【イスラム哲学】井筒俊彦を読む [無断転載禁止]©2ch.net
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64NJK >>352、>>361
手錠をかけられたまま笑って見せるのが政治犯 >>360
神秘主義や神人合一は、世界中に例があるから、
今更どうこう言うものでもないが、
この二つの比較だけはショッキング。 井筒俊彦 『存在の概念と実在性』 (2017/10/21)(英文著作翻訳コレクション3)
は読んだだろうか?
ここへきて井筒哲学が2割増しになる。
・ハイデガー/サルトルの実存主義とイラン哲学の存在主義の比較
・ファナーとバカー論 再
・イブン・アラビーによる無からの神的顕現 再
・エッセンティアとエクステンティア
・イウティバールとイウティバーリー
ほか 『宗教哲学入門』 量義治、講談社学術文庫 (2008)
井筒がやっていた様なこと。
仏教、キリスト教、イスラム教から宗教批判まで、
統一された哲学用語で相対化して通観する一冊。 井筒が表紙に写ってる雑誌あるだろ。
あれ見てオレかと思った。
やっぱな、オレって才能あるかも。 ムハンマドは初期のころから命をねらわれたりして
今のオウムみたいな胡散臭い存在だったらしいな。
1000年後いや500年後どうなっているやら。 井筒俊彦の哲学は原型としてはシャンカラのそれにより近いと思う。
大乗仏教より井筒俊彦は実在論的で主客未分の実在を語ったのはシャンカラだから。 井筒俊彦『意識と本質』によると
井筒が「本質」を2つに分けた
a、マーフィーヤ(特殊的意味での本質)
b、スーフィーヤ一般的意味での本質)だけど、
aは普遍的「本質」(マーフィーヤ)
bは個体的「本質」(スーフィーヤ)
詩人
リルケ
マラルメ
松尾芭蕉
それぞれでスーフィーヤとマーフィーヤという本質を追求する態度が違うらしいが。
詩について私が言えることはないが、
これについては、もう一度読み直してまとめてみる。『意識と本質3.4.5に論じられているので、
興味あれば読んでみ
今その次の『意識と本質6』のところ
禅やバカヴァット・ギータのところを読んでいるので、ここのところから。
あとでレジュメ書く 『意識と本質』チャプター6
禅ー
すべての存在者から「本質」を消去
すべての意識対象を無化。全存在世界をカオス化してしまう。
一旦カオス化しきった世界に禅は、また再び秩序を戻す。
まったく新しい形で。さまざまな事物がもう一度戻ってくる(しかしあくまで無「本質」的に
具体的には
道元禅師『坐禅箴』
「水清くして地に徹す、漁行きて魚に似たり。空闊くして天に透る、鳥飛んで鳥のごとし」
↓
本質が措定されていない。が、「本質」がないのに鳥は鳥として文節されている。
「川の中を泳いでいる漁」を見ている私が見ているものを禅は無化する。「川に魚が泳いでいることは現実だとしても、
それを映している私の意識がみているものは全て虚像に過ぎない。
「鳥飛んで鳥のごとし」。これも同じで鳥が飛んでいるということ自体、禅では虚像だという。
本来なら「川の中を泳いでいる漁」は確かに私の目に現実として映っている筈である。
何故なら私の意識は、川を泳ぐ漁を「本質」として、確かに現前していると確信しているから。
私たちの意識は「鳥が飛んでいる」景色を見て、「本質」を掴み取っている。
確かに鳥は飛んでいるのだ。何故ならありありと鳥が空を飛ぶ姿を私の意識は、掴んでいるから。
その現実を「本質」として捉える作用が、私の意識の自然な働きだからである。
↑
禅はこれらの意識の働きを無化するという。
つまり実存体験事実に至るのである。
禅は鳥が空を飛んでいることを「本質」として捉える。そしてそれは虚像であることを意識として捉える。
禅の意識はメタ的に本質を無化しているのである。本当は鳥が実際に空を飛んでいることを知っている。
知っていて無化するのだ。無化して、再び秩序を戻す。そして戻した瞬間に「本質」を無化する
では、どうしてそうする必要があるのだろうか? 『バカヴァット・ギータ』第18章の一節(サーンキヤ哲学)
「三徳」という考え方があり、
現実在(現質)-
純質(サットヴァ)-全世界を究極的一者として眺める
激質(ラジヤス)-現象的多者の間に動揺ただならぬ意識
闇質(タマス)-愛憎に縛られた沈重な意識
感覚器官も意識も、その対象である外界の事物も、すべてこれら三種の存在エネルギーの
さまざまな混合によって現象し、いわゆる経験界を形成する。
その「三徳」は禅の「無心」「有心」「執心」に当てはまるという。 禅に当てはめると
a、純質ー「無心」
b、激質ー「有心」
c、闇質ー「執心」
a、全存在界を究極的一者性において眺める。
b、経験的事物を個々別々なものとして差別し、それらを個々別々に認識する。
c、特定の事物に対する欲情的妄執的な態度。ある一つの対象をまるでそれが全てであるかのように
追い求める、根拠のない愛着の心
禅の「心を擬する」ー
意識のエネルギーをある一定の方向に向かって緊張させ、その先端に一つの対象を認知すること
「至道」への最大の障礙
現実を「本質」的に文節し、個々別々のものとしてしか見ることができない。
「有心」の段階においては、必ず分節的意識が作用するやいなや、存在の真相は無限の彼方に姿を消す 意識と本質の29ページにシャンカラとイブンアラビーの共通性を指摘し東洋哲学の一つの典型としてる。
おそらく井筒俊彦の本音が出てる。
勿論大乗仏教特に禅の本質否定論も出すがどちらかというとシャンカラ寄りではないか? ピューリサーチセンターの調査によると
エジプトの88%、パキスタンの62%、ナイジェリアの51%のイスラム教徒が
イスラム教から棄教・改宗する者は殺されるべきだと信じている。
また似たような割合で姦淫には石打、ムハンマドを侮辱する者には厳罰
窃盗犯の腕は切り落とせと考えている。南アジアの84%、東南アジアの77%
北アフリカの74%、サブサハラの64%のイスラム教徒はシャリーアが
国法であるべきだと答えている。西欧にいるムスリムでさえ高い割合で同様の結果が出ている
イスラム教徒はバスだろうがレストランであろうがイスラエルに対する攻撃は
理にかなっていると信じている。「言論の自由」「宗教の自由」「報道の自由」「女性の権利」
「同性愛者の権利」など認めるムスリムは極めて少数派なのはハッキリしている。
ムスリムが啓蒙主義を受け入れた証拠は存在しない。イスラムはキリスト教徒やユダヤ教徒と
争うだけではなくヒンドゥー教徒や仏教徒と衝突している。
改宗の自由すらない。宗教警察なんてものまであるイスラム社会。
世俗法を人間が決めた法、シャリーアは神が決めた法
世俗法に従う義務はないと公言するような連中がいる、こんな邪悪な宗教が他にあるだろうか。 377.
本質を消去、か。
無化する、か。
それは、本来無一物、であるからである。
それで、カオス化する、か。否である。それは秩序となる。
カオスではなく、それは秩序である。
それを、秩序として理解できないこと、が限界となる。
だからして、以後は、勝手な解釈となる。 >>382
勝手な解釈ではなくて、ちゃんと書いてある。
チャプター6読んでから言おうか! 反ユダヤ主義とイスラムフォビアの間には同等のものではない
前者は人々の邪悪な悪魔化だったが後者は正当な批判を黙らせるために使われた
合理的で根拠のある証拠があるため、批判は正当です
恐怖症は偏見ではなく精神障害である。不合理な恐怖、
それは共感を感じる被害者を衰弱させる。精神障害には合理的な根拠はない。
イスラム世界が批判を病理に変えるということをイスラム世界が発明したのはこのためだ
それだけに留まるわけではなく時に人種差別と主張し誤魔化そうとするのです。 イスラム教徒だけは入れてはならない。
ロシアは欧米から「国家が社会を支配する国」と思われている
常に改革も上から行われる。イヴァン雷帝、ピョートル大帝、スターリンなど
それに対し欧米は「社会が国家を支配する国」で本質的に合わない
封建制の有無が違いを生んだとされている。
なお白人は日本が中国や韓国とうまくやれるとは思っていない。
それは日本が分権的で中国・韓国が専制的な社会で本質的に異なるから
梅棹教授の生態史観によればロシア・イスラム・インド・中国は政治的に専制国家文化
また一神教は本質において自己の絶対性を主張している原理的に他者を尊重するはずがない
唯一正しいと主張しているのだから相手に対して「あなたも正しい」などと言うはずがない
多神教のように多様な人格を持つ神々を認める宗教とは共通性など存在しないのだ
そして他者の権利を尊重する啓蒙主義・リベラル社会の今日、一神教に正当性など存在しない
イスラム世界は政治文化が専制的で宗教は一神教で最悪の組み合わせ
日本の分権的・多神教文化の真逆である >>389-392
未だに井筒も読まず、
こんな政治工作(>>386-387)をやっているのか? >>376
スーフィーヤって何だよw
そんなもんはないw >>394
揚げ足とってんなよ。
内容について批判しろよw >>397
ああ、それな。正確な言語ではないが、そんなちっさいことに笑ってるジュン吉の方がな。 おまえは本質的な発音わかって言ってるのか?
説明よろ 聖クルアーン - Islamic Books Japan
http://islaam.ninja-x.jp/quranjp/quranhome.htm
アラビア語・日本語・英語 対訳
日本語:日本ムスリム協会 日亜対訳注解聖クルアーン コーラン各種
(1)『コーラン(全3冊)』 井筒俊彦、岩波文庫 (1957)
(2)『聖クルアーン ― 日亜対訳・注解 』 三田了一、日本ムスリム協会 (1982)
(3)『コーラン(全2巻)』 藤本勝次、池田修、伴康哉、中公クラシックス (2002)
(4)『日亜対訳 クルアーン ―「付」訳解と正統十読誦注解』 中田考、作品社 (2014)
予備知識がなくても一気に読めてしまうのは井筒訳。
原語の持つ生き生きとした感じが日本語でも再現されている。
注釈が詳しく、落ち着いて読みたい向きには日亜対訳のムスリム協会版。
その他も読みやすい。 コーランの構成(井筒訳)
・上 10章(1〜10章)後期
・中 23章(11〜33章)中期
・下 81章(34〜114章)中期、初期、最初期
コーラン各章の配列は成立年代をほぼ逆さまにした形で収録されている。
初めの方は一章ずつが長く、だんだん各章が短くなっていく。
ムハンマドが受けた最初の啓示の瞬間に向けて、本を読み進めていくことになる。 610年頃、メッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想していたムハンマドは突如金縛りに襲われた。
そのとき天から大天使ジブリールが現れ、「誦め(よめ)」と言った。
ムハンマドが「何を誦めと言うのですか」と尋ねたところ、ジブリールはフッと消えていった。
この時よりクルアーンの啓示が始まる。
それから二十三年の間、ジブリールはムハンマドの元を度々訪れては
クルアーンの各章を啓示していった(クルアーン96章など)。 コーラン理解のための副読本
・『イスラーム文化 ―その根柢にあるもの』 井筒俊彦 (1991)
イスラム導入。スンニ派は「外面的」、シーア派は「内面的」
・『「コーラン」を読む』 井筒俊彦 (2013)
コーランのテクスト論、エクリチュール論。コーランの言葉は根源語
・『アラブ的思考様式』 牧野信也 (1979)
コーランとアラビア語の仕組み、言語文化論 啓示というか戦術指南でしょうね。そういう言葉で戦っていた静かな闘志でしょう。 >>343
イブン・アラビーによる「アッラーの神的な自己顕現(タッジャーリ)」
「私は隠れた宝物であった。突然私のなかにそういう自分を知られたいという欲求が起こった。知られんがために私は世界を創造した。」
http://www.sufismus-online.de/IWasAHiddenTreasure
"Kuntu kanzan makhfiyyan fa ahbabtuhu an u`rafa fa khalaqtuhu ‘l-khalq"
I was a hidden treasure, I wanted to be known, so I created Creation.
A Hidden Treasure - wiki
https://en.wikipedia.org/wiki/A_Hidden_Treasure 『「東洋」哲学の根本問題 あるいは井筒俊彦』 斎藤慶典 (2018/2/11)
序 章 井筒「東洋」哲学
「東洋」哲学/井筒「東洋」哲学は何を目指しているのか
第1章 表層/深層
a)表層から深層へ
コトバ/深層における分節化/分節化されたものから分節以前のものへ/事事無礙
b)深層から表層へ
理理無礙/分節(1)―「無」―分節(2)/挙体性起/存在の階層性/基付け関係/有力・無力
c)大地と理性――ロシア的人間
ロシアの一九世紀/原始的自然/『コサック』/ドストエフスキー
第2章 空/無
a)「空」の徹底
理理無礙/神の彼方/〈無分節な「ある」〉への反転/「存在」の破れ
b)空と無
『大乗起信論』におけるアラヤ識/ユダヤ教カッバーラー/バスターミーの「欺瞞」論/思考の無能力
c)砂漠と死――ジャック・デリダ
ユダヤとギリシアの狭間で/砂漠における彷徨/墓場、あるいは死
第3章 〈いま・ここで=現に〉
a)「本質(マーヒーヤ)と「存在(フウィーヤ)」
「存在は本質の偶有である」/有「本質」か、無「本質」か/フウィーヤ・マーヒーヤ・タビーア/有「本質」論の三つの型/
イスラーム「原子論」/無「本質」的存在分節/元型とイマージュ/意識と存在の構造モデル/「概念実在論」
b)〈いま・ここで=現に〉
「存在」の「独一性」/創造不断/吾有時/「純粋な可能性」としての「無」/証言
c)「入てん垂手」
聖諦と俗諦/俗、あるいは町という共同体/「無」の共同体 >>410
井筒哲学の要約と、著作へのインデックスになっている イスラーム神学における信の構造を読んでるがイスラム過激派にも影響与えたイブンタイミーヤが出てくる。 >タイミーヤ
サラフィー主義の祖ね(サラフは「敬虔なる先人たち」を意味)
13世紀モンゴル軍侵攻の結果 イブンタイミーヤはイマーン(信)をイスラムより高次の概念としてるんだな。初めて知った。 イマーン(信)をイスラムより高次の概念
↑
どういう意味? >>413の様な背景があるから、原理主義だテロだというのも他人事ではないね。 イスラムのイスラムらしさは、本来、アラブ的でセム的なもの。 スンニ派とシーア派で、人口比はおよそ9:1。
(1)スンニ派を代表するアラブ人は、アラビア語を話すセム語系。
(2)シーア派を代表するイラン人は、ペルシャ語を話すインド=ヨーロッパ語系。
その他の要素として、
(3)シリアのアラウィー派やサウジのワッハーブ派、トルコ民族やトルコ語といった固有の性質がある。 井筒と司馬による「二十世紀末の闇と光」という対談は、
イスラムとモンゴルの話。
・『井筒俊彦全集 第10巻 意識の形而上学』
・『井筒俊彦著作集 別巻 対談鼎談集・著作目録』
・『司馬遼太郎 歴史歓談』などに収録 1258年にモンゴル軍がバグダードに侵攻して、東西の文明が衝突した。
トマス・アクィナスやエックハルト、ゾーハルのモーシェ・デ・レオンの時代。
チベット仏教を信奉していたフレグ(チンギス・ハンの孫)家はイスラムに改宗し、後に国教にもする。 その過程で、仏教とイスラムは相互に影響し合ったという。
大乗仏教は、真如というメタフィジカルな実在原理を中心に据えるものだったが、
大日如来という宇宙の絶対者を持つようになる。
イスラムは、元は生きた神の宗教であったものが、
この時期より、アッラーが真如のような理念「真理(ハック)」として、
あるいは華厳的な光のイマージュとして捉えられるようにもなった。 井筒俊彦は
ジャック・デリダから
「マエストロ(巨匠)」って呼ばれていたんだよな
日本ではなく
欧米で生まれていれば
「間違いなく世界思想史に残る存在になったはず」ともデリダは言っていた
>>421
スンニーとシーアで人口比っていうならスンニーの代表はアラブ人じゃなくてインドネシア人でしょ モンゴル人は仏教をやってもイスラムをやっても超一流 スンニー人口の半分を占めるのはインドネシアとインド系(パキスタン、インド、バングラディッシュ) 神事としての格闘技といえば、天使とヤコブの格闘(創世記 32:25-29) >>424
“五大にみな響きあり。(地・水・火・風・空の五大からなる森羅万象が声として響き)
十界に言語を具す。(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・緑覚・菩薩・仏の十界すべてが言語を具え)
六塵ことごとく文字なり。(色・声・香・味・触・法の六塵といった知覚世界の諸差異が文字を生じ)
法身はこれ実相なり。”(宇宙の本源たる大日如来は、この世界のあるがままの姿に他ならない)
― 空海 「声字実相義」 『空海 (KAWADE 道の手帖)』 河出書房新社 (2006)
世界的な思想家として空海を捉え直す。
インタビュー・中沢新一、前田英樹、竹内信夫、落合仁司、井筒俊彦、中村元、司馬遼太郎×福永光司、五来重、松岡正剛、幸田露伴など。 “文は全体であり,世界であり,ブラフマン(宇宙の根本原理)である”
― バルトリハリ(5世紀インドの文法学者) ・旧約聖書、新約聖書
・コーラン、ハディース
・タルムード
・アヴェスター
・仏典(原始仏典、大乗仏典)
・リグ・ヴェーダ、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ヨーガ・スートラ
・孔子、老子、荘子、易経、淮南子
・日本の古典
ぐらいは目を通しておくのがいい。 すげぇ
タルムードってすげー分量あるのに目を通しているのか……
日本語訳も一部しかないし、英訳でもあれだけのものを目を通すのは無理だわ >>438で日本語訳だけど目を通したっていえるのは
旧約聖書
新約聖書
コーラン
ハディース(ムスリム)
アヴェスター(ガーサーと、ウィーデーウダート、ヤスナの抄訳)
仏典(ダンマパダ、スッタニパータ、パリニッバーナ経、法華経、大日経住心本、理趣経)
リグヴェーダ(抄訳)、チャードーギヤ・ウパニシャッド、アールニヤカ・ウパニシャッド、カタ・ウパニシャッド、バカヴァットギーター
論語、老子、荘子、易経(概略)
くらいだわ
タルムードまではとても無理
アヴェスターやリグ・ヴェーダとか少なくても英訳に頼らないといけない相当分量あるものはとても目を通す気力がわかないから、438はすごいわ… 興味が持てて、手に取れる範囲から、サクサク読んでいけばいい。 井筒のカバラとセフィロト(参考:『意識と本質』 10章)
(1)「ケテル Kether」
意味は「王冠」。存在流出の究極的始源。
『旧約』(出エジプト記 3:14)の神言「在りて在るもの」に当たる純粋「有」の絶対的「一」。
仏教でいう「空」すなわち「真空妙有」の「妙有」的側面に当たり、一切の「多」を無文節的に内蔵する。
(2)「ホクマー Hokmah」
「叡智」。仏教の「般若」に相当するが、カッバーラーではこれを神の意識とする。
神が自らを観想するところに現成する知で、絶対無文節的覚知。
イマージュとしては、際涯ない空間の拡がりの中に、独り燦然と輝く巨大な太陽。
この太陽から不断に発生する光線の一つ一つが、もっと下の存在段階で結晶して経験的事物の「元型」となる。
(3)「ビーナー Binah」
「分別知」。神が自らをそこに映して、自らの内面をあるがままに眺める鏡に例えられる。
神は自らの一者性の内に潜む多者を見る。
あたかもプリズムを通った光のように、「神の顔」は無数に分かれ、ここに最初の存在文節が起こる。
密教でいう「種子(ビージャ)」。
(4)「ヘセド Hesed」
「慈悲」。神の創造性の肯定的側面を表し、全てのものに存在を与える。
・
・
・
(10)「マルクート Malkut」
「王国」。先行するすべての「セフィーロート」のエネルギーが一つになってここに流れ込んでくる。
神的実在の世界は「元型」構造的にここで終端に達し、その下には被造界が展開する。
セフィロトの樹:http://blog-imgs-76.fc2.com/a/a/5/aa57/treeofflife20150115.jpg コピペばかりしてメモ帳代わりにしてるハゲは一体何がしたいんだ >>443
自己愛性パーソナリティ障害だと思うわ
「俺はこんなすげーこと書いたんだぞ」と、どうしても読ませたくて複数スレにコピペ荒らし >>445
デリダのエクリチュール論や、ソシュール記号学の先という話ね。 >>424
こういうことは、まだこれから、検証していかなければならない。
確かに、モンゴル人は、早い時期から、正教やネストリウス派などのキリスト教とも接していたし、
チベット仏教は、顕教と密教があって、高度に形而上学化されてもいるから、あながちでもない。
聖書が書かれたアラム文字はヘブライ文字とアラビア文字の原型となり、
東伝して、イラン系ソグド文字、ウイグル文字、モンゴル文字などになった。 >>425
“おもしろいのは、モンゴル人が天の神を拝むとき《青き天》と呼んでいることである。”
― 『シャマニズム:アルタイ系諸民族の世界像 1』 ウノ・ハルヴァ、田中克彦 (2013) 5章 p149
天の神=テングリのこと。この本の中では、極東からスカンジナビアまで、
ツングース、モンゴル、タタール、テュルク、インド、イラン、シリアから、
ロシア、フィンランド、アイスランドまでの神話が一並びに比較されている。 >>400
アラビア語の「本質」
jawhar……原義は宝石。中世ペルシャ語からの借用語。転じて、本質、精髄を意味する。哲学用語として、ギリシャ語ウースィアー(実体)の訳語に採用される。
maahiyyat……上記、アリストテレスの実体の第二定義「何かであること」が訳されてアラビア語maa hiya(それは何)に女性名詞化iyyatが付いた形。
スフラワルディーの照明哲学で、一番最初に創造されたものである「本質」とはこのmaahiyyatのこと。
huwiyyat……huwa(それ、これ)にiyyatが付いた形。「これであること」「これ性」の意味。イブン・シーナーを通してドゥンス・スコトゥスがhaecceitasと翻訳。西洋哲学に導入される。
一般的意味では「自己証明、アイデンティティ」の意味。例 ghayb huwiyyatは哲学・神学的には「(アッラーの深奥である)不可視の本質」だが、一般的には「身元不明」を意味する。
dhaat……dhu(〜所有する)の女性名詞。「(それが)もっているもの(つまり本質)」を意味する。
haqiiqat……一般的には「真理」の意味。また「真相」。後者の意味で「本質」。実際に存在しているもの(実在)というニュアンスが強い。 斎藤慶典の「東洋」哲学の根本問題読んでるが175ページに無本質論-典型的には老荘思想と大乗仏教(密教と禅)とあるが井筒俊彦は密教は有本質論に分類してなかったか? 本当に
>無本質論-典型的には老荘思想と大乗仏教(密教と禅)
と書いてあるなら間違いだな
禅の無本質論に対して、有本質論第二型の「元型」的「本質」論にあるものとして密教を取り扱っている。(意識と本質]) >>451
やっぱりそうか!
意識と本質読み返したがやはり間違いだった。
ありがとう 「東洋哲学の根本問題ーあるいは井筒俊彦」の帯に(哲学者井筒俊彦がインド、中国、日本に加えイスラーム、ユダヤ、東南アジアを含む全東洋思想を総覧し…)とあるが東南アジアなんか全然出なかった。井筒俊彦自体が東南アジアは扱ってなかったし。
ピーみたいな古代からの精霊信仰か上座部仏教が東南アジアの思想だろうが… >>454
それならマレーシアやインドネシア独自のイスラムの思想形態が出ても良いのだが出てくるのは中東の思想家だけだ。 過大評価代表みたいな人だから
特に語学強い学者はそう
ゾンダンとか 聖典を丸ごと暗記するのは、脳の古い使い方だと言っていたが、
暗記とか暗算は、特殊な回路が出来てくるのでは ジャン=リュック・ゴダール会見全文載録
「E・サイードに導かれて」
(at第71回カンヌ国際映画祭)
https://dokushojin.com/article.html?i=3660
今回新設された「スペシャル・パルムドール」には、
ジャン=リュック・ゴダール監督『イメージの本』(原題:Le Livre D'image)が選ばれた。
―― 最近のアラブ世界の何が、着想を与えたのでしょうか。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています