【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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西谷啓治の著作集を出している創文社が事業を何年か後にたたむとか言ってるから、
版権とかどうなるのかなあと思う。 そう思いつつamazonでニヒリズムが所収されてる著作集を買った。
やっぱり西谷啓治からは逃れられない。 聯關(連関) 辯證法(弁証法)
絕對(絶対) 乃至(ないし)
自覺(自覚) 囘轉(回転)
根據(根拠) 歸納(帰納)
體驗(体験) 連續(連続)
實存(実存) 卽ち(すなわち)
何處(いづこ) 本當(本当)
區別(区別) 斯くの如く(かくの如く) >>2
新旧字体表
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新旧対照一覧表
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入力出来ない旧字体をコードに変換 舊い(ふるい)
擔う(になう)
剰え(あまつさえ)
就中(なかんずく) http://www.kyoto-up.or.jp/book.php?id=1925
杉本耕一『西田哲学と歴史的世界 宗教の問いへ』
↑
この方、39歳の若さで亡くなってるんだね。
残念なことだ。 明治期哲学は、西洋から、ロック、バークリー、ヒューム、ジェイムズの経験論、
カント、ヘーゲルの観念論、フォイエルバッハ、マルクスの唯物論、
フッサールの現象学、ベルクソンの生の哲学などを輸入した。 田辺元 『仏教と西欧哲学』 (2003)
宗教哲学一般を解説した本。
西田哲学や京都学派の理論的背景を理解する上でも参考になる。
田辺は宗教哲学について、ヘーゲルの次の様な言葉を引用している。
「宗教哲学は哲学体系中の最高の部門である」
「哲学の展開の最後に到着する最終の部門である」
これらは当時の哲学の性格をよく表すものだろう。
また、仏教の論理がヘーゲルの論理と同じであるともいう。
「空は絶対無である。(略)
その無と有との転換媒介としての中というのは、行為の立場、ヘーゲルの論理にいわゆる成である。(略)
ヘーゲルの場合には、有(Sein, being)無(Nichts, non-being)成(Werden, becoming)となっています。」
空と縁起について。
「存在の相対性、無自性、思想の相依相待という考えを徹底して空という立場に立つことは、
西洋の思想には本来殆どない所であるといっていいかと思う。」 脱衣入浴か。
へ―ゲリアンもそうづるし打っといたよ。策略で。 戦争協力(海軍)していたものを、敗戦となり、
戦後になって、文献学主義に転向したからだろう。 西田幾多郎と田中美知太郎 ――日本哲学とギリシア哲学の協働のために――
http://www.nihontetsugaku-philosophie-japonaise.jp/wp-content/uploads/2017/03/納富-_日本哲学史研究13号-2.pdf
戦前と戦後の間の断絶と連続性というか切り結ばれ方については
研究者にも問題意識はあるようだ。 >>167
考え方に一貫性がなかった。
権力者に諂うことだけに集中してしまった。 何を持って凋落とするかだよな。
戸坂潤とか三木清が獄死したことによって、
彼らがなすべき伝統が途絶えたことをそうだと考えるべきなのか。 哲学科が偏差値の底辺であることを直視しなかったから、 三木清は昭和研究会に所属して革新官僚と組んで戦争協力していたから、
戸坂潤と一緒に京都学派左派と括られることはあるけど、
戸坂とは別だな。 京都学派には良い京都学派と悪い京都学派があって、
〇〇は良い京都学派で、□□は悪い京都学派
などといっているから凋落した。 京都学派は過大評価され過ぎたのでは。
東大みたいに分相応の低評価がされていれば、凋落という感じがしない 神社仏閣版の古豪と対決がおすすめ。
風景画のセンス。 風景を考慮した都市計画か
古代中世近世なら陰陽五行説とも繋がりありそうだな 近代の超克
(0)『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後』 (2015) 鈴木貞美
(1)『近代の超克』 (1943/1979)
西谷啓治、諸井三郎、鈴木成高、菊池正士、下村寅太郎、吉満義彦、小林秀雄、
亀井勝一郎、林房雄、三好達治、津村秀夫、中村光夫、河上徹太郎、竹内好
(2)『季刊・思潮 No.4 近代の超克と西田哲学』 (1989) 廣松渉、浅田彰、市川浩、柄谷行人
(3)『<近代の超克>論 昭和思想史への一視角』 (1989) 廣松渉
(4)『「近代の超克」とは何か』 (2008) 子安宣邦
・西谷啓治 - 京都学派の哲学者。京都帝国大学助教授。論文「「近代の超克」私論」を執筆。
・諸井三郎 - 音楽評論家。東洋音楽学校・東京高等音楽院講師。論文「吾々の立場から」を執筆。
・鈴木成高 - 京都学派の西洋史家。京都帝大助教授。
・菊池正士 - 物理学者。大阪帝国大学教授。論文「科学の超克について」を執筆
・下村寅太郎 - 京都学派の科学史家。東京文理科大学教授。論文「近代の超克の方向」を執筆。
・吉満義彦 - 哲学者・カトリック神学者。東京帝国大学講師。論文「近代超克の神学的根拠」を執筆。
・小林秀雄 - 文学界同人の文芸評論家。明治大学教授。
・亀井勝一郎 - かつて日本浪曼派に参加し、文学界同人の文芸評論家。論文「現代精神に関する覚書」を執筆。
・林房雄 - 文学界同人の文芸評論家。論文「勤王の心」を執筆。
・三好達治 - 文学界同人の詩人。明大講師。論文「略記」を執筆。
・津村秀夫 - 映画評論家。朝日新聞記者。文部省専門委員。論文「何を破るべきか」を執筆。
・中村光夫 - 文学界同人の文芸評論家。論文「「近代」への疑惑」を執筆。
・河上徹太郎 - 文学界同人の文芸評論家。論文「「近代の超克」結語」を執筆。 >>182
目新しいのは鈴木 『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後』。
近代の超克に留まらない、日本と世界の近現代史論。
哲学、科学、政治、宗教・精神史から
生命論、エネルギー論、言語論などを通し、
圧倒的なスケールで近代の超克問題を立て直す、21世紀の必読書。
☆☆☆☆☆ 昭和思想というと、
津田雅夫『戸坂潤と<昭和イデオロギー> 「西田学派」の研究』があるけど、
未読だわ。 宗 教
|
西谷啓治
林房雄 |亀井勝一郎
| 小林秀雄
国______|_______個
家 | 人
津村秀夫|
諸井三郎
|下村寅太郎
|
科 学 林房雄って共産党だったのが転向して
大東亜戦争肯定論をぶつようになったんだな。 >>193
こういうことが多過ぎて、
京都学派には芯が無くて、風見鶏って言われちゃうんだよね。
京都帝国大学のプライドだけは一貫しているけどね。 林房雄は東京帝大法科中退だから、
京都学派とは直接関係ないのでは?
廣松のような昭和思想史という括りで見た方がいいような気もする。 共産党からの転向者として有名な佐野学も東京帝国大学法学部卒だ。
「転向」論として有名なのは藤田省三の『転向の思想史的研究』だが、
まだ買っていない。『精神史的考察』なら多少読んだことはあるが。 哲学とイデオロギーを分離せずに明治〜戦前の言説を論じるならば、
岩崎允胤『日本マルクス主義哲学史序説』、松沢弘陽『日本社会主義の思想』、
古在由重『戦時下の唯物論者たち』あたりは参考になるかもしれない。 >>198
福本は東京帝大法学部卒
その点、京都帝大経済学部卒の河上肇は、獄中で転向しちゃったから、
>>194の言う通りうっちゃ言う通りかもしれない。 言う通りうっちゃ言う通り→言う通りっちゃ言う通り
それにしても、河上肇を京都学派に入れる場合はあるのかな?
と思ってネットを調べたら、
哲学の道で西田や田辺と同様散策していたという記述が散見される。 大橋容一郎の「新カント学派と近代日本」が面白そうだから
今月号の岩波の『思想』を買って読んだ。
学派の興亡は、留学だとか大学の人事だとか学者の死亡で
どうにかなってしまうのだなという感想を抱いた。
そして、1937年に反個人主義を謳う「国体の本義」のようなものが出される時点で、
自由主義や個人の人格、普遍的理性を重視する新カント学派が受け入れられる素地が
当時の日本にはなかったと締められているのが印象的だった。
そして、そのような状況においては、
人倫の道や共同態論を説いた和辻哲郎のような学者が生き残るのだなとも思った。
(和辻についてはドイツに留学していたということしか論文には触れられていなかった) 井筒俊彦全集9巻
・いま、なぜ、「西田哲学」か
・『西谷形而著作集』推薦 井筒俊彦 「東洋哲学の行方を考える」 (井筒俊彦全集別巻)
東洋文化にたいする関心が急に高まりだしている。東洋学者にとっては喜ぶべき事態であるのかもしれない。
だが現代のこの動向には、それなりの陥穽がある。東洋主義独走の危険ということだ。
地球社会的な世界文化パラダイムが求められている今日の思想状況では、孤立した東洋主義はもはや通用しない。
東洋哲学もまた異文化との活発なディアレクティクから生まれてくる、世界に向かって開かれた思想でなければならないのである。(執筆年未詳) >>154
こういうのは、20〜30気を付ければ何とかなる。 主要な本は新字体でリニューアルされているし、
旧字体のまま読み進めなければならないのは西谷ぐらいか。 清沢満之全集は、一部漢字仮名交じり文だが、読み始めると止まらない。 >>182
『世界史的立場と日本』 (1943年) 高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高
旧字体、旧仮名遣い。
京都学派第二世代の4人による座談会で、太平洋戦争1941年12月8日の13日前に行われた。
(「近代の超克」座談会は1942年7月)
議論は『近代の超克』より本質的。 >>58
船山信一 「明治哲学史研究」 (1959)
『舩山信一著作集 第6巻』(1999)所収版は、新字体、新仮名遣いで読みやすい。
明治哲学関連ではよく引用される一冊で、宗教哲学〜宗教社会学的な内容。
・明治哲学の系譜
・現象即実在論の発展
・明治期のキリスト教の受容と批判
・明治期の無神論
・明治期の唯物論争
・明治期の社会主義観
など >>58
『井上円了選集第一巻』
新字体で読みやすい。
「哲学一夕話』の他、「哲学要領」は東洋哲学から西洋哲学までが概観されており、しっかりした内容。
円了のwikiなどでの紹介はおかしい。 >>97
いくつか読んでみたけど、さすがに内容が濃い。 和辻の『鎖国』とか『日本古代文化』は旧字体、旧仮名遣いだな。 俺が持っているのはだな。
岩波文庫化されたり全集化されたりしているものは違うかもしれない。 京都学派の凋落は敗戦と公職追放を機に文献学主義になったという見方は一理あるが、西谷啓治なんかはむしろ戦後に花開いたんだよね
ただ、その後の世代は西谷の縮小再生産という感じが否めない 野田又夫、藤沢令夫、桑原武夫や田中美知太郎といった戦後の京都学派の面々は、
岩波新書や岩波文庫、中央公論社で概括的な著作を出すことにより、
アカデミズムと一般読者との間を架橋したという点で
戦前の京都学派よりも人口に膾炙していると言えるかもしれない。 >>208
“今度の戦争は、「全体戦」から進んで来て「総力戦」というところに迄きた挙句
我々が普通に考えている戦争概念を超越したところに到達している。
今度の戦争は従来の戦争概念では理解できない、その限界を超えたものをもっている。”
― 『世界史的立場と日本』 (1943年) 高坂正顕、西谷啓治、高山岩男、鈴木成高 これぐらいの時代の本になると、
むしろ国会図書館のデジタルコレクションになっているから、
近くの図書館からでも閲覧できると思う。 国会図書館デジタルコレクション
http://dl.ndl.go.jp/
検索時に「図書館送信資料」をチェック 西田幾多郎や戸坂潤、三木清なら、
全部ではないにしろ一部が青空文庫で閲覧できるね。
それにしても青空文庫の従事者は戸坂についてより熱心だな。 『世界史的立場と日本』はアマゾンでも日本の古本屋でも高いね。
図書館の利用を薦める>>221-223
の言う通りだわ。 国体の本義
(1)『国体の本義』 文部省編 (1937) (国会図書館デジタルコレクション http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1156186)
(2)『日本国家の神髄 禁書「国体の本義」を読み解く』 佐藤優 (2009)
(3)『国体の本義』 文部省編 (2016)復刻版?
(4)『国体の本義』 (J−TEXTS http://www.j-texts.com/showa/kokutaiah.html)
1は自宅からでも閲覧出来る。旧字体・旧仮名遣い。
この本はGHQによって禁書にされたが、2の本の中においてのみ、
全文(新字体・旧仮名遣い)が紹介されていた。
佐藤による全編解説付き。
3、その後、原書に忠実な形の復刻版が出ているのかもしれない。内容未確認。
4は新字体・旧仮名遣い。 国体?国民体育大会ぐらいかなあ。GHQの編集梱包もいいのかしらね。 デカルトの翻訳をしている山田弘明は、
戦後京都学派世代に教えられた、読者人と講談を結ぶ感じの哲学者なんだろうな。
『方法序説』も『省察』も各々900円、1000円とちくま学芸文庫にしては安いし。 大森荘蔵は、哲学的文献学を超えた哲学者であったといっても良いだろうが、
門下生のひとりである田島正樹は、リベラルな左派といった感じで、
その衣鉢を継いだと言えるかもしれない。
http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/2017-06-07.html 東浩紀は小松左京の読者で、
小松左京と梅棹忠夫が手を取り合って、日本未来学会を設立したことに触れるなどして、
戦後京都学派についてシンパシーを持っているようなことを言っている。
京都学派についても独自の哲学を持っていたとして評価している。
日本の批評的言語をどうするかという中で、「日本語の伝統を引きずって、異質性を商品価値にしていくやり方」
を取りたいと言っていて、その時利用できるのが京都学派だと言っている。
以上が2012年5月に出た『atプラス12』の千葉雅也との対談での言論なんだけど、
その後5年経って『ゲンロン0ーー観光客の哲学』という一般人に通じる平易な文体の本を著したことは、
ある意味では、広義の京都学派の流れに棹さしていていい感じだね。 と言いつつも、
ゲンロン0には英訳での各章毎の要約的文章がついているのにも注目すべき点だ。 戦前の京都学派を初めとした哲学者がドイツ哲学中心で
戦後の新京都学派を始めとした哲学研究者がフランス哲学中心だというように
ざっくり言えるかもしれないが、
高橋里美はその例外で、戦前にフランス哲学もドイツ哲学も両方訳してるんだな。
(ベルクソンの『物質と記憶』とヘーゲル『哲学概論』)
熊野純彦も独仏両方やってるんだな。(ベルクソンの上記の新訳とカント) 山内得立は『ロゴスとレンマ」でインド哲学をモノにしているな。すごい。 西田幾多郎の『無の自覚的限定』とか読んでいるとハイになる。 西田はぶーぱーに近いがアホな流れを見てるな。神について。 我と汝ねえ。
凡庸な他者論よりかはずっと面白いな。 文献学的研究も含めて『日本哲学史』みたいな本が出ないかなあ。 今のところそれに当たりそうなのは、熊野純彦の『日本哲学小史 - 近代100年の20篇』かな。 >>226
“かくの如く、教育・学問・政治・経済等の諸分野に亙つて浸潤してゐる西洋近代思想の帰するところは、結局個人主義である。
而して個人主義文化が個人の価値を自覚せしめ、個人能力の発揚を促したことは、その功績といはねばならぬ。
併しながら西洋の現実が示す如く、個人主義は、畢竟個人と個人、乃至は階級間の対立を惹起せしめ、
国家生活・社会生活の中に幾多の問題と動揺とを醸成せしめる。
今や西洋に於ても、個人主義を是正するため幾多の運動が現れてゐる。
所謂市民的個人主義に対する階級的個人主義たる社会主義・共産主義もこれであり、
又国家主養・民族主義たる最近の所謂ファッショ・ナチス等の思想・運動もこれである。
併し我が国に於て真に個人主義の齎した欠陥を是正し、その行詰りを打開するには、
西洋の社会主義乃至抽象的全体主義等をそのまゝ輸入して、その思想・企画等を模倣せんとしたり、
或は機械的に西洋文化を排除することを以てしては全く不可能である。”
― 『国体の本義』 文部省編 (1937)p154-155 昭和研究会や革新官僚に対する批判として通るな。>>245の下三行。 >>243
濱田恂子の『入門 近代日本思想史』もそうかな。 昭和研究会については、
『知識人とファシズム―近衛新体制と昭和研究会』柏書房
が詳しい。 >>248の研究書は蝋山政道、三木清そして笠信太郎を軸にしたものだが、
当事者の証言としては、酒井三郎『昭和研究会―ある知識人集団の軌跡』がある。 和辻哲郎の『倫理学』(岩波文庫版)は1〜4のうち、2だけが売り切れてしまっている。 和辻の『風土』と『倫理学』だと倫理学の方が4巻本に分かれていてとっつきにくいかなあと思って
風土を先に読んで倫理学を後回しにしたが、
倫理学を読み始めた今となっては、風土の方が却って難しいように思えてきた。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています