【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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魚とか同時期に一斉に生まれる動物は団体行動してもいいけど戦時中は別にして、人間は個性が大きくてこれを育てることで才能を伸ばせる。
だから同年代の子を学年に集めることには疑問があるが、逆に差別化を加速することにもなる。結果、脱落者も出るが。
個性にあこがれるから偉人伝などが好んで読まれる。福翁自伝、チャップリン自伝、etc. __
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┌、. / ヽ ー‐ <. プこプこプこプこプこプこプこプこプこってるようじゃな?
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∨ 〈-=、.__ } 今も戦争国家は兵隊の行列のような一斉行進を誇示するが
何だろう、もういっぺんやりたいんか?
何を考えてるんだろう
百回勝ったら少なくとも百回負けてる、という事実を忘れるからそう考えれるんだろうけど、
忘れないで3千年の負けを思い出せ。んで修正すれば ちっとは分かるだろう。 そゆ客観的なことには目をつむって、主観的にやる癖が突いてれば 暴力的にもなるんだ。 >>425 共産主義の何が悪い
資本主義の悪さと同じよ。自分で美点と欠点を一覧表にすれば簡単に分かる。 【眞子さま結婚詐欺】天皇家に潜り込もうとした小室は、借金と在日がばれて婚約予定破棄と香港紙報道
民団など在日韓国人同胞の戦略として長年かけて眞子様に近付いた小室と早く結婚させるため、報道協定を破ったNHKのリーク報道で拙速な婚約発表となった。しかし、母親の強欲さや借金生活、卑しい血筋の在日がばれ婚約破棄になりそうだ。
マスゴミは天皇家に在日韓国人を潜り込ませたかったのだろう。
国民から小室の雰囲気が怪しいとの意見があったが正解だったようだ。
小室圭さんの母親の借金と宗教問題(大山ねずの命神示教会というカルト宗教)、さらに元夫の自殺が女性週刊誌と週刊文春に報じられ、嫁ぎ先として大丈夫ですかと批判が殺到していました。
香港英字紙は日本メディアなら朝日やTBSなどからヘイトスピーチだと批判報道されて言論弾圧される在日韓国人ルーツ家系を報道している。 昔はスパイ天国とか
今はソフトテロ実験国ではないんか? 京都学派 (講談社現代新書) | 菅原潤 | 哲学・思想 | Kindleストア | Amazon
2018/2/13
https://www.amazon.co.jp/dp/B079L1VDTK/
西田幾多郎に始まる「京都学派」の思想は、西洋哲学にも匹敵するオリジナルな哲学として、
高く評価されています。しかし一方、戦前日本の海外侵略的姿勢に思想面からのお墨付きを与
えたとして、厳しい批判にもさらされています。本書では、いったん彼らの「政治的な誤り」
はカッコに入れた上で、客観的なその哲学的評価を試みます。その上で、なぜ彼らは過ちを
犯すことになったのか、その深い理由に迫ります。 目次
プロロ ーグなぜ今 、京都学派なのか ☆
第一章それは東大から始まった ─ ─フェノロサから綱島梁川まで
コラム 1九鬼周造
第二章京都学派の成立 ─ ─西田幾多郎と田辺元
1対照的な二人の哲学者 ─ ─西田と波多野精一
2西田哲学の変遷
3京都学派の成立 ─ ─田辺元による西田批判とその影響
コラム 2和辻哲郎
第三章京都学派の展開 ─ ─京大四天王の活躍と三木清
1西谷啓治と高山岩男 ─ ─京大四天王の代表者
2三木清と昭和研究会
3二つの座談会 ─ ─ 「世界史的立場と日本 」と 「近代の超克 」
4戦時中の西田と田辺
コラム 3左派の哲学者たち
第四章戦後の京都学派と新京都学派 ─ ─三宅剛一と上山春平
1 「包弁証法 」と三宅剛一
2新京都学派と上山春平
コラム 4広松渉
エピロ ーグ自文化礼賛を超えて ─ ─京都学派のポテンシャル
1唐木順三と 「型の喪失 」
2上山春平と柄谷行人 ─ ─ポスト京都学派に向けて
読書案内
あとがき
☆京都学派の特徴…
1 .弁証法を基軸とした透徹した論理的思考 。
2 .東洋的 (ないしは日本的 )思想への親和性 。
3 .現代思想の批判的摂取 。
4 .本場の欧米に匹敵する西洋哲学研究の水準 。 三宅剛一については、小泉義之が「現代思想」のハイデガー特集で挙げていたな。 西田幾多郎
続思索と体験岩波文庫208頁
歌并[ならびに]詩
昭和四年
《此頃しばしばマルキスト来りマルクスを論ず
夜更けまで又マルクスを論じたりマルクスゆゑにいねがてにする》
*「いねがてにする」は「寝ることができない」の意 社会の力関係を理解するのに、ニュートン力学であれ、量子力学であれ、
物理の力学を隠喩として用いることができると考えることは根本的な
誤りである。 鶏頭で目の前に撒かれた餌をつつくことに専念していればいいのです >>451
3:1
《一般にプラグマティズムに分類される哲学者はパース 、ジェームズ 、デューイの三人で
ある 。すでに触れたように東大の心理学講座の初代教授である元良勇次郎はパ ースから
直接学んでおり 、第四章で論じるように新京都学派の上山春平も原点はパースにある 。
西田哲学のキーワードである 「純粋経験 」はジェームズに由来する概念であり 、また高山
岩男もデューイの 「探究 」を重視するから 、プラグマティズムはカント 、シェリング 、ヘーゲル
らのドイツ観念論とともに陰に陽に京都学派の哲学の土壌を形成したといってよいだろう 。》 たかられたくないけど ヒュームができてる。デゥーイなら それより
ヴィゴツキー。
西田、ブーバー は短絡的な哲学の解。京都学の寺内町の方がずいぶんいい。
無頼派に勝るものはないけどね。 / ̄ ̄ ̄Y ̄ ̄ \
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! ,/ ゙ー''' ー---' 京都学派 (講談社現代新書) 新書 ? 2018/2/15
菅原 潤 (著)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4062884666/
内容紹介
西田幾多郎に始まり、田辺元、三木清、そして「京大四天王」と呼ばれた高山岩男、西谷啓治、高坂正顕、鈴木成高と、戦前、匆々たる哲学者を輩出した「京都学派」。
彼らの思想は西洋の「受け売り」ではなく、むしろ西洋哲学に伍し、さらにはその乗り越えさえも目指したオリジナルな哲学的思考として、今も高く評価されています。
しかしその一方では、日中戦争以降の日本の海外侵略的政治姿勢に思想面からのお墨付きを与えたとして、厳しい批判にもさらされています。
本書では、いったん彼らの「政治的な誤り」はカッコに入れた上で、極力、客観的なその哲学的評価を試みます。その上で、なぜ彼らは過ちを犯すことになったのか、その深い理由にも迫ります。
じつはそこには日本の思想、いえ、思想のみならず「後発の近代国家」として出発せざるを得なかったという近代日本の宿命が、構造的に関わっているのではないでしょうか。
そしてその問題は、今なお克服されることなく、ことあるごとに日本人の思想の中に回帰してくる。例えば近年の柄谷行人氏の思想などにも、著者は思想の「形」としての同一性を見ています。
その意味において、京都学派をどう捉えるかは、私たちにとっても過去の問題ではなく、まさにアクチュアルな問題なのです。
本書は、今なお毀誉褒貶あい半ばする京都学派の思想を、「われわれ」の問題として再提起する試みです。
内容(「BOOK」データベースより)
「世界最高」を目ざした最高の知性は、なぜ「戦争協力者」へと墜ちたのか?西田幾多郎、田辺元、三木清、「京大四天王」…。 世界が思想的な工夫をして平和を模索する「文化創造圏」があり、
その裏をかいて戦勝・戦利を模索してきた「文化破壊圏」が存在する。 >>450-451
ポスト京都学派的なものも、既に出てきているね。
・清水高志 『実在への殺到』(2017)
・千葉雅也 「此性をもつ無 メイヤスーから九鬼周造へ」(2017)
・中沢新一 「レンマの贈与」(2017)、「レンマ的算術の基礎」(2017)
・鈴木貞美 『「近代の超克」その戦前・戦中・戦後』(2015) 中沢新一のレンマ論
(1)「レンマの贈与」(『現代思想 2017年11月号 エスノグラフィ』)
(2)「レンマ的算術の基礎」(『現代思想 2018年1月号 現代思想の総展望2018』)
1.中沢は中村雄二郎から山内のレンマ論を勧められたという話
2.華厳とSFとレンマ 中沢新一は「現代思想」2018年1月号(kindle版あり)で華厳経と量子力学をつなげている。
そこでは鈴木大拙「華厳の研究」(全集5所収)が参照されている。
これは井筒俊彦も参照した本だが、初心者向けではないので角川ソフィア文庫仏教の
思想6が先に読まれるべきだろう。こちらもkindleで読める。
鈴木大拙が解説した法蔵『探玄記』の華厳経解釈がよりわかりやすく書かれている。
中沢は法蔵『探玄記』に触れていない。数式に重点を置いたのだ。
《鈴木大拙は学的な努力を超越した 『華厳経 』の 「霊性 」を強調するのであるが 、
我々は彼の言うその 「霊性 」もまた 、レンマ的知性のうちの 「外的 」な要素として 、
常識や学から断ち切れたものでない点を強調しておきたい 。》中沢新一
この要約は誤解を生む。
鈴木はこう書く。
《『華厳経』の體系化の結果は『華厳経』の霊的価値を可解性(インテリジビリティ)といふスクリーン
の背後に追ひやつてしまふことになり、従って今では一般讀者は『華厳経』本来の使命
を思索的分析の観念論そのものの中に見出す様になつてしまったのだ。》全集5:278頁
そもそも鈴木大拙の言う霊性とは、
《簡単に、霊性は精神の奥に潜在して居るはたらきで、これが目覚めると精神の二元性は解消して、
精神はその本体の上において感覚し思惟し意志し行為し能うものといっておくのがよいかも知れん。》
フロイトの無意識と超自我をあわせた概念と言える。
鈴木大拙は相即相入の教義をinterpenetration(相互浸透)と訳している。 《若き求道の佛教徒善財の霊の目に展示せられた大毘盧舎那楼閣の有様に対して、
シナの最も優れた哲學的心性の一人である法蔵がどの様な知的分析を興へたとしても、
事實そのものはこの分析に何の関係もないのである。分析は知性を満足せしめるかもし
れぬ、併し知性がわれわれの存在の全部ではない。われわれは法蔵や善財と共にどうして
も一度は楼閣そのものの中に入つて、自らに輝き出で、また、相互に映發して無凝自在で
ある一切の諸荘巖事を目撃しなくてはならぬ。およそ宗教の世界では、生活と経験が分析
より邊かに重要なものである。従つて、すべての荘厳(存在の多)に飾られたあの楼閣は、
どうしても各々の生活そのものの中からにじみ出たものでなくてはならぬ。》
鈴木大拙全集5:285頁
鈴木大拙は通常京都学派には入らないが西田幾多郎と金沢の同郷で互いに影響関係にあった。 華厳宗は 唐の杜順の開いたといわれる宗派。もし、これを仏教というなら戯教となる。 存在の究極の様態を現す概念として、西田幾多郎の「逆限定」の概念と、メルロ=ポンティの「両義性」は
同じ概念を現している。純粋経験(=主客未分化)の論理も、主観と客観の“逆限定”として現れている様態として解釈される。 メルロポンティって中身ないよね
雰囲気系
フッサールって西洋哲学の悪いところ集めた
みたいな内容だし テントの柱を蹴倒せば、校長先生から用務員まで参加する大騒ぎになるが、元に戻して終わり。 メルロってアルコール的画才があるよ。フッセルは音楽ではやるかも知れない。 とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
1ZB4B >>479
また上手い事言って
だが人間も自然だよ 人は重層構造だから、ある時から奇怪な思いが棲みついても すぐには分からない。 古寺巡礼読んだぜ
大風呂敷で印象批評だが
やはり江戸とは隔絶した近代西洋が
切り開いた思考が炸裂しているな
年齢考えると驚異だぜ 梅棹文明史観も随筆だし
結局日本語で書かれたものは随筆が一番面白いんだよ 結局、東洋哲学と西洋哲学の融合でしょ?問題は
三位一体説を神道に取り入れればいいじゃん
父たる天(原父)
子たる天(天皇)
内なる天(人々の良心、高潔さ)≒聖霊
これでキリスト教と神道の融合が図れる
これを三天分立と名付けた。
三つの天の相互の良くなろうと意志、働きによって、世界と宇宙が改善されていく。 で、聖霊は八百万の神々、諸仏によって働き掛けられる、と。
どうかな 問題はこの三つの天を統合、総合して何と呼ぶかだけど、
いい呼び名が浮かばない。神でもいいけど、なんか違うしなー。 まぁ別に神でもいいのか
あとは空(くう)の問題をどうすっぺかな 原父は両性具有でもいいのか
便宜上父になったけど、性別不明でもいいし 戸坂潤の文章は固いな
その点三木清の文章は柔らかくて読みやすい 『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)
井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。 >>492
西洋哲学には空に相当する概念はなかった。
近いことをやったのは、マラルメ、ロラン・バルト、デリダ。
空は仏教を参照するしかない。 西洋における仏教の受容
『虚無の信仰 ― 西洋はなぜ仏教を怖れたか』ロジェ=ポル・ドロワ(2002)
西洋で仏教が知られる様になったのは、この200年ぐらい。
ブッディズム(仏教)に該当する語が用いられた最初の例は、
1817年フランスのミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーによる
『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』で、
「ブッディスム(bouddisme)」と綴られた。
その後も仏教は、ニヒリズムや虚無の信仰であると誤解され、様々な論争を引き起こした。
1820年頃 西洋でブッディズム(仏教)が知られるようになる
↓
↓ 1819年 ショーペンハウアーが仏教に言及
↓ 1827年 ヘーゲルが仏教に言及
↓ 1848年 マルクス「共産主義という妖怪がヨーロッパを歩き回る」共産党宣言
↓
1860年頃 仏、英、独で虚無の信仰を巡る論争がピークを迎える
↓
↓ 1866年 マラルメ「仏教を知ることなしに、無(ネアン)に至った」カザリス宛書簡
↓ 1871年 ニーチェ「悲劇がわれわれを仏教から救い出す」断片
↓
1890年頃 仏教が虚無の信仰でないことが理解され始める
↓
↓ 1895年 フロイト『ヒステリーの研究』
この時期は、
マルクス、ニーチェ、フロイトなど現代思想の胎動期とも重なる。 これまでにも西田哲学の読解というのをやってきたけど、
まだ1/3ぐらい。残りは、
・西田哲学の純粋経験と数理哲学(済み)
・西田と京都学派の絶対無(予定)
・西田の科学哲学(予定) 今は、無をやる前提を他スレでもみていっているところ 井上円了の妖怪学はグレアム・ハーマンと近い。
> 円了は『妖怪学』『妖怪学講義』などでそれぞれの妖怪についての考察を深め、
> 当時の科学では解明できない妖怪を「真怪」、
> 自然現象によって実際に発生する妖怪を「仮怪」、
> 誤認や恐怖感など心理的要因によって生まれてくる妖怪を「誤怪」、
> 人が人為的に引き起こした妖怪を「偽怪」と分類し、
> 例えば仮怪を研究することは自然科学を解明することであると考え、
> 妖怪研究は人類の科学の発展に寄与するものという考えに至った。 “わたしは、哲学の唯一の任務とは怪奇実在論(weird realism)であると提案したい。
哲学は実在論的でなければならない。
というのも、その使命は世界そのものの構造を解き明かすことにあるからだ。
“カントが示すアクセス不可能な本体的(ヌーメナル)世界と、
ラヴクラフトが描く怪物たちの謎めいた透明性は、
完全に一致するように思われる。”
“ところが新の実在論は、事物があらゆる関係から切り離されているのだと考えることを要求する。
そこで唯一の解決策として、実在論の風景を、
具体的な対象と現象から切り替えることになってしまうのだ。
その結果、実体を欠いたアトラクターや位相不変量(topological invariant)といった、
さまざまな潜在的存在者が登場することになる。”
“[潜在的なものの哲学による]こうした一歩が見逃してしまうのは、
具体的な対象(実在的であれ現象的であれ)が有する忌まわしい怪奇さである。”
― グレアム・ハーマン「現象学のホラーについて――ラヴクラフトとフッサール」
『ユリイカ 2018年2月号 特集=クトゥルー神話の世界 -ラヴクラフト、TRGP、恐怖の哲学-』 京都学派は暗いから嫌い
と言っても東大の進歩主義(丸山等)にも懐疑的 文体の隔絶感は丸山に軍配
俺が思うに京都学派は白樺派なんだよ 20代、梅原猛の初学者向け哲学書をよく読んだなあ。
あの人は立正佼成会。京都学派だよね。 >>500
西田に科学哲学なんてある?
田辺じゃなくて? ヘーゲルの論理学は悟性の限界を画するという点で科学哲学的な面もあるんだけどそうした分野に日本人哲学者は興味を持たないんだよな。
無の体験の追求だけを求めるというか。 『西田哲学選集』 全7巻・別巻2 (1998)
http://www.toeisha.co.jp/html/sougou_nishitetsu.html
第1巻 西田幾多郎による西田哲学入門
第2巻 「科学哲学」論文集
第3巻 「宗教哲学」論文集
第4巻 「現象学」論文集
第5巻 「歴史哲学」論文集
第6巻 「芸術哲学」論文集
第7巻 日記・書簡・講演集
別巻1 伝記 西田幾多郎
別巻2 西田哲学研究の歴史 中沢新一×東浩紀
「原発事故のあと、哲学は可能か」 『新潮 2014年9月号』
"「アジア」の脱構築へ"。言語起源論から、アジア環太平洋哲学の未来像まで。 東浩紀×千葉雅也
「震災以後の哲学を考える 他者と暴力をめぐって」 『atプラス12』 (2012)
東…明治以降の日本の哲学的伝統では京都学派しかまともなものはなかった
千葉…戦後のある時期から、京都大学の哲学科は京都学派的な伝統を意図的に止める方向にむかった
東…京都学派、および新京都学派が持っていた領域横断性は、本来哲学が持っていたはずのもの >>516
京都学派の領域横断性と新京都学派の領域横断性は全然別種のものな気がするが 京都学派が最も影響を受けたのは近代ドイツ哲学で、宗教哲学を最上位に置くものだった(>>162)。
それが、戦後の哲学界は、構造主義など科学的なものが主流となっていった。 しかし、それもまた一周して、構造主義的問題系の限界を何でもって乗り越えるのかという話になっているのが現在の状況。 西田と波多野が互いに「あれはもう一歩だな」言い合っててこいつらしょうもねーなと感じる >>506
「空」と「無」、「無」と「絶対無」を読み分けるのが精読 西田哲学と京都学派の中心ともいえる「絶対無」をみていく。
まずは「無」と「絶対無」の違いから。 西田は、「有」に基礎を置く西洋哲学に対して、
東洋哲学を「無」の哲学とした。 形なきものの形を見、声なきものの声を聞く
“形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、
尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云うまでもないが、
幾千年来我等の祖先を孚み来つた東洋文化の根底には、
形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが
潜んで居るのではなからうか。”
― 西田幾多郎 「働くものから見るものへ」序『西田幾多郎全集3』 (2003)p255 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>525
文明論としてよく引用されるのはこれ。
次のものの方が、構図は分かりやすい。 最も深い無の思想を以て根底となすもの
“東西の文化形態を形而上学的立場から見て、如何に区別するか。
私はそれを有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるものとに分かつことができるかと思ふ。”p335
“西洋文化の源となつたギリシャ文化は有の思想を基としたもの”p335
“印度宗教は前の二者に反し最も深い無の思想を以て根底となすもの”p338
― 西田幾多郎 「哲学の根本問題 続編」 『西田幾多郎全集6』 (2003) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>527
西洋と東洋を、ギリシャとインドで比較している。
> 有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるもの “実在と考へられるものは、その根底に何処までも非合理的と考へられるものがなければならない。”
― 「無の自覚的限定」序『西田幾多郎全集5』 (2002)p3 >>529の「非合理的」なものが、絶対無として強調される。 底への超越
“判断的一般者の自己限定から出立して、
主語的なるものがその底に超越すると云ふことによって、
種々なる知識を限定する一般者を考へた。”
― 「一般者の自覚的体系」序『西田幾多郎全集4』 (2004)p3 絶対無は底への超越。下方への超越。
他には、シェリングやベーメの「無底、無根底 Ungrund」など。 相対的無から絶対的無へ
“最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならぬ。
概念的知識を映すものは相対的無の場所たることを免れない。”
― 「働くものから見るものへ」7場所『西田幾多郎全集3』 (2003)p427 >>533
相対無というのは、有に対する無。
絶対無というのは、有も無もない無。
例えば、リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129)の冒頭。
“そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。” 仏教の「空」の場合は「非有非無」。有でも無でもない。 有即無の絶対無
“仏教哲学の主張は無我にあつた。而して大乗仏教に至つては、有即無の絶対無であつた。”
― 「日本文化の問題」 『西田幾多郎全集9』 (2004)p69 >>536
「有即無」つまり有を孕んだ無というのは発出論的なもの。
「有即無、無即有」の「絶対無、絶対有」というのは、ベーメ、シェリングからヘーゲルに至る
ドイツ観念論の中心概念。 しかし、西田は、絶対無の定義に二転三転し、苦慮する場面もみせた。 絶対無の場所に於てあるもの
“もはや之について何事をも云ふことはできない、
全然我々の概念的知識の立場を超えたものである、
言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界”
― 「一般者の自覚的体系」叡智的世界9『西田幾多郎全集4』 (2004)p145 “自己自身の無を見る自己がその極限に於て絶対無の自覚に撞着した時、
自己自身を忘ずると共に、万物自己たるものはない、
見る自己がなくなると共に、見らるべきイデヤもない。
併しかゝる境涯の体験は之を宗教家に委するの外はない。”
― 「一般者の自覚的体系」一般者の自己限定5『西田幾多郎全集4』 (2004)p324 >>539-540
自ら設定した絶対無を、叡智的あるいは神秘的直観の世界とし、
宗教家でなければ扱うことの出来ない、哲学的でないものとしてしまった。 >>541
それはどうしてか…
・西田は、禅哲学としては一流だが、宗教哲学全般に通じているわけではなかった
・大乗仏教に対して原始仏教が読まれる様になる以前だった
・語学よりも数学や物理、古典よりも現代を得意としていた
-西田幾多郎(1870-1945年)
-『南伝大蔵経』刊行(1935-1941年) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています