【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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しかし最近のトレンドとしては、
「無」よりも「空」の方が重要視される傾向にある。 >>260
> 戦前の思想の反省
> 戦前の思想 → 近代の超克 → 京都学派 → 西田哲学 → 無(絶対無)とは何か?
とみてきたが、最後の「無(絶対無)」については
既にポールシフトが起きている。
戦前
・西田の絶対無
↓
戦後
・井筒の東洋的無
↓
現在
・大乗仏教 → 原始仏教 → 仏教3.0(無 → 空へ)
・メイヤスーや千葉の偶然性(≒無、此性のある無、シェリング)
東洋哲学の前提が変わりつつある。 空といえば和辻。
だが、和辻倫理学体系における「空」の重みに対抗しようとしているのが、
苅部直だ。ちくま学芸文庫から、『初稿 倫理学』というのを出している。 >>546
その発言は>>337ね。
>>354-359などは斬新な禅哲学。 例えば、西田→井筒→中沢とすると分かりやすい。
>>515では、アジアと環太平洋を分けているし、
人類学の射程を考えると、東洋という言葉ですら手狭になった。
東洋や無ということに、こだわり過ぎる必要はないのかもしれない。 >>550
でも西田は禅なんていってほしくなかったはずだけど >>556
>>337には「無識の徒が私を禅などと云ふ場合」とあるでしょ 無識な徒=私を禅などと云う
私を禅などと云う=無識の徒 >>552
西田(1870-1945)
・宗教哲学、数学、科学
・東洋
↓
井筒(1914-1993)
・宗教哲学、言語哲学
・精神的東洋(東洋+ギリシャ+イベリア半島)
↓
中沢(1950-)
・宗教哲学、人類学
・アジア+環太平洋 西田と井筒の間の世代にあたる人達。
宗教哲学を中心とした、西洋と東洋の比較思想を扱うが、今日的で読みやすい。
・柳宗悦 『柳宗悦宗教選集』
・波多野精一 『宗教哲学序論・宗教哲学』
・田辺元 『仏教と西欧哲学』
・久松真一 『東洋的無』
・九鬼周造 『偶然性の問題』
・清沢満之 『清沢満之全集』 『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)
序 章 井筒「東洋」哲学
「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
a)表層から深層へ
コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
b)深層から表層へ
理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
c)大地と理性――ロシア的人間
ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
a)「空」の徹底
理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
b)空と無
『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
c)砂漠と死――ジャック・デリダ
ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
b)〈いま・ここで=現に〉
「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
c)「入てん垂手」
聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体 >>549
確かにその本にある様な話。
・無と虚無主義(ニヒリズム)の違い
・仏教の空は哲学に生かせるか
この種の議論は、他にも沢山ある。 >>97の
・『「無と空」をめぐって』 上田閑照
・『「空」と「無」の間―仏教思想史の視点から』 木村清孝 実際、空については仏教をやることになるが、
無については、色々なもと関わりがある。
・哲学
・宗教
・心理学
・数学、物理
・唯物論 (1)仏教と空
・『ブッダのことば ―スッタニパータ』 ブッダ、中村元訳 (1958)
“つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界を空なりと観ぜよ”〔第1119偈〕
(2)解説書
・『仏教の思想 3 空の論理 <中観>』 梶山雄一、上山春平 (1997)
・『龍樹』 中村元 (1994)
・『中村元選集 22 空の論理 大乗仏教』 中村元 (1994)
(3)更にその先(空以前、ポスト空)
・『〈仏教3.0〉を哲学する 』 藤田一照、永井均、山下良道 (2016) 西田が禅に嵌まっていたのは40歳くらいまで
それ以降は禅から距離を取り始めていく >>571の龍樹には「空亦復空(くうやくぶくう)」という言葉がある。
これは「空という真理に達したら、そのこと自体もまた空ぜられねばならない(空に執着しない)」というもの。 空を絶対視したり空で終わったりするのは駄目なんだな。 十牛図(牛=仏性を探す図)
https://www.jisyameguri.com/books/jyugyuzu/
(1)尋牛 - 仏性の象徴である牛を見つけようと発心したが、牛は見つからないという状況。
(2)見跡 - 経や教えによって仏性を求めようとするが、分別の世界からはまだ逃れられない。
(3)見牛 - 行においてその牛を身上に実地に見た境位。
(4)得牛 - 牛を捉まえたとしても、それを飼いならすのは難しく、時には姿をくらます。
(5)牧牛 - 本性を得たならばそこから真実の世界が広がるので、捉まえた牛を放さぬように押さえておくことが必要。
(6)騎牛帰家 - 心の平安が得られれば、牛飼いと牛は一体となり、牛を御する必要もない。
(7)忘牛存人 - 家に戻ってくれば、牛を捉まえてきたことを忘れ、牛も忘れる。
(8)人牛倶忘 - 牛を捉まえようとした理由を忘れ、捉まえた牛を忘れ、捉まえたことも忘れる。忘れるということもなくなる世界。
(9)返本還源 - 何もない清浄無垢の世界からは、ありのままの世界が目に入る。
(10)入鄽垂手 - 悟りを開いたとしても、そこに止まっていては無益。再び世俗の世界に入り、人々に安らぎを与え、悟りへ導く必要がある。 純粋経験と自然科学
“現代の哲学に於て客観主義として最も徹底したものはベルグソンの哲学であらう。
直接に与えられたる純粋経験が唯一の実在であって自然科学的世界の如きは
却ってコンベンショナルのものにすぎない。”
― 『西田幾多郎全集12』 「第五講 新カント学派」 (2004) p46 “弁証法とは何処までも具体的な思惟でなければならない”
“自己が物の世界に入り、物そのものとなって考へることである。”
“対象認識の科学といふものは具体的実在から推論式的に媒介せられると云ひ得るかも知らぬが、
哲学は具体的実在そのものの自己媒介から成立する学でなければならない。”
― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p223-224 “経済現象といふものを、分析したものの綜合として考へるのでなく、
生きた全体の過程として見るのである。”
― 『西田幾多郎全集8』 「行為的直観」 (2003) p238 “私の行為的直観とは科学的実験といふことである。
物理学の如きものでも単に抽象論理からではなく、
自己に世界が映されることから始まる、表出即表現から始まる。
そこでは世界の生産様式は唯記号的に表現せられる、即ち数学的である。”
― 『西田幾多郎全集8』 「絶対矛盾的自己同一」 (2003) p388 “数学は人間の工夫であるが、自然と数学との間に偶然ならざる対応がある。
測定を正確にすればするほど、自然は数学的言表に近づく。
その為、人は抽象的な数学の原理が自然の中に働く如く想像もした。
併しそれは測定の程度の低かつた時のことであって、今日は最早さうではない。
測定の過程を如何に精密にしても、無限にユークリッド幾何学に近づくことはできない。”
― 『西田幾多郎全集8』 「経験科学」 (2003) p432 >>576
ハイデガーは十牛図を見てシレジウスと重ねたという。
シレジウス(1624-1677)は、デリダが否定神学として取り上げもした人。(デリダ『名を救う』) “神は純粋な無である。いついかなるところでも神に触れることはできない。(25)”
“霊妙の神性は無であり、無を超えている。一切のものの中に無を見る人がこの神性を見出す。(111)”
“神は無であり、すべてである。(197)”
― アンゲルス・シレジウス 『シレジウス瞑想詩集 上下』 (1992) エックハルト(1260-1328)は、何を無としたのだったか。 “パウロは地から起き上がって、眼を開けたが、何も見えなかった(使徒言行録 9:8)”
“パウロが地から立ち上がったとき、彼は眼を開けたが何も見えなかった。
すなわち、開けた眼で無を見た。そして、この無は神であった。
神を見たとき、それをパウロは一つの無(ein niht)と呼んだ”
― マイスター・エックハルト 「無である神を捉えること」 『ドイツ神秘主義叢書2』 (2006) >>588
エックハルトにはラテン語とドイツ語の文献があるが、決定的なのは後者。
この叢書は、西谷、上田らの編集で、巻末に詳しい解説もある。 キリストの「ケノーシス kenosis(自己無化、自己卑下)」
“キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、
かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。”
― 「フィリピ」 2:6-7
ἐκένωσεν(ekenōsen)
の英訳はemptiedで、「空」とも訳される。 >>591
『世界のなかの日本の哲学』 藤田正勝、ブレット・デービス (2005)所収の
・「自己を空ずる神と動的な空」 阿部正雄
・「神はどこまで自己を空ずるか −阿部正雄のケノーシス論をめぐる議論」 ブレット・デービス
が、キリストのケノーシスと仏教の空を比較していて詳しい。 藤田正勝とか氣多雅子が朝日カルチャーとかで講座持ったりしないのかなあ。
どこの大学でも教えてない感じだし。 >>594
氣多さんはおそらく私大からお呼びがあっただろうけど、断ったんだろうね
健康上の理由か、家庭の事情か、研究への専念か いままで6回ぐらい挑戦したにもかかわらず目も通せずにいた
田辺元の『種の論理』の「社会存在の論理」が
漸く一節読めた。 戸坂潤の田辺批判を読むためにも田辺本を読まないとなあ。
難しいから、いつの日になるやらw 確かに、「東大がなぜ丸山学派にいるんだよ。」とは言われないな。
学派内の対立はあるにせよ、
学派が語られるときにその凝集性が先に来る傾向はあるかもしれんね。 勉強してる人にはスキが多いから、かじりついたら礼儀に反するだろうね。
丸山というと皆が会いたいわけじゃないんじゃないの。つまり皆に会いたいとか。
俺は社会がひずんでて、一人に負担をかけるしかなかったんだよ。 学派というとアマチュア集団だから、恥ずかしい思いがすると思う。
無頼派のウイスキーを遺産にした遣る方が。 群れているように見えて無頼派なのが京大系の人
群れていないように見えて無頼派ではないのが東大系の人
というイメージがある。 ウイスキーの銘柄の方が学派より燃料入っていく感じしていいのにね。
東大 京大 並べても勝てそうにねえよ。 ウイスキーのブランドにはかなわないけど、
大学ブランドの飲食物が増えたよね。
京都学派っていう銘柄の日本酒でも考えるならば、
西田幾多郎、西谷啓治、高坂正顕、高山岩男のような裏日本産の米と水に、
京都の米麹でも加えればいい感じ。 >>610
日本海側の酒は美味いぞ
手取川とか勝駒とか 高坂正顕の『カント』もいい感じだが、
下村寅太郎のライプニッツ研究もよさげだな。 自分が浅学非才なのもあるが、
京都の晃洋書房が出している哲学書概説シリーズは、
極端な話、天牛書店とかで580円位で売っている同社の研究書よりもよっぽど骨があって、
概説書というよりもむしろ文字通り哲学書という感じさえする。
有福孝岳の『カント『純粋理性批判』』とか氣多雅子の『西田幾多郎『善の研究』』を
ちょっと読んだだけではあるが。 あのシリーズ、地味に良いんだよね
もっと続いてほしい https://kanji.sljfaq.org/drawj.html
手書き漢字認識のサイトいいよね。
今日は恋の旧字体と無聊(ぶりょう)の読み方と意味を知れてよかった。 【きちょほん】高知県立大学で蔵書3万8000冊焼却。貴重な郷土本、絶版本多数★3
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1534502089/l50
新聞記事にあった焼却リスト
https://i.imgur.com/Jca4yrX.jpg
↑
戸坂潤全集が複本を残して焼却されたらしいな。
京大図書館の蔵書検索すると文学部に所蔵されてるのが借りられててすごいと思ったわ。
複本がありまくりなのにもびっくらこいたわ。 哲学の道いった?どこから歩いて行ったか忘れたけど。それまた道となるはず。ないか。あるか。 >>619
に関して。
京大の元総長で今は京都造形芸術大学学長の尾池和夫が理事にいるとは
思わなんだ。
https://www.kppuc.ac.jp/about/officer.html まあ、高知出身の名士というのもあるかもしれないが。 氣多雅子『西田幾多郎『善の研究』』(晃洋書房、2011年)をようやく読み終えた。長かった。
西田のほかの著作の知識は必ずしも前提とされてはいない。
むしろ、ジェイムズや西谷啓治の著作の知識が必要かな。
他にはデカルトの『方法序説』やフッサールの『内的時間意識の現象学』が引用されていて、
それらの本を事前に読んでいてよかったと思う。 哲学は初体験ずくから、アバスレ経験論まで。いろいろだね。ヒュームもなかなか。 東京無頼派。所詮学派に過ぎないよ。京都の帝ラン。
一流〜三龍亭ランク目指してね。 それと、カントの『人倫の形而上学』における人格概念を引き合いに出して
西田の『善の研究』における人格概念に対して批判を行うのはかなり手厳しかった。 >>631
お、そんな箇所あったっけ
以前読んだことあるけど、全く覚えてないから読み返してみるか 梅本克己や梯明秀って疎外論の革マル哲学のイメージがあるけど
それぞれ和辻哲郎、西田幾多郎の弟子だから
日本哲学の枠内にぎりぎり入るっちゃ入るんだよな。 時代遅れなんだよな。禅の研究。同じパターンであって敵とも遭遇しない変な本。
治安がいいのもなあ。 段階をへて神に到達するんじゃなくて、いつでも受けがないとな。 変な経路から男だまりでヘンな神でも見たんじゃないのか? マルティンブーバー 我と 汝 の方がよくできてるわ。 ダサいお話だけど、概算、差し抜きして、そっちの方が読みごたえあるよ。
現代ではもっと哲学構造は複雑だがね。 最終到達点に何かがいるなんて、人生のまだ過程を踏んでいる人の方が
レアキャラ出てるし。 西田は『善の研究』で完結したわけじゃなくて
『働くものから見るものへ』とかもあるからなあ。 大学教授を退職したら今は名誉教授だけど、
昔はそんなものあったんだっけ。
今に比べたら博士様は少なくて貴重な存在だったからか、
『働くものから見るものへ』の背表紙には
文学博士 西田幾多郎著とある。 自己なんてナルシストな哲学どうでもいいし、何かカントのまき直しみたいで
自分で書体を更新したわけでもなく、無と死の恐怖なんて日本人にはありがち。 まあそりゃそうかもしれんけど、
当時は資本主義の激動の時代で、自我の崩壊の危機にある人も多かったわけだから、
そういう人向けには良い著作だったんじゃないの。
田辺元なんかは社会哲学の方に向かったわけだけどさ。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています