【西田】京都学派・近代日本哲学総合スレ【西周】 [無断転載禁止]©2ch.net
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日本文化のことを雑種文化と規定したのは、
一種の好プレーなんじゃないの? 山田洸(元宮城教育大学、山口大学教授)の日本思想史研究は、
地味にいい感じだな。 “『大乗仏教概論』は大拙思想のアルファであり、オメガである。
しかしながら、この書物は原著刊行から一〇〇年近くの間、封印されていた。”
― 安藤礼二 『大拙』 (2018/10/25) 鈴木大拙 『大乗仏教概論』 佐々木閑 訳 (2016) 「大西祝選」集二巻、批評編。すごいよかった。
こんなのがもっとあるなら出してくれ。 さんまちゃんの頭の回転の良さだったら
ガリ勉して京大に行くことも不可能じゃなかったやろな いい結果の原因が自分にあるなら、悪い結果の原因も自分にある。
いい結果の原因が自分にないなら、悪い結果の原因も自分にない。
いい結果の原因が皆にあるなら、悪い結果の原因も皆にある。
いい結果の原因が皆にないなら、悪い結果の原因も皆にない。 このスレ>>689で見てはじめて知った大西祝、いい奴だな
近代では九鬼が重いパンチを秘めている人間と感じていたが文献学と固有だけれど職人技のように小綺麗な哲学を残して終わってしまった感があるもっと見たかった人だ
大西祝はキリスト教を基礎に出発して、生きていれば日本と西洋の価値観を繋げる大仕事を恐らく成していただろうに >>704
大西祝は、「宇宙の創造主を神(かみ)とする思想は、明治の日本でも広く受けいられている」として、
それでも大西祝は「天神」を主張する。
そして、「明治政府の命令より、宇宙の神の命令を優先するキリスト教は、明治の教育の邪魔だ」といっているね。
「明治政府の目的と、キリスト教の目的は異なり、明治政府の目的を優先すべきだ」と。 序
日本の重要なものを隠していることを示す漢字が六個ある。
それは、禁、裏、秘、奥、隠、忌である。
1、禁
天は「あま」とも読め、「あめ」とも読める。どちらも使用は現場により、巧妙に入れ替えている。どちらのことばが正式で、どらちらが虚偽かは、その時々で変わる。統一するように整理しても、すぐに攻撃されてぐちゃぐちゃになる。
あめは、雨であり、悲しくも恵みの雨である。日本は雨を嫌わない。
「ドン」と呼ばれるものは、秘中の秘である。
日本神話には、天船(あまつふね)という空飛ぶ船が記述されている。
おみくじは、「大事な大事なくじ」という意味である。
2、裏
八百万(やおよろず)の柱(はしら)がある。多神教の日本にはたくさんの柱がある。
一神教の柱もいる。一神教の柱も、八百万の柱の一柱にすぎない。
社(やしろ)はやおろずの城を意味する。社は、「もり」とも読み、森を意味する。神社において、社と森は区別がつかない。
鳥居は、鳥がとまるから鳥居という。
大和(やまと)は、山の家を意味して、奈良県の家(ならされた土地の家)を意味する。そのまま、山の都を意味する。
3、秘
日本の王は、日嗣(ひつぎ)の御子(みこ)である。
太陽の継承者という意味だ。
人(ひと)は、人類を意味する日本語である。 4、奥
君は、貴身(きみ)であり、君主を意味する。忠誠の対象であり、たくさんいる。
日本の王のことは、大王(おおきみ)という。
風(かぜ)と、彼是(かぜ)は混同されている。上司の命令の実行を風(かぜ:彼是)ということがある。
祭り(まつり)は、政治と神事と宴会からなる。
祭りに従わないものを、奉わぬ(まつろわぬ)民という。反体制という意味である。
5、隠
三種の神器は、日本神話の象徴である。
三種の神器(みくさのたから)は、草薙の剣、八咫の鏡、八尺瓊勾玉である。
剣は、吊る木(つるぎ)であり、長細い棒のことである。
鏡は、影見(かげみ)であり、姿を映すものである。
勾玉は、曲玉(まがたま)であり、魂に似せた飾りである。誰がどのように魂の形を知ったのかはわからない。神代の日本で、魂(たましい)がどのような概念だったのかはわからない。
三種の神器は、剣と鏡は緋緋色金(ひひいろかね)でできていて、勾玉はヒスイでできている。
四種類の魂について記す。
和魂(にぎたま)は、にぎやかな魂であり、仲の良い魂のことである。
荒魂(あらたま)は、あらぶる魂であり、暴力的な魂のことである。
幸魂(さちたま)は、しあわせな魂であり、結び、結婚を意味する。
奇魂(くしたま)は、珍しい魂である。
結びによってできるものを、娘(むすめ:結女)、息子(むすこ:結子)という。
結びの儀式には、榊(さかき:賢木、賢い木の意味)の木を振る。 6、忌
おそらく、日本の神は、彼身(かみ)であり、「あちらの実体」という意味である。
神(かみ)は神威(カムイ)より古く、神威とはアイヌ民族が神性なものの名前である神を格好よく言いかえて神威と呼んだのだろう。
黄泉(よみ)は、夜身(よみ)であり、「夜の実体」を意味して、死後の世界を意味する。
黄泉から帰ることを、蘇り(よみがえり)という。
地返しの玉は、イザナギが黄泉から生還した象徴である。 東浩紀編集のゲンロン9で現代日本の批評Wと題して
東浩紀と大澤聡と苅部直と先崎彰容が対談していたが、
その中で苅部直が京都学派の哲学のことをざっくり京都哲学と言っていたな。
京都学派というだけでは憲法学とか東洋史とかフィールドワークも入ってくるから
そういう風に言わざるを得ないのかもしれない。 波多野精一「時と永遠他八篇」
明治の西洋哲学者の代表作。
「時と永遠」では、永遠なるものには共同がともなわなければならないと説く。
永遠なるものは愛をもたなければ、永遠の孤独になってしまう。
永遠なるものについては、友情がどうなっているのかが重要だ。
「他八篇」はたいしたことは書いていない。 “井筒が生涯をかけて探求したのは、万物を超越する一神教ではなく、万物に内在する一神教である。
ユダヤ教、キリスト教の伝統に連なるとともにその伝統を刷新し、純粋化していったイスラームのさらなる東方的な展開である。(略)
アラビア半島に生まれた森羅万象すべてに超越する神、スンナ派の神ではなく、
イラン高原で生まれた森羅万象すべてに内在する神、シーア派の神であった。
イラン高原では、神は「存在」と言い換えられていた。
「存在」の根源にして、根源の「存在」である「神」、そこから森羅万象あらゆるものが産出される「神」。
その「神」は一なる神――一神教すべての根幹となる唯一無二の神――を可能にする「無」の神、
より正確には、「無」にして無限の神であった。”
― 安藤礼二 「「東方哲学」素描:鈴木大拙、折口信夫、井筒俊彦の仏教」 『現代思想 2018年10月臨時増刊号 仏教を考える』 647 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2019/04/06(土) 20:41:39.70 0
若松英輔に井筒俊彦が山崎弁栄に会っていたら井筒俊彦はイスラムに行かなかっただろうと言わせた浄土宗の高僧山崎弁栄は「超在一神教的汎在神教」をとなえた。
超越的一神に相当する彼の法身の阿弥陀如来と本覚思想の一切衆生悉有仏性の統合と現代的表現だろうけど。
650 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2019/04/10(水) 00:08:44.05 0
山崎弁栄いいね。
「超越即内在」。“内なる仏であり、なおかつ外なる仏である”。
一神教と汎神教との相克を超えた「超在一神的汎神教」という立場は、
宇宙を直感するシュライエルマッハーの宗教学を背景としている。
フッサールと同じ1859年生まれで、
インド各地の仏蹟各地を巡拝した最初の日本人。 >>717
のシンポジウムに行ってきたけど、
山極総長が京都哲学に秋波を送っていたのが印象的だった。 >>711
「他八篇」はたいしたことは書いていない。
は?
おまえが理解できないだけだろ 『田辺哲学とは』(燈影舎)を読んで、
「樊籠」という言葉を初めて知った。
束縛とかいう意味を持つ言葉なんだな。 西田は低学歴低キャリア。帝レヴェル 帝キャリア 帝学歴のほうよ。女性は。 最近は日本哲学の本どころか、研究書や専門書すら読めていない。
時事ニュースばかり追っかけていて、それに関していろいろ思索することばかりだ。 上田閑照が亡くなった。
彼の著作は西、彼が編んだ西田幾多郎哲学論集しか読んだことがない。
それにしても、
鷲田清一も広い意味での京都哲学の中に入るのだろうか
と、ふと彼の新聞に投稿した文章を集めた『濃霧の中の方向感覚』を読みながら
思った。 柳田国男はタピオカを食べていた
「たとへば私の家の朝飯には、折としてタピオカを食ふことがある。」(柳田国男『民間傳承論』現代史學大系第七巻、共立社、1934、P76)
https://i.imgur.com/Gjbm8uM.jpg > 南米やアフリカでは、タピオカは主食としても食べられてきた。
> 1万年に及ぶというタピオカと人類の長い歴史を… 中沢新一 『レンマ学』 講談社 (2019/8/8)
“レンマ的知性は、ロゴス的知性の真に外部にある実在に触れている”
“荒海や 佐渡に横たふ 天の川(芭蕉)”
大乗仏教、哲学、量子論、言語学、精神分析、数学、生命科学、脳科学……を超えて、
東洋知の結晶した華厳経の潜在力を大展開する未来のサピエンス学へ!
『チベットのモーツァルト』に始まった心と脳をめぐる探究の頂。文芸誌『群像』の連載「レンマ学」がついに単行本化!
「レンマ」とは何か? 哲学者山内得立が著書『ロゴスとレンマ』で提出した概念によっています。
「ロゴス」は「自分の前に集められた事物を並べて整理する」ことを意味しています。
その本質は時間軸にしたがう線形性にあります。
それに対し、「レンマ」は「直観によって事物をまるごと把握する」という意味です。 第4回 京都大学 - 稲盛財団合同京都賞シンポジウム [映画・演劇分野]
中沢新一 「芸術のロゴスとレンマ」 2017年7月1日
https://www.youtube.com/watch?v=R-805Nr-LTQ
人間が「科学」を発達させた能力と、「宗教・芸術」を発達させた能力はそれぞれ異なる。
科学…ロゴス
宗教・芸術…レンマ 政府は天神の手段に過ぎないものとしてしか認識されてないんじゃないの。 鷲田清一が折々のことばで今西錦司のことばを引いていたな。
やはり京都学派系統には文理の壁を超えて響き合う何かがあるんだろうな。 鷲田清一、上野千鶴子も京大文学部・文学研究科の出身者なんだから、
京都学派の一員に入れてもいいよな。https://www.bun.kyoto-u.ac.jp/lib/master1973
彼らの同級生である牧野廣義(牧野広義)は、
去年の年末に『マルクスの哲学思想』という野心的な著作を発表しているが、
最近のマルクス学の論者の哲学に対する扱いの軽さに対し、
哲学の意義を強調していて元気な爺さんだと思ったよ。 京大なんて認可されてるの?京大ニセ学生の集まりより学派の方がいいさ。 京都芸術大学と京都市立芸術大学の争いはどうなるかな 造形大 やら繊維大なんてなかなか入れないところだけど。 神戸ファッション造形大も難関。東京海洋大学もいいしな。 学歴はライフワークみたいに永遠。年の差パワハラは処分処刑以後なしで。 大学独立して自分で持ってないと卒業した意味ない。三宮神戸芸人大学
京都芸者大学院あるんだけどd。 戦争と台風――堂本印象美術館で川端龍子を見る
http://realkyoto.jp/review/kawabata-ryushi_asada/
堂本印象美術館は衣笠山の麓に位置するが、かつては京都の郊外だったこの地域は
多くの日本画家が居を構え、衣笠絵描き村と呼ばれた(堂本印象美術館でも
彼らの作品を集めた展覧会が開催されたことがある)。
美術館の少し南に住んでいた山口昌哉(1925年〜1998年。山口華楊〔1899年〜1984年〕の息子で
自らもスケッチがうまかったこの数学者はカオスやフラクタルの理論を導入したことで一般にも知られている)
を訪ねたとき、昔は鹿も出没したと聞いたことがある
(それより鮮明に思い出されるのは、父の戦争画のことも意識していたのか、
京都学派の哲学者たちの戦争責任を話題にし、
「久松真一はいいんじゃないかと思うがどうか?」と問われたことだが)。
問われて浅田彰はなんて答えたんだろうな。
久松はあまり読んでないので・・といった感じだったんだろうか。それとも・・? ニクラス・ルーマンの『社会の宗教』の註に西谷啓治が登場するそうだ。
宗教哲学の波及力は侮れない。 三木清の著作はブックオフで買った『哲学入門』しか持ってないけど、
手触りがいいから『再考 三木清 現代への問いとして』(昭和堂)を買っちゃった。 インテグリティに訳語を与えられなかったんだな近代日本哲学って
中国では誠信という訳語が存在するのに integrity: 誠実、高潔、品位
という感じか。 京都学派と大東亜戦争の戦争責任を問う問題は今ホットな話題だと思うぜ? 物心二元論を克服しようとした京大系の学者としては
市川浩を挙げねばならないだろうな。
戦前の京都学派の問題意識と通底するところがあるだろうが、
政治や社会のことを論じず<身>と<心>の重なり合いに着目した点では
独自の路線を行ったと言える。
>>752
の問題意識に関係する書物と言えば、
大橋良介の『京都学派と日本海軍』だな。
PHP新書。 田辺元はマルクス主義に関心を抱いてはいたようだが、
エンゲルスの『自然弁証法』には批判的だったようだな。 中沢新一 「「レンマ学」とは何か――惑星的時代のもう一つの知性」(『現代思想2020年1月号 特集=現代思想の総展望2020』)
レンマ学の3つの区分
・現代レンマ学…今現在刷新が必要なもの(AI人工知能の時代、トポスや圏の数学に対応)
・近代レンマ学…京都学派のレンマ学(集合論の危機に対応)
・古レンマ学…レンマ学の起源 三木清や「世界史の哲学」派を戦争協力的と批判するのは容易だけれども
彼らとしては現実政治を少しでも改善する時務論として
公開・提言可能なギリギリの線で抵抗していたわけで
現代という安全地帯から彼らの戦争責任を衝くだけでは本質的批判にはならない気がする
言論場では批判することが多数派でせあり権力側なのだから
和辻の『日本精神史研究』には唯物史観的な階級制批判があるね 確かに、マイルズ・フレッチャーの『知識人とファシズム』を読んで
三木清は悪いやっちゃなあと思ったが、
仮に悪いにしてもどのように悪いのかを知るには、
本人の著作を読まないとダメだと思って『唯物史観と現代の意識』を買った。 312 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:14:17 HMC8p4F10
年貢米
http://s.kota2.net/1581307633.jpg
313 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/10(月) 13:29:27 xAWDaQKy0
年貢ってどうしても収められない場合どうだったんだろ
いきなり討ち首じゃないよな
333 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:11:41 BcZTUhaK0
>>313
農村だと村単位で講を作って不作に備えるのが基本
334 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 01:14:31 CYqYGg0z0
>>313
江戸時代は農民は一方的に搾取されてたようなイメージがあるけど
一揆がおこると領主には幕府からかなり思いペナルティがあるので
実際は領主は農民に気を使っていたことが最近の研究でわかってきている
340 /名無しさん[1-30].jpg sage 2020/02/11(火) 11:55:49 6/fDJzON0
>>334
しかも、幕府が「お、ここ要所になるな」と思ったら
幕府がそこの村人を扇動して一揆を起こさせて、
その土地をめしあげて天領地とした 『京都学派と日本海軍:新史料「大島メモ」をめぐって』 PHP新書 (2001)
大橋良介
京都学派の戦争協力に関する決定的かつ最重要の資料。
アジア諸国やアメリカに対する侵略的計画を練る過程が克明に記録されている。
哲学者たちがいかに世界情勢を分析し言語化するのか。
「近代の超克」、「世界史的立場と日本」座談会の背景。
60年の時を経て2000年に、著者によって発見された。
“大島の「大東亜戦争と京都学派」(『中央公論』昭和48年8月号)を再読したとき、
ある個所が気になった。「私の家には、当時のメモ・ノートがまだ保存してある」と。
そこで大島家に、そのようなメモ・ノート類がないかどうかの調査を依頼した。” 二つの座談会
『近代の超克』 河上徹太郎ほか、冨山房百科文庫23 (1943/1979)
『世界史的立場と日本』 高坂正顕ほか、中央公論社 (1943) 「近代の超克」と「世界史的立場と日本」は表向きに編集された議論。
「大島メモ」の内容はそのノーカット版といったところ。
大島メモ「〔大東亜"共栄圏"という語は〕物質的繁栄を主とした安逸(easy-going)感を与へる故、使用を避けるべきである」 無の自覚的限定
非合理なるものは考えられないというのは、そのしかる所以をあきらかにせなければならない。
考えることができないというのは、既に考えることであり、そのこと自身が矛盾でなければならない。
個物的なるものが考えられるというにも、それが考えられるという限り、なんらかの意味において一般者の自己限定として考えられねばならぬ。 『善の研究』 を聴け
https://stories.audible.com/pdp/B07RBNVDNY
善の研究
Written By: 西田 幾多郎 Narrated by: 佐田 直啓 Length: 7hrs 26mins >>764
途中に洋書の出典が挟まるのは青空文庫版か 善の研究だったら方法序説のほうがよくできてる。マルティンブーバー永遠の汝とかも上だ。敵の出現なんてもっと高度に取り交わされてる。国立系は日本はほぼ総崩れだなあ。 西田幾多郎はすっ飛ばす。詩のようでかっちょいい。
カントみたいに辛気くさくない。
不親切だが、いろいろと考えさせる。 論文は伝達こそ一義。
しかし詩は伝達は二義的なものだ。
ということは西田幾多郎の論文は哲学としては失格かもしれないが、詩的思想としては成功しているだろう。 帝大なんて第一志望じゃないところで哲学していいの? だから、冗長な帰納法的瑣末主義のハイデガーは『存在と時間』を完成することができず、かといって、その帰納法の宿命ゆえに、最初から書き直さざるを得なくなったときに、あまりにも辛気臭いその道程に目をそむけ、放棄した、ということ。 夏目漱石の明暗の未完成よりハイデカーはちょっとな。明暗は誰が書いたのかしら。 >>772
吾輩は猫である?
まああれは、ワニが死ぬしょうもない話よりはおもしろい。 話を終らせるためだけに、猫を殺す、なんて発想は愉快じゃ。 >>766
デカルト(400年前)とブッダ(2400年前)
“我思う、ゆえに我あり”
― デカルト 『方法序説』
“〈われは考えて、有る〉という〈迷わせる不当な思惟〉の根本をすべて制止せよ。”
― ブッダ 『スッタニパータ』 916偈 真の無の場所とは何か。
有の場所に無の場所を見るのは可能か。
先験的真理=アプリオリ。
先験的空間=一般者。
映れるものを形相とするならば、それは全く形相なき純なる質料と考うべきだろう。
これに反し、映された形相を特殊なるものとして質料と考うるならば、それは形相の形相として純なる形相とも考え得るであろう。 西田はしかし、私の思想は、善の研究の段階で定まっていたと書いている。
すべては善の研究に対する注釈を重ねていった人生ともいえる。 マールブルクがかいているように、カントにとっての総合とは、思惟と直観との総合なのだが、西田はそこを乗り越えようとしたのだが、はたしてその成果はいかに。 働くものから見るものへ
って善の研究とは全然違う雰囲気を感じたわ。
ちょっとしか読んでないけど。 >>780
『働くものから見るものへ』から西田は無の場所論を繰り広げるようになるからね。
相対的な、つまり有に対する無、だけではない、真の無の場所。
こういうのってカントにはない発想。 目的的統一としての自己の根底は流れ去るものではない、何時でも働いているのである。
元来意識統一というのは目的的統一を意味するのである。
而して目的的統一には何時でも現実を越えて志向するものがなければならぬ。
現われただけにて全いものとすれば、それはもはや目的を有ったものではない、目的的統一は何時でも無限の根底に結合していなければならぬ、自己というのは此の如き無限の流への結合点に過ぎない。
「直接に与えられるもの」西田幾多郎 いいこというねえ西田
無限となるとレヴィナスが想起されるね。読んだことないけどw いいんじゃないかな。
>>783
レヴィナスの『全体性と無限』も出たし。まあ彼の無限は多分に倫理的過ぎるけども。 「疑いに耐えられない者は、自分に耐えられない。そのような人は
心許なく、成長しないので、生きてすらいない。疑いは、最高の
強者と最低の弱者のしるしである。強者は疑いを持っているが、
疑いは弱者を支配している。それゆえ最低の弱者は最高の強者に
近い状態にあり、自分の疑いについて『私はお前を支配している』
と言うことができれば、最高の強者なのである。しかし果てしない
カオスに耐えるのでなければ、誰ひとり自分の疑いを肯定できない。
われわれの間には全てを言うことのできる人がこんなにも多いの
だから、彼らがどのように生きているかを見なさい。そのうちの
一人が言うことは、極めて多いこともあれば、極めてわずかである
こともある。それゆえその人の生を探求しなさい。
私の語りは明るくも暗くもない。なぜならば、それは成長する
者の語りであるから。」C.G.ユング、『赤の書』、p.420 >>760
入手困難で¥2,400とかになってる。
この本が普通に手に取って読めないのはおかしいな。
これを読まないと、侵略戦争ということの本当の意味が分からないから。
Kindle版はあるらしいけど。 『哲学の根本問題・数理の歴史主義展開:田辺元哲学選3』 岩波文庫 (2010)
田辺元、藤田正勝 編
京都学派の哲学とも関わりの深い数学基礎論がまとめて読める。
・ヒルベルトの公理主義
・デデキント切断
・カント―ルの集合論
・マルクスの理論。唯物弁証法の限界
ほか 梅本克己は分らぬものを基にして分かるものを攻撃する事を観念的態度と言った。
オカルトとかスピリチュアルとかなんかも実は観念論の分枝なのかもしれない。
ただ、霊魂なんかを真面目に考える事自体は学的態度と言えるだろうし、
宗教哲学の領域に当たるだろう。 俘虜記が有名だけど、専門はイタリア・ルネサンスだったのね。 西哲の主客二元論の思考はマズいんだろうか?
端的に言ってなぜだめなんだろうか ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています