【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>292
『有限性の後で」は買ったけど読まずにいた。読みます。 私事だが、最近は猪木武徳の経済史や経済思想の本ばかり読んでいて、
哲学書はとんと読んでいなかった。 山田弘明訳のデカルト本を読んでおいてよかった。
メイヤスーの『有限性の後で』の読書が捗る。 『有限性の後で』読了。
カントも大事だけどデカルトの方がもっと大事だとわかったから、
小泉義之の『デカルトの哲学』とか野田又夫の『デカルト』も読もうと思った。 >>286
『ゲンロン4』では、学生運動やポスト構造主義など、
戦後の左派を支えてきた68年的な思想が再検証され、
日本の批評が全体としてポスト「ポスト構造主義」に軸足を移しつつあることを感じさせた。
「ポスト・トゥルース時代の現代思想」では、もう一歩踏み込んだ話がなされている。 『マルクスの現在』(1999)
柄谷行人、浅田彰、市田良彦、小倉利丸、崎山政毅
「マルクス再入門」とある様に、
近代から現代、カント〜マルクス〜ネグリをやり直すのに手堅い。 https://www.youtube.com/watch?v=Ax2GS-YDEq4
日本思想における「無」が議論されているが、あまりにもレベルが低すぎる
保守派の論客がこんな体たらくでいいのだろうか
西部邁は正直に分からないと告白しているが、澤村修治と浜崎洋介はしたり顔でトンチンカンなことを述べているだけ
動画でも名前が挙げられている西田幾多郎や田辺元を少しでも読んでいれば、解釈の余地はあれど、少なくともこれよりはマシな理解ができて然るべきだが 今月は京大系の経済思想に関する本を主に読み進めたが、
その延長で西部邁と浅田彰が対談している『理想』1985年4月号を手に入れたら、
巻頭論文に「東洋的無」を取り上げた秋月龍aの論文があった。 その動画よりも、むしろ、
西部邁の『ソシオ・エコノミックス』を読んだ方が良さげ。 >>303
要点は押さえられているし、別に悪くないと思う。
TVや動画向けの話題というだけでしょ。 まあ、そうかもな。
西洋では神にあたる部分に日本では死者や「無」の概念が当てはまるという感じは、
悪くはない。 無といっても、色々な無があるという話。
0か1かという話ではなく、その間の様々なレベルに無は偏在している。 “非因果的形態とは、無の形態である。
此性をもつ複数の異なる無には、それぞれの形態がある。”
― 千葉雅也「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」(『現代思想』2017年1月臨時増刊号 特集=九鬼周造) ハイデガーや仏教の無の様に、折り返して充実した有に向かう無もあれば、
有であっても、ものが何ひとつ形をなしていない、指向性だけが渦巻く世界もある。 “九鬼周蔵の『偶然性の問題』は、その思弁的な極まりにおいて、カンタン・メイヤスーの『有限性の後で』に類似する。
すなわちそれは、「原始偶然」とも「絶対的形而上的必然」とも捉えられる、「形而上的絶対者」に関する議論である。”
― 千葉雅也「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」 時と永遠のamazonレビューに「生前波多野は西田に対し「西田君の哲学は一晩でできるけど僕のはそうはいかないよ」とうそぶいたそうだが、」って逸話が載っているが、
キリスト教徒の波多野にとって、キリスト教的神観念を理解しない乃至否定する西田は下等な哲学者だったんだろうな その発言の時期にもよるね
初期西田はキリスト教的神観念の理解が浅いけど、後期は理解しつつ否定してる感じだし 毎月のお支払い、生活費、携帯代でお困りの時はご相談下さい。お金の悩み、相談はエス ティー エーで
詳しくはHPをご覧下さい。 清水高志 『実在への殺到』 (2017/8/1)
ジェイムズからメイヤスー、ハーマン、ラトゥール、セール、カストロ、デスコラ、ストラザーン。
幹-形而上学、非・ホーリズム的転回、機会原因論的アニミズム、西田哲学やレンマ論など。 思弁的実在論(>>283)とか現象即実在論(>>58)とかね 無限のスピードと 有限の確実性の速さを うまくタームを食って組み合わせて更新
していくのもいいだろう。 梅原猛の『美と宗教の発見』に丸山真男の批判があるから買ってみたが、
いざ読んでみると、和辻哲郎の批判がたくさんあった。
和辻の『日本倫理思想史』などを読んでからまた挑戦してみたいと思う。 和辻の『日本古代文化』を読んでいると日本史の時間が思い起こされる。 amazonで野田又夫の『デカルト』のページに出てくる
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には、電子回路の本とか線形代数の本が出てくるから、
理系の人にもデカルトは興味を持たれているんだなということがわかる。 “エックハルトも人格的な神を超えた「神性」を絶対の無とも呼んでいるが、
それと仏教でいう無との間には、基督教と仏教、
或いは広く西洋精神と東洋精神との間に於けると等しいだけの根本的な違いがある。”
― 西谷啓治 「神と絶対無」 『西谷啓治著作集 第7巻』 一口に無と言っても、様々な違いがある。
西洋の無と東洋の無。宗教、哲学、数学、科学におけるそれぞれの無。 “「ここから先、おまえは一人で進んでいかなくてはならない」と顔のない男は私に告げた。
「方向も道筋もわからなくても?」
「そういうものは必要とはされない」と男は乳白色の虚無の中から低い声で言った。
「もう川の水は飲んだのだろう。おまえが行動すれば、それに合わせて関連性が生まれていく。
ここはそういう場所なのだ」
それだけを言うと、顔のない男はつばの広い黒い帽子をかぶりなおし、私に背中を向けて舟に戻っていった。”
― 村上春樹 『騎士団長殺し』 第2部 遷ろうメタファー編 (2017) 『「東アジアに哲学はない」のか――京都学派と新儒家』(2014)
朝倉友海
デリダが「中国には哲学がなく、思想しかない」と言って論争になったことがある。
デリダは「哲学は古代ギリシアという特定の時期と環境のなかで生まれたものであり、中国に哲学がないというのは、すでにヘーゲルも言っていること」と続けた。 「わが日本、古(いにしえ)より今にいたるまで哲学なし」(中江兆民「一年有半」)
というのもある。 東洋人は、未だにこういうところから説明をしなければならない。 西田を東洋哲学を代表するものとして
評価する例に挙げられるのが高橋里美。 “私は西田哲学の独創性を濫りに冒涜しようと思うものでは勿論なく、
むしろそれが東西思想の日本的な統一としていかに歴史的に自然的なる、
また妥当的なるものであるかということ、
それがいかに日本に独特なる最初の哲学体系であり、
その故にまた永くわが国の古典的哲学として保存せられ、
かつ継承発展せらるべき栄誉を有するものであるかをいおうと欲するのである。”
― 高橋里美 「西田哲学について」 『高橋里美全集4』 (1973) しかし、西田哲学を安易に禅哲学だと理解しているようでは
読んでいる内には入らない。 “併し君だからよいが普通無識の徒が私を禅などと云ふ場合 私は極力反対いたします
そんな人は禅も知らず 私の哲学も分からず
XとYとが同じいと云って居るにすぎぬ”
― 西田幾多郎 「昭和18年 2月19日 西谷啓治宛」 『西田幾多郎全集23』 (2002-2009) 鈴木大拙の風光
http://h-kishi.sak ura.ne.jp/kokoro-257.htm
…
金光: やっぱりいろんな方にお会いになった時に、お会いになった後で感想なんかおっしゃる
わけでしょう。
別宮: そうなんです。ハイデッガー博士の時は、お会いになって玄関の階段を下りて来られる
時に、独り言のように、「西田にそっくりだ」とおっしゃるんです。
金光: ご自分でおっしゃっているんですね、独り言で。
別宮: 私はたまたま側にいたわけですけれども、「西田にそっくりだ」とおっしゃって、
感心しておられました。「どうしてあんなに似るんだろう」というような感じでね。
上田: …西田先生が大拙先生のことを、大拙先生の本に序文を
書いておられるところがありますね。それが非常に面白い文章ですし、如何にも大拙先生をよ
く表していると思いますので、ちょっと時間を取らせて頂いて、引用してみます。こういうふう
になっています。
《大拙君は高い山が雲の上へ頭を出しているような人である。そしてそこから世間を眺めている。
否、自分自身をも眺めているのである。まったく何もないところから物事を見ているような人
である。…君はもっとも偉そうでなくて、もっとも偉い人かも知れない。私は思想上君
に負うところが多い。》
(鈴木大拙著『文化と宗教』昭和十七年と『禅と日本文化』昭和十五年の二著への西田の序)
私のとっても好きな文章ですし、大拙先生が実によく表されていると思います。 西田と大拙は同い年で、石川県専門学校の同窓生。
西谷も石川県出身。
柳宗悦は学習院高等科で西田や大拙に学んだ。 西田幾多郎全集は新旧2種類ある。
・新版『西田幾多郎全集』全24巻(2002-2009)…新字体・新仮名遣い
・旧版『西田幾多郎全集』全19巻(1978-1980)…旧字体・旧仮名遣い 新版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第2巻〉自覚に於ける直観と反省・意識の問題
西田幾多郎全集〈第3巻〉芸術と道徳 働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第4巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第5巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第6巻〉哲学の根本問題(正・続)
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学論文第一、続・思索と体験
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集第二・哲学論文集第三
西田幾多郎全集〈第9巻〉日本文化の問題・哲学論文集第四・哲学論文集第五
西田幾多郎全集〈第10巻〉哲学論文集第六・哲学論文集第七・「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第11巻〉小篇ほか
西田幾多郎全集〈第13巻〉講演2・講演小篇
西田幾多郎全集〈第14巻〉講義記録
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義ノート
西田幾多郎全集〈第16巻〉断章・研究ノート
西田幾多郎全集〈第17巻〉日記1
西田幾多郎全集〈第18巻〉日記2
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡1
西田幾多郎全集〈第20巻〉書簡2
西田幾多郎全集〈第21巻〉書簡3
西田幾多郎全集〈第22巻〉書簡4
西田幾多郎全集〈第23巻〉書簡5
西田幾多郎全集〈第24巻〉対談・索引ほか 旧版
西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験
西田幾多郎全集〈第3巻〉意識の問題,芸術と道徳
西田幾多郎全集〈第4巻〉働くものから見るものへ
西田幾多郎全集〈第5巻〉一般者の自覚的体系
西田幾多郎全集〈第6巻〉無の自覚的限定
西田幾多郎全集〈第7巻〉哲学の根本問題・哲学の根本問題
西田幾多郎全集〈第8巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第9巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第11巻〉哲学論文集
西田幾多郎全集〈第12巻〉続思索と体験,「続思索と体験」以後
西田幾多郎全集〈第15巻〉講義 哲学概論.宗教学
西田幾多郎全集〈第16巻〉初期草稿
西田幾多郎全集〈第14巻〉講演筆記
西田幾多郎全集〈第18巻〉書簡集
西田幾多郎全集〈第19巻〉書簡集 西田幾多郎 『善の研究』各版
(1)『善の研究』ワイド版岩波文庫〔改版〕(2012)、(解説=藤田正勝)(ルビあり、活字が新しい)
(2)『善の研究』ワイド版岩波文庫 (1991)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(3)『善の研究』岩波文庫 (1979)、(解説=下村寅太郎)(ルビあり)
(4)『善の研究』(全注釈:小坂国継)講談社学術文庫 (2006)、(ルビ多い、新字体・現代仮名遣い)
(5)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔新版〕、岩波書店 (2003)、(ルビなし)
(6)『西田幾多郎全集〈第1巻〉善の研究・思索と体験』〔旧版〕、岩波書店 (1978)、(旧字体・旧仮名遣い)
“真の実在とは何か、善とは何か、宗教とは、神とは何か――。
主観と客観が分かたれる前の「純粋経験」を手がかりに、人間存在に関する
根本的な問いを考え抜いた西田幾多郎(1870-1945)。
東洋の伝統を踏まえ、西洋的思考の枠組自体をも考察対象とした本書は、
以後百余年、日本の哲学の座標軸であり続ける。”
新字体・現代仮名遣い 4 > 1 = 2 = 3 > 5 > 6 旧字体・旧仮名遣い
・岩波版の中で読みやすいのは1。各国語版の紹介などもある
・4は古い文献の読みにくさを解消し、現象学的観点からの解説もある
タイトルは元々『純粋経験と実在』というものだったが、出版社(弘道館)の意向から『善の研究』となった。 “経験するというのは事実そのままに知るの意である。まったく自己の細工を棄てて、事実に従うて知るのである。
純粋というのは、普通に経験といっているものもその実はなんらかの思想を交えているから、
毫も思慮分別を加えない、真に経験そのままの状態をいうのである。
例えば、色を見、音を聞く刹那、未だこれが外物の作用であるとか、
我がこれを感じているとかいうような考えのないのみならず、
この色、この音は何であるという判断すら加わらない前をいうのである。それで純粋経験は直接経験と同一である。
自己の意識状態を直下に経験した時、未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している。
これが経験の最醇(=最もまじりけがなく純粋なこと)なるものである。”
― 西田幾多郎 『善の研究』 第一編 第一章 (小坂版) 西田が影響を受けた純粋経験については、ウィリアム・ジェイムズ『純粋経験の哲学』を併せて読むといい。 >>340
×新字体・新仮名遣い
○新字体・旧仮名遣い
主要な作品の一部は、
上田閑照編 『西田幾多郎哲学論集』 (岩波文庫)でも読める。
http://www.aozora.gr.jp/index_pages/list_inp182_1.html
・場所
・働くのものから見るものへ(序)
・無の自覚的限定(序)
・叡知的世界
・行為的直観
など 西田や京都学派周辺で繰り返される「無(絶対無)」とは何か、説明できるだろうか? その他にも、「純粋経験」、「自覚」、「限定」、「場所」、「絶対矛盾的自己同一」
といった西田的な術語に注意して読んでいくといい。 『善の研究』というタイトルは、当初のまま
『純粋経験と実在』にしておいた方が、分かりやすかっただろう。 『善の研究』と聞いてピンとこなくて、
『「いき」の構造』を読んで、寄り付かなくなる。 九鬼は、『偶然性の問題』を手に取れば、
分からなくても重要性には気づくのに。
全集を読んでも面白いものが多い。 最新の西田像を読む2冊
(1)小泉義之×檜垣立哉 「西田から「哲学」を再開するために」 『西田幾多郎 KAWADE道の手帖』 (2005)
(2)檜垣立哉 『西田幾多郎の生命哲学:ベルクソン、ドゥルーズと響き合う思考』 (2005)
最もモダンな読みをしているのは檜垣と小泉。
二人は西田の数理哲学的側面を軸にして、ベルグソンやドゥルーズに通じる生の哲学として紹介している。
檜垣は、高校時代の数学の教師が西田の孫だったという。
1も2も西田の主要な論稿を通じて、鍵概念と思想の変遷を追う内容。
1には、京都学派の理系を代表する下村寅太郎の「西田哲学における弁証法的世界の数学的構造」を収録。 “我々の有限なる意識の背後に横たわれる無意識はxに対するdxの如く考へることができないであらうか。”
“我々が或一曲線を意識するといふことは此の如き意味に於て限定せられた曲線である”
“意識するといふことは無限なる全体が己自身を限定することである。”
― 西田幾多郎 「自覚に於ける直観と反省」17『西田幾多郎全集3』 (2004) >>352
<檜垣の解説要約>
任意の直線を意識する時は、実在する無限な直線に対して限定をかけている。
無限な潜在性から有限な現実性が、「限定」=「自覚」として立ち現われる。
<小泉の解説要約>
西田の「場所」は、量子論の場の論理を概念化したもので、無限次元のヒルベルト空間。
そこでの演算子を作用と呼び、その作用の作用を「自覚」と呼んでいる。 “仏道をならふことは自己をならふなり。
自己をならふといふは、自己をわするるなり。
自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるといふは、自己の心身、
および佗己の心身をして脱落せしむるなりと云ふ(道元)。
それは限定するものなき限定、絶対無の自己限定と云ふことでなければならない。”
― 西田幾多郎 「哲学論文 第六」 『西田幾多郎全集10』 (2004) 訳
(仏道を習うということは、自己を習うことである。
自己を習うということは、自己を忘れることである。
自己を忘れるということは、一切万物を知ることである。
一切万物を知るということは、主客を分け隔てるものをなくしてしまうことである。)
― 道元 『正法眼蔵』 「現成公案」 道元の中でも最も有名なこの一節は、主客未分の境地を説いている。
同じく主客未分の純粋経験>>343-344をテーマにした西田にとっては、
思い入れの強い箇所だろう。 禅哲学としても、道元論としても最高度に洗練されている。 西田は、最新の数学や物理学を援用して、
無や一即多/多即一といった仏教論理を描き直した。 西田やハイデガーが影響を受けた、
ヘルマン・コーエンに代表される新カント派マールブルク学派の特徴は、数学/自然科学と神学。
『対話の哲学:ドイツ・ユダヤ思想の隠れた系譜』 村岡晋一 (2008)が詳しい。
同シリーズ同著者の『ドイツ観念論:カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』(2012)の人。
ヘルマン・コーヘン哲学の体系(村上寛逸 訳、第一書房)
・第1巻『純粋認識の論理学』(1932)
・第2巻『純粋意志の倫理学』(1933)
・第3巻『純粋感情の美学』(1939) 京都学派とかいっても
波多野>>>西田>>>>>その他
くらいの差があるな >>363
波多野は京都学派にどういう影響を与えた? 以下のように和辻哲郎に言わしめたらしい。
https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/bitstream/2433/24302/1/論叢論文7(松本).pdf
人生という舞台を越 えて、人間は一体いかにあるか、この問題に関しては、
私は波多野精一氏の宗教哲学の示 すところに全く同感である。
倫理を越えるものとしての人間存在の問題については、
諸君、 どうか波多野氏の著作を読んでくれたまえ。 読む価値があることを示したいなら、読む価値のある文章を引用することですね。 >>365
で、人間とはいかなるものだという話なの?
注目すべきは波多野の著書のどういうところ? >>367
和辻も確立しようとしていた、人格の共同態のところだとか、
永遠性と間とかあたりでしょう。 ある。『時と永遠』、『宗教哲学序論・宗教哲学』。
去年の冬ごろに一気に読みすぎて。内容は少ししか覚えていない。 それだけ読めるのなら、西田全集>>341も一気読みできるよ。 『無の自覚的限定』なら一気読みした。
松本健一の何だったかの本で紹介されていて面白そうだったから。
実際、面白くて気持ちがハイになった。 昭和四年の歌
“夜ふけまで又マルクスを論じたりマルクスゆゑにいねがてにする”
― 西田幾多郎 「続 思索と体験」 『西田幾多郎全集7』 (2003) >>341-342
全集は索引とかのデータベースもない。
旧版はちょっとしたものがあるが。
https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/information/pdf/g_works/gw13_nishida.pdf
1善の研究[弘道館1911年]、思索と体験[千章館1915年]
2自覚における直観と反省[岩波書店1917年]
3意志の問題[岩波書店1919年]、芸術と道徳[岩波書店1923年]ドイツの哲学者フィヒテに似た一種の主意主義の立場に立って、
知情意の区別及び関係等の問題を論じ、また芸術や道徳の対象界及びその相互の関係等を論じた。
4働くものから見るものへ[岩波書店1927年場所の論理を展開した。「『善の研究』以来の思索がここに到って巨大な飛躍的展開を遂げ、一つの究極点に到達した。」]
5一般者の自覚的体系[岩波書店1930年]
6無の自覚的限定[岩波書店1932年]
7哲学の根本問題[岩波書店1933年]、哲学の根本問題/続編[岩波書店1934年]
8哲学論文集/1哲学体系への企図、[岩波書店1935年]哲学論文集/2[岩波書店1937年]
9哲学論文集/3[[岩波書店1939年]
10哲学論文集/4[岩波書店1941年]、哲学論文集/5[岩波書店1944年]
11哲学論文集/6[岩波書店1945年]、哲学論文集/7[岩波書店1946年]
12思索と体験/続[岩波書店1937年]、「続思索と体験」以後[岩波書店1948年]日本文化の問題[岩波書店岩波新書]
13小篇・ノートグリーン氏倫理学の大意[「教育時評」第362,363,364号明治38年]
ヒューム氏以前の哲学の発達 人心の疑惑[第四高等学校校友会「北辰会雑誌」第39号明治36年]他 14講演筆記[現代に於ける理想主義の哲学 大正5年京都大学学生課主催の特別講演 大正6年弘道館より刊行信濃哲学会のための講演
昭和一四年「哲学の基礎問題」信濃哲学会宗教の立場 大正8年龍谷大学エックハルトの神秘説と一燈園生活生と実在の論理 1932年1月京都大学において講演第2版の全集に初めて収載]他
15講義哲学概論[1910〜1928年までの京都大学における講義]宗教学[1913〜1914年の1年間京都大学文科大学哲学科の宗教学講座における講義筆記]
16初期草稿英国倫理学史心理学講義倫理学草案純粋経験に関する断章(未発表の遺稿)[京都の故人宅に保存されていたものを点検し収載したもの]我尊会有翼文稿、
不成文会有翼生草稿[この2編は第四高等学校の前身である第4高等中学校在学中に級友の間で作られた会で有翼生は西田の筆名]
Spinoza’sConception of God[鈴木大拙の手元から発見され第3版ではじめて収載された]
17日記[1897〜1945年]
18書簡集/1[1888〜1937年]
19書簡集/2[1938〜1945年]西田幾多郎年譜西田幾多郎全集総目録補遺 >>363
>>48にある通り、京都学派とは、第一に、
> 「何らかのかたちで<無>の思想を継承・展開した思想家のネットワーク」
だから、それぞれの「無」の扱いを中心に見ていく。 “この現実世界に生存するものとして、
全く類を異にする全く他のものなる超越的実在に出会う時、
吾々が直接に受ける衝動は否定そのものである。
この世の因果的乃至意味的連関のうちに安住して居た吾々は、
高次の実在の不意の出現に出会う時は、
あたかも、左右に平穏に延びつつあった直線が
突然現れ出でたる上よりの垂直線によって切断されるが如く、
連続性の断絶を体験する。
これが即ち「無」である。”
“そこよりして吾々は、宗教的体験の発現としての、
無限性・有限性の対立及び相関を理解し得るであろう。
無限性は要するに一切を無に帰せしめる絶対的実在の威力の別名である。
しかしてこの威力に出会うとともにそこに現われる、
われとこの世との性格の変化こそ有限性である。”
― 波多野精一『宗教哲学序論・宗教哲学』(1935・1940/2012) 波多野の図式は、
神=無=全き他者
「神=無」はエックハルト、
「全き他者」はルドルフ・オットー(エラノス会議の設立者)に由来する。
ドイツ的キリスト教的宗教哲学を、
日本人的に、無を強調する形に読んで整理をした。 しかし、波多野のモチーフは、西洋由来のもの。
西田は、西洋哲学を東洋哲学でもって脱構築するのであり(>>354-358)、
全てとは言わないが、西洋にない哲学を築いた(>>334-335)。
この点で、西田>波多野。比べるまでもない。 >>375
『無の自覚的限定』他、西田哲学で繰り返し説かれているのは強い「自己否定」。
物すらも自己自身を否定するという。 デカルト哲学について
西田幾多郎
カント哲学以来、デカルト哲学は棄すてられた。独断的、形而上学的と考えられた。
哲学は批評的であり、認識論的でなければならないと考えられている。
真の実在とは如何いかなるものかを究明して、そこからすべての問題を考えるという如きことは顧みられなくなった。
今日、人は実践ということを出立点と考える。実践と離れた実在というものはない。
単に考えられたものは実在ではない。しかしまた真の実践は真の実在界においてでなければならない。
然しからざれば、それは夢幻に過ぎない。存在の前に当為があるなどいって、
いわゆる実践理性の立場から道徳の形式が明らかにせられたとしても、真の実践は単に形式的に定まるのではない。
此ここにも内容なき形式は空虚である。人は真実在は不可知的というかも知らない。
もし然らば、我々の生命も単に現象的、夢幻的と考えるのほかない。そこからは、死生を賭とする如き真摯しんしなる信念は出て来ないであろう。
実在は我々の自己の存在を離れたものではない。
然らばといって、たといそれが意識一般といっても主観の綜合統一によって成立すると考えられる世界は、
何処どこまでも自己によって考えられた世界、認識対象界たるに過ぎない。
かかる対象的実在の世界からは、実践的当為の出て来ないのはいうまでもない。
デカルトの如く、すべての実在を疑い得るであろう。しかし自己自身の存在を疑うことはできない。
何となれば、疑うものはまた自己なるが故である。 ・・・然らば真実在とは如何なるものであろうか。
それは先ずそれ自身に於おいてあるもの、自己の存在に他の何物をも要せないものでなければならない(デカルト哲学の substance)。
しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。
一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。
然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。
自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。
然らざれば、それは真に自己自身によって働くものではない。
何らかの意味において基底的なるものが考えられるかぎり、それは自ら働くものではない。
自己否定を他に竢またなければならない。
何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。
表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。 冬の或ある日の夜、デカルトは炉辺に坐して考え始めた。
彼は歴史的現実的自己として、歴史的現実において考え始めたのである。
彼は疑い疑った。自己の存在までも疑った。
しかし彼の懐疑の刃やいばは論理そのものにまで向わなかった。
真の自己否定的自覚に達しなかった。
彼の自己は身体なき抽象的自己であったのである。
「何にてもあるものはすべて神に於てあり、神なしに何物もあることも理解することもできない」というスピノザの、
それ自身に於てあり、それ自身によって理解せられる神は、絶対矛盾的自己同一的に自己自身を限定する絶対現在、
あるいは絶対空間というべきものでなければならない。
それは無基底的基底として、歴史的世界の基体と考うべきものである。
斯くして、スピノザ哲学に新なる生命を与えることができるであろう。
スピノザは、デカルト哲学から、徹底的に主語的方向に向った。
そこに我々の自己の自覚的独立性は消されて、神の様相となった。
神は何処までも否定的実在となったのである。 >>391
村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 『華厳思想』 中村元編 (1960)
というのがあるね。
『『華厳経』と『モナドロジー』―村上俊江におけるライプニッツ受容』 酒井潔 (2014-03-01)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3132&item_no=1&page_id=13&block_id=21 西田幾多郎
絶対矛盾的自己同一
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
…
二
…
過去と未来とが相互否定的に現在において結合し、世界が矛盾的自己同一的に一つの
現在として自己自身を形成し行く世界というのは、無限なる過去と未来との矛盾的結合
より成ると考えることができる。斯(か)くいうことは、かかる世界は一面にライプニ
ッツのモナドの世界の如く何処(どこ)までも自己自身を限定する無数なる個物の相互
否定的結合の世界と考えられねばならないということである。モナドは何処までも自己
自身の内から動いて行く、現在が過去を負い未来を孕(はら)む一つの時間的連続であ
る、一つの世界である。
http://www.yashima.ac.jp/univ/about/information/pdf/kiyou07/7_iwai_syoroku.pdf
岩井貴生論考
西田は華厳の「多」と「一」の相即相入の論理で成り立つ「事事無礙」(華厳経より)と同じ構造を、
「個」 が「他個」に対して「個」であるという言い方で両者の区別を明確にしつつも同一
であると主張 した。ということは、西田幾多郎が難解な哲学的論理を駆使して解き明か
そうとした内容とは、 「事事無礙法界」の世界観と考えることが出来る。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています