仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
https://i.imgur.com/x03Xebz.jpg
重要文化財 二河白道図(にがびゃくどうず) 鎌倉時代・13世紀 京都・光明寺蔵
阿弥陀「私が守るから来なさい」
<極楽浄土>
_______ _________
百||
南側 歩|| 北側
火の河 ほ|| 水の河
憎しみ ど|| 貪欲
||
|白
|い
|道
|(4、5寸、15cmほど)
||
_______||__________
ある往生者
二人連れ 釈迦「決心してこの道を行きなさい」
(聖道門=自力)
群賊「この道は険悪だから戻って来なさい」
<現世=娑婆世界>
(合戦、享楽)
(↑下から上へと順に見てゆくように構成されている) >>400
唐の時代の中国浄土教(中国浄土宗)の僧、善導大師(613-681)の『觀無量壽佛經疏』
第四「散善義」にある二河白道の比喩(二河喩)を絵画化したもの。上の絵はこの画題とし
ては最古。
善導大師による比喩は、法然(1133-1212)が『選択本願念仏集』第八章「念仏行者必可
具足三心之文」で、親鸞(1173-1262)も『教行信証』信巻他で紹介している。
法然、親鸞以外にも、一遍(1239-1289)にもこの絵(というより画題)は深く関わる。
『一遍聖絵』によれば、文永八年(1271年)の春、信州善光寺に訪れた一遍は、参籠に参籠
を重ねた末に、自らさとりを得て、「二河白道」の図を本尊として描いたという。
https://i.imgur.com/oXFMfG5.jpg
(一遍上人絵伝における二河白道図を前にする一遍) ( 'A`) >>400 うちの近所の浄土宗の寺に「二河白道図」が飾ってあった。
_φ___⊂)_ 子供の頃のおれは「こんなの嘘っぱちだあ」といったら、
/旦/三/ / お寺の坊さんに「あなたは地獄落ちです」っていわれて、
仏教って極悪だなあって思ってた。 ( 'A`) 波平が、論理は認識を超越しているっていってて、
_φ___⊂)_ まったくカント哲学を理解していないって思ったけど、
/旦/三/ / 論理は認識を超越しているってのは、朱子学か老荘思想で、中国思想だったみたいだ。
波平の哲学は真理だとは考えないけど、東洋思想中心にやってる波平なりにがんばってるんだなと見直した。 >>404
>( 'A`) 波平が、論理は認識を超越しているっていってて、
そんなこと言ったことはないが?
カントなんてエセ小説家でなく、ヒューム先生からわかるだろう >>404
>/旦/三/ / 論理は認識を超越しているってのは、朱子学か老荘思想で、中国思想だったみたいだ。
なんで老荘???
朱子学の突然の論理重視は中国史的にも不思議。
ボクはキリスト教によりプラトン主義的なものが取り入れられたと睨んでいる。
朱子学は構造がプラトン主義と似すぎている。 ( 'A`) あんた、波平だったのかよ。
_φ___⊂)_ あんたのブログに書いてある哲学入門書にそう書いてあったぞ。
/旦/三/ / それが中国の文献で発見できたよ。頭整理しておけよ、あんたさあ。 老荘は、儒教のカウンターをもとにしてる。
秩序を否定する、無の思想だ。
中国の論理と言えば、名家とか、なんかそんなやつだろう。 ( 'A`) 波平は見栄っぱりだから、議論はできない。
_φ___⊂)_ 2ちゃんでは平気で嘘で誤魔化せばいいと思ってる輩だ。
/旦/三/ / まったく、ろくな哲学板コテがいないな。 ( 'A`) 波平は見栄っぱりだから、議論はできない。
_φ___⊂)_ 2ちゃんでは平気で嘘で誤魔化せばいいと思ってる輩だ。
/旦/三/ / まったく、ろくな哲学板コテがいないな。 法華経を学ばなければ仏教哲学を理解したとはいえない 阿含経と法句経だけでいい、大乗仏教なんてもんは完全な創作
宗教はどこまでいっても主観的なもんでしかなく広めようとした時点でウソになるし争いが生ずる
仏教は平和的な宗教と言うが、日本でも散々抗争を繰り広げてきた歴史がある >>416
馬鹿?
≪『宗派間の思想的相違』による抗争≫の例を挙げてみ? あごんと発句経だけでいいって算数だけで数学は勉強しなくていいってレベルだなw >>417
お前は無知か、法華宗と一向宗はさんざん抗争を繰り返してる
キリスト教だって、突き詰めれば単なる勢力争いだ
比叡山や一向宗が武装集団だったことも知らないのかこの無知のカスが >>419
w
長い日本仏教史の中で、たった一例かw
で、その思想的抗争の原因は、両者のどういう違いから発生したんだ?
「面子」「プライド」「権威(朝廷・幕府の認可庇護)、名声」
「怒り・怨恨」「仇、復讐」
「飢饉、対年貢行政」「対宗教行政」
以外の理由で頼む。 一例じゃなくて、法華と一向宗はずっと争ってるんだが
自治勢力として、仏教が教義とは無関係な勢力争いをやってた戦国時代も知らないらしい おじゃるも根本仏典原理主義的なので
>阿含経と法句経だけでいい
という感じだけど、それでもとりあえず↓その地域その当時その時代において
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%95%99%E7%9B%B8%E5%88%A4%E9%87%88
五時八教説(天台)
華厳−阿含−方等−般若−法華涅槃
「法華が涅槃そのもの」という導きに決定したらしい?ので
それ以降において → 上座部系と大乗系との闘いがあったのかしらん?
↓今この現代においては
http://tkj.jp/book/?cd=70722301&path=&s1=
般若心経は間違い?
上座仏系の方々にもっと頑張って欲しいでつ
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想
生きとし生けるものにも
光り輝いている
如来の大悲・大智によって
般若の智慧によって観照された
実相般若が現れますように
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m 頑張るのはお前のほうだな
五時八教の教判なるものは、根拠としていた無量義経が偽経と判明した今、俗説と化してる
数百年も後に創作された無量義経が法華三部経の開経となる訳がない 法華経が最も優れているのは天台ちぎとは全く関係ないけどな
むしろ現代においてはちぎは法華経の優越性においては邪魔となっている 法華経と華厳経の勝劣の論争は、未だに決着がついてないけどな。 法華経は、自経を褒めちぎる賞賛の美辞麗句ばかりが並んでいて内容が無いと言われてる
実際に読んでみたことがある人は少ないだろうが、マジで役に立つことなど書かれてない
宮沢賢治や石原莞爾は法華経のどこに感銘を受けたのだろうか
カーネギーの名言集でも読んだほうがマシなくらいだ めぐるめぐるめぐる因果は、糸車
めぐるめぐるめぐる世の中、めぐりあい
明日は、 どんな人に会うだろう
どんなどんなどんな人に会うだろう
(コーラス・振袖合うのも多少の縁・巧言令色少なし じんじんじんじん)
大きな気分でいってみよう
仁義礼智忠信孝悌
いざとなったら玉をだせ
力が溢れる不思議な玉を〜♪ >>421
wwwwwwwwwwwwwwwww
教義と無関係なら、宗教的抗争じゃないじゃんwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwwww >>427
文字だけ追ってたらそうなるかもね。
華厳は、世界の(諸法の・現象の・存在の・関係性の)在り様と仏菩薩の(意図の)素晴らしさを描き、
法華は、教えの本音(文言でなく、規則でなく、序列・法蝋でない、この瞬間の命の輝き)と
それ以外は雑音だという助言を述べている感じだから、
取捨のための比較は難しいと思う。
>この瞬間の命の輝き
今この瞬間の命の輝きを切っ掛けにして
(「僧侶が比丘としての具足戒を受けてからの年数(法臘)」という想いが依存している)
無明している世界を手放して
仏菩薩そのもの。ということでつね?ご教示ありがとうございます
ttp://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
般若経の解説
…
無明している世界を手放して
解脱してから
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
…
しかし
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存しているのなら
『解脱すれば仏だ』というに。気づくまでは、気づくことは難しい
− これを対処するために −
般若の智慧によって観照された ← → 実相般若ということでつね? m(_ _)m >>429
慈悲深いはずの仏教徒がヤクザまがいの抗争をやってたってことだろ
馬鹿っぽく草生やすなアポ 416 名前:考える名無しさん :2017/12/05(火) 19:58:31.28 0
阿含経と法句経だけでいい、大乗仏教なんてもんは完全な創作
宗教はどこまでいっても主観的なもんでしかなく広めようとした時点でウソになるし争いが生ずる
仏教は平和的な宗教と言うが、日本でも散々抗争を繰り広げてきた歴史がある
419 名前:考える名無しさん :2017/12/06(水) 13:40:57.49 0
>>417
お前は無知か、法華宗と一向宗はさんざん抗争を繰り返してる
キリスト教だって、突き詰めれば単なる勢力争いだ
比叡山や一向宗が武装集団だったことも知らないのかこの無知のカスが
421 名前:考える名無しさん :2017/12/06(水) 15:54:37.59 0
一例じゃなくて、法華と一向宗はずっと争ってるんだが
自治勢力として、仏教が教義とは無関係な勢力争いをやってた戦国時代も知らないらしい 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) 特定の宗教に固執するとか、クソ。
クソなのに幻想抱いてる50代が馬鹿すぎる。
20代の子供に迷惑かけんな。 仏教をやるとハタ迷惑な選挙活動やらサリンを撒くようになる 仏教の最大の謎は、価値相対化の先に、西洋のように相対化、神経症の精神崩壊に陥らず、慈悲が立ち上がってくることだ。
しかしそうではなく、慈悲は空に至る唯一の方法であり、慈悲により初めて、価値相対化が可能になるのではないだろうか。
どちらにしろ、仏教の悟りは論理ではなく、体験なので、言葉では表せない。
慈悲の実践とは、見返りなくより知らない人により多くを与えること。
返礼を期待してより身近な人により多くを与えるという文明の原点と言われる法則に逆らうこと。
価値相対化であり、
これはまさに神の行為とされてきた。
ここにしか空に至る実践はない。
この行為の特別さのもう一つは、これが自然の恵みのメタファであること。
自然の恵みは見返りなく、分け隔てなく与える。
それは慈悲である。
しかし人が見返りなくより知らない人により多くを与えることは、頭がおかしい。
やはり我が大切だから我に近い人に見返りを期待して与える。
ここでは、我が解体されている。生死しかり、そしてありなしも。まさに空である。
自然の恵みは空である。西洋の相対主義はどこにもいかない。ただの崩壊でしかない。
しかし慈悲は空に近づく。相対主義でありつつ、崩壊しない地点。 慈悲の起源は仏教ではなくヒンドゥー教にありそうだな 以下、ショーペンハウアー「意志と表象としての世界」日本語版目次より
63
マーヤーのヴェールに囚われず「個体化の原理」を突き 破って見ている者は、
加害者と被害者との差異を超越した ところに「永遠の正義」を見出す。それは
ヴェーダの ウパニシャッドの定式となった大格語 tat tvam asi ならびに輪廻の
神話に通じるものがある。
67
他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、
すなわち同情である。人間が泣く のは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいで
ある。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわ ち同情(慈悲)
である。
____
なおショーペンハウアーは仏教の影響も受けていて『意志…』の4部構成は仏教の「苦集滅道」
にあたるとされる。 実体ーーーー属性ーーーー様態 スピノザ
イデアーーー人間ーーーイドラ プラトン
モナド−ーー個体化ーーー世界 ライプニッツ
神ーーーーーキリストーー人間 キリスト教
意志ーーーーイデアーーー表象 ショーペンハウアー
ブラフマンー祭祀ーアートマン バラモン
無ーーーーー空・悟りーーー色 仏教
物自体ーーー範疇ーーーー現象 カント >>441
西洋人には慈悲を理解するのは無理だろう。
慈悲を有名な言葉ややはり、親鸞の
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
これは、
慈悲は弱者こそ強者に施さなければならない
と言ってもいいだろう。
日本人にはわかるこの意味を、西洋人は理解できないだろう。 再度言えば、
慈悲は自然の恵みのようなものだとしても、
仏教は慈悲を語るのではなく、慈悲の実践すなわち空に至ることを目指すものだ。
たとえばそのための有名な言葉は、親鸞の
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
これは、
慈悲は弱者こそ強者に施さなければならない。
と言ってもいいだろう。
日本人は現に実践しているこの意味を、西洋人は理解できないだろう。 善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。 ヘイトスピーチ大好き日本人のどこが慈悲実践してるやら 白隠は、「この経に功徳なし」と、一度は捨てた法華経を、42歳で読みなおしたときに、「お釈迦様は、こんなにも慈悲が深かったのか」と悟り、滂沱の涙と共に、大悟したそうです。 そりゃ弱い者虐めされるんだから弱者が強者に施す事は生存戦略に繋がる 日本において仏教は統治の為に導入されている。
その観点から実践されるのだから強者(統治機構)に弱者(民衆)が従うように説くのは当たり前だろう。
仏教は日本に伝来する時から世俗に染まり切っている。
正しく世の治安を維持する為の教えだ。 悪人はやっつけないとだめ。悪人を救済するという考え方は悪を推奨することにもなる。そうした考え方は道徳的に好ましくない。 本願ぼこり
悪人正機の意味を誤解して「悪人が救われるというなら、
積極的に悪事を為そう」という行動に出る者が現れた。
これを「本願ぼこり」と言う。
親鸞はこの事態を憂慮して「くすりあればとて毒をこのむべからず」と戒めている。
ただし今度はこの訓戒が逆に行き過ぎて、
例えば悪行をなした者は念仏道場への立ち入りを禁止するなどの問題が起きた事を、
唯円は『歎異抄』において批判している。
悪人正機
悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、
「“悪人”こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」
という意味である。
阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生である。
すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」である。
よって自分は「悪人」であると目覚させられた者こそ、
阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意である。 日本人は日々実践し体ではわかっているが、
頭では理解できていないということだ。
慈悲とはそういうものだが、
善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。
慈悲は弱者こそ強者に施さなければならない。 慈悲は自然の恵みのようなものであるというのは簡単だが、
実際に人がそのように振る舞うときに問題になるのはなにか?
そこにこそ、キリスト教の慈愛とは異なる仏教の慈悲の真髄がある。
与えることそのものはそう難しくないが・・・ >>443
> 西洋人には慈悲を理解するのは無理だろう。
慈悲を語るそばから差別をしている様では、何も分かっていない。
キミの仏教理解は何もかもがこの調子だ。 >他人の苦しみと自分の苦しみとの同一視こそが愛である。 愛はしたがって共苦、
>すなわち同情である。人間が泣く のは苦痛のせいではなく、苦痛の想像力のせいで
>ある。 喪にある人が泣くのは人類の運命に対する想像力、すなわ ち同情(慈悲)である。
共感、同情、困っている人を助けるというのは、人の本能と言えるほど、基本的な特性だ。
西洋人が仮にそれを愛と呼び特別なものに感じるとすれば、キリスト教の為だろう。
あたかもそれが、神の教えのように再構築した。
難しいのは与えることではなく、見返りなく与えること。
たとえば困っている人がいて助ける。そのときに助けた人が余計なことすると、言われると、
せっかく助けてやったのに、なんだ!となる。
与える、助けるとき、人はそこに自分を強者、相手を弱者、そして見返りの心理が生まれる。
これもまた人の本能と言えるほど、基本な特性だ。
自分の恵みのように与えるとは、そこに強者、見返りの心理を持たないこと。
これは、ほぼ人には無理な行為だ。
しかし慈悲による空は、それを求める。 しかし困ったことに、慈悲の試練はそこでは終わらない。
与える、助けるとき、自分は強者、見返りの心理が生まれ、
与えられる相手は弱者、負債の心理をもつ。
慈悲は、見返りを求めない、とともに、相手に負債を与えないことを求める。
そこに強者、弱者の関係が生まれないよう、求める。
たとえば自然の恵みでさえ、人はそこに負債を感じ、
自然に感謝し、崇めるというのに、それを生むなという。
慈悲、空がいかにこんなな実践かわかる。
しかしこのような難解な慈悲が、日本人の道徳則の基本となっている。
たとえばおもてなし。
おもてなしの理想とは、サービスを与えることだが、
相手にサービスを与えられることに感謝する。すなわち強者にならずに、
相手がサービスを与えられることを重く思わないようする。すなわち負債を与えない。
このように日本人の道徳則はずべて慈悲を基本とする。
自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、配慮することを基本とする。
配慮の道徳だ。
おそらくこのような配慮の道徳則をもつ民族は日本人以外いないと思う。 日本人のおもてなしと慈悲は関係ない
徹底してクレームつけられることを恐れる結果卑屈といえるほど相手の意に添うことを美徳とするようになった 西洋人の道徳則は合理的だ。
困っている人がいれば与える。
そこに強者、弱者が生まれたとしても、
それで困っている人が助かるならそれでいいじゃないか。 だからクレームつけられる強い立場にあるととんでもないモンスターと化す たとえば空気を読む。
空気を読むとは、自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、
配慮しあうことを基本とする。 たとえば勤勉。
勤勉とは、懸命に働くことではない。
自らが強者にならないよう、世間(相手)を弱者にしないよう、
配慮し勤めることを基本とする。 善人でさえ救われるのだから、悪人はなおさら救われる。
慈悲は弱者こそ強者に施さなければならない。
とは、そう言う意味だ。 空気を読むというのは結局のところ自己保身に帰着する
それによって周りに目をつけられることを避ける
それだけではなく空気を読むということに客観的正当性を感じて他者への攻撃の手段とするのが日本人
空気を読め、のように自分の意見ではなく全体の意見のように見せかけて他者を攻撃する 970 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:10:06.64 0
今の借金いくらなん?
971 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:15:21.43 0
450万くらいだね。
親には、ほぼ頼ってない。
974 :コ−ヒ− ◆VMSHVHTgws :2017/11/30(木) 14:20:57.29 0
450万の借金て相当だよ
どうやって返すつもりなん?
もしかして奨学金なのか
975 :底辺 ◆49ci.4gb8c :2017/11/30(木) 14:23:23.73 0
>>974
消費者金融
http://lavender.2ch.net/test/read.cgi/philo/1509417474/960- 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:9368c25c0e1fcb4c3420acd807713d27) >>443
> 善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
ここから何故、「いわんや西洋人をや」が導けないのか?
解説本をいじっているだけで、根本から理解していないからだ。 >>458
キミのは観念論なんだよ。
具体的な「慈悲とは何か」が抜けて、
徳だの価値だのサービスだの、見返りだの負債だのと、
交換原理の話にすり替わっている。
慈悲のサヤ取りだ。 >>470
交換、すなわち経済。
日々生きるとは経済であり、実働。
何でも観念論で片付けないこと。 そもそも仏教は宗教というより、
救済の技術といえる。
ブッダは神を崇めなかったし、修養を重視してた。
慈悲もまた修養の一つと言える。 >>471
頓珍漢な概念操作の果てに、A=Bなどとして満足している風情を観念論という。 財産を捨てて出家をするだろ。
経済や交換原理から抜け出るということが必要とされたわけだ。 “多くの[世俗の]仕事をしてはならない。人々を避けよ。[雑な縁を作るために]努め励んではならない。”
― ブッダ 『仏弟子の告白(テーラガーター)』 494 >>338
> 大乗非仏説
というのがあるが、
大乗仏教や日本の仏教しか知る機会がなくとも、
正しいアプローチをすれば、仏教の本質には触れることができる。 しかし、キミの話はどれをとっても、仏教とは真反対のところに着地している。 哲学にしても宗教にしても、ちゃんと原典にあたらないと、物事を根本から理解することはできない。
解説書や新書などは読書の内には入らない。 スジャータのミルク粥
シッダルタが29歳のことです。 シッダルタはその後、旧来のバラモン教の教えに疑問を持つ者と共に修行を続けました。
瞑想を深め、煩悩をなくす修行を終えたシッダルタはさらに厳しい修行を求めました。
コケやわずかな植物の根など以外食べ物を口にせず、体をいじめ続けることで超人的な力を得ようという苦行を6年間も続けました。
骨と皮になったシッダルタはようやく苦行では悟りを開けないと知り、修行場の山を下りました。
途中、村の娘からミルク粥の施しを受けて体力を回復したシッダルタは大木の下で座って瞑想に入りました。
このときに煩悩の悪魔が襲いましたが打ち勝ち、翌朝、明けの明星が輝く頃、
ついにシッダルタは法(ダルマ=宇宙と人生の真理)を得て悟りを開きました。
http://www.koushikiji.com/shiki03.html 慈悲=抜苦与楽
慈 マイトリー(maitrī) 「慈しみ」 与楽(楽を与える)
悲 カルナー(karunā)「憐れみ」 抜苦(苦を抜く) >>458
キミの話には苦がなく、楽の再分配の話しかない。
キミ自身が苦労をして本(原典)を読むということをしないからだ。
弱者のためであろうとも、弱者と強者を差別し、
その一方を敵とみなして乗り越えを図るという発想も一神教的。
およそ仏教的でない。
慈悲という語のルーツはインド=ヨーロッパ語。 >>474
抜け出るのは世俗の経済であって、
経済とは生きることそのものだから。
出家を担任世捨てなら、自分だけ救済されることになり、
慈悲はどこにもない。
仏教をスピリチュアルなものと考えるのは、
仏教最大の誤解。 経済とは人は一人では生きられない。
交換せずには生きられないという基本的な原則のこと。
人がいるところには必ず経済がある。
経済のもっとも原初の形態は、
贈与交換。貸し借り。 >>482
仏教において苦とは、生きることそのもの。 >>244
887夜『禅と日本文化』鈴木大拙|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0887.html
いまでもよく憶えているのは、こういう語り口だった。
禅というのはブッダの精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかと
いうと、「般若」と「大悲」である。それを英語でいえば、般若はトランセンデンタル
・ウィズダムに近く、大悲はコンパッションといえるであろう。この「超越的な智恵」
たる般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をする。.…
…大拙は突如として、だからこそ、「禅は夜盗が夜盗に学ぶようなものなのだ」と言った。
これはのちにぼくも読むことになる『五祖録』からの引用だったのだが、突然に夜盗に
なれと言われても戸惑うだろうから、説明しておく。
ある夜盗の父親が息子から夜盗のコツを教えてほしいと言われ、二人して目星の屋敷に
忍びこんだ。父親は大きな長持を明けて息子にこの中の衣服を取り出せと言っておいて、
そのまま蓋を閉め、庭に出るとやにわに「泥棒だ、泥棒だ」と大呼した。
家人があわてて起き出したが泥棒はいない。困ったのは息子のほうで、長持から出るに
出られない。そこでやむなくネズミが齧る物音をたて、家人が長持を開けたとたんに飛び
出し、命からがら逃げ出した。
這々の体で息子が戻って父親にひどいじゃないかと言うと、まあ憤るな、どうやって
逃げたか話してみろというので、息子が一部始終を話すと、そう、それだ、お前はこれで
夜盗術の極意をおぼえたのだ、と。
こういう奇想な話を紹介し、大拙はすかさず「禅は不意を打つものだ。それが禅の親切
というものだ」と説いたのである。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>483
スピリチュアル経済学。
>>484
中高生の問題意識。 >>490
wiki カール・ポランニー
経済の定義
人間は自分と自然との間の制度化された相互作用により生活し、自然環境と仲間たちに依存する。この過程が経済だとした。
また、経済は社会の中に埋め込まれており(Embeddedness)、経済的機能として意識されないことがあると主張した。
ポランニーは、「経済的」という言葉の定義について2つをあげる。
1. 実在的な定義。欲求・充足の物質的な手段の提供についての意味。
人間とその環境の間の相互作用と、その過程の制度化のふたつのレベルから成る。
2. 形式的な定義。稀少性、あるいは最大化による合理性についての意味。
前者の経済過程の制度化は、場所の移動、専有の移動という2種類の移動から説明できる。
従来の経済学では後者が重視されているが、それは狭い定義であると指摘した。 >>488
の夜盗伝授は、
>>213
のキサー・ゴータミーの話を想起させる
(ゴータミーの出典は法句経の注釈書) 仏教の最大の謎は、価値相対化の先に、西洋のように相対化、神経症の精神崩壊に陥らず、慈悲が立ち上がってくることだ。
しかしそうではなく、慈悲は空に至る唯一の方法であり、慈悲により初めて、価値相対化が可能になるのではないだろうか。
どちらにしろ、仏教の悟りは論理ではなく、体験なので、言葉では表せない。
慈悲の実践とは、見返りなくより知らない人により多くを与えること。
返礼を期待してより身近な人により多くを与えるという文明の原点と言われる法則、すなわち贈与交換に逆らうこと。
価値相対化であり、これはまさに神の行為とされてきた。
慈悲の特別さのもう一つは、これが自然の恵みのメタファであること。
自然の恵みは見返りなく、分け隔てなく与える。
しかし人が見返りなくより知らない人により多くを与えることは、頭がおかしい。
やはり我が大切だから我に近い人に見返りを期待して与える。
ここでは、自他が解体されている。生死しかり、そして有無も。まさに空である。
自然の恵みは空である。西洋の相対主義はどこにもいかない。ただの崩壊でしかない。
しかし慈悲は空に近づく。相対主義でありつつ、崩壊しない地点。
慈悲は自然の恵みのようなものだとしても、
仏教は慈悲を語るのではなく、慈悲の実践すなわち空に至ることを目指すものだ。
たとえばそのための有名な言葉は、親鸞の
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
これは、
弱者こそ強者に慈悲を施さなければならない。
と言ってもいいだろう。
日本人は現に実践しているこの意味を、西洋人は理解できないだろう。 慈悲は自然の恵みのようなものであるというのは簡単だが、
実際に人がそのように振る舞うときに問題になるのはなにか?
そこにこそ、キリスト教の慈愛とは異なる仏教の慈悲の真髄がある。
与えることそのものはそう難しくない。
共感、同情、困っている人を助けるというのは、人の本能と言えるほど、基本的な特性だ。
西洋人が仮にそれを愛と呼び特別なものに感じるとすれば、キリスト教の為だろう。
あたかもそれが、神の教えのように再構築した。
難しいのは与えることではなく、見返りなく与えること。
たとえば困っている人がいて助ける。そのときに助けた人が余計なことすると、言われると、
せっかく助けてやったのに、なんだ!となる。
与える、助けるとき、人はそこに自分を強者、相手を弱者、そして見返りの心理が生まれる。
これもまた人の本能と言えるほど、基本な特性だ。
自分の恵みのように与えるとは、そこに強者、見返りの心理を持たないこと。
これは、ほぼ人には無理な行為だ。しかし慈悲による空は、それを求める。
しかし困ったことに、慈悲の試練はそこでは終わらない。
与える、助けるとき、自分は強者、見返りの心理が生まれ、与えられる相手は弱者、負債の心理をもつ。
慈悲は、見返りを求めない、とともに、相手に負債を与えないことを求める。
そこに強者、弱者の関係が生まれないよう、求める。
たとえば自然の恵みでさえ、人はそこに負債を感じ、
自然に感謝し、崇めるというのに、それを生むなという。
慈悲いかに困難をな実践かわかる。
その不可能にこそ、唯一の空への実践としての慈悲がある。 日本人の道徳はこのような難解な慈悲が基本となっている。
たとえばおもてなし。
西洋人の道徳則は合理的だ。
困っている人がいれば与える。
そこに強者、弱者が生まれたとしても、
それで困っている人が助かるならそれでいいじゃないか。
おもてなしの理想とは、サービスを与えることだが、
相手にサービスを与えられることに感謝する。すなわち強者にならずに、
相手がサービスを与えられることを重く思わないようする。すなわち負債を与えない。
このように日本人の道徳則はずべて慈悲を基本とする。
自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、配慮することを基本とする。
配慮の道徳だ。
おそらくこのような配慮の道徳則をもつ民族は日本人以外いないと思う。
たとえば空気を読む。
空気を読むとは、自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、
配慮しあうことを基本とする。
たとえば勤勉。
勤勉とは、懸命に働くことではない。
自らが強者にならないよう、世間(相手)を弱者にしないよう、
配慮し勤めることを基本とする。
日本人が空に達してと言うことではないが、空の心を基本にしている。
それを日本人の頭は知らないが、体が知っている。 >>
布施 ふせ ほどこす
人のために惜しみなく何か善いことをする。善行には有形と無形のものがあります。有形のものを財施といいます。お金や品物などを施す場合です。
無形のものは、
● 知識や教えなどの法施
● 明るく優しい顔で接する眼施・顔施
● 温かい言葉をかける言施
● 恐怖心を取り除き穏やかな心を与える無畏施
● 何かをお手伝いする身施
● 善い行いをほめる心施
● 場所を提供する座施・舍施、などがあります。
施しは、施す者、施しを受ける者、施すもの、すべてが清らかでなければいけません。
欲張りのない心での行いを施しといいます。
あえて善行として行うとか、返礼を期待してはいけません。
また受ける側もそれ以上を望んだり、くり返されることを期待してはいけません。
やさしい仏教入門 http://tobifudo.jp/newmon/etc/rokuhara.html
<< ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています