事実を分離できていません。
もしかして、
あなたの主張では、事実から当為を分離できていません。
ということでしょうか?
>なぜなら、我々がいかなるもの(以下略)
たしかに、クオリアに阻まれてるような気がしますね。 書き忘れた、
>>124は>>121にです。
念のため。 書き忘れた、
>>124は>>121にです。
念のため。 以下多方面の専スレでコピペされている記事で挙がっている弁護士は
対カルト弁護士なのかカルトにつく弁護士なのか不明なのですがどっちだと考えられるか教えてください
▽
カルト間では、冷静な話し合いはなかなか難しいものです。私たちは、これらを迅速に解決して参りました。場合によって家庭裁判所の調停を利用したり、裁判を提起したりしながら、根本的な解決をはかります。
取扱う個人情報の漏えい、滅失または毀損等を防止するため、必要かつ適切な措置を実施して、個人情報を適切に管理します。
個人情報の取り扱いに関し、従業者に対して適切な監督を行なうとともに、個人情報の取扱いを委託する場合には、委託先が個人情報を適切に管理するよう監督します。
↓
http://www.loppo.gr.jp/members/member.html
弁護士 道本周作
登録番号35134(第57期)
北区 人権擁護委員
参考資料
http://news.livedoor.com/article/detail/5852938/
証拠調査士は見た! すぐ隣にいる悪辣非道な面々
http://www.cyzo.com/2011/10/post_8912_entry.html
http://life8.2ch.net/test/read.cgi/bouhan/1164713484/l50
△ 世界にリスクの全く無いドラッグあるいは類似娯楽が存在したとして
一生安泰な南の島にゴールした富豪みたいなやつがそれに溺れることを
肯定するタイプの哲学や既存の思想みたいなのってあるんですかね
ストイックなのには少し疲れたので、ゆるいものに触れたいのです とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
75JWQ >>129
自分自身でそれを肯定すりゃいいじゃんか。
哲学者に頼らずとも。…なんて思ったが、
それじゃダメ? あれ?質問スレが二つ上の方に来てる。こっちじゃないスレが
優先かな? 二律背反(自体)への問いかけって何を求めてるってこと? 連投すいません 混乱をなんとかしたいってことか?相手に何かと決めつけてほしいってことか?自分でなんとかしたいか?はぁ〜?みたいな感じです >>137
たぶんそれを言った(書いた)人もよくわかっていないはずだから
考えなくてもよい ゴキブリに殺虫剤を噴射することは、ゴキブリ駆除であって、ハラスメントではない。
ネズミに罠を仕掛けることも、殺鼠を目的としているのであれば、ネズミ駆除であって、ハラスメントではない。
害鳥や害獣などを寄せ付けないために忌避剤を散布したり、爆竹を鳴らしたりして
脅して追い払おうとするのは、鳥やその他の動物に対するハラスメントである。 幼児が大声で泣いて母親に母乳を要求するのは、その泣き声が母親を不快にさせて、
母乳を与えるように母親を誘導することを幼児が理解している限りにおいて、
ハラスメントであると理解される。それは、腹を空かせて食卓についた人が
早く食事を出せと要求するために、食器を箸やスプーンなどで叩いて鳴らす
行為に似ている。 借金の返済の督促は、単に返済が遅れていることを知らせることではなく、
ハラスメントとしての効果を生じることを目的としている。 相手が答えたくない質問に答えさせる取材は、ハラスメントなしに成立しない。 単に「ハラスメント」一般がよくないという道徳を唱えることは無意味である。 ハラスメント一般からセクハラについて考察することは有益だが、
ハラスメントをセクハラに限定し、ハスメント一般から切り離して議論することは有害である。 哲学的に考えるとは、既存の自己都合に合うように議論をアレンジすることではない。 文意がうまく汲み取れませんが
既存の哲学書等で述べられているものを
ある観点においてアレンジすることもまた哲学的に考えることにほかならないんじゃないでしょうか
どんなに合理的・論理的に議論しようとも個人的な都合を抜き去ることは不可能ではないでしょうか >個人的な都合を抜き去ることは不可能ではないでしょうか
議論に自己都合が常につきまとうことは、その自己都合が同一性を保つことを意味しません。 ハラスメントをして付き合うというのがおかしくないかという。
付き合いは出来ない。 軋轢の無い付き合いは無いのだけど。
付き合いは止めればいい。 悪気はなくて自己中心的なのだと思う。
荒らしてすまん5ちゃんは止める。 >>149
おっしゃっていることの意味がよくわかりません あれこれしてきて受け入れられないと拗ねる。そのあれこれがハラスメントで無いとは限らない。
勿論俺もまずい。
人付き合いは難しいけどそういうのは子供の頃に卒業すべき事。 ハラスメントを排すとお役所対応になる。
ハラスメントと言うのは恣意的で、また付き合いからハラスメントを除く事は出来ないけど言ったら俺のはハラスメントになると思う。
仄めかしですまんし止めるけど。 ハラスメントをして受け入れろって無理だろうよ。
それはハラスメントを受けた側の恣意だけど。 挨拶はハラスメントとはまずならない。
親しさが増すにつれてハラスメントに近づくのだけど難しい。 糾弾は良い。それはしようがない。
政権批判で分かるがそれも恣意的で危ないのだけど。
親しさのハラスメントも難しいのだけど強いて言うけど己中心はまずい。 ハラスメントの糾弾はしたくない。
それは自分の恣意。ただハラスメントで無くも無い。 ハラスメントの告発は相手の好意を嫌がらせだと言う。
気分が良くは無いのだけど、好意が自己中心的な人はいる。誰もそうなりうる。 好意を黙るのは不正を黙る位にしんどくはある。
それに多少はだえないといけない。 言わないと変わらない。
こんな事も言いたくはないんだけど。 大抵は親しさを抑える。それでもというのは過激でも意外と良い。 自分の親しさが余りに安易なだけでそれを直せばいいと。
直さないとハラスメントと言われる。 好意の抑制が利かないのは自分の好意を相手に発散してるだけ。
自己中心的なんだよ。 好意なだけに厄介。
好意も好意の発散が迷惑でも良いが、それを気にしないのは幼い。
幼さは狂的。マッドサイエンティストのマッド。 マッドというか、学生時代の親しくしてたつもりが相手はいじめだと思ってたとか。
親しさの抑制が効いてない。 熱烈なファンのようなアプローチも、相手がプロでそれを収入源
として利用しているなら、笑顔で歓迎するふりをすることもあるが、
そうでなければ迷惑行為に過ぎません。 最近の話題を見ていて思うけど余り慰安婦とかハラスメントとか言ってはいけない。
絶対正しいし相手は最低になる。 ともかくネットで何か言わなくても人は社会にもまれる。
5ちゃんは止める。 【テロ朝敗北】テレ朝が公開した文章全公開!福田氏が記者を適当にあしらった『言葉遊び』でしかないことが判明。これは音声全公開はムリゲーと納得
https://youtu.be/7L5JQAoKTuw 俺もセクハラ的な発言がある時点で官僚は辞任すべきと思う。 文書を全公開したら告発者が特定されそれは出来ない。
ねつ造だなんだと疲れた。 断片とはいえセクハラ的な発言はあったのでしょう。
官僚が記者とそんなに親しいのか分からないが、つまりは自己責任だと思う。 テレ朝だけじゃなく他の局も知ってるんじゃないかと思うが。
テレ朝の記者とだけ親しかったのか。 テレ朝が会見をしてるが福田氏と記者は個人的に親しいのじゃない。
一年半くらい前に数回取材しセクハラ的で取材を止めていた。
森友学園の件で福田氏から連絡があり行ったらセクハラだと。 一年半前から半年の間に数回記者と福田氏は会食をした。
セクハラがあり一対一での会食は止めたが最近またし、セクハラがあったと。 この記者の方は違うけど、記者の取材は強引になるし。
それは許しなさいよと思う。 素人の安易な糾弾はこういうもの。
勿論福田氏にも人権はあって糾弾は抑えないといけない。
福田氏はこれから裁判をするという事でまだ調査は始まったばかりで何か言うのは難しい。ともかく辞職をしたし再発防止でしょう。 当人がセクハラをしたと言って無い。
調査も十分とは言い難い。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています