仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
密教も日本とチベットで曼荼羅や道具とか同じ物から派生した宗教だとわかる
でも瞑想だなんだ中味のマニュアルは同じものとくくっていいのか
☆↓間違ってるかもしれないけどとりあえず
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%8B%E5%B7%9D%E6%B5%81_(%E5%AF%86%E6%95%99)
立川流
…宥快らによって邪教とされ
立川流の典籍は焼き捨てられた
そのため伝存する資料が少なく実態は不明である
(それでも、とりあえず)
宥快の『宝鏡鈔』(14世紀)は
男女陰陽の道を即身成仏の秘術としているとして立川流を指弾し
男女交合を説いたことが一般に立川流の特徴とされている…
ttps://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10138686850
チベット仏教は、日本の仏教でいう真言宗に近いのでしょうか?
…中国では性的表現がほとんど訳経されなかった…?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A4%E3%83%96%E3%83%A6%E3%83%A0
ヤブユム
インド、ブータン、ネパール、チベット
男性尊格が配偶者と性的に結合した状を描いたシンボル
女性 − 空性の智慧(自利)
男性 − 慈悲の方便(利他)
↑とういう感じであるらしい ☆
ttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106
月輪観(がちりんかん)
自己の心を満月輪のようであると観じる観法
…まず,心のなかに,あるいは面前に月輪を観想する
この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので
その月輪が円明無垢で光明が全法界に周遍する…と観じる
ttps://www.kosei-shuppan.co.jp/book/b274452.html
新アジア仏教史9 チベット 須弥山の仏教世界 165ページ参照
…
チャンダーリの火
臍のチャクラに宿る熱
この熱の力で風(ルン)を中央脈管の中に導き入れ
それが脈管に入り留まり溶け込むことに習熟した時
菩提心である精液が溶け出し
それが中央脈管の中を上下に移動しながら
四つのチャクラを通過する時に四段階の歓喜が生じ
最終的には
源初から存在する(倶生)
大楽を元に楽空無別の智慧を獲得する
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C
理趣経(りしゅきょう)
十七清浄句
男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
男女の愛も、清浄なる菩薩の境地である モンゴル帝国のチベット仏教と同等のものが立川流として入ってきたが理解できなかったジャップランド人は邪宗扱いして潰してしまった ☆
↓なぜ理解できなかったのか、その理由は?
文献学的には
大乗経典のみならず
パーリ経典も釈迦の死後数百年にわたり(意図的に?)編纂されたものなので
近代の文献学上は
原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない
それでもとりあえず
スッタニパータの
第4〜5章がもっとも古く元は独立した経典だったと考えられている
ttp://suttanipata.com/2017/08/11/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%80%80-%E6%B4%9E%E7%AA%9F%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E3%81%AE%E5%85%AB%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A9%A9%E5%8F%A5%EF%BC%97-2/
スッタニパータ 773
欲求にもとづいて生存の快楽にとらわれている人々は解脱しがたい
他人が解脱させてくれるのではないからである
かれらは未来をも過去をも顧慮(こりょ)しながら
これらの(目の前の)欲望または過去の欲望を貪(むさぼ)る
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86%E8%B6%A3%E7%B5%8C
理趣経(りしゅきょう) 十七清浄句
男女交合の妙なる恍惚は、清浄なる菩薩の境地である
欲望が矢の飛ぶように速く激しく働くのも、清浄なる菩薩の境地である 釈迦の言葉だから有り難がるとか馬鹿げているけどな
まだ経典宗教だと預言者の言葉は神から授かる言葉だから
遡り確定する意味がある場合があるが
仏教はよくも悪くも単なるマニュアル、役に立てばそれでいい
釈迦が言ったか言わないかはどうでもいい
言った言葉でも役に立たなければ意味はないし
言ってないことでも役に立てばそれは不滅の真理
誰が言ったとか何を言ったは究極どうでもいい お経なんか釈迦を離れて上等、創作潤色変化してこそ上等だから
座禅も修行法も全てそう
釈迦とは直接関係ないし
後世の創作だし 実際法華思想が仏教思想の最上のものだしブッダ本人に拘るのは愚としかいいようがない 仏教は仏になる為の教えで歴史上のゴータマ・シッタルダをブッダと認めても
だから何?
単なる一範例にすぎない
商品見本、蝋でできたスパゲッティにしかすぎない
また、仏になることがそんなにありがたいことかと言うと……
単なるリラックス法、メンタルケア以外の意味はない
そんなのそこらにある 主客未分や、絶対矛盾的自己同一といった
西田哲学の中心には道元があった。 一即多、一即一切の華厳的記号学モデル
A ([a]、b、c、d、e、、、)
B (a、[b]、c、d、e、、、)
C (a、b、[c]、d、e、、、)
[ ]は強調
シニフィアンA/シニフィエaという単純な一対構造ではなく、
シニフィアンがAやBやCである時にもシニフィエは常に(a、b、c、d、e、、、)であるモデル。
Aの時には、相互に浸透し照合されたa、b、c、d、e、、、の中のaが強調される。
参考:井筒俊彦 『コスモスとアンチコスモス』 (1989) デリダの「ロゴス中心主義の解体」による存在根拠解体のあと(後、跡)。
井筒俊彦氏「事事無礙・理理無礙ーー存在解体のあと」 要約
http://www.furugosho.com/nomadologie/izutsu1-resume.htm
“事物を事物として成立させる相互間の境界線あるいは限界線
ーー存在の「畛」的枠組みとでもいったらいいかと思いますがーー
を取りはずして事物を見るということを、古来、東洋の哲人たちは知っていた。
それが東洋的思惟形態の一つの重要な特徴です。
「畛」的枠組みをはずして事物を見る。
ものとものとの存在論的分離を支えてきた境界線が取り去られ、あらゆる事物の間の差別が消えてしまう。
ということは、要するに、ものが一つもなくなってしまう、というのと同じことです。
限りなく細分されていた存在の差別相が、一挙にして茫々たる無差別性の空間に転成する。
この境位が真に覚知された時、禅ではそれを「無一物」とか「無」とか呼ぶ…” どれをやってもいいが、
マインドフルネス、リラクゼーション、ヒーリング、スピリチュアルなどと
仏教は別物。 >>343
https://lh3.googleusercontent.com/-Q3-S8PaYTQ8/Wgrz2RkyWpI/AAAAAAABWw0/dlvOSDMJKXAPjpbAfFPUgkY_liIoTQ_cwCHMYCw/s640/blogger-image--1277085039.jpg
《「理」が「事」に自己分節するというのは、ものが突然そこに出現することでなくて、第一次的には、無数の存
在エネルギーの遊動的方向線が現われて、そこに複雑な相互関連の網が成立すことだったのです。
この状態においては、ものはまだ無い。ものは無くて、関係だけがある。A B C D.....というような、いわゆる
ものは、すベて「理」的存在エネルギーの遊動する方向線の交叉点に出来る仮の結び目にすぎません。出来上っ
た結果からいえば、だから、ABCD……等すべてのものは、相依り相俟って、すなわち純粋相互関連性におい
てのみ、それぞれがAであり、Bであり、C……であるのです。》井筒俊彦全集#9:46頁 >仏教はよくも悪くも単なるマニュアル、役に立てばそれでいい
↓涅槃(ニルヴァーナ)に戻る帰るための導き
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B5%E3%83%86%E3%82%A3_(%E4%BB%8F%E6%95%99)
サティ
マインドフルネス
八正道の一つで仏教における瞑想の基礎的な技術の一つ
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon03.htm#no18
青目(ピンガラ) 中論 觀法品 第十八
八正道を修習しながら
我と我所との因縁を滅すれば無我や無我所という智慧を得る
ttp://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の停止は瞑想と智慧を通して生じるのである
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%91%9C%E4%BC%BD%E8%A1%8C%E5%94%AF%E8%AD%98%E5%AD%A6%E6%B4%BE
瑜伽行唯識(ゆがぎょうゆいしき)
瑜伽(ヨーガ)の実践の中に唯識の体験を得て教理にまとめ
とりあえず心(識)は仮に存在すると考え
深層意識の阿頼耶識が
自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考え
最終的には阿羅耶識もまた『空性である』とする
ttp://suttanipata.com/acyafcafaafafaafaea/
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
すべて一切の諸法も『空性である』と観察せよ 阿含経に比べたら、法華経なんて明らかに釈迦の権威を強調するため後世に作られたものだとわかる
平易な言葉を使って当然のことしか言ってなかったのが、菩薩が地の底から無限に湧いてきたり
SFみたいなことになるのは明らかにおかしい “そのとき仏は眉間の白い棬毛(白毫)から一条の光を放たれた。
そのとき、東方において、ガンジス河の砂の数にひとしい五百万億ナユタの国土の諸仏が見えた。
それらの仏国土は皆、玻璃を大地とし、宝石の樹や衣で飾られ、
無数千万億の菩薩がその中に充満し、あまねく宝石を鏤めた幔幕を張り、
宝石で飾られた網で覆われているのが見えた。
…南・西・北・南西・北西・南東・北東・上・下の方角でも、
白い棬毛から放たれた光に照らし出されたところは、皆、このようであった。”(見宝塔品 第十一)
“また、諸仏は体の相が金色であり、
無量の光を放って一切を照らし、
清らかな音声で教えを説かれる。”(安楽行品 第十四)
― 法華経 この辺の成立は紀元100年頃。
ヒンドゥーの影響だろうか。
SFでもこれを超えるのは至難。 ブッダが当たり前のことしかいわなかった相当バイアスかかってるよな >>351
そりゃそうよ
法華経はバカヴァットギーターに匹敵するインド思想の極致だからな ヘーゲル…大乗仏教
カント…原始仏教
ライプニッツ…華厳経
華厳経…ネバーエンディング・ストーリー
法華経…スター・ウォーズ
空海…マトリックス 華厳経
> 華厳経「入法界品」は、スダナという名の少年(善財童子)が仏教に目覚め、
> 文殊菩薩の勧めにより、53人の善友(善知識)のもとを次々に訪ねて教えを乞い、
> その旅の最後に弥勒菩薩や普賢菩薩にも教えを受けて、ついには悟りの世界(法界)に入るという物語。
>
> 53人の善友の中には、菩薩や修行僧だけでなく、
> 女神や仙人、バラモン、船頭、医者、商人、子供、遊女なども含まれており、
> 仏法というものは、職業や身分、年齢や性別などには関係なく、
> いかなる人からでも学びうることが象徴的に説き示されている。 (1)『善財童子 求道の旅―華厳経入法界品華厳五十五所絵巻より』 森本公誠 (1998)
(2)『口語全訳 華厳経 全2巻』 江部鴨村 (1928/2006)
1. 抄訳。絵巻を見ながら、華厳経の物語世界を知ることが出来る。
2. 華厳哲学といわれるものに触れるには、全訳を読むのがいい。 自分が推薦するのはこの二冊
東洋の合理思想 (1970年) (講談社現代新書) 末木 剛博
https://www.amazon.co.jp/dp/B000J9BWPY/
インド人の論理学―問答法から帰納法へ (中公新書) 桂 紹隆
https://www.amazon.co.jp/dp/4121014421/
特に前者は幅広くわかりやすくてオススメ
仏教(vs.バラモン)の論理学的側面を知るには後者 天台智による教相判釈を千年以上立った今でもまだ信じてるやつがいるのか
仏教学において法華経が最高峰などと言う根拠はないし、そのような通説など全く無い 法句経は俳句
華厳経はシンフォニー
法華経はヒップホップ 天台が、法華経を最高経典とした五時八教の教判のなかで根拠に掲げた無量義経は
紀元後700年前後に中国で創作された偽経であると認定されている 「あなたの知らない「仏教」入門」 正木 晃
詳しい。仏教学者として信頼できる。いろいろ勉強になったが、
いちばん興味深かったのは、理趣経のところ。
「理趣経」は、男女の性行為によって得られる快楽は、本来限りなく清らかで、そのまま菩薩の境地に他ならない。
例え三界の一切衆生を殺害したとしても、地獄に落ちることはない。
と書いてあるお経で、これを知っていたのが空海、知らなかったのが最澄。
ぼくが空海の「風信帖」を暗号として読み、
「君子の徳は恵みを得、法律に則らず、思うがままに行動でき、やがてそれが法律になる」と解いたことと
関係あるかもしれない。性行為と殺人の許しである「理趣経」が、
空海と最澄で交わされた手紙の内容であることを考えると、この「風信帖」の暗号解読は合ってると思う。
暗号の解き方は、縦に書いてある空海の手紙をいちばん上の文字だけ横に読む。
つまり、京都を征圧している延暦寺で、殺人と性行為を禁止して、
それを高野山がいただいているというのが日本の仏教界の構造だったんだろうな。
徳川家康の伊賀越えまでつづいたっぽいな。
そして、江戸時代は東京と日光東照宮でやってたわけか。 「増補・性と呪殺の密教」 正木晃
170位/722作品。日本語小説。
名著。チベット仏教に極めて詳しい。オウム真理教の裁判に識者として関わった仏教関係者による仏教解説本である。
ぼくが殺しを極めて悟りに至る「外道密教」、
性行為を極めて悟りに至る「左道密教」と呼んでいるものを包括して記述してある。
顕教、密教。雑密、純密。古訳、新訳。などの用語が格好いい。
九尾の狐とはダキニのことであり、ダキニについてはいまだよくわからないが、被差別階級の美女を指すらしい。
ダキニを妻として性行為を行う「無上のヨーガ」によって悟るのがチベット密教の一派であるという。
仏教の参考文献が豊富で助かる。 「空の思想史」 立川武蔵
この世界を実体のないものと考える空観、
この世界を実体のあるものとして考える仮観、
空観と仮観を同時に行う中観、
この一心三観は日本仏教の中軸だと思うが、
これが匿名掲示板で天台宗の円融によって始まったと聞いていたが、
それはまちがいで、中国の仏僧によって始まっていたことがわかってよかった。
一心三観と無上瑜伽タントラこそ、日本仏教の真髄だと思う。 冷静になって考えろ、紀元後700年に創作された無量義経が、法華三部経の序論となる訳がないだろう
しかも、驚くことに無量義経には法華経が最高の教えだ、などという記述などどこにも入ってない
天台が仏教を五段階に分類して、無量義経の中で正法と記述された箇所を、最終段階に据えた法華経のことに
相違ないと推測したにすぎない、事実は釈迦の教義全般を正法とするのが一般的解釈だ 霊鷲山におけるブッダは
ウッドストックにおけるジミヘンみたいなもの
人類史における頂点であることに変わりはない 日本の僧には、インドまで言って原典に向き合うという経験がなかったからそれが限界 日本において、仏教が果たした役割は、今で言うと西洋近代化の
科学技術、民主主義、自由主義に近いんだよね。
ここがわからないと日本の仏教はまったくわからない。
仏教が広がる以前の日本は、迷信、ドグマの世界。
特に日本人は祟り、穢れを恐れた。
人を死に貶める伝染病みたいな感じ。
空海が名をあげたのも、雨乞いの祈祷だった。
祟りによる日照り、飢饉を、回避する。
仏教の一番の力は、清めること。
怨霊を成仏させたり、穢れを清めたり、
それによって、いままで人が近寄れなかった暗部を清め、開拓した。
昔話でも、鬼とか妖怪を、坊さんが退治するという話しがあるが、まさにそれ。
その最大が死。いままで穢れると避けられていた死を、
清めて、成仏させる。
人々は葬式を上げることができるようになった。
そして、倫理。
偏見、差別、欺すなど、まだ野蛮な日本人を、
慈悲を教えることで、倫理的な人間に、いまでいうリベラルな人間に作り替える。
さらに仏教はその時代の実働的な能力もあった。
読み書きを教える。
法など、社会の仕組みを教える。
また実際に多くの僧侶は全国ネットワークを使って、商人としての流通を担っていた。
村々に、貨幣を流通させる。あるいは金貸しのようなこともする。
すなわち野蛮な日本人を、リベラルで知的な人間へ変える。
そして生活も迷信をドグマを取り払い、文明化させる。 進歩史観風に言えば、
自然信仰、倫理的に低い野蛮な日本人
→ 仏教により倫理的、客観的、知的 (庶民レベルでいえば、戦国時代〜江戸時代)
→西洋近代化、科学技術、民主主義
しかし一部では、むしろ仏教による改革の方が進んで面がある。
それが慈悲。職分主義。勤勉。
西洋近代化は、科学技術の進歩によって、物質的に豊かにするが、
個人主義に陥り、経済的な格差を生む。孤独を生む。 そう、日本で庶民レベルで仏教が広まった一つが、平安時代、源信の往生要集。
これは、死後の極楽、地獄を絵的に臨場感たっぷりに書かれている。
良いことをすれば極楽に、悪いことをすれば地獄に落ちてこんなひどい目に合う。
だから生きてるうちに慈悲を施しなさいと言うわかりやすい道徳本。 空もなにもない。
このわかりやすくが受けて、庶民レベルに仏教倫理が受け入れられた。
鎌倉時代の歎異抄はいわば、この幼稚な仏教観への対向になっている。
善行をすれば極楽に、そんなもんじゃない。
鎌倉以降が新仏教と言われる一つが、庶民レベルに仏教の真髄である空が教えられていくところにある。
それでも、この極楽、地獄観のわかりやすさは、日本人の死生観としていまも当たり前に根付いている。 >>
善人でさえ浄土に往生することができるのです。まして悪人はいうまでもありません。
ところが世間の人は普通、「悪人でさえ往生するのだから、まして善人はいうまでもない 」 といいます。
これは一応もっともなようですが、本願他力の救いのおこころに反しています。
なぜなら、自力で修めた善によって往生しようとする人は、ひとすじに本願のはたらきを信じる心が欠けているから、
阿弥陀仏の本願にかなっていないのです。
しかしそのような人でも、自力にとらわれた心をあらためて、本願のはたらきにおまかせするなら、
真実の浄土に往生することができるのです。
「歎異抄」3章
<<
親鸞の歎異抄にしても、読みやすいが精神的に高度にリベラルだよね。
親鸞は地方に飛ばされて、そこで教えを広めたが、
倫理的に低い野蛮な人々の世界だったと思う。
そこでわかりやすいように、倫理を広めていった。
リベラル的な人間改造を行っていった。
それはまた教育となって、生産性の向上にも繋がる。 日本人も空を学び覚醒するにも長い時間がかかっているということ。
そんな簡単なことではない。
空を学ぶというのも、知識としてではなく、勤勉の実践によりにだし。
平安時代の幼稚な仏教観の時は、慈悲ポイントを貯めるみたいな気軽さがある。
いじめられた亀を助ける。慈悲ポイントを5点!
死ぬまでに100点貯めて、極楽に行こう!的な。 参考:
河口慧海 (1866-1945)
チベット旅行記
http://www.aozora.gr.jp/cards/001404/files/49966_44769.html
原書の存在地 ところでこのごろ原書はインドにはほとんどないらしい。もっともセイロンには小乗の仏典はあるけ
れどもそれはもちろん我々にとって余り必要のものでない。最も必要なのは大乗教の仏典であります。しかるにその
大乗教の仏典なるものは仏法の本家なるインドには跡あとを絶って、今はネパールあるいはチベットに存在して居ると
いう。その原書を得る為にはぜひネパールあるいはチベットに行かなくてはならぬ。なお欧米の東洋学者の説による
とチベット語に訳された経文は文法の上からいうても意味の上からいうてもシナ訳よりも余程確かであるという。
その説はほとんど西洋人の間には確定説かくていせつのようになって居ります。はたしてチベット語の経文が完全
に訳せられてあるものならば、今日の梵語ぼんごの経文は世界にその跡を絶ったにしてもそのまたチベット語に訳さ
れた経文によって研究することが出来る。なおチベットの経文と漢訳の経文とを比較して研究するのも余程学術上
面白い事でもありまた充分研究すべき価値のある事であるから、これを研究するにはぜひチベットに行ってチベット
語をやらなければならぬという考えが起りました。この考えがつまり
入蔵を思い立った原因 でありまして、ちょうどその時が明治二十六年の四月で今より満十年余以前のことでござり
ますけれども、チベットは厳重げんじゅうに鎖国主義を実行して居る国で、有力なる西洋人が沢山の金を費やし多く
の光陰こういんを費やし種々の準備を調ととのえて行ってすらも今日失敗に帰して居る者が多い中に、我々ごとき
一介の貧僧が出掛けたところがはたして目的を達することが出来るかどうか。
…
ちなみに河口慧海はインドへも行っている インドへ誰の助けもなくいけるものではない。感謝が大事だ。自分を消す。 仏教もヒップホップもそうだけど
本流無視し過ぎじゃね?
仏教はインド
ヒップホップはアメリカ ネパールでは九法宝典の一つである法華経
法華経はグローバルかつ本流 広まってるということと価値あることは全く次元が異なる
週刊プレイボーイがいくら広く読まれても学術的に権威があるなどとは言わないだろう >>379
頭から大乗仏教しか価値がないと判断してそれしか探しにいってない
しかも、イスラム制圧後に仏教が退廃したインドに渡ってもね
インドで仏教研究が盛んなりしとき中国からは何人も僧が研学に訪れている >>371
空海の根拠ない密教優位論よりも円密一致を説く最澄の方が進んでいるな
実相般若の世界からの
般若の智慧によって観照して
ttp://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
空海
護摩の思想
火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって → 煩悩を焼く
(涅槃に触れて)白い光をもって → 黒い煙を(焼き尽くし)滅する
ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法
ゲシェ・チェカワ『七事の心の訓練法』
無明している世界の中の
すべて一切の諸法は夢の如し
息を吐く時に自分の幸せを白い光の形で衆生に与え
息を吸う時には衆生の苦しみを黒い煙の形で受け取る
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものにも
光り輝いている
如来の智慧と慈悲が現れますように
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%99%AE%E7%A4%BC%E7%9C%9F%E8%A8%80
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>385
河口慧海は医者だから学びに行って人助けをしたという
真に仏教的人物 仏教的なのと教学は別だよ、仏教とは無関係の分野にも仏教的な人は大勢いる
尤も仏教は実践の学問であるから教学に精通しているから行や振る舞いは問われないと
言うことにはならない >>373
空海は入唐後3〜4ヶ月でサンスクリット語をマスターしてサンスクリット版般若心経や華厳経を読破した後、
恵果に弟子入りし密教の経典や真言など全てサンスクリット語で伝授されていたはず。 マスターしたってって本当にサンスクリットという言語をマスターしたわけじゃないだろ
密教で使うマントラ関係の語学部分を教授されただけ >>392
釈迦本人が書いた経典などなく、残したのは日記的なポエムだけだ。
弟子が経典を書いただけ。 ,,;;-───‐-;;,, ・〜
〜・ /;∴;∵;∴;∵;∴ヽ
彡∵;∴;∵;∴;∵;∴ミ
( ( r、 彡;;-・==-;∴;-==・-;;ミ ・〜
| 〉^へ‐L,/):.:o)∴∵∴;ミ
i/ ' ' .,イ__∵∴∵〉 ・〜
〜・ 〈 /;|:::::::::::|;∴;∵ノ_ < 僕は pikarrr 40才の アウアウアー (^ρ^)
〉‐- ,,__,/;;;;l⌒⌒ノ;;;;;;ノ'~ /ヽ
/゛ 〈 `ーu′ l i
| 〉 土人ニート . | |
\,,_/ ,, # 禊 健太郎 | .|
|___,,___,,,_,,_ノ. ノ
|. (x) 9 /
| ヽ、_. _,ノ彡 イ
.| (U) .|
ヽ 人 ノ
.
___ ____
゙=c_ \ /_っ='
く:::\ /:::>'
\::::\ ...-ー、,-─ /::::/
\ -=ニ=- -=ニ=- /
\.. / ー-' ヽ /
\::.| ト‐=‐ァ' |: / さてとっ オナニーでも しましょうかな? ウヘヘヘヘヘヘッww♪
|::| ` `二´' |:|
,r――--、,,_ノ r、 三 η ヽ___,,.―‐-、
( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ 禊健太郎 ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
/ ::ヽ (_ヽ \、
(。m。ノ `ヽ、_nm 人i
ノ:;;,ヒ=-;、
(~´;;;;;;;゙'‐;;;)
,i`(;;;゙'―---‐'ヾ
ヽ;;';ー--―-、'';;;;;゙)
/:::# 禊健太郎 \
/:::" 中年中卒ヒキニート ヽ
,i :: -=ニ=- -=ニ=- i
\.. / ー-' ヽ. /
\::.| ト‐=‐ァ' |.:./ ウヘヘヘッ オエッ オエッ オエッ (^Q^)
. \ `二´ '/
,r――--、,,_ノ r、 三 η L___,,..-―‐- 、
( 〃ヽヽ //ヾヽ )
ヽ `ヽ、 ⊂ニpikarrrニ⊃ ,r'' /
ヽ } ` ー-ヾヽ// ヽヽ〃ー‐''7 /
ヽ .{ ι' 三 ヽ) {. /
/ ::ヽ (_ヽ \、
(。m。ノ 💩 `ヽ、_nm https://i.imgur.com/x03Xebz.jpg
重要文化財 二河白道図(にがびゃくどうず) 鎌倉時代・13世紀 京都・光明寺蔵
阿弥陀「私が守るから来なさい」
<極楽浄土>
_______ _________
百||
南側 歩|| 北側
火の河 ほ|| 水の河
憎しみ ど|| 貪欲
||
|白
|い
|道
|(4、5寸、15cmほど)
||
_______||__________
ある往生者
二人連れ 釈迦「決心してこの道を行きなさい」
(聖道門=自力)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
(↑下から上へと順に見てゆくように構成されている) >>400
唐の時代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧、善導大師(613-681)の『觀無量壽佛經疏』
第四「散善義」にある二河白道の比喩(二河喩)を絵画化したもの。上の絵はこの画題とし
ては最古。
善導大師による比喩は、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集』第八章「念仏行者必可
具足三心之文」で、親鸞(1173-1262)も『教行信証』信巻他で紹介している。
法然、親鸞以外にも、一遍(1239-1289)にもこの絵(というより画題)は深く関わる。
『一遍聖絵』によれば、文永八年(1271年)の春、信州善光寺に訪れた一遍は、参籠に参籠
を重ねた末に、自らさとりを得て、「二河白道」の図を本尊として描いたという。
https://i.imgur.com/oXFMfG5.jpg
(一遍上人絵伝における二河白道図を前にする一遍) ( 'A`) >>400 うちの近所の浄土宗の寺に「二河白道図」が飾ってあった。
_φ___⊂)_ 子供の頃のおれは「こんなの嘘っぱちだあ」といったら、
/旦/三/ / お寺の坊さんに「あなたは地獄落ちです」っていわれて、
仏教って極悪だなあって思ってた。 ( 'A`) 波平が、論理は認識を超越しているっていってて、
_φ___⊂)_ まったくカント哲学を理解していないって思ったけど、
/旦/三/ / 論理は認識を超越しているってのは、朱子学か老荘思想で、中国思想だったみたいだ。
波平の哲学は真理だとは考えないけど、東洋思想中心にやってる波平なりにがんばってるんだなと見直した。 >>404
>( 'A`) 波平が、論理は認識を超越しているっていってて、
そんなこと言ったことはないが?
カントなんてエセ小説家でなく、ヒューム先生からわかるだろう >>404
>/旦/三/ / 論理は認識を超越しているってのは、朱子学か老荘思想で、中国思想だったみたいだ。
なんで老荘???
朱子学の突然の論理重視は中国史的にも不思議。
ボクはキリスト教によりプラトン主義的なものが取り入れられたと睨んでいる。
朱子学は構造がプラトン主義と似すぎている。 ( 'A`) あんた、波平だったのかよ。
_φ___⊂)_ あんたのブログに書いてある哲学入門書にそう書いてあったぞ。
/旦/三/ / それが中国の文献で発見できたよ。頭整理しておけよ、あんたさあ。 老荘は、儒教のカウンターをもとにしてる。
秩序を否定する、無の思想だ。
中国の論理と言えば、名家とか、なんかそんなやつだろう。 ( 'A`) 波平は見栄っぱりだから、議論はできない。
_φ___⊂)_ 2ちゃんでは平気で嘘で誤魔化せばいいと思ってる輩だ。
/旦/三/ / まったく、ろくな哲学板コテがいないな。 ( 'A`) 波平は見栄っぱりだから、議論はできない。
_φ___⊂)_ 2ちゃんでは平気で嘘で誤魔化せばいいと思ってる輩だ。
/旦/三/ / まったく、ろくな哲学板コテがいないな。 法華経を学ばなければ仏教哲学を理解したとはいえない 阿含経と法句経だけでいい、大乗仏教なんてもんは完全な創作
宗教はどこまでいっても主観的なもんでしかなく広めようとした時点でウソになるし争いが生ずる
仏教は平和的な宗教と言うが、日本でも散々抗争を繰り広げてきた歴史がある >>416
馬鹿?
≪『宗派間の思想的相違』による抗争≫の例を挙げてみ? あごんと発句経だけでいいって算数だけで数学は勉強しなくていいってレベルだなw >>417
お前は無知か、法華宗と一向宗はさんざん抗争を繰り返してる
キリスト教だって、突き詰めれば単なる勢力争いだ
比叡山や一向宗が武装集団だったことも知らないのかこの無知のカスが >>419
w
長い日本仏教史の中で、たった一例かw
で、その思想的抗争の原因は、両者のどういう違いから発生したんだ?
「面子」「プライド」「権威(朝廷・幕府の認可庇護)、名声」
「怒り・怨恨」「仇、復讐」
「飢饉、対年貢行政」「対宗教行政」
以外の理由で頼む。 一例じゃなくて、法華と一向宗はずっと争ってるんだが
自治勢力として、仏教が教義とは無関係な勢力争いをやってた戦国時代も知らないらしい おじゃるも根本仏典原理主義的なので
>阿含経と法句経だけでいい
という感じだけど、それでもとりあえず↓その地域その当時その時代において
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9B%B8%E5%88%A4%E9%87%88
五時八教説(天台)
華厳−阿含−方等−般若−法華涅槃
「法華が涅槃そのもの」という導きに決定したらしい?ので
それ以降において → 上座部系と大乗系との闘いがあったのかしらん?
↓今この現代においては
http://tkj.jp/book/?cd=70722301&path=&s1=
般若心経は間違い?
上座仏系の方々にもっと頑張って欲しいでつ
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想
生きとし生けるものにも
光り輝いている
如来の大悲・大智によって
般若の智慧によって観照された
実相般若が現れますように
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 頑張るのはお前のほうだな
五時八教の教判なるものは、根拠としていた無量義経が偽経と判明した今、俗説と化してる
数百年も後に創作された無量義経が法華三部経の開経となる訳がない 法華経が最も優れているのは天台ちぎとは全く関係ないけどな
むしろ現代においてはちぎは法華経の優越性においては邪魔となっている 法華経と華厳経の勝劣の論争は、未だに決着がついてないけどな。 法華経は、自経を褒めちぎる賞賛の美辞麗句ばかりが並んでいて内容が無いと言われてる
実際に読んでみたことがある人は少ないだろうが、マジで役に立つことなど書かれてない
宮沢賢治や石原莞爾は法華経のどこに感銘を受けたのだろうか
カーネギーの名言集でも読んだほうがマシなくらいだ ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています