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【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net

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0001考える名無しさん
垢版 |
2017/05/12(金) 22:12:11.300
明治〜戦前の哲学を読み直す。
0388考える名無しさん
垢版 |
2017/11/05(日) 04:20:48.620
デカルト哲学について
西田幾多郎

カント哲学以来、デカルト哲学は棄すてられた。独断的、形而上学的と考えられた。
哲学は批評的であり、認識論的でなければならないと考えられている。
真の実在とは如何いかなるものかを究明して、そこからすべての問題を考えるという如きことは顧みられなくなった。

今日、人は実践ということを出立点と考える。実践と離れた実在というものはない。
単に考えられたものは実在ではない。しかしまた真の実践は真の実在界においてでなければならない。
然しからざれば、それは夢幻に過ぎない。存在の前に当為があるなどいって、
いわゆる実践理性の立場から道徳の形式が明らかにせられたとしても、真の実践は単に形式的に定まるのではない。
此ここにも内容なき形式は空虚である。人は真実在は不可知的というかも知らない。
もし然らば、我々の生命も単に現象的、夢幻的と考えるのほかない。そこからは、死生を賭とする如き真摯しんしなる信念は出て来ないであろう。
実在は我々の自己の存在を離れたものではない。
然らばといって、たといそれが意識一般といっても主観の綜合統一によって成立すると考えられる世界は、
何処どこまでも自己によって考えられた世界、認識対象界たるに過ぎない。
かかる対象的実在の世界からは、実践的当為の出て来ないのはいうまでもない。
デカルトの如く、すべての実在を疑い得るであろう。しかし自己自身の存在を疑うことはできない。
何となれば、疑うものはまた自己なるが故である。
0389考える名無しさん
垢版 |
2017/11/05(日) 04:26:39.980
・・・然らば真実在とは如何なるものであろうか。
それは先ずそれ自身に於おいてあるもの、自己の存在に他の何物をも要せないものでなければならない(デカルト哲学の substance)。
しかし真にそれ自身によってあるものは、自己自身において他を含むもの、自己否定を含むものでなければならない。
一にして無限の多を含むものでなければならない、即ち自ら働くものでなければならない。
然らざれば、それは自己自身によってあるものとはいわれない。
自己自身によって動くもの、即ち自ら働くものは、自己自身の中に絶対の自己否定を包むものでなければならない。
然らざれば、それは真に自己自身によって働くものではない。
何らかの意味において基底的なるものが考えられるかぎり、それは自ら働くものではない。
自己否定を他に竢またなければならない。
何処までも自己の中に自己否定を含み、自己否定を媒介として働くものというのは、自己自身を対象化することによって働くものでなければならない。
表現するものが表現せられるものであり、自己表現的に働く、即ち知って働くものが、真に自己自身の中に無限の否定を含み、自ら動くもの、自ら働くものということができる。
0390考える名無しさん
垢版 |
2017/11/05(日) 05:02:03.170
冬の或ある日の夜、デカルトは炉辺に坐して考え始めた。
彼は歴史的現実的自己として、歴史的現実において考え始めたのである。
彼は疑い疑った。自己の存在までも疑った。
しかし彼の懐疑の刃やいばは論理そのものにまで向わなかった。
真の自己否定的自覚に達しなかった。
彼の自己は身体なき抽象的自己であったのである。

「何にてもあるものはすべて神に於てあり、神なしに何物もあることも理解することもできない」というスピノザの、
それ自身に於てあり、それ自身によって理解せられる神は、絶対矛盾的自己同一的に自己自身を限定する絶対現在、
あるいは絶対空間というべきものでなければならない。
それは無基底的基底として、歴史的世界の基体と考うべきものである。
斯くして、スピノザ哲学に新なる生命を与えることができるであろう。
スピノザは、デカルト哲学から、徹底的に主語的方向に向った。
そこに我々の自己の自覚的独立性は消されて、神の様相となった。
神は何処までも否定的実在となったのである。
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