仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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☆ >>258 123師殿 >愛の主体を神とかイエスとか表現しただけのことである
たとえば仏教とかの場合は
仮設としての
愛 − 渇愛
ttp://www.j-theravada.net/pali/key-tanha.html
渇愛(タンハー)
『苦しみが現れてくる過程について
無明している世界の中の
苦は、渇愛から生じます
渇愛は、再成し続け、喜びと愛着をともない、いつでも心の気に入る、という三つの特色をもち
五官を刺激したい、存在したい、壊したい、という三種類の欲で成り立っています』初転法輪
_ _ _
>>254 >仏教哲学において他人に慈悲をやる時間はない
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E5%BA%A7%E9%83%A8%E4%BB%8F%E6%95%99
上座部仏教
『 智慧も・慈悲も 』
瓶から瓶へ水をうつすように瀉瓶(しゃびょう)のごとく伝えてる
ttp://www.tibethouse.jp/dalai_lama/introduction/
「ダライ・ラマ」とは、モンゴル語の尊称で 『 智慧の海 』 という意味である
歴代のダライ・ラマは、『 慈悲の具現者 』 たる観自在菩薩の化身とされている
無明に依存している
すべて一切の諸法を涅槃に触れさせて
「無明している世界を手放しせよ」と導いていく 『 智慧と慈悲の具現者 』 答えを探す探求をすれば周りなんて見えない
熱中すれば見えないんだよ。見えない存在に慈悲とか
アホすぎる。慈悲=徳を積むつもりだろ
如何に自分は優れてて素晴らしい思考をし優秀かを示してる
つまり欲だろこれ。欲を捨てることが悟りの道なのは間違いない
欲をすてて思考する。欲は悪だから捨てなさいではな欲が邪魔だから
欲をすてるんだよ。真理は欲があると見えない
人の次元でしか語れない。欲は人のみ持つもの非常に強い
自分は~という思考がではなく世界は~や生物は~という思考に行き着かない
だから欲を捨てろって言ってるんだよ。悟りの道を教えてるのに
他人にかまける時間何てない 俺は言うダライラマも偽物だと。本物は現世では誕生しにくい
慈悲を語るものは全て偽物だ 263.
慈悲を語るものはすべて偽者、か。
その主体の問題である。
仏は慈悲の主体として、設定しただけのことである。
私が慈悲の主体であっても良いのだ。独占禁止法があるからであるよ。
そうである、と自覚できないのは、多忙なバカであるからであるよ。
閑を持って自覚すれば悟れるよ。 >全て偽物だ
紐タソというコテハンの人と論調が似てる気がする
紐タソというコテハンの人の論調
「すべてインチキだ〜っ!」
「俺は絶対に信じない〜っ!」
「無我とか言う奴はキチガイだ〜っ!」
↑実際のところ無我をわかりやすく説明するのは難しいかもしれない
↓これは>>263殿宛てではなくて紐タソというコテハンの人宛てとして
仮設としての
無明している世界の中で
地水火風空識の微粒子に依存している
色受想行識の仮の現れ(そして滅)が
(それ自体、単独で成立している色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性している
(遍計所執性が依存している)無明している世界の中では
『我ではない』の意味がわからない
円成実性の世界から → 依他起性している世界を見て
仮設としての
無明している世界の中で → 依他起性しているので
それゆえに
それ自体、単独で成立しているのではない
それ自体の自性によって成立しているのではない >空、の説明、か
たとえば紐タソとかの場合は
空という変化している性質の中で
『変化している我があるんだ〜っ!』と頑張ってた
ちなみに
仏教で言うところの
『我は変化しないもの』という意味なので
紐タソのセリフ
『変化している世界のなかで → 俺は変化しないものである』と頑張ってることになるのでつ
もっとも
円成実性は
(主客の実在視とかの想いが依存している)無明している世界を手放してるので
円成実性は
変化しているものではない
現れることもなく滅することもない
ということであるらしいので
それゆえに
もう一度
紐タソのセリフ
『変化している世界のなかで → 俺は円成実性である』と頑張ってることになるのかも? 267.
空、は存在の問題である。
それは科学の問題である。
それは宗教問題ではないよ。 簡単な話悟りとは知識であるのに。
他者を重んじた所で人の目的を見出だせば
それが如何に無駄かわかる。自分他者も歯車できかなく
慈悲はその歯車の駆動を妨げる不純物でしかない
皆が何も考えず進む未来にこそ意味がある
それは同意の名の元に形成されているからだ
何も考えない同意とはそれは直感である
しかし直感が鈍い人間が多数なので才能ある人のみが
言論を有する。そして大まかな流れを作り世界は変わっていく
何も考えなくても実は情報得ている。だから好みがあるのだ 269の文読んでも多分今のボンクラ知能なら理解出来ない
慈悲にすがりつき無意味な人生おくればいい
いくら慈悲を要しようとも。この世の理は1つ
何故生まれたのか明確な回答もないから悩みすがる
人の目的とは何かを少し哲学してみろ。慈悲何て無いことがわかる
生物として純粋にとらえれるか?無理だね君たちには
思考が神様だからしかも慈悲といいながら全て救えないことを知りつつ
あきらめ言い訳する。慈悲に恋こがれてるのは他者ではなく自分
自愛である。私は違う明日死ぬ覚悟をしてるから自愛は必要ない
悲しいかな君らはこれの意味する事もわからない >>264
それ事態が変更解釈である。ブッタは誰も救ってなどいない 271.
救っていない、か。
それは事実の問題か。
救う、という信仰の問題である。
その両者を区別する必要がある。 ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥー)
人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって、次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き、無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
ttp://www.wikidharma.org/index.php/%E3%81%97%E3%82%93%E3%81%9E%E3%81%8F%E3%81%AB%E3%81%9F%E3%81%84
真俗二諦
その当時のインドの人々にとって仏教を理解せしめるためには世間的な考えを一応認めて
さらにその理解のうえで
仏教を理解せしめるというやり方がとられねばならなかった
ttp://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った三種類の行為を行う(カルマを積む)
身体的な行為・言葉による行為・心による行為
無明している世界の中で
渇愛(タンハー)に依存して
誤ったあり方を掴んで離さないような固執が現れる(そして滅する)
献呈歌
現れることもなく滅することもなく
独自の性質がなく
そして概念的構築から解放されていることである
それゆえに
悟りとは
無明している世界の中の
>知識
ではないということであるらしい
ttp://suttanipata.com/a/
スッタニパータ
1026
無明が頭であると知れ
明智(智慧と慈悲)が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
↑この場合の信仰は
無明している世界の中から離れてる
如来の智慧による
『 慈悲の信仰 』 と言う意味も含まれているかもしれない
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
光り輝いている如来
この如来の智慧をもって
→ (慈悲の)信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
ttp://suttanipata.com/2017/06/07/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%80%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%83%E3%82%BF%EF%BC%99%EF%BC%96%EF%BC%97%E3%81%AE%E8%A7%A3%E8%AA%AC/
スッタニパータ
967
(光り輝いている如来の智慧をもって)
弱いものでも強いものでも(あらゆる生きものに)慈しみを以て接せよ http://www.geocities.jp/jbgsg639/sutta.html
ニーチェの読んだ『スッタニパータ』は、
Sutta Nipata by M. Coomaraswamy
Keywords: Buddhism; Pali; Canon; Tipitaka; Tripitaka; Khuddaka; Nikaya; Sutta; Nipata; translation Pages: 187
http://static.sirimangalo.org/pdf/coomaraswamysuttanipata.pdf
《僕はシュマイツナーの友人ヴィーデマン氏から、仏教徒たちの聖典heiligen Buchernの
ひとつとかいう『スッタ・ニパータ』の英語の本を借りた。そして『スッタ』の確乎たる
結句のひとつを、つまり「犀の角ように、ただ独り歩め」という言葉を僕はもうふだんの
用語にしているのだ。生の無価値とすべての目標の虚偽とにたいする確信が、しきりと、
ときには僕の心に迫 ってくるのだ、ことに病気でベッドに寝ているときなどにはね。
それで僕は『スッタ』からもっと多くのことを聞きとろうとしているのだ、ユダヤ=キリスト
教的な言い回しと結びつけないでね。
――(三行略)――
生に執着してはいけないということ、これは明白なことなのだ。だが、実際にもうなに
ものも意志しないということになったら、どこで僕たちは生に耐えていけるのだろうか?
認識せんと 意志することは、生の意志の最後の領域として、意志することと、もはや意志
しないことの、つまり煉獄の領域と涅槃の領域の中間地帯として、残されているように僕は
思うのだ。一方 には、不満を覚え、軽蔑しながら生をふりかえるかぎり、煉獄があり、
他方には、精神(ゼーレ)が生によって純粋観照の状態に近づくかぎり、涅槃があるのだ。》
(理想社ニーチェ全集第十五巻「書簡集T」塚越敏訳) http://37073327.at.webry.info/201512/article_2.html
《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むこと
がない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(五)*」
これは個人と個人との間で生かされる道理であるばかりでなく、国際的にも意味をもって
いる発言です。
ここで思い出すのは、第二次世界大戦のあとで講和条約が締結され、世界の諸国はわが国
に賠償を要求したのですが、その時にスリランカ国は、サンフランシスコ条約には参加しま
したが、賠償権を放棄しました。その時の声明の中に、この法句経のことばを引いているの
です。
なぜか。その時、スリランカの政府首脳たちは、仏典のこの文句をひいて言いました。
「戦いは終わったのだ。もはや怨みに報いるに怨みを以てすることをやめよう。この精神で セイロン(スリランカの旧国名)は世界の平和に貢献したい」と。》
中村元『原始仏典』
*ダンマパダ法句経より
新田章『ヨーロッパの仏陀』233頁によれば、同箇所をニーチェは以下の書からの孫引きで
『反キリスト者』(#20, (―“enmity never brings an end to enmity”: the moving refrain of all
Buddhism …. ))に引用している。
オルデンベルク『仏陀』(書肆心水)原著1881年刊行
http://www.shoshi-shinsui.com/book-buddha.htm
新田訳:
「なぜなら、敵意によりては敵意は終わらず、敵意無きことによって敵意は終わる、
これが昔からの秩序だからである」 276.
純粋観照、か。
その主体の問題である。
仏像は純粋観照の状態を表現したものである。
だからして、仏像になりたいか否かの問題である。
仏像礼拝は、その仏像に価値がある、ことを表現することになる。 参考:
キリスト教は邪教です!―現代語訳『アンチクリスト』 ニーチェ,フリードリッヒ・ヴィルヘルム(著)
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4062723123.html
http://blog.goo.ne.jp/zen9you/e/fea0ef6ba775f66d31871dd9fffa3107
19世紀ドイツの哲学者ニーチェの「アンチクリスト」の現代語訳
『仏教はキリスト教に比べれば、100倍くらい現実的です。仏教のよいところは
「問題は何か」と客観的に冷静に考える伝統を持っているところです。・・・そういう意味では
仏教は、歴史的に見て、ただ一つのきちんと論理的にものを考える宗教と言っていいで
しょう。』
『仏教が注意しているのは、次の二つです。
一つは、感受性をあまりにも敏感にするということ。なぜなら、感受性が高ければ高いほど、
苦しみを受けやすくなってしまうからです。そしてもう一つは、なんでもかんでも精神的な
ものとして考えたり、難しい概念を使ったり、論理的な考え方ばかりしている世界の中に
ずっといること。そうすると、人間は人格的におかしくなっていくのです。』
『仏教は良い意味で歳をとった、善良で温和な、きわめて精神化された種族の宗教です。
ヨーロッパはまだまだ仏教を受け入れるまでに成熟していません。仏教は人々を平和でほ
がらかな世界へ連れていき、精神的にも肉体的にも健康にさせます。
キリスト教は野蛮人を支配しようとしますが、その方法は彼らを病弱にすることによって
です。相手を弱くすることが、敵を飼い慣らしたり、文明化させるための、キリスト教的
処方箋なのです』 279.
仏教とキリスト教と。
それは方法論の相違である。
その内容は同じである。
キリスト教の神とは、それを説明したものが仏教の内容である。
神の内容を説明したものが仏教であることになる。
神の座から見れば、仏教の内容が見えるということである。
総論である。各論は個別に検討することになる。 「日本を破滅に導いた戦前の極右思想は、親鸞(1173〜1263年)の影響を受けていた」。
日本仏教の戦争協力といえば、満州事変を起こした石原莞爾(かんじ)らの国柱会など、日蓮系の団体が思い浮かぶ。
実は、親鸞の浄土真宗系も負けじと猛威を振るった。
戦前にリベラルな大学教授を排撃した極右団体「原理日本社」の中心には、親鸞を学んだ人々がいた。
政治や行政を改善しようとするあらゆる思考を「自力」だと攻撃した。
全面的な現状肯定と天皇中心の国体への忠誠こそ、いわば「他力」に導かれることだとした。
浄土真宗の教団本体も、戦争の激化に応じて「弥陀の本願=天皇の大御心(おおみこころ)」「浄土往生=靖国の神になる」と、極右も顔負けの主張に傾いた。
「そもそも、国体論の祖といえる本居宣長は、浄土教の影響を受けています」。本居が否定した「漢意(からごころ)」は「自力」、
日本古来のものとして肯定した「やまとこころ」は「他力」に従う精神に相当する。「論理が似ていたからこそ、親鸞思想は国体論にのみ込まれた」。
今の真宗教団は、反戦・護憲運動などが盛んだ。「ただし、『親鸞がこう言ったから戦争反対』と教義を道具にしたら戦前と同じ」なのである。
https://mainichi.jp/articles/20171029/ddm/015/070/015000c 信仰の受容とか裂け目とかは難しい問題だよ。宗教版へ
ベッドは向かない人もいるよ。僕自身もそう。病気が悪くなる。 281.
日蓮の批判とか天台教学の批判とか、をやっていないことが問題となる。
親鸞とか法然とかの浄土教の批判をやっていないことが問題となる。
それらを信仰するのはバカである、と認識すべきである。
日本神道もバカの代表である、ことを確定すべきである。
宗教は御利益があれば、なんでも良いとする日本人のバカさを問題とすべきである。 批判精神は哲学にはいいかもしれないけど、政治には向かないしなあ。 キリスト教は 後悔と贖罪の宗教だと思う。悪いことをしても
更生して立ち直れば癒しができるし、意外にしてマティックな宗教だが
そこまで単純ではない。
しかしカントの純粋理性批判の通り後悔は無意味だから、なにかはるもの
ができるような、現実的な宗教になり、仏教よりは、人間不信からの
リアルな宗教である面がある。プルーストやサルトルなど、
ヨーロッパのクリスタニズムは、シェイクスピアから同じようなテーマを扱っており、
そこからの回帰が皆にも叫ばれる。 《「実にこの世においては、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むこと
がない。怨みをすててこそ息む。これは永遠の真理である。(
永遠に―。 286.
怨み、か。
それは正義のために存在している。
よってして、それを捨てることは、正義を捨てることになる。
だからして、それは怨み、の問題である。
それが正義であるか否かの問題である。
そこにバカ感情論があることになる。 >>287
アンカーくらい使えるようになってから言えよバカ 正義か。うーん。ロールズの正義論じゃないけど、なかなか難しい
問題に思うけど。 例えばマッキンタイアは完ぺきじゃないけど、アメリカプラグマティズム以後なんて
なかなかいい正義だよ。 正義とか軽々しく口走るようなやつに哲学は向いてない諦めろ 哲学は、正義や道徳について考えるけど悪について無関心だな 悪という単語を発したものに悪が詰まっているというのか。 お前が相手に悪意を感じたとき相手もお前に悪意を感じている
類は敵を呼ぶ 家族の群れとイカれて孤立したオトコというのは
敵対しているのだとNETインプリントされすぎると
どう村八カツヲは
行動パターンとんお?? あたしゃ虐げられてマスみたいな顔してるヤツが
大っ嫌いなんだYO!! ・『『華厳経』と『モナドロジー』―村上俊江におけるライプニッツ受容』 酒井潔 (2014-03-01)
https://glim-re.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=3132&item_no=1&page_id=13&block_id=21
・村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 『華厳思想』 中村元編 (1960) >>265
紐氏は仏教で真に価値があるのは無我や縁起や空や悟りではなく、慈悲、自灯明、無記の三つとしていたから、
その持論に変わりがなければ「全て偽物だ」の>>263は紐氏とは違うね 以前、波平が「仏教は慈悲だ」と言って聞かなくなってしまったことがあったが、
その様な時にはどうするのがいいか? 龍樹の言葉に「空亦復空(くうやくぶくう)」というのがある。
空に達したところで、その空観もまた空ぜられねばならない、というもの。
方便として、仏教は「空である」とか、「慈悲である」とか説明されることがあるが、
それ自体が目的化されたり、執着する様になってしまっては本末転倒。
龍樹は、空という言葉を脱構築した。 イスラムには、ジュナイドの「ファナー(消滅)のファナー」というものがある。
これは、自我意識を消滅させる意識そのものの消滅、という無の体験。
参考
・井筒俊彦×ヘルマン・ランドルト 「スーフィズムとミスティシズム 」 (1984)
・井筒俊彦 『超越のことば』 (1991) 304.
それは心理学であるよ。
それは宗教ではないよ。 303.
空観を空ずる、か。
それは心理学であるよ。
それは宗教ではないよ。 こいつは何時になったらアンカーをつけられるようになるのだろうか >>308
俺は凡人とは違う……という何の意味のないちっぽけなプライドでやってるから付けないでしょ >>301 >紐氏は…自灯明…としていた
レスありがとうございます
ちなみに紐タソの場合は自灯明の意味を理解できてなかったと思いまつ
仮設としての
無明している世界の中の
地水火風空識の微粒子に依存している
色受想行識の仮の現れ(そして滅)の
この世界の自灯明ではなくて
− これに対処するための −
円成実性の世界は
無明している世界ではないので
それゆえに
現れることもなく滅することもない
涅槃(ニッバーナ)の世界
円成実性の世界から → 依他起性の世界を見る
光り輝いている如来そのものの
智慧と慈悲の自灯明法灯明という意味だと思いまつ
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものにも光り輝いている
如来そのものの智慧と慈悲が現れますように m(_ _)m
>>310 の補足
通常の場合は
仮設としての
無明している世界の中で
地水火風空識の微粒子に依存して
色受想行識の仮和合が現れ(そして滅し)ている
眼耳鼻舌身意
色声香味触法という意味だけど
− これに対して −
自灯明法灯明の場合は
無明している世界ではないという意味でつ
たぶん紐タソには意味が理解できないかもしれないけど…
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 311.
一切の如来の御足を礼拝し奉る、か。
気持ち悪いバカだなー。
全然として、その理論と会わない、よ。 人生哲学みたいになってるから、韻を踏むことが増えてだから、平和だから、
死兵、傷病兵が多かったんじゃないの? 313 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん
314 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん
315 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん >>300
村上俊江 「ライブニッツ氏と華厳宗」 1896年
でライプニッツと華厳宗の類似例として引用参照されたのは以下(村上はドイツ語で引用)、
モナドロジー
http://nam-students.blogspot.jp/2013/10/blog-post_1.html#note65
65.そして自然の創作者は、この神的な、限りなく驚嘆すべきわざを
ふるうことができた。なぜなら、物質のどの部分も、昔の人が認めたように無限に分割が
可能であるばかりでなく、各部分は実際にさらに多くの部分へと限りなく細分さ
れていて、その部分のどれもが固有の運動をしているからである。さもなけれ
ば、物質の各部分が宇宙を表出することは不可能であろう。
66. そこで、物質のどんな小さい部分にも、被造物の、生物の、動物の、エンテレケイアの、
魂の世界が認められる。
67. 物質のどの部分も植物に満ちた庭とか、魚でいっぱいの池のようなものと考えることが
できる。ただし、その植物のどの小枝も、動物のどの肢も、その体液のどの一滴も、やはり
同じような庭であり池なのである。
68. そして、庭の植物のあいだにある地面や空気、池の魚のあいだにある水は、植物や魚で
はないけれども、じつはやはり植物や魚を含んでいる。ただ、それらがあまりに微細なので、
ほとんどの場合われわれには見えない。
[華厳経に関しては漢文で引用、]
一一微塵中、見一切法界(華厳経第4巻)
以一仏土満十方、十方人一、亦無餘。(同上)…
遍満一切諸法界、一切毛孔自在現。(華厳経第3巻) 参考:
【華厳経に学ぶ】NHK Eテレビ『こころの時代』を見る
http://miyukikko.coc olog-nifty.com/blog/2015/10/nhke-cc54.html
「一毛孔(く)の中に 無量の仏刹(せつ)あり 荘厳清浄にして 昿然として安住す」(盧舎那仏
品)
一毛孔とは、とっても小さいもの。無量は限りない。仏刹は仏の国。昿然(こうねん)とは、ゆっく
りと、広々と。安住すとは、安定して存在している。
また、「一一の微塵の中に、一切の法界を見る」という言葉もある。そこから、華厳経教学の中で、「一即一切。一切即一」という論理が完成する。 ・法華は効能書きだけのアホダラ経
・浄土は仏教の自力救済の否定、仏教の否定
・禅は二項対立の否定、言語や知の否定
華厳は何?
モナドロジーみたいに部分が全体を反映しているとか? >>213
>本来の仏教
…
>>214
>チッタゴン:
>https://youtu.be/PTjmD5rVarc
特に禅は本来の仏教への遡行と言える
アルカイックな知恵の保持も大事だが 本来無一物
禅語に親しむ
http://www.jyofukuji.com/10zengo/2006/03.htm
菩提本(もと)樹無く
明鏡も亦(また)台に非ず
本来無一物
何れの処にか塵埃を惹かん
神秀上座は身は菩提樹と云われ、心は明鏡台と云われたが禅で言う空の世界・無の
世界にはもともと菩提も無く煩悩も無く身もなく心も無く、本来無一物である。
なんで塵や埃がつくことがあろうか、ましてや払ったり拭ったりすることもない。
と云う偈を示したのである。この「本来無一物」はまさに最上座の神秀の偈を
身分も最下位で、新参者の慧能が否定した内容の語を掲げたものだから、僧堂内は
大混乱となった。 華厳は華厳経という経典自体とその後の中国で華厳宗として展開された哲学自体は
あんまり関係ないとかも言われるよね
まあ、禅も法華も浄土も中国や日本で作られたもんだが
大乗自体が日本や中国やチベットにしか残らずしかもチベットは
密教や中観、唯識以外は相手にしていないんだろ 密教も日本とチベットで曼荼羅や道具とか同じ物から派生した宗教だとわかる
でも瞑想だなんだ中味のマニュアルは同じものとくくっていいのか
☆↓間違ってるかもしれないけどとりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)
立川流
…宥快らによって邪教とされ
立川流の典籍は焼き捨てられた
そのため伝存する資料が少なく実態は不明である
(それでも、とりあえず)
宥快の『宝鏡鈔』(14世紀)は
男女陰陽の道を即身成仏の秘術としているとして立川流を指弾し
男女交合を説いたことが一般に立川流の特徴とされている…
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10138686850
チベット仏教は、日本の仏教でいう真言宗に近いのでしょうか?
…中国では性的表現がほとんど訳経されなかった…?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%96%E3%83%A6%E3%83%A0
ヤブユム
インド、ブータン、ネパール、チベット
男性尊格が配偶者と性的に結合した状を描いたシンボル
女性 − 空性の智慧(自利)
男性 − 慈悲の方便(利他)
↑とういう感じであるらしい ☆
ttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106
月輪観(がちりんかん)
自己の心を満月輪のようであると観じる観法
…まず,心のなかに,あるいは面前に月輪を観想する
この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので
その月輪が円明無垢で光明が全法界に周遍する…と観じる
ttps://www.kosei-shuppan.co.jp/book/b274452.html
新アジア仏教史9 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ参照
…
チャンダーリの火
臍のチャクラに宿る熱
この熱の力で風(ルン)を中央脈管の中に導き入れ
それが脈管に入り留まり溶け込むことに習熟した時
菩提心である精液が溶け出し
それが中央脈管の中を上下に移動しながら
四つのチャクラを通過する時に四段階の歓喜が生じ
最終的には
源初から存在する(倶生)
大楽を元に楽空無別の智慧を獲得する
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C
理趣経(りしゅきょう)
十七清浄句
男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である モンゴル帝国のチベット仏教と同等のものが立川流として入ってきたが理解できなかったジャップランド人は邪宗扱いして潰してしまった ☆
↓なぜ理解できなかったのか、その理由は?
文献学的には
大乗経典のみならず
パーリ経典も釈迦の死後数百年にわたり(意図的に?)編纂されたものなので
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない
それでもとりあえず
スッタニパータの
第4〜5章がもっとも古く元は独立した経典だったと考えられている
ttp://suttanipata.com/2017/08/11/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%80-%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%AB%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A9%A9%E5%8F%A5%EF%BC%97-2/
スッタニパータ 773
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は解脱しがたい
他人が解脱させてくれるのではないからである
かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら
これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C
理趣経(りしゅきょう) 十七清浄句
男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である 釈迦の言葉だから有り難がるとか馬鹿げているけどな
まだ経典宗教だと預言者の言葉は神から授かる言葉だから
遡り確定する意味がある場合があるが
仏教はよくも悪くも単なるマニュアル、役に立てばそれでいい
釈迦が言ったか言わないかはどうでもいい
言った言葉でも役に立たなければ意味はないし
言ってないことでも役に立てばそれは不滅の真理
誰が言ったとか何を言ったは究極どうでもいい お経なんか釈迦を離れて上等、創作潤色変化してこそ上等だから
座禅も修行法も全てそう
釈迦とは直接関係ないし
後世の創作だし 実際法華思想が仏教思想の最上のものだしブッダ本人に拘るのは愚としかいいようがない 仏教は仏になる為の教えで歴史上のゴータマ・シッタルダをブッダと認めても
だから何?
単なる一範例にすぎない
商品見本、蝋でできたスパゲッティにしかすぎない
また、仏になることがそんなにありがたいことかと言うと……
単なるリラックス法、メンタルケア以外の意味はない
そんなのそこらにある 主客未分や、絶対矛盾的自己同一といった
西田哲学の中心には道元があった。 一即多、一即一切の華厳的記号学モデル
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
シニフィアンA/シニフィエaという単純な一対構造ではなく、
シニフィアンがAやBやCである時にもシニフィエは常に(a、b、c、d、e、、、)であるモデル。
Aの時には、相互に浸透し照合されたa、b、c、d、e、、、の中のaが強調される。
参考:井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (1989) デリダの「ロゴス中心主義の解体」による存在根拠解体のあと(後、跡)。
井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm
“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…” どれをやってもいいが、
マインドフルネス、リラクゼーション、ヒーリング、スピリチュアルなどと
仏教は別物。 >>343
https://lh3.googleusercontent.com/-Q3-S8PaYTQ8/Wgrz2RkyWpI/AAAAAAABWw0/dlvOSDMJKXAPjpbAfFPUgkY_liIoTQ_cwCHMYCw/s640/blogger-image--1277085039.jpg
《「理」が「事」に自己分節するというのは、ものが突然そこに出現することでなくて、第一次的には、無数の存
在エネルギーの遊動的方向線が現われて、そこに複雑な相互関連の網が成立すことだったのです。
この状態においては、ものはまだ無い。ものは無くて、関係だけがある。A B C D.....というような、いわゆる
ものは、すベて「理」的存在エネルギーの遊動する方向線の交叉点に出来る仮の結び目にすぎません。出来上っ
た結果からいえば、だから、ABCD……等すべてのものは、相依り相俟って、すなわち純粋相互関連性におい
てのみ、それぞれがAであり、Bであり、C……であるのです。》井筒俊彦全集#9:46頁 >仏教はよくも悪くも単なるマニュアル、役に立てばそれでいい
↓涅槃(ニルヴァーナ)に戻る帰るための導き
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
サティ
マインドフルネス
八正道の一つで仏教における瞑想の基礎的な技術の一つ
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon03.htm#no18
青目(ピンガラ) 中論 觀法品 第十八
八正道を修習しながら
我と我所との因縁を滅すれば無我や無我所という智慧を得る
ttp://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は瞑想と智慧を通して生じるのである
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめ
とりあえず心(識)は仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考え
最終的には阿羅耶識もまた『空性である』とする
ttp://suttanipata.com/acyafcafaafafaafaea/
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
すべて一切の諸法も『空性である』と観察せよ 阿含経に比べたら、法華経なんて明らかに釈迦の権威を強調するため後世に作られたものだとわかる
平易な言葉を使って当然のことしか言ってなかったのが、菩薩が地の底から無限に湧いてきたり
SFみたいなことになるのは明らかにおかしい “そのとき仏は眉間の白い棬毛(白毫)から一条の光を放たれた。
そのとき、東方において、ガンジス河の砂の数にひとしい五百万億ナユタの国土の諸仏が見えた。
それらの仏国土は皆、玻璃を大地とし、宝石の樹や衣で飾られ、
無数千万億の菩薩がその中に充満し、あまねく宝石を鏤めた幔幕を張り、
宝石で飾られた網で覆われているのが見えた。
…南・西・北・南西・北西・南東・北東・上・下の方角でも、
白い棬毛から放たれた光に照らし出されたところは、皆、このようであった。”(見宝塔品 第十一)
“また、諸仏は体の相が金色であり、
無量の光を放って一切を照らし、
清らかな音声で教えを説かれる。”(安楽行品 第十四)
― 法華経 この辺の成立は紀元100年頃。
ヒンドゥーの影響だろうか。
SFでもこれを超えるのは至難。 ブッダが当たり前のことしかいわなかった相当バイアスかかってるよな >>351
そりゃそうよ
法華経はバカヴァットギーターに匹敵するインド思想の極致だからな ヘーゲル…大乗仏教
カント…原始仏教
ライプニッツ…華厳経
華厳経…ネバーエンディング・ストーリー
法華経…スター・ウォーズ
空海…マトリックス 華厳経
> 華厳経「入法界品」は、スダナという名の少年(善財童子)が仏教に目覚め、
> 文殊菩薩の勧めにより、53人の善友(善知識)のもとを次々に訪ねて教えを乞い、
> その旅の最後に弥勒菩薩や普賢菩薩にも教えを受けて、ついには悟りの世界(法界)に入るという物語。
>
> 53人の善友の中には、菩薩や修行僧だけでなく、
> 女神や仙人、バラモン、船頭、医者、商人、子供、遊女なども含まれており、
> 仏法というものは、職業や身分、年齢や性別などには関係なく、
> いかなる人からでも学びうることが象徴的に説き示されている。 (1)『善財童子 求道の旅―華厳経入法界品華厳五十五所絵巻より』 森本公誠 (1998)
(2)『口語全訳 華厳経 全2巻』 江部鴨村 (1928/2006)
1. 抄訳。絵巻を見ながら、華厳経の物語世界を知ることが出来る。
2. 華厳哲学といわれるものに触れるには、全訳を読むのがいい。 自分が推薦するのはこの二冊
東洋の合理思想 (1970年) (講談社現代新書) 末木 剛博
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9BWPY/
インド人の論理学―問答法から帰納法へ (中公新書) 桂 紹隆
https://www.amazon.co.jp/dp/4121014421/
特に前者は幅広くわかりやすくてオススメ
仏教(vs.バラモン)の論理学的側面を知るには後者 天台智による教相判釈を千年以上立った今でもまだ信じてるやつがいるのか
仏教学において法華経が最高峰などと言う根拠はないし、そのような通説など全く無い 法句経は俳句
華厳経はシンフォニー
法華経はヒップホップ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています