【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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ヘーゲルの論理学は悟性の限界を画するという点で科学哲学的な面もあるんだけどそうした分野に日本人哲学者は興味を持たないんだよな。
無の体験の追求だけを求めるというか。 『西田哲学選集』 全7巻・別巻2 (1998)
http://www.toeisha.co.jp/html/sougou_nishitetsu.html
第1巻 西田幾多郎による西田哲学入門
第2巻 「科学哲学」論文集
第3巻 「宗教哲学」論文集
第4巻 「現象学」論文集
第5巻 「歴史哲学」論文集
第6巻 「芸術哲学」論文集
第7巻 日記・書簡・講演集
別巻1 伝記 西田幾多郎
別巻2 西田哲学研究の歴史 中沢新一×東浩紀
「原発事故のあと、哲学は可能か」 『新潮 2014年9月号』
"「アジア」の脱構築へ"。言語起源論から、アジア環太平洋哲学の未来像まで。 東浩紀×千葉雅也
「震災以後の哲学を考える 他者と暴力をめぐって」 『atプラス12』 (2012)
東…明治以降の日本の哲学的伝統では京都学派しかまともなものはなかった
千葉…戦後のある時期から、京都大学の哲学科は京都学派的な伝統を意図的に止める方向にむかった
東…京都学派、および新京都学派が持っていた領域横断性は、本来哲学が持っていたはずのもの >>516
京都学派の領域横断性と新京都学派の領域横断性は全然別種のものな気がするが 京都学派が最も影響を受けたのは近代ドイツ哲学で、宗教哲学を最上位に置くものだった(>>162)。
それが、戦後の哲学界は、構造主義など科学的なものが主流となっていった。 しかし、それもまた一周して、構造主義的問題系の限界を何でもって乗り越えるのかという話になっているのが現在の状況。 西田と波多野が互いに「あれはもう一歩だな」言い合っててこいつらしょうもねーなと感じる >>506
「空」と「無」、「無」と「絶対無」を読み分けるのが精読 西田哲学と京都学派の中心ともいえる「絶対無」をみていく。
まずは「無」と「絶対無」の違いから。 西田は、「有」に基礎を置く西洋哲学に対して、
東洋哲学を「無」の哲学とした。 形なきものの形を見、声なきものの声を聞く
“形相を有となし形成を善となす泰西文化の絢爛たる発展には、
尚ぶべきもの、学ぶべきものの許多なるは云うまでもないが、
幾千年来我等の祖先を孚み来つた東洋文化の根底には、
形なきものの形を見、声なきものの声を聞くと云った様なものが
潜んで居るのではなからうか。”
― 西田幾多郎 「働くものから見るものへ」序『西田幾多郎全集3』 (2003)p255 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>525
文明論としてよく引用されるのはこれ。
次のものの方が、構図は分かりやすい。 最も深い無の思想を以て根底となすもの
“東西の文化形態を形而上学的立場から見て、如何に区別するか。
私はそれを有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるものとに分かつことができるかと思ふ。”p335
“西洋文化の源となつたギリシャ文化は有の思想を基としたもの”p335
“印度宗教は前の二者に反し最も深い無の思想を以て根底となすもの”p338
― 西田幾多郎 「哲学の根本問題 続編」 『西田幾多郎全集6』 (2003) 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:1341adc37120578f18dba9451e6c8c3b) >>527
西洋と東洋を、ギリシャとインドで比較している。
> 有を実在の根底と考へるものと無を実在の根底と考へるもの “実在と考へられるものは、その根底に何処までも非合理的と考へられるものがなければならない。”
― 「無の自覚的限定」序『西田幾多郎全集5』 (2002)p3 >>529の「非合理的」なものが、絶対無として強調される。 底への超越
“判断的一般者の自己限定から出立して、
主語的なるものがその底に超越すると云ふことによって、
種々なる知識を限定する一般者を考へた。”
― 「一般者の自覚的体系」序『西田幾多郎全集4』 (2004)p3 絶対無は底への超越。下方への超越。
他には、シェリングやベーメの「無底、無根底 Ungrund」など。 相対的無から絶対的無へ
“最も深い意識の意義は真の無の場所ということでなければならぬ。
概念的知識を映すものは相対的無の場所たることを免れない。”
― 「働くものから見るものへ」7場所『西田幾多郎全集3』 (2003)p427 >>533
相対無というのは、有に対する無。
絶対無というのは、有も無もない無。
例えば、リグ・ヴェーダ「宇宙開闢の歌」(10.129)の冒頭。
“そのとき(宇宙始原のとき)無もなく、有もなかった。” 仏教の「空」の場合は「非有非無」。有でも無でもない。 有即無の絶対無
“仏教哲学の主張は無我にあつた。而して大乗仏教に至つては、有即無の絶対無であつた。”
― 「日本文化の問題」 『西田幾多郎全集9』 (2004)p69 >>536
「有即無」つまり有を孕んだ無というのは発出論的なもの。
「有即無、無即有」の「絶対無、絶対有」というのは、ベーメ、シェリングからヘーゲルに至る
ドイツ観念論の中心概念。 しかし、西田は、絶対無の定義に二転三転し、苦慮する場面もみせた。 絶対無の場所に於てあるもの
“もはや之について何事をも云ふことはできない、
全然我々の概念的知識の立場を超えたものである、
言語を絶し思慮を絶した神秘的直観の世界”
― 「一般者の自覚的体系」叡智的世界9『西田幾多郎全集4』 (2004)p145 “自己自身の無を見る自己がその極限に於て絶対無の自覚に撞着した時、
自己自身を忘ずると共に、万物自己たるものはない、
見る自己がなくなると共に、見らるべきイデヤもない。
併しかゝる境涯の体験は之を宗教家に委するの外はない。”
― 「一般者の自覚的体系」一般者の自己限定5『西田幾多郎全集4』 (2004)p324 >>539-540
自ら設定した絶対無を、叡智的あるいは神秘的直観の世界とし、
宗教家でなければ扱うことの出来ない、哲学的でないものとしてしまった。 >>541
それはどうしてか…
・西田は、禅哲学としては一流だが、宗教哲学全般に通じているわけではなかった
・大乗仏教に対して原始仏教が読まれる様になる以前だった
・語学よりも数学や物理、古典よりも現代を得意としていた
-西田幾多郎(1870-1945年)
-『南伝大蔵経』刊行(1935-1941年) “私がギリシャ語などといへば、人が笑ふであらう。彼がギリシャ語をと。
実際、私はプラトンの一行すらも読むことができない。
併し私は晩年ギリシャ哲学に興味を有する様になつてから、
どうしても多少ギリシャ語が分からねばならぬことを痛感した。”
― 『西田幾多郎全集10』 「ギリシャ語」 (2004)p375 ・西田 数学○ ギリシャ語×
・井筒 数学× ギリシャ語○ 西田の絶対無は井筒に引き継がれ、形而上学として完成された。
広義に「東洋的無」と呼ばれるもの
・神(アッラー)そのものが自己顕現する無
・ユダヤ神秘主義カバラにおける神の内なる無
・プロティノスの一者
・ヴェーダーンタ哲学における無相のブラフマン
・老荘の道(タオ)
・禅の無
・大乗仏教の真空妙有
・易学の無極即太極
意識・存在・実在のゼロポイントである純粋な無、
絶対無から絶対有への展開。 >>542
西田は自分の哲学が禅と呼ばれることを嫌ったはずだけど しかし最近のトレンドとしては、
「無」よりも「空」の方が重要視される傾向にある。 >>260
> 戦前の思想の反省
> 戦前の思想 → 近代の超克 → 京都学派 → 西田哲学 → 無(絶対無)とは何か?
とみてきたが、最後の「無(絶対無)」については
既にポールシフトが起きている。
戦前
・西田の絶対無
↓
戦後
・井筒の東洋的無
↓
現在
・大乗仏教 → 原始仏教 → 仏教3.0(無 → 空へ)
・メイヤスーや千葉の偶然性(≒無、此性のある無、シェリング)
東洋哲学の前提が変わりつつある。 空といえば和辻。
だが、和辻倫理学体系における「空」の重みに対抗しようとしているのが、
苅部直だ。ちくま学芸文庫から、『初稿 倫理学』というのを出している。 >>546
その発言は>>337ね。
>>354-359などは斬新な禅哲学。 例えば、西田→井筒→中沢とすると分かりやすい。
>>515では、アジアと環太平洋を分けているし、
人類学の射程を考えると、東洋という言葉ですら手狭になった。
東洋や無ということに、こだわり過ぎる必要はないのかもしれない。 >>550
でも西田は禅なんていってほしくなかったはずだけど >>556
>>337には「無識の徒が私を禅などと云ふ場合」とあるでしょ 無識な徒=私を禅などと云う
私を禅などと云う=無識の徒 >>552
西田(1870-1945)
・宗教哲学、数学、科学
・東洋
↓
井筒(1914-1993)
・宗教哲学、言語哲学
・精神的東洋(東洋+ギリシャ+イベリア半島)
↓
中沢(1950-)
・宗教哲学、人類学
・アジア+環太平洋 西田と井筒の間の世代にあたる人達。
宗教哲学を中心とした、西洋と東洋の比較思想を扱うが、今日的で読みやすい。
・柳宗悦 『柳宗悦宗教選集』
・波多野精一 『宗教哲学序論・宗教哲学』
・田辺元 『仏教と西欧哲学』
・久松真一 『東洋的無』
・九鬼周造 『偶然性の問題』
・清沢満之 『清沢満之全集』 『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)
序 章 井筒「東洋」哲学
「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
a)表層から深層へ
コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
b)深層から表層へ
理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
c)大地と理性――ロシア的人間
ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
a)「空」の徹底
理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
b)空と無
『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
c)砂漠と死――ジャック・デリダ
ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
b)〈いま・ここで=現に〉
「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
c)「入てん垂手」
聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体 >>549
確かにその本にある様な話。
・無と虚無主義(ニヒリズム)の違い
・仏教の空は哲学に生かせるか
この種の議論は、他にも沢山ある。 >>97の
・『「無と空」をめぐって』 上田閑照
・『「空」と「無」の間―仏教思想史の視点から』 木村清孝 実際、空については仏教をやることになるが、
無については、色々なもと関わりがある。
・哲学
・宗教
・心理学
・数学、物理
・唯物論 (1)仏教と空
・『ブッダのことば ―スッタニパータ』 ブッダ、中村元訳 (1958)
“つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ”〔第1119偈〕
(2)解説書
・『仏教の思想 3 空の論理 <中観>』 梶山雄一、上山春平 (1997)
・『龍樹』 中村元 (1994)
・『中村元選集 22 空の論理 大乗仏教』 中村元 (1994)
(3)更にその先(空以前、ポスト空)
・『〈仏教3.0〉を哲学する 』 藤田一照、永井均、山下良道 (2016) 西田が禅に嵌まっていたのは40歳くらいまで
それ以降は禅から距離を取り始めていく >>571の龍樹には「空亦復空(くうやくぶくう)」という言葉がある。
これは「空という真理に達したら、そのこと自体もまた空ぜられねばならない(空に執着しない)」というもの。 空を絶対視したり空で終わったりするのは駄目なんだな。 十牛図(牛=仏性を探す図)
https://www.jisyameguri.com/books/jyugyuzu/
(1)尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。
(2)見跡 - 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。
(3)見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位。
(4)得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。
(5)牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。
(6)騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。
(7)忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。
(8)人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。
(9)返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。
(10)入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。 純粋経験と自然科学
“現代の哲学に於て客観主義として最も徹底したものはベルグソンの哲学であらう。
直接に与えられたる純粋経験が唯一の実在であって自然科学的世界の如きは
却ってコンベンショナルのものにすぎない。”
― 『西田幾多郎全集12』 「第五講 新カント学派」 (2004) p46 “弁証法とは何処までも具体的な思惟でなければならない”
“自己が物の世界に入り、物そのものとなって考へることである。”
“対象認識の科学といふものは具体的実在から推論式的に媒介せられると云ひ得るかも知らぬが、
哲学は具体的実在そのものの自己媒介から成立する学でなければならない。”
― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p223-224 “経済現象といふものを、分析したものの綜合として考へるのでなく、
生きた全体の過程として見るのである。”
― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p238 “私の行為的直観とは科学的実験といふことである。
物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、
自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。
そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。”
― 『西田幾多郎全集8』 「絶対矛盾的自己同一」 (2003) p388 “数学は人間の工夫であるが、自然と数学との間に偶然ならざる対応がある。
測定を正確にすればするほど、自然は数学的言表に近づく。
その為、人は抽象的な数学の原理が自然の中に働く如く想像もした。
併しそれは測定の程度の低かつた時のことであって、今日は最早さうではない。
測定の過程を如何に精密にしても、無限にユークリッド幾何学に近づくことはできない。”
― 『西田幾多郎全集8』 「経験科学」 (2003) p432 >>576
ハイデガーは十牛図を見てシレジウスと重ねたという。
シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』) “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。 “パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”
“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”
― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006) >>588
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷、上田らの編集で、巻末に詳しい解説もある。 キリストの「ケノーシス kenosis(自己無化、自己卑下)」
“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。”
― 「フィリピ」 2:6-7
ἐκένωσεν(ekenōsen)
の英訳はemptiedで、「空」とも訳される。 >>591
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005)所収の
・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス
が、キリストのケノーシスと仏教の空を比較していて詳しい。 藤田正勝とか氣多雅子が朝日カルチャーとかで講座持ったりしないのかなあ。
どこの大学でも教えてない感じだし。 >>594
氣多さんはおそらく私大からお呼びがあっただろうけど、断ったんだろうね
健康上の理由か、家庭の事情か、研究への専念か いままで6回ぐらい挑戦したにもかかわらず目も通せずにいた
田辺元の『種の論理』の「社会存在の論理」が
漸く一節読めた。 戸坂潤の田辺批判を読むためにも田辺本を読まないとなあ。
難しいから、いつの日になるやらw 確かに、「東大がなぜ丸山学派にいるんだよ。」とは言われないな。
学派内の対立はあるにせよ、
学派が語られるときにその凝集性が先に来る傾向はあるかもしれんね。 勉強してる人にはスキが多いから、かじりついたら礼儀に反するだろうね。
丸山というと皆が会いたいわけじゃないんじゃないの。つまり皆に会いたいとか。
俺は社会がひずんでて、一人に負担をかけるしかなかったんだよ。 学派というとアマチュア集団だから、恥ずかしい思いがすると思う。
無頼派のウイスキーを遺産にした遣る方が。 群れているように見えて無頼派なのが京大系の人
群れていないように見えて無頼派ではないのが東大系の人
というイメージがある。 ウイスキーの銘柄の方が学派より燃料入っていく感じしていいのにね。
東大 京大 並べても勝てそうにねえよ。 ウイスキーのブランドにはかなわないけど、
大学ブランドの飲食物が増えたよね。
京都学派っていう銘柄の日本酒でも考えるならば、
西田幾多郎、西谷啓治、高坂正顕、高山岩男のような裏日本産の米と水に、
京都の米麹でも加えればいい感じ。 >>610
日本海側の酒は美味いぞ
手取川とか勝駒とか 高坂正顕の『カント』もいい感じだが、
下村寅太郎のライプニッツ研究もよさげだな。 自分が浅学非才なのもあるが、
京都の晃洋書房が出している哲学書概説シリーズは、
極端な話、天牛書店とかで580円位で売っている同社の研究書よりもよっぽど骨があって、
概説書というよりもむしろ文字通り哲学書という感じさえする。
有福孝岳の『カント『純粋理性批判』』とか氣多雅子の『西田幾多郎『善の研究』』を
ちょっと読んだだけではあるが。 あのシリーズ、地味に良いんだよね
もっと続いてほしい https://kanji.sljfaq.org/drawj.html
手書き漢字認識のサイトいいよね。
今日は恋の旧字体と無聊(ぶりょう)の読み方と意味を知れてよかった。 【きちょほん】高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却。貴重な郷土本、絶版本多数★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534502089/l50
新聞記事にあった焼却リスト
https://i.imgur.com/Jca4yrX.jpg
↑
戸坂潤全集が複本を残して焼却されたらしいな。
京大図書館の蔵書検索すると文学部に所蔵されてるのが借りられててすごいと思ったわ。
複本がありまくりなのにもびっくらこいたわ。 哲学の道いった?どこから歩いて行ったか忘れたけど。それまた道となるはず。ないか。あるか。 >>619
に関して。
京大の元総長で今は京都造形芸術大学学長の尾池和夫が理事にいるとは
思わなんだ。
https://www.kppuc.ac.jp/about/officer.html まあ、高知出身の名士というのもあるかもしれないが。 氣多雅子『西田幾多郎『善の研究』』(晃洋書房、2011年)をようやく読み終えた。長かった。
西田のほかの著作の知識は必ずしも前提とされてはいない。
むしろ、ジェイムズや西谷啓治の著作の知識が必要かな。
他にはデカルトの『方法序説』やフッサールの『内的時間意識の現象学』が引用されていて、
それらの本を事前に読んでいてよかったと思う。 哲学は初体験ずくから、アバスレ経験論まで。いろいろだね。ヒュームもなかなか。 東京無頼派。所詮学派に過ぎないよ。京都の帝ラン。
一流〜三龍亭ランク目指してね。 それと、カントの『人倫の形而上学』における人格概念を引き合いに出して
西田の『善の研究』における人格概念に対して批判を行うのはかなり手厳しかった。 >>631
お、そんな箇所あったっけ
以前読んだことあるけど、全く覚えてないから読み返してみるか 梅本克己や梯明秀って疎外論の革マル哲学のイメージがあるけど
それぞれ和辻哲郎、西田幾多郎の弟子だから
日本哲学の枠内にぎりぎり入るっちゃ入るんだよな。 時代遅れなんだよな。禅の研究。同じパターンであって敵とも遭遇しない変な本。
治安がいいのもなあ。 段階をへて神に到達するんじゃなくて、いつでも受けがないとな。 変な経路から男だまりでヘンな神でも見たんじゃないのか? マルティンブーバー 我と 汝 の方がよくできてるわ。 ダサいお話だけど、概算、差し抜きして、そっちの方が読みごたえあるよ。
現代ではもっと哲学構造は複雑だがね。 最終到達点に何かがいるなんて、人生のまだ過程を踏んでいる人の方が
レアキャラ出てるし。 西田は『善の研究』で完結したわけじゃなくて
『働くものから見るものへ』とかもあるからなあ。 大学教授を退職したら今は名誉教授だけど、
昔はそんなものあったんだっけ。
今に比べたら博士様は少なくて貴重な存在だったからか、
『働くものから見るものへ』の背表紙には
文学博士 西田幾多郎著とある。 自己なんてナルシストな哲学どうでもいいし、何かカントのまき直しみたいで
自分で書体を更新したわけでもなく、無と死の恐怖なんて日本人にはありがち。 まあそりゃそうかもしれんけど、
当時は資本主義の激動の時代で、自我の崩壊の危機にある人も多かったわけだから、
そういう人向けには良い著作だったんじゃないの。
田辺元なんかは社会哲学の方に向かったわけだけどさ。 藤田正勝『日本哲学史』
http://www.showado-kyoto.jp/book/b375502.html
これは楽しみ
単著で大部の「日本哲学史」なんて、これまでもこれからも書かれることはほとんどないだろう >>649
> この150年、日本にも「哲学」はあった。
> しかし、それらは個々にしか語られてこなかった。
> その全体像がいま浮かび上がる。 序 章 日本の「哲学」と「哲学史」
1 「哲学」をどう捉えるか
2 哲学史とは何か
■第一部 受容期――明治の哲学
第一章 明治前期の哲学
1 「哲学」受容前史
2 西周による哲学の受容
3 福沢諭吉と近代日本の学問
4 中江兆民――「理学」としての哲学
第二章 大学という制度(アカデミズム)のなかの哲学
1 東京大学におけるフェノロサの哲学講義
2 現象即実在論――井上哲次郎・井上円了
3 哲学史の著述を通しての哲学受容――三宅雪嶺・清沢満之
4 批判的・合理的な知の形成――大西祝と狩野亨吉
5 フェノロサと岡倉天心の美学・美術史についての理解
6 ブッセ・ケーベルの日本における哲学研究への寄与
第三章 明治中期・後期における国家社会への関心と個人の自覚
1 近代化の歩みへの反省
2 個人の自覚
3 社会の矛盾や平和へのまなざし ■第二部 形成期――大正・昭和前期の哲学
第一章 大正・昭和前期の思想状況
1 大正という時代
2 昭和前期の思想状況
第二章 西田哲学と田辺哲学
1 西田幾多郎の前期の思索
2 田辺元の思想形成と西田哲学批判
3 後期西田哲学
4 田辺元の「種の論理」
第三章 西田・田辺と同時代の哲学のさまざまな展開
1 高橋里美
2 九鬼周造
3 和辻哲郎
4 美学研究の発展
5 宗教の哲学
第四章 西田・田辺の弟子たち
1 禅の伝統――久松真一・西谷啓治
2 現象学・歴史哲学・社会存在論――山内得立・高坂正顕・務台理作
3 構想力の論理――三木清
4 マルクス主義への接近――戸坂潤・梯明秀
5 多様な分野への展開――木村素衛・高山岩男・土田杏村・下村寅太郎
第五章 京都学派
1 京都学派とは
2 近代の超克 ■第三部 展開期――終戦後の哲学
第一章 敗戦からの出発
1 「近代」と「主体性」の問題
2 平和の実現に向けて
3 戦後の相対化
第二章 戦後の京都学派
1 田辺哲学の展開
2 無(空)の哲学の展開
3 京都学派の多様な展開
第三章 戦後の日本の哲学の多様な展開
1 存在と知識
2 自己と他者
3 言 葉
4 身体へのまなざし
5 比較という視座
後 語
WWWWW
/W W
/ ∵
/ /――――― |
|∵/ |
|∵ ┗━ ━┛ |
|∵ ⌒ ⌒ |
(6‖ つ |
| \____ノ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
| \_/ / < やばいよ やばいよ〜!!
/| /\ \_____________ 日本哲学史とか言っておいて西田・田辺史観じゃん
せっま そりゃ第二部の一部だけでしょ。
今第一部から読んでるけどなかなか田辺や西田のところまで辿りつけなさそうだわ。 >>651-653に挙げられている以外の人達も出てくる。
井筒とか中村元とか。 『日本哲学史』の第一部まで読んだけど、
安部能成を阿部能成にしてしまっている箇所があった。 第二部の大正という時代を読んだんだけど、
鈴木貞美を鈴木貞実にしてしまっている箇所があった。脚注では正しく書けているのに・・ ここまで打ち間違いにばかり触れたけど、
『日本哲学史』は、純哲だけでなく、
政治や経済の分野の人物(吉野作蔵とか河上肇)にも焦点を当てている点で
良い本だと思っている。 読みかけの苅部直の『日本思想史への道案内』を久しぶりに読んだ。
苅部は様々な事柄を料理して一定の方向へまとめるのが上手いなあと感じた。 西田幾多郎「善の研究」53%だけど、
第二編で、朱子学の究理論について述べていて、
第三編で、陽明学について言及しているので、
西田幾多郎は、最初は儒教を前提に哲学を始めたのではないだろうか。
キリスト教的な神学の要素と朱子学との融合をはかったのが、
「善の研究」な気がしている。
めっちゃ難しくて、さっぱりわけがわからないが、
あと半分を読むよ。
西田幾多郎「善の根拠」56%。
第三編。
西田は、自由意志について述べている。
西田は、自由意志を否定している。
意志は大自然によって規定されたものから機械的に決まると述べている。
心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
それがどう「善」と関わるのかつづきを読みたい。 西田幾多郎「善の根拠」60%。
西田は、ことの善悪は、理論だてられた倫理によって規定されるよりも、
善悪という感情の想起によって決まるという。
この辺りは、カントの「判断力批判」の、「快不快の美学的判断は、合目的的な判断とは異なる」
という一説にまとめられるだろうが、西田幾多郎は、それと同じような内容を別のことばで語っている。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。
智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。 西田幾多郎「善の根拠」69%。
意志は、快不快の情欲から発生する。
情欲を抑制する意思は、快不快の情欲よりも大事な目的がある場合だけである。
意志は、快不快の情欲によって決まるが、
快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
ヒトの意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 「善の研究」西田幾多郎をやっと読んだよ。
「善の研究」西田幾多郎
西田の存在論は朱子学の「理」だ。
西田は、自由意志を否定した。心の中に意志を決定する要素がすべて思い浮かぶことはなく、
不十分な意志の発現の総合として、心に意志は発現する。
善悪を完全に規定した倫理学は存在しない。 智勇仁義は、いちど善とされても、後で悪とされることもある。
また、誰かは善といっても、別の誰かは悪という。
平等が正義でもない。逆に、個人のこだわりを認めることの方が、平等より善であることが多い。
意思は、快不快の単純な多い少ないによっては決まらない。
人の意思は、快不快の単純な算数で決まるほど単純ではない。 わたしはここでユダヤ教やキリスト教の宣伝をしているのではない。
聖書を知らない以上は世界を理解できないという事実を述べているだけである。
教養とは、結局は古代の中国官僚の処世術にすぎない論語を読んで身につけるものではない。
論語は世界の文化を形成していない。教養を身につけるとは、世界を形成してきた聖書を読むことなのである。
何を独学するにしても、聖書を読まずに始めるならば、あらたな偏見を自分の中につくるだけに終わる。
そういう人が多すぎる。すると、さきほどの評論家のようにギリシア神話も聖書も区別がつかなくなる程度の頭になってしまうのである。
つまらない誤解がある。聖書は、ユダヤ教やキリスト教に人々を勧誘するための書物ではない。
また、聖書にはありがたい教えばかりが書かれているのでもない。聖書に描かれているのは、人間への神の関わりである。
神はたえず人間にかかわり、教えてきたのである。
法律の原型も神から教えられている。法律の原型は聖書の成立よりも古いハンムラビ法典にあるように思われているが、
他人から害を受けても復讐をせずに賠償ですませよという法律の基本も聖書で教えられている。
為政者や知識人や学者が考案したものではないのだ。世界には聖典だの経典だのというものがあまたあるのだが、
その中でも世界の形成に事実として寄与してきたのは聖書だけである。
キリスト教信者が世界で圧倒的多数を占めたために現代世界が形づくられたわけではない。
世界の土台が聖書にあるのだから、そこに何がどのように書かれているのか知っておくかどうかで世界の見方が変わるのは当然のことだ。
仏教経典をいくら読んだところで世界は少しも理解できない。しかし、聖書を読んでいれば、仏教経典に何が書かれているかさえ理解できるようになるのである。
(白取春彦「勉学術」) 善と悪、正義と不正義は客観的に存在する。
そうじゃないと社会運動や政治活動のモチベーションが下がる。 善と悪、正義と不正義の判断は、他人の振舞いにではなく、
自分の振舞いに向けられるべきもの 数ならぬ 心に身をば まかせねど 身にしたがふは 心なりけり
― 紫式部 心だに いかなる身にか かなふらむ 思ひ知れども 思ひ知られず
― 紫式部 >>675-676
心身問題に取り組むことを自称する日本の自称哲学研究者は、これらの問ひ
を扱うことができるのか。これらの問ひを扱うことができないのなら、
それは、それらの人々が「心身」を目の前/手前(vorhanden)に存在する
ものとして前提としており、その前提が、これらのこれらの問ひにおいて
扱われる(zuhandenにある)心身の様態を排除するからではないのか?
であるとすれば、実際には、心身問題に取り組むことすらできない
日本の自称哲学研究者は、哲学を研究していることを詐称していること
になるだろう。 言うまでもなく、「心身」の問題を扱うことを自称する理系分野の
研究も、「心」および「身」という表現を、「心身」が目の前/手前
(vorhanden)に存在することを前提として流用している。しかし、
問題は、本来の用法を離れてそれらの表現を流用していることではない。
そうではなく、それらの流用が、それらの表現の本来の用法を
暗黙に、かつ意図的に排除していることであり、そのことにおいて、
その流用は隠喩であることすら意図されておらず、表現の悪質な
濫用であると言わなければならないだろう。 その悪質な濫用を「自然主義」などという用語で正当化するようなことを
人文系とされる分野に属する人々が始めたとするなら、それは既に
「悪質な濫用」というようりも工作と呼ぶ方がより適切だろう。 自民党の某議員
「貧困の再生産など起きない。彼らは子供さえ持てないからいずれいなくなるだろう」
2006年9月12日(火)発売 週刊SPA!2006年9月19日号49ページ 和辻や西田の理解は、彼らの通ってきた道を理解することであるから、
カントやフッサールやベルクソンやジェイムズもそれなりに理解しなければ
ならないのだろうなと思う。 酒井直樹の『日本思想という問題』と藤田正勝の『日本哲学史』の
弁証法的換骨奪胎が必要なように思えてきた。 梅原の西田論
“結局デカルト批判が彼の哲学の中心だと思いますけどね。
デカルトだと二元論になる。
自我と物質が対立するという二元的な構造にならざるを得ない。(略)
それを、世界というものは自我と物質が対立するものではない、主客合一であると言った。”
― 『日本人は思想したか』 吉本隆明、中沢新一、梅原猛 (1995) デカルト直系で身体性と実在を分けるメイヤスーなどが注目されるのと同時に、
西田や京都学派が読み返されているのはこういうところだろう。 津田雅夫の『「もの」の思想』を読了した。
日常的なレベルにおいて生活のあり方、物の考え方を見直すことで
大事な宗教批判ができるということがわかって良かった。 片山洋之介の『日常と偶然』を読了したんだけど、
実はこの人って倫理学界でものすごく偉い人?
印刷間違い(自を白だとか)があって残念だったけど、
内容は面白かった。 日本の哲学者の思想のメモ
世阿弥:物狂いの女には花を一輪さすとかわいい。
大西祝:良心の快不快。哀しみの快。
中江兆民:古代中世の征服者の原理と、近代啓蒙思想の原理のどちらにも配慮しなければならない。
鈴木大拙:愛を肯定する明治仏教。
西田幾多郎:善悪の判断は時間がたつとどんどん変わる。過去と未来の両者は現在で絶対矛盾的自己同一している。
田辺元:非合理的行動と社会正義的行動を統一する概念は神に至る。
梅原猛:多神教は思考が多様で一神教より優れている。
浅田彰:創造主は万民の支配者であるとともに、創造主は万民の奴隷である。
中島義道:嫌な同僚が理不尽に出世してしまうが、社会とはもともと理不尽なものなので仕方ない。
南直哉:他者が存在すると信じることが善の根拠。
山内志郎:自然法則には目的はないが、道徳法則にも目的はない。 日本文化のことを雑種文化と規定したのは、
一種の好プレーなんじゃないの? 山田洸(元宮城教育大学、山口大学教授)の日本思想史研究は、
地味にいい感じだな。 “『大乗仏教概論』は大拙思想のアルファであり、オメガである。
しかしながら、この書物は原著刊行から一〇〇年近くの間、封印されていた。”
― 安藤礼二 『大拙』 (2018/10/25) 鈴木大拙 『大乗仏教概論』 佐々木閑 訳 (2016) 「大西祝選」集二巻、批評編。すごいよかった。
こんなのがもっとあるなら出してくれ。 さんまちゃんの頭の回転の良さだったら
ガリ勉して京大に行くことも不可能じゃなかったやろな いい結果の原因が自分にあるなら、悪い結果の原因も自分にある。
いい結果の原因が自分にないなら、悪い結果の原因も自分にない。
いい結果の原因が皆にあるなら、悪い結果の原因も皆にある。
いい結果の原因が皆にないなら、悪い結果の原因も皆にない。 このスレ>>689で見てはじめて知った大西祝、いい奴だな
近代では九鬼が重いパンチを秘めている人間と感じていたが文献学と固有だけれど職人技のように小綺麗な哲学を残して終わってしまった感があるもっと見たかった人だ
大西祝はキリスト教を基礎に出発して、生きていれば日本と西洋の価値観を繋げる大仕事を恐らく成していただろうに >>704
大西祝は、「宇宙の創造主を神(かみ)とする思想は、明治の日本でも広く受けいられている」として、
それでも大西祝は「天神」を主張する。
そして、「明治政府の命令より、宇宙の神の命令を優先するキリスト教は、明治の教育の邪魔だ」といっているね。
「明治政府の目的と、キリスト教の目的は異なり、明治政府の目的を優先すべきだ」と。 序
日本の重要なものを隠していることを示す漢字が六個ある。
それは、禁、裏、秘、奥、隠、忌である。
1、禁
天は「あま」とも読め、「あめ」とも読める。どちらも使用は現場により、巧妙に入れ替えている。どちらのことばが正式で、どらちらが虚偽かは、その時々で変わる。統一するように整理しても、すぐに攻撃されてぐちゃぐちゃになる。
あめは、雨であり、悲しくも恵みの雨である。日本は雨を嫌わない。
「ドン」と呼ばれるものは、秘中の秘である。
日本神話には、天船(あまつふね)という空飛ぶ船が記述されている。
おみくじは、「大事な大事なくじ」という意味である。
2、裏
八百万(やおよろず)の柱(はしら)がある。多神教の日本にはたくさんの柱がある。
一神教の柱もいる。一神教の柱も、八百万の柱の一柱にすぎない。
社(やしろ)はやおろずの城を意味する。社は、「もり」とも読み、森を意味する。神社において、社と森は区別がつかない。
鳥居は、鳥がとまるから鳥居という。
大和(やまと)は、山の家を意味して、奈良県の家(ならされた土地の家)を意味する。そのまま、山の都を意味する。
3、秘
日本の王は、日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)である。
太陽の継承者という意味だ。
人(ひと)は、人類を意味する日本語である。 4、奥
君は、貴身(きみ)であり、君主を意味する。忠誠の対象であり、たくさんいる。
日本の王のことは、大王(おおきみ)という。
風(かぜ)と、彼是(かぜ)は混同されている。上司の命令の実行を風(かぜ:彼是)ということがある。
祭り(まつり)は、政治と神事と宴会からなる。
祭りに従わないものを、奉わぬ(まつろわぬ)民という。反体制という意味である。
5、隠
三種の神器は、日本神話の象徴である。
三種の神器(みくさのたから)は、草薙の剣、八咫の鏡、八尺瓊勾玉である。
剣は、吊る木(つるぎ)であり、長細い棒のことである。
鏡は、影見(かげみ)であり、姿を映すものである。
勾玉は、曲玉(まがたま)であり、魂に似せた飾りである。誰がどのように魂の形を知ったのかはわからない。神代の日本で、魂(たましい)がどのような概念だったのかはわからない。
三種の神器は、剣と鏡は緋緋色金(ひひいろかね)でできていて、勾玉はヒスイでできている。
四種類の魂について記す。
和魂(にぎたま)は、にぎやかな魂であり、仲の良い魂のことである。
荒魂(あらたま)は、あらぶる魂であり、暴力的な魂のことである。
幸魂(さちたま)は、しあわせな魂であり、結び、結婚を意味する。
奇魂(くしたま)は、珍しい魂である。
結びによってできるものを、娘(むすめ:結女)、息子(むすこ:結子)という。
結びの儀式には、榊(さかき:賢木、賢い木の意味)の木を振る。 6、忌
おそらく、日本の神は、彼身(かみ)であり、「あちらの実体」という意味である。
神(かみ)は神威(カムイ)より古く、神威とはアイヌ民族が神性なものの名前である神を格好よく言いかえて神威と呼んだのだろう。
黄泉(よみ)は、夜身(よみ)であり、「夜の実体」を意味して、死後の世界を意味する。
黄泉から帰ることを、蘇り(よみがえり)という。
地返しの玉は、イザナギが黄泉から生還した象徴である。 東浩紀編集のゲンロン9で現代日本の批評Wと題して
東浩紀と大澤聡と苅部直と先崎彰容が対談していたが、
その中で苅部直が京都学派の哲学のことをざっくり京都哲学と言っていたな。
京都学派というだけでは憲法学とか東洋史とかフィールドワークも入ってくるから
そういう風に言わざるを得ないのかもしれない。 波多野精一「時と永遠他八篇」
明治の西洋哲学者の代表作。
「時と永遠」では、永遠なるものには共同がともなわなければならないと説く。
永遠なるものは愛をもたなければ、永遠の孤独になってしまう。
永遠なるものについては、友情がどうなっているのかが重要だ。
「他八篇」はたいしたことは書いていない。 “井筒が生涯をかけて探求したのは、万物を超越する一神教ではなく、万物に内在する一神教である。
ユダヤ教、キリスト教の伝統に連なるとともにその伝統を刷新し、純粋化していったイスラームのさらなる東方的な展開である。(略)
アラビア半島に生まれた森羅万象すべてに超越する神、スンナ派の神ではなく、
イラン高原で生まれた森羅万象すべてに内在する神、シーア派の神であった。
イラン高原では、神は「存在」と言い換えられていた。
「存在」の根源にして、根源の「存在」である「神」、そこから森羅万象あらゆるものが産出される「神」。
その「神」は一なる神――一神教すべての根幹となる唯一無二の神――を可能にする「無」の神、
より正確には、「無」にして無限の神であった。”
― 安藤礼二 「「東方哲学」素描:鈴木大拙、折口信夫、井筒俊彦の仏教」 『現代思想 2018年10月臨時増刊号 仏教を考える』 647 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2019/04/06(土) 20:41:39.70 0
若松英輔に井筒俊彦が山崎弁栄に会っていたら井筒俊彦はイスラムに行かなかっただろうと言わせた浄土宗の高僧山崎弁栄は「超在一神教的汎在神教」をとなえた。
超越的一神に相当する彼の法身の阿弥陀如来と本覚思想の一切衆生悉有仏性の統合と現代的表現だろうけど。
650 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2019/04/10(水) 00:08:44.05 0
山崎弁栄いいね。
「超越即内在」。“内なる仏であり、なおかつ外なる仏である”。
一神教と汎神教との相克を超えた「超在一神的汎神教」という立場は、
宇宙を直感するシュライエルマッハーの宗教学を背景としている。
フッサールと同じ1859年生まれで、
インド各地の仏蹟各地を巡拝した最初の日本人。 >>717
のシンポジウムに行ってきたけど、
山極総長が京都哲学に秋波を送っていたのが印象的だった。 >>711
「他八篇」はたいしたことは書いていない。
は?
おまえが理解できないだけだろ 『田辺哲学とは』(燈影舎)を読んで、
「樊籠」という言葉を初めて知った。
束縛とかいう意味を持つ言葉なんだな。 西田は低学歴低キャリア。帝レヴェル 帝キャリア 帝学歴のほうよ。女性は。 最近は日本哲学の本どころか、研究書や専門書すら読めていない。
時事ニュースばかり追っかけていて、それに関していろいろ思索することばかりだ。 上田閑照が亡くなった。
彼の著作は西、彼が編んだ西田幾多郎哲学論集しか読んだことがない。
それにしても、
鷲田清一も広い意味での京都哲学の中に入るのだろうか
と、ふと彼の新聞に投稿した文章を集めた『濃霧の中の方向感覚』を読みながら
思った。 柳田国男はタピオカを食べていた
「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある。」(柳田国男『民間傳承論』現代史學大系第七巻、共立社、1934、P76)
https://i.imgur.com/Gjbm8uM.jpg > 南米やアフリカでは、タピオカは主食としても食べられてきた。
> 1万年に及ぶというタピオカと人類の長い歴史を… 中沢新一 『レンマ学』 講談社 (2019/8/8)
“レンマ的知性は、ロゴス的知性の真に外部にある実在に触れている”
“荒海や 佐渡に横たふ 天の川(芭蕉)”
大乗仏教、哲学、量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学……を超えて、
東洋知の結晶した華厳経の潜在力を大展開する未来のサピエンス学へ!
『チベットのモーツァルト』に始まった心と脳をめぐる探究の頂。文芸誌『群像』の連載「レンマ学」がついに単行本化!
「レンマ」とは何か? 哲学者山内得立が著書『ロゴスとレンマ』で提出した概念によっています。
「ロゴス」は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味しています。
その本質は時間軸にしたがう線形性にあります。
それに対し、「レンマ」は「直観によって事物をまるごと把握する」という意味です。 第4回 京都大学 - 稲盛財団合同京都賞シンポジウム [映画・演劇分野]
中沢新一 「芸術のロゴスとレンマ」 2017年7月1日
https://www.youtube.com/watch?v=R-805Nr-LTQ
人間が「科学」を発達させた能力と、「宗教・芸術」を発達させた能力はそれぞれ異なる。
科学…ロゴス
宗教・芸術…レンマ 政府は天神の手段に過ぎないものとしてしか認識されてないんじゃないの。 鷲田清一が折々のことばで今西錦司のことばを引いていたな。
やはり京都学派系統には文理の壁を超えて響き合う何かがあるんだろうな。 鷲田清一、上野千鶴子も京大文学部・文学研究科の出身者なんだから、
京都学派の一員に入れてもいいよな。https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/lib/master1973
彼らの同級生である牧野廣義(牧野広義)は、
去年の年末に『マルクスの哲学思想』という野心的な著作を発表しているが、
最近のマルクス学の論者の哲学に対する扱いの軽さに対し、
哲学の意義を強調していて元気な爺さんだと思ったよ。 京大なんて認可されてるの?京大ニセ学生の集まりより学派の方がいいさ。 京都芸術大学と京都市立芸術大学の争いはどうなるかな 造形大 やら繊維大なんてなかなか入れないところだけど。 神戸ファッション造形大も難関。東京海洋大学もいいしな。 学歴はライフワークみたいに永遠。年の差パワハラは処分処刑以後なしで。 大学独立して自分で持ってないと卒業した意味ない。三宮神戸芸人大学
京都芸者大学院あるんだけどd。 戦争と台風――堂本印象美術館で川端龍子を見る
http://realkyoto.jp/review/kawabata-ryushi_asada/
堂本印象美術館は衣笠山の麓に位置するが、かつては京都の郊外だったこの地域は
多くの日本画家が居を構え、衣笠絵描き村と呼ばれた(堂本印象美術館でも
彼らの作品を集めた展覧会が開催されたことがある)。
美術館の少し南に住んでいた山口昌哉(1925年〜1998年。山口華楊〔1899年〜1984年〕の息子で
自らもスケッチがうまかったこの数学者はカオスやフラクタルの理論を導入したことで一般にも知られている)
を訪ねたとき、昔は鹿も出没したと聞いたことがある
(それより鮮明に思い出されるのは、父の戦争画のことも意識していたのか、
京都学派の哲学者たちの戦争責任を話題にし、
「久松真一はいいんじゃないかと思うがどうか?」と問われたことだが)。
問われて浅田彰はなんて答えたんだろうな。
久松はあまり読んでないので・・といった感じだったんだろうか。それとも・・? ニクラス・ルーマンの『社会の宗教』の註に西谷啓治が登場するそうだ。
宗教哲学の波及力は侮れない。 三木清の著作はブックオフで買った『哲学入門』しか持ってないけど、
手触りがいいから『再考 三木清 現代への問いとして』(昭和堂)を買っちゃった。 インテグリティに訳語を与えられなかったんだな近代日本哲学って
中国では誠信という訳語が存在するのに integrity: 誠実、高潔、品位
という感じか。 京都学派と大東亜戦争の戦争責任を問う問題は今ホットな話題だと思うぜ? 物心二元論を克服しようとした京大系の学者としては
市川浩を挙げねばならないだろうな。
戦前の京都学派の問題意識と通底するところがあるだろうが、
政治や社会のことを論じず<身>と<心>の重なり合いに着目した点では
独自の路線を行ったと言える。
>>752
の問題意識に関係する書物と言えば、
大橋良介の『京都学派と日本海軍』だな。
PHP新書。 田辺元はマルクス主義に関心を抱いてはいたようだが、
エンゲルスの『自然弁証法』には批判的だったようだな。 中沢新一 「「レンマ学」とは何か――惑星的時代のもう一つの知性」(『現代思想2020年1月号 特集=現代思想の総展望2020』)
レンマ学の3つの区分
・現代レンマ学…今現在刷新が必要なもの(AI人工知能の時代、トポスや圏の数学に対応)
・近代レンマ学…京都学派のレンマ学(集合論の危機に対応)
・古レンマ学…レンマ学の起源 三木清や「世界史の哲学」派を戦争協力的と批判するのは容易だけれども
彼らとしては現実政治を少しでも改善する時務論として
公開・提言可能なギリギリの線で抵抗していたわけで
現代という安全地帯から彼らの戦争責任を衝くだけでは本質的批判にはならない気がする
言論場では批判することが多数派でせあり権力側なのだから
和辻の『日本精神史研究』には唯物史観的な階級制批判があるね 確かに、マイルズ・フレッチャーの『知識人とファシズム』を読んで
三木清は悪いやっちゃなあと思ったが、
仮に悪いにしてもどのように悪いのかを知るには、
本人の著作を読まないとダメだと思って『唯物史観と現代の意識』を買った。 312 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:14:17 HMC8p4F10
年貢米
http://s.kota2.net/1581307633.jpg
313 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:29:27 xAWDaQKy0
年貢ってどうしても収められない場合どうだったんだろ
いきなり討ち首じゃないよな
333 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:11:41 BcZTUhaK0
>>313
農村だと村単位で講を作って不作に備えるのが基本
334 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:14:31 CYqYGg0z0
>>313
江戸時代は農民は一方的に搾取されてたようなイメージがあるけど
一揆がおこると領主には幕府からかなり思いペナルティがあるので
実際は領主は農民に気を使っていたことが最近の研究でわかってきている
340 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 11:55:49 6/fDJzON0
>>334
しかも、幕府が「お、ここ要所になるな」と思ったら
幕府がそこの村人を扇動して一揆を起こさせて、
その土地をめしあげて天領地とした 『京都学派と日本海軍:新史料「大島メモ」をめぐって』 PHP新書 (2001)
大橋良介
京都学派の戦争協力に関する決定的かつ最重要の資料。
アジア諸国やアメリカに対する侵略的計画を練る過程が克明に記録されている。
哲学者たちがいかに世界情勢を分析し言語化するのか。
「近代の超克」、「世界史的立場と日本」座談会の背景。
60年の時を経て2000年に、著者によって発見された。
“大島の「大東亜戦争と京都学派」(『中央公論』昭和48年8月号)を再読したとき、
ある個所が気になった。「私の家には、当時のメモ・ノートがまだ保存してある」と。
そこで大島家に、そのようなメモ・ノート類がないかどうかの調査を依頼した。” 二つの座談会
『近代の超克』 河上徹太郎ほか、冨山房百科文庫23 (1943/1979)
『世界史的立場と日本』 高坂正顕ほか、中央公論社 (1943) 「近代の超克」と「世界史的立場と日本」は表向きに編集された議論。
「大島メモ」の内容はそのノーカット版といったところ。
大島メモ「〔大東亜"共栄圏"という語は〕物質的繁栄を主とした安逸(easy-going)感を与へる故、使用を避けるべきである」 無の自覚的限定
非合理なるものは考えられないというのは、そのしかる所以をあきらかにせなければならない。
考えることができないというのは、既に考えることであり、そのこと自身が矛盾でなければならない。
個物的なるものが考えられるというにも、それが考えられるという限り、なんらかの意味において一般者の自己限定として考えられねばならぬ。 『善の研究』 を聴け
https://stories.audible.com/pdp/B07RBNVDNY
善の研究
Written By: 西田 幾多郎 Narrated by: 佐田 直啓 Length: 7hrs 26mins >>764
途中に洋書の出典が挟まるのは青空文庫版か 善の研究だったら方法序説のほうがよくできてる。マルティンブーバー永遠の汝とかも上だ。敵の出現なんてもっと高度に取り交わされてる。国立系は日本はほぼ総崩れだなあ。 西田幾多郎はすっ飛ばす。詩のようでかっちょいい。
カントみたいに辛気くさくない。
不親切だが、いろいろと考えさせる。 論文は伝達こそ一義。
しかし詩は伝達は二義的なものだ。
ということは西田幾多郎の論文は哲学としては失格かもしれないが、詩的思想としては成功しているだろう。 帝大なんて第一志望じゃないところで哲学していいの? だから、冗長な帰納法的瑣末主義のハイデガーは『存在と時間』を完成することができず、かといって、その帰納法の宿命ゆえに、最初から書き直さざるを得なくなったときに、あまりにも辛気臭いその道程に目をそむけ、放棄した、ということ。 夏目漱石の明暗の未完成よりハイデカーはちょっとな。明暗は誰が書いたのかしら。 >>772
吾輩は猫である?
まああれは、ワニが死ぬしょうもない話よりはおもしろい。 話を終らせるためだけに、猫を殺す、なんて発想は愉快じゃ。 >>766
デカルト(400年前)とブッダ(2400年前)
“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』
“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 真の無の場所とは何か。
有の場所に無の場所を見るのは可能か。
先験的真理=アプリオリ。
先験的空間=一般者。
映れるものを形相とするならば、それは全く形相なき純なる質料と考うべきだろう。
これに反し、映された形相を特殊なるものとして質料と考うるならば、それは形相の形相として純なる形相とも考え得るであろう。 西田はしかし、私の思想は、善の研究の段階で定まっていたと書いている。
すべては善の研究に対する注釈を重ねていった人生ともいえる。 マールブルクがかいているように、カントにとっての総合とは、思惟と直観との総合なのだが、西田はそこを乗り越えようとしたのだが、はたしてその成果はいかに。 働くものから見るものへ
って善の研究とは全然違う雰囲気を感じたわ。
ちょっとしか読んでないけど。 >>780
『働くものから見るものへ』から西田は無の場所論を繰り広げるようになるからね。
相対的な、つまり有に対する無、だけではない、真の無の場所。
こういうのってカントにはない発想。 目的的統一としての自己の根底は流れ去るものではない、何時でも働いているのである。
元来意識統一というのは目的的統一を意味するのである。
而して目的的統一には何時でも現実を越えて志向するものがなければならぬ。
現われただけにて全いものとすれば、それはもはや目的を有ったものではない、目的的統一は何時でも無限の根底に結合していなければならぬ、自己というのは此の如き無限の流への結合点に過ぎない。
「直接に与えられるもの」西田幾多郎 いいこというねえ西田
無限となるとレヴィナスが想起されるね。読んだことないけどw いいんじゃないかな。
>>783
レヴィナスの『全体性と無限』も出たし。まあ彼の無限は多分に倫理的過ぎるけども。 「疑いに耐えられない者は、自分に耐えられない。そのような人は
心許なく、成長しないので、生きてすらいない。疑いは、最高の
強者と最低の弱者のしるしである。強者は疑いを持っているが、
疑いは弱者を支配している。それゆえ最低の弱者は最高の強者に
近い状態にあり、自分の疑いについて『私はお前を支配している』
と言うことができれば、最高の強者なのである。しかし果てしない
カオスに耐えるのでなければ、誰ひとり自分の疑いを肯定できない。
われわれの間には全てを言うことのできる人がこんなにも多いの
だから、彼らがどのように生きているかを見なさい。そのうちの
一人が言うことは、極めて多いこともあれば、極めてわずかである
こともある。それゆえその人の生を探求しなさい。
私の語りは明るくも暗くもない。なぜならば、それは成長する
者の語りであるから。」C.G.ユング、『赤の書』、p.420 >>760
入手困難で¥2,400とかになってる。
この本が普通に手に取って読めないのはおかしいな。
これを読まないと、侵略戦争ということの本当の意味が分からないから。
Kindle版はあるらしいけど。 『哲学の根本問題・数理の歴史主義展開:田辺元哲学選3』 岩波文庫 (2010)
田辺元、藤田正勝 編
京都学派の哲学とも関わりの深い数学基礎論がまとめて読める。
・ヒルベルトの公理主義
・デデキント切断
・カント―ルの集合論
・マルクスの理論。唯物弁証法の限界
ほか 梅本克己は分らぬものを基にして分かるものを攻撃する事を観念的態度と言った。
オカルトとかスピリチュアルとかなんかも実は観念論の分枝なのかもしれない。
ただ、霊魂なんかを真面目に考える事自体は学的態度と言えるだろうし、
宗教哲学の領域に当たるだろう。 俘虜記が有名だけど、専門はイタリア・ルネサンスだったのね。 西哲の主客二元論の思考はマズいんだろうか?
端的に言ってなぜだめなんだろうか 不味いとする考え方は
主体があるものを対象と見なし、客体化することは
それをほしいままにして蹂躙することにつながりかねないからダメだ
というものだと思う。 入門書には、他者とわかり合えない、紛争に繋がりやすいとか戦争云々みたいな説明があったが、
そういうことなのかね?突き詰めていくと
いまいち論理の繋がりが分からない 誰か人を他者と見なしてしまうと、その人を理解できない、その人と仲間になれない、
挙げ句の果てにはその人と対立する、
そういう感じの論理がその入門書には込められているのでは。 そういう理解で読んでいけばいいわけか
そうするとさ、主客未分を目指した京都学派はなぜに帝国海軍と裏で繋がったのか、よくわかんなくなるんだよ 主客の区別は存在してるのにそれをないもの扱いするような思想の方がやべーよ
他人の家いって勝手に飯とか食い出しそう 海軍将校は海軍兵学校という学力エリートの出身者で構成され、
なおかつ海の向こうへ行こうとしたり海外のものを学ぼうとする進取の精神を持った者
の集団であったが、必ずしも陸軍より上だとはみなされず、
同じく京大の哲学科という学力エリートの集団でありながら(西田幾多郎は東大選科出身だから事情は違うが)、
東京帝国大学よりも権威的な意味での序列が上だとはみなされていなかった
者達同士あい惹かれ合う部分があったのではないかといううがった見方を俺は取る。 >>798
かつての長屋暮らしとか近所同士食物を融通し合ってたんじゃないか。 >>800
むしろそういう生活だからこそ礼儀が必要だったんだな >>801
交流する中で繋がり、互いに慣習を共有したりしていただろうね。 カント研究で有名な高坂正顕の息子に国際政治学者の高坂正堯がいるけれども、
政治家の前原誠司が京大の高坂ゼミに入った理由が、
高坂正顕が訳した版かもしれないカントの『永遠平和のために』と、
高坂正堯が著した『国際政治』を読み比べて後者の方が現実的でいいというものだったのは
京都学派、京大人脈がいかに複雑かを表している皮肉なエピソードだと思う。 「日本、中国と戦争すんのか?」
「おー、やれやれ!」
「中国なんて潰しちまえ!」
「アメリカも応援するぜ。」
「ドイツも日本の味方だ。」
「もちろんイタリアも日本の味方だ。」
「黙れ!イタ公」
「失せろ!パスタ野郎」
「帰れ!裏切り者」 真面目な疑問なのですが、オーガズムって純粋経験に当たると思いますか? オーガズムは純粋な主体的経験にしてその絶頂だから、
純粋経験とは正反対の方向になるのでは。
その主体性をゼロに近づけていった時、客体に近づき主客未分となる。 >>808
難しいですね…
純粋経験の例として挙げられる、音楽に聴き入ったり画家が絵を描くのに没頭する
といった忘我的状態とオーガズムは近いと思ったのですが あらゆることが純粋経験でしょ
しかしそれを意識した時点でそこから離れている 純粋経験は所与(他から与えられること。また、そのもの。思考の働きに先立ち、意識や感覚に直接与えられている内容)。
オーガズムは経験に対する事後的な反応だから、まずそこが違う。
忘我(脱我、エクスタシー)もekstasisは「外に立つこと」で、魂が肉体の外に出るイメージだから、没頭の方が近いかな。
人間主体の内面において、精神的・肉体的な判断を挟まず、直接、経験と向き合うというような感じ。
もっと言うと、「音楽を鑑賞する」というより、対象が交響曲であれ、トイレの水音であれ「音として聴取する」といった具合。
そこから、没頭や聴取という態度も消す。 主客未分なんて言語を使わないようにすればなる
あとは○○としての自分になればなれる
本を読んでいて物語の主人公としての自分になるのも
一種の主客未分 コンピュータのことは良く知らないんだが、クラウドやフォグという
言葉が良く使われるようになったのや、最近のメディア学で、情報の
収集の経路が非常に複雑化して、都市のambient大きな意味の雰囲気の
中で生活することで情報を得ているという、主体性に囚われない考え方
が北米で力を増しつつあるという話を聞いたような。
主体性よりも多様性や無作為性に注目すべきということか。
オーガズムって純粋な主体的経験かね?
「逝かされる」とか聞くがw 主客未分→両是→両非→主客分離
主客分離→両非→両是→主客未分 フランス語の翻訳ってフランス語の規範に合うようにどんどん勝手に書き換えるから、
フランス語の勉強にはなっても、原文で著者がどう表現したのかさっぱり不明になる。その点、ドイツ語では、ドイツ語として許容される表現の柔軟性が高いから、
忠実に訳そうとしている場合、構文に相当に無理を強いてでも忠実に訳している。 つまり、フランス語訳は、フランス語の文としてはとても分かりやすくなるが、
原文からであれば読み取ることができたであろう意図がきれいさっぱり消されてしまう。
ドイツ語訳は、分かりにくいと感じる部分を確認してみると、そこで表現に無理が生じていることに気づかされる。 スレチの書き込みしてるやつに
意図が伝わらないとか言われたくないよな
ここに書き込みことに無理がある 九鬼周造は、日本語を哲学の対象にしているが、その表現のスタイルはフランス語的だ。
ドイツ語的に日本語にアプローチしたなら、あのような語りにはならなかっただろう。 ガブリエルあたりになると、その語りは、ドイツ語的ですらなく、グロービッシュ哲学だろう。 三木清については津田雅夫の研究書を読むだけで済ましておいていいか
と思っていたが、研究所の内容が面白いので、三木清全集を2冊買ってしまった。 高坂正顕の『カント』をまだ読んでいる途中だが、
やっぱり彼の文章は名文だと思う。 弁証法に関して、
三浦つとむの本やマルクススレッドで教示してもらったおかげで、
『日本哲学史』の田辺元の章の前で立ち往生していたのが、
なんとか前に進めるようになった。 昭和堂は京都学派哲学と農業の両方を出版しているから凄い。 氣多雅子さんの西田幾多郎本は、西田の生涯を圧縮して述べているのがいい。 藤田正勝の日本哲学史を読み進めたお蔭か、
立ち往生していた田辺元の『種の論理』を読み進めることができた。 『未来哲学:創刊号 特集・未来哲学とは何か』 未来哲学研究所 (2020/11/25)
末木文美士、山内志朗、中島隆博
思想の冬の時代に、あえて船出する思想誌です。希望を語ろうとするのではありません。
そのこと自体が主題となるほどに困難であるからこその挑戦──手がかりは、非西欧の思想圏への、あらためての着目です。
イスラーム、東アジア、ロシアその他の地域の見えなくされた可能性を掘り起こし、思想の風景を描き直すカギを探します。
希望とは何か、終末とは何か。一つの大きなサイクルが巡り終えたかのような、薄暮に閉ざされた時節を超えるために。
特集・未来哲学とは何か
前近代・ポストモダン・超近代、あらためて一つの時代区分ではない、思想の、生き方の「近代」を問う。
創刊の言葉 〈哲学〉は〈未来〉に船出できるか? 末木文美士
特集 未来哲学とは何か
1 通底する存在と情念──中世から未来を問うために 山内志朗
2 未来哲学としての東洋哲学 永井 晋
3 来者を思う──哲学の希望 中島隆博
対話 時間軸上の希望とフロンティア──世界哲学と未来哲学
中島隆博・納富信留
コラム 太古の化石林、未来の生態系 辻誠一郎
『バビロン天文日誌』と未来予知学 三津間康幸
二〇世紀の天動説──ロシア宇宙主義のヴィジョン 細川瑠璃
論考 仏教認識論の射程──未来原因説と逆向き因果 護山真也
存在と本質──中世的なるもの 小村優太
AI・仏性・倫理 師 茂樹
モノたちが互いに区別されて存在している世界 法貴 遊
──アシュアリー学派の行為論と偶因論──
革命・国家・悪──田辺元の実践哲学 田島樹里奈
書評と対話 思想史を書く枠組みをめぐって 葛兆光+末木文美士 『全体主義の克服』 集英社新書 (2020/8/17)
マルクス・ガブリエル、中島隆博
中島
“彼(九鬼周造)はシェリング、とくに後期シェリングの著作をよく読んでいました。
そして、シェリングの原偶然性を「原始偶然」と訳した上で、
「驚きの情と偶然性」(1939年)というとても美しい論文を書きました。”
ガブリエル
“わたしは京都で彼のお墓に行ったんです。でも、そのテキストのことは知りませんでした。
それは日本語を学ぶ十分な理由になりますね。” 『日本回帰と文化人 昭和戦前の理想と悲劇』長山靖生(筑摩書房)は
昭和戦前と言いながら岡倉天心、和辻哲郎、阿部次郎、西田幾多郎ら京都学派の
日本論や日本美学と戦争の関係を論じているね。あと文学者のことも 藤田省三著作集第2巻の『転向の思想史的研究』をアマゾンで購入したが、
編者が解題したことしかわからない。一体誰が解題したんや〜〜! ていうか藤田省三が亡くなる5年も6年も前に著作集が出るなんて、
みすず書房は何て用意がいいんだと思う。 戦後日本の教育哲学に関心があれば
高坂正顕、高山岩男、務台理作は外せないな。 自己実現へと溶け込み すべて とひとつになる経験、それは決して、死ぬまで待たなくていい、と理解しろ。
そういうサンマーク出版社的発想の元祖。
つまり悟りとして心得ているひとが多かったのだ、京都学派は。 ゆとりせだい、さとりせだいの読解力のなさからすると、デカルトすら読めてないのだよ?
西田幾多郎を読んだつもりになってるしょんべんくさいおこちゃまが多いのに、このスレが活況になるとおもうか? 今はもう無理だけど、数年前に、
西田幾多郎や西谷啓治を読んで気分がハイになる体験をした。
その是非はともかく、貴重な経験だったと思う。 宗教と縁がない者は、京都学派の人々のテクストを読むことで、
宗教に馴染みができるかもしれない。 学術的にも世間的にも京都学派ルネッサンスが来ているのだろうか。 >>833
の「革命・国家・悪──田辺元の実践哲学」は、
小泉義之が『思想』に載せた田辺元のコミュニズムを意識しているんだろうな。 実際、法政大学の電子ジャーナルには小泉論文への言及があるくらいだし。 それにしてもこぶし書房の京都学派への入れ込み具合はすごいと思う。
全集まで出してしまうのだから。 苅部直が和辻哲郎の倫理学に手を出したんだから、
逆に京都大学系の学者も東大の丸山眞男とかの筋の学者の仕事に手を出してもいいと思うんだが、
自分の大学の関係の人の仕事に関することで手一杯なのかな。 西田は脳障碍によりたまたま記憶力が特化しただけの 発達障碍・統失。
だから、書くもの全てが、難文、悪文の 統失文。
それを 取り巻きの 発達障碍統失が 哲学 と名付けただけで。
実際に西田は、悟りとは●● と言及できていない。 シンガポール出身で日本在住のホー・ツェ・二ェンという人が京都学派関連のインスタレーションを
去年4月山口県で10月に京都でやったらしいけど。相当?評判になったので色んなとこに展覧会評が出てる。
1941年の座談会がインスタレーションで取り上げられたようだが、同じアジア人から見ても、座談会の形式
は興味深いんだろうが、どうやら彼は日本的座談会を誤解してるのか?それが微笑ましくも興味深い。これは
日本人からしてもショックなはずなんだが、これが彼が日本人の観客に訴えかけたことなんだろう。日本的座
談会こそが日本的特異性と彼の眼には映ったんだろう。さらに卓の上にはお銚子と盃だけである。
ホー・ツェ・二ェンHo Tzu Nyen スガのエッセイを読むために群像3月号を買ったが、同号掲載の中編小説「ケチル貴方」では、新入社員の教育係を担当させられた語り手女性が、普段、自分の仕事ノウハウを他人に教えずに今まで来たことを反省する話なんだが、哲学板もそういうケチで自分の考えやアイデアを出し惜しみする輩が多いようだ。 だって、自分の考えを披露したとしても、それが対象を理解できてないものだったら
はずかしいもん。どうしても成長するためにはそういう過程は必要だが、
あれこれ書き出したら5連投6連投になって掲示板を汚しちゃうからさ。 >>865
京都学派を研究してる専門家もここに来てると思うんだけど。 >>866
一応何回かは京都学派や日本哲学・思想について書いたつもりだけどね。
読書記録ぐらいにしかなってないけど。
近年のそういう事柄についての本で結構個性があると思うのはこの洋書だな。
https://brill.com/view/title/32650?language=en#:~:text=Confronting%20Capital%20and%20Empire%20inquires%20into%20the%20relationship,rethinking%20Kyoto%20School%20philosophy%20in%20relation%20to%20history.
やっぱり左翼の革新性は京都学派の岩盤も貫く感じはある。
ただ、道元とハイデガーを比べることをだしにして
ネグリとかを擁護するのは微妙w 日文研や阪大一橋東大に所蔵されているのに、
なぜか京大の図書館には所蔵されていない。
置いといたほうがいいと思うんだけど。
https://ci.nii.ac.jp/ncid/BB24240746 西田はもちろん、梯明秀の研究も上の洋書には収められている。 日本独自の進化を遂げたマルクス経済学の創始者、
宇野弘蔵も哲学者扱いされているっぽいな。 >>867
この本の1ページ目の「Of course, the category of philosophy is not neutral and universities in various parts of Asia have made different uses of it. For example, in China, the activity of thinkers from Confucius, Zhu Xi, and Ogyū Sōrai to Nishida Kitarō and Karatani Kōjin is characterized as philoso-phy (zhexue).」wwww あまり深く考えず読み飛ばしていたわ。
何で面白いん? >>861
西田の悟りは>>354-355。
西田は数学者になるよう薦められていた様な人だから、少し難しい。 >>863
これか
ホー・ツーニェン
「ヴォイス・オブ・ヴォイド?虚無の声」(YCAMとのコラボレーション)
https://kyoto-ex.jp/shows/2021a_ho-tzu-nyen/ >>871
東洋の思想が、西洋の哲学(philosophy)と一致するかというのは、よくある話。
>>331の
> 『「東アジアに哲学はない」のか――京都学派と新儒家』(2014)
>>332の
> 「わが日本、古(いにしえ)より今にいたるまで哲学なし」(中江兆民「一年有半」) >>331
ヘーゲルの孔子批判
“これは道徳哲学である。〈略〉
孔子は単に実践的賢者にすぎず、彼には思弁哲学は影も形もない。
我々が彼の諸々の原典を見て言いうることは、それらが訳されなかった方が、
彼の名声のためによかっただろうということである。”
― ヘーゲル 『哲学史序論』 岩波文庫 (1967) p20 評価の高いライプニッツの中国学
“中国は大帝国です。耕地面積ではヨーロッパに等しく、
人口の多さと秩序ある政治機構においてはヨーロッパをしのいでいます。
そのうえ中国には哲学説、いやむしろ自然神学の教説といっていいものに裏うちされた、
多くの点で賞賛に値する公共道徳が存在しています。
そしてこの哲学説は3000年まえに確率され、その後ずっと正当化され続けてきたという点で驚嘆すべき古さももっており、
聖書を除けば最古ということができ、古いといわれるギリシア哲学よりも遥かまえに成立しているのです。
それゆえ、中国人にくらべてずっと後から歴史の舞台にあらわれ、
まだ野蛮の域を脱していないわれわれヨーロッパ人が、中国のそうした古い哲学を、
ちょっと見にはヨーロッパのスコラ哲学の概念に一致しないように見えるからといった理由で
断罪するのはきわめて愚かなことであり、厚かましいことなのです。”
― 『ライプニッツ著作集 10 中国学・地質学・普遍学』 下村寅太郎ほか 監修、工作舎 (1991) p20 経済とか哲学の根源について考えるうちに、
関曠野の『プラトンと資本主義』を読んだ結果、
西洋は古代において貧乏だったがその逆境を跳ね返すうちに
現代の資本主義を謳歌するに至ったということに尽きる気がした。 philosophyから「哲学」という訳語を創ったのはが西周(にしあまね)>>5で、
中国でも朝鮮でも使われてきた。 朝鮮哲学スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1615604444/
『朝鮮思想全史』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2017)
『人物でみる韓国哲学の系譜:新羅仏教から李朝実学まで』 金教斌、金明順 訳、日本評論社 (2008)
『韓国学のすべて』 古田博司、小倉紀蔵 編、新書館 (2002)
『現代思想 2018年8月号 特集=朝鮮半島のリアル』 青土社 (2018)
『朝鮮儒教の二千年』 姜在彦、講談社学術文庫 (2012)
『朝鮮儒学の巨匠たち』 韓亨祚、春風社 (2016)
『朝鮮儒教の特質と現代韓国:李退溪・李栗谷から朴正煕まで』 邊英浩、クレイン (2010)
『朝鮮仏教史』 鎌田茂雄、講談社学術文庫 (2020)
『入門 朱子学と陽明学』 小倉紀蔵、ちくま新書 (2012) ※補足用
『ソウルで考えたこと:韓国の現代思想をめぐって』 尹健次、平凡社 (2003)
『韓国の西洋思想受容史:哲学的オーケストラの実現のために』 李光来、御茶の水書房 (2010)
『韓国近代哲学の成立と展開:近代、理性、主体概念を中心に』 姜栄安、世界書院 (2005)
『philosophyから「哲+學」へ』 許智香、図書出版文理閣 (2019)
『完本 高橋亨京城帝國大學講義ノート:朝鮮儒學史編』 高橋亨、三人社 (2021)
『完本 高橋亨京城帝國大學講義ノート:朝鮮思想史編』 高橋亨、三人社 (2021)
https://i.imgur.com/qah5DDc.jpg
“栗谷は天才の評判が高い。『栗谷全集』巻頭にある坡州「花石亭」の詩を、〈略〉
小説でもあるまいに、一度に十五行しか読めないと謙遜(?)するのだ。”
― 韓亨祚 『朝鮮儒学の巨匠たち』 古代ギリシアが本当に経済的にやばかった時期に、
哲学も資本主義も現れたってのが大きいんだと思うよ。 ・ギリシャ哲学の祖:タレス(前624年頃-前546年頃)
・インド哲学の祖:ヤージュニャバルキヤ(前750年頃〜前700年頃)
デリダが取り組んだ「否定神学」というのは西洋の神学用語だが、
世界レベルでその最も古い例に挙げられるのは、ヤージュニャバルキヤによる
「そうではない、そうではない(neti-neti ネティ・ネティ)」(「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」2:3:6)という表現。*
ヤージュニャバルキヤはヨーガ哲学の祖と呼ばれるが、こうした身体知を哲学に組み入れると、
古代ギリシャのいかなる哲学者よりも古くなる。
こういうのがデリダ以降問われていること。
* 『ウパニシャッド:翻訳および解説』 湯田豊 訳、大東出版社 (2000) p46 >>883
ジャック・デリダ 『名を救う:否定神学をめぐる複数の声』 小林康夫 訳、未来社 (2005)
で扱われている否定神学の例(広義のものも含める)
・アンゲルス・シレジウス(1624-1677)
・ニコラウス・クザーヌス(1401-1464)
・マイスター・エックハルト(1260-1328)
・ディオニュシオス・アレオパギテス(5-6世紀頃)
・アウグスティヌス(354-430)
・プロティノス(205-270) >>867
の本がおかしいなと思うのは、梅本克己の章で主体性論争への言及がないところなんだよな。
岩佐茂がだいぶ前に主体性論争に関してまとめた著作を出しているんだが、載っていない。 京大でヘーゲル哲学を修めた鰺坂真がなくなっても話題にならないあたり、
日本共産党支持者も日本共産党を嫌悪する者もこのスレには書き込んでいないようだな。 >>875
これが面白かった。
https://bijutsutecho.com/magazine/review/24195
当然ながら?座談会には正面性は存在しないが、ho tzu nienの座談会には完全な正面性や
中途半端な正面性がある。しかも、日本の対談には概して引用など第三者の存在の要素が
濃いが、その引用も同国人か同国の同時代人であることが多い。
3人以上の座談会でほぼ必ず、洒落(駄洒落が多い)の要素が入って来る。
以上のような座談の文化は欧米人は無論、日本以外のアジア人には理解しにくいのではな
いか。
デカメロンやカンタベリー物語のような集団で代わる代わる話をする場合でも、それぞれ
の語りの間に連絡は一切ない。 >>877訂正
×ヘーゲル 『哲学史序論』 岩波文庫 (1967) p20
〇ヘーゲル 『哲学史序論』 岩波文庫 (1967) p212-213 >>591-592
西田も遺稿で言及していた。
キリストのケノーシスについて論じているもの
・『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス、昭和堂 (2005)
├「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
└「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス
・デリダ 『名を救う:否定神学をめぐる複数の声』 ポイエーシス叢書 (2005)
・レヴィナス 『超越と知解可能性』 彩流社 (1996)
・ドゥルーズ 『ニーチェと哲学』 国文社 (1984)(同等の問題)
・西田幾多郎 「場所的論理と宗教的世界観」 (1945)(西田の遺稿) >>890は以下の本で言及されていたけど、もっと取り上げられてもいいと思う。
『西田幾多郎と双面性 (東洋哲学序説)』 西平直、ぷねうま舎 (2021)
西田の遺稿は終戦の直前だし、西田の「絶対矛盾的自己同一」とも一致する。
英訳
Nishida Kitaro, Last Writings: Nothingness and the Religious Worldview, David A. Dilworth, Univ of Hawaii Pr, 1987 純哲の最高峰はハイデッゲルから分析哲学系に移るのか?
それとも? ロシアのウクライナ侵略も最初は戦争じゃなくて事変扱いだったな
おりしも『三木清戦間期時事論集』(中公文庫)がは戦争に巻き込まれていく
知識人の思考をあらわにしている。ちょっと痛々しい 俺が三木清の著作を初めて読んだのは、
ジュンク堂での東亜協同体の本が最初。
太平洋戦争肯定の論調で、物凄く気持ち悪かった。 でも『歴史哲学』は読破した。
渡邊二郎の『歴史の哲学』で紹介されていたから。
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