仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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>>470
交換、すなわち経済。
日々生きるとは経済であり、実働。
何でも観念論で片付けないこと。 そもそも仏教は宗教というより、
救済の技術といえる。
ブッダは神を崇めなかったし、修養を重視してた。
慈悲もまた修養の一つと言える。 >>471
頓珍漢な概念操作の果てに、A=Bなどとして満足している風情を観念論という。 財産を捨てて出家をするだろ。
経済や交換原理から抜け出るということが必要とされたわけだ。 “多くの[世俗の]仕事をしてはならない。人々を避けよ。[雑な縁を作るために]努め励んではならない。”
― ブッダ 『仏弟子の告白(テーラガーター)』 494 >>338
> 大乗非仏説
というのがあるが、
大乗仏教や日本の仏教しか知る機会がなくとも、
正しいアプローチをすれば、仏教の本質には触れることができる。 しかし、キミの話はどれをとっても、仏教とは真反対のところに着地している。 哲学にしても宗教にしても、ちゃんと原典にあたらないと、物事を根本から理解することはできない。
解説書や新書などは読書の内には入らない。 スジャータのミルク粥
シッダルタが29歳のことです。 シッダルタはその後、旧来のバラモン教の教えに疑問を持つ者と共に修行を続けました。
瞑想を深め、煩悩をなくす修行を終えたシッダルタはさらに厳しい修行を求めました。
コケやわずかな植物の根など以外食べ物を口にせず、体をいじめ続けることで超人的な力を得ようという苦行を6年間も続けました。
骨と皮になったシッダルタはようやく苦行では悟りを開けないと知り、修行場の山を下りました。
途中、村の娘からミルク粥の施しを受けて体力を回復したシッダルタは大木の下で座って瞑想に入りました。
このときに煩悩の悪魔が襲いましたが打ち勝ち、翌朝、明けの明星が輝く頃、
ついにシッダルタは法(ダルマ=宇宙と人生の真理)を得て悟りを開きました。
http://www.koushikiji.com/shiki03.html 慈悲=抜苦与楽
慈 マイトリー(maitrī) 「慈しみ」 与楽(楽を与える)
悲 カルナー(karunā)「憐れみ」 抜苦(苦を抜く) >>458
キミの話には苦がなく、楽の再分配の話しかない。
キミ自身が苦労をして本(原典)を読むということをしないからだ。
弱者のためであろうとも、弱者と強者を差別し、
その一方を敵とみなして乗り越えを図るという発想も一神教的。
およそ仏教的でない。
慈悲という語のルーツはインド=ヨーロッパ語。 >>474
抜け出るのは世俗の経済であって、
経済とは生きることそのものだから。
出家を担任世捨てなら、自分だけ救済されることになり、
慈悲はどこにもない。
仏教をスピリチュアルなものと考えるのは、
仏教最大の誤解。 経済とは人は一人では生きられない。
交換せずには生きられないという基本的な原則のこと。
人がいるところには必ず経済がある。
経済のもっとも原初の形態は、
贈与交換。貸し借り。 >>482
仏教において苦とは、生きることそのもの。 >>244
887夜『禅と日本文化』鈴木大拙|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0887.html
いまでもよく憶えているのは、こういう語り口だった。
禅というのはブッダの精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかと
いうと、「般若」と「大悲」である。それを英語でいえば、般若はトランセンデンタル
・ウィズダムに近く、大悲はコンパッションといえるであろう。この「超越的な智恵」
たる般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をする。.…
…大拙は突如として、だからこそ、「禅は夜盗が夜盗に学ぶようなものなのだ」と言った。
これはのちにぼくも読むことになる『五祖録』からの引用だったのだが、突然に夜盗に
なれと言われても戸惑うだろうから、説明しておく。
ある夜盗の父親が息子から夜盗のコツを教えてほしいと言われ、二人して目星の屋敷に
忍びこんだ。父親は大きな長持を明けて息子にこの中の衣服を取り出せと言っておいて、
そのまま蓋を閉め、庭に出るとやにわに「泥棒だ、泥棒だ」と大呼した。
家人があわてて起き出したが泥棒はいない。困ったのは息子のほうで、長持から出るに
出られない。そこでやむなくネズミが齧る物音をたて、家人が長持を開けたとたんに飛び
出し、命からがら逃げ出した。
這々の体で息子が戻って父親にひどいじゃないかと言うと、まあ憤るな、どうやって
逃げたか話してみろというので、息子が一部始終を話すと、そう、それだ、お前はこれで
夜盗術の極意をおぼえたのだ、と。
こういう奇想な話を紹介し、大拙はすかさず「禅は不意を打つものだ。それが禅の親切
というものだ」と説いたのである。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7) >>483
スピリチュアル経済学。
>>484
中高生の問題意識。 >>490
wiki カール・ポランニー
経済の定義
人間は自分と自然との間の制度化された相互作用により生活し、自然環境と仲間たちに依存する。この過程が経済だとした。
また、経済は社会の中に埋め込まれており(Embeddedness)、経済的機能として意識されないことがあると主張した。
ポランニーは、「経済的」という言葉の定義について2つをあげる。
1. 実在的な定義。欲求・充足の物質的な手段の提供についての意味。
人間とその環境の間の相互作用と、その過程の制度化のふたつのレベルから成る。
2. 形式的な定義。稀少性、あるいは最大化による合理性についての意味。
前者の経済過程の制度化は、場所の移動、専有の移動という2種類の移動から説明できる。
従来の経済学では後者が重視されているが、それは狭い定義であると指摘した。 >>488
の夜盗伝授は、
>>213
のキサー・ゴータミーの話を想起させる
(ゴータミーの出典は法句経の注釈書) 仏教の最大の謎は、価値相対化の先に、西洋のように相対化、神経症の精神崩壊に陥らず、慈悲が立ち上がってくることだ。
しかしそうではなく、慈悲は空に至る唯一の方法であり、慈悲により初めて、価値相対化が可能になるのではないだろうか。
どちらにしろ、仏教の悟りは論理ではなく、体験なので、言葉では表せない。
慈悲の実践とは、見返りなくより知らない人により多くを与えること。
返礼を期待してより身近な人により多くを与えるという文明の原点と言われる法則、すなわち贈与交換に逆らうこと。
価値相対化であり、これはまさに神の行為とされてきた。
慈悲の特別さのもう一つは、これが自然の恵みのメタファであること。
自然の恵みは見返りなく、分け隔てなく与える。
しかし人が見返りなくより知らない人により多くを与えることは、頭がおかしい。
やはり我が大切だから我に近い人に見返りを期待して与える。
ここでは、自他が解体されている。生死しかり、そして有無も。まさに空である。
自然の恵みは空である。西洋の相対主義はどこにもいかない。ただの崩壊でしかない。
しかし慈悲は空に近づく。相対主義でありつつ、崩壊しない地点。
慈悲は自然の恵みのようなものだとしても、
仏教は慈悲を語るのではなく、慈悲の実践すなわち空に至ることを目指すものだ。
たとえばそのための有名な言葉は、親鸞の
善人なおもって往生を遂ぐ、いわんや悪人をや。
これは、
弱者こそ強者に慈悲を施さなければならない。
と言ってもいいだろう。
日本人は現に実践しているこの意味を、西洋人は理解できないだろう。 慈悲は自然の恵みのようなものであるというのは簡単だが、
実際に人がそのように振る舞うときに問題になるのはなにか?
そこにこそ、キリスト教の慈愛とは異なる仏教の慈悲の真髄がある。
与えることそのものはそう難しくない。
共感、同情、困っている人を助けるというのは、人の本能と言えるほど、基本的な特性だ。
西洋人が仮にそれを愛と呼び特別なものに感じるとすれば、キリスト教の為だろう。
あたかもそれが、神の教えのように再構築した。
難しいのは与えることではなく、見返りなく与えること。
たとえば困っている人がいて助ける。そのときに助けた人が余計なことすると、言われると、
せっかく助けてやったのに、なんだ!となる。
与える、助けるとき、人はそこに自分を強者、相手を弱者、そして見返りの心理が生まれる。
これもまた人の本能と言えるほど、基本な特性だ。
自分の恵みのように与えるとは、そこに強者、見返りの心理を持たないこと。
これは、ほぼ人には無理な行為だ。しかし慈悲による空は、それを求める。
しかし困ったことに、慈悲の試練はそこでは終わらない。
与える、助けるとき、自分は強者、見返りの心理が生まれ、与えられる相手は弱者、負債の心理をもつ。
慈悲は、見返りを求めない、とともに、相手に負債を与えないことを求める。
そこに強者、弱者の関係が生まれないよう、求める。
たとえば自然の恵みでさえ、人はそこに負債を感じ、
自然に感謝し、崇めるというのに、それを生むなという。
慈悲いかに困難をな実践かわかる。
その不可能にこそ、唯一の空への実践としての慈悲がある。 日本人の道徳はこのような難解な慈悲が基本となっている。
たとえばおもてなし。
西洋人の道徳則は合理的だ。
困っている人がいれば与える。
そこに強者、弱者が生まれたとしても、
それで困っている人が助かるならそれでいいじゃないか。
おもてなしの理想とは、サービスを与えることだが、
相手にサービスを与えられることに感謝する。すなわち強者にならずに、
相手がサービスを与えられることを重く思わないようする。すなわち負債を与えない。
このように日本人の道徳則はずべて慈悲を基本とする。
自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、配慮することを基本とする。
配慮の道徳だ。
おそらくこのような配慮の道徳則をもつ民族は日本人以外いないと思う。
たとえば空気を読む。
空気を読むとは、自らが強者にならないよう、。相手を弱者にしないよう、
配慮しあうことを基本とする。
たとえば勤勉。
勤勉とは、懸命に働くことではない。
自らが強者にならないよう、世間(相手)を弱者にしないよう、
配慮し勤めることを基本とする。
日本人が空に達してと言うことではないが、空の心を基本にしている。
それを日本人の頭は知らないが、体が知っている。 >>
布施 ふせ ほどこす
人のために惜しみなく何か善いことをする。善行には有形と無形のものがあります。有形のものを財施といいます。お金や品物などを施す場合です。
無形のものは、
● 知識や教えなどの法施
● 明るく優しい顔で接する眼施・顔施
● 温かい言葉をかける言施
● 恐怖心を取り除き穏やかな心を与える無畏施
● 何かをお手伝いする身施
● 善い行いをほめる心施
● 場所を提供する座施・舍施、などがあります。
施しは、施す者、施しを受ける者、施すもの、すべてが清らかでなければいけません。
欲張りのない心での行いを施しといいます。
あえて善行として行うとか、返礼を期待してはいけません。
また受ける側もそれ以上を望んだり、くり返されることを期待してはいけません。
やさしい仏教入門 http://tobifudo.jp/newmon/etc/rokuhara.html
<< ガンジーさんは逆のことを言ってるけどね
許すということが本質的なレベルで可能なのは強者だけではないかと 497.
布施、か。
それは生活の問題であるよ。
それは宗教の問題ではない。
その両者を区別できないバカが多いのだが。
>布施
般若の智慧の世界からの観照によっての → 実相般若の世界
布施
↓
六波羅蜜
↓
般若波羅蜜
だるま文庫 八宗綱要 法相宗
円成実性の世界からの観照によっての → 依他起性の世界
ttp://blog.livedoor.jp/daibakarenji/jyuugyuuzu.html
法界体性智の世界からの観照によって
移り行く世界の様を
平等性智の観照によって
(善悪の判断を交えることなく)ありのまま見つめている >>500
布施しかコピペしてない。
リンク先参照。
生活と切り離した悟りなど、
老荘思想的なスピリチュアル 布施を含む六波羅蜜は慈悲の元なされるべきである。
すなわち弱者こそ強者に六波羅蜜を行うぺき。 弱者と慈悲をワンセットにしてるが、2つは別概念でイコールではないだろう ☆彡
>許すということが本質的なレベルで可能なのは強者だけではないか
なぜ許すことができないのか?その理由は?
仮設としての
無明している世界の中で
地水火風空識の微粒子に依存している
色受想行識の仮和合は仮の現れ(そして滅)で
たとえば
おじゃるの場合は輪廻肯定派なので
無始からの(輪廻を繰り返し)無明を持っている
真如に薫習し、その薫習によって妄心を生じている
無明薫習に依存して
我癡・我見・我慢・我愛が
睡眠中でも深層において働き続け
根源的な心である阿頼耶識を対象として、それを自分であると考えて執着し続けて
(それ自体、単独で成立している(仮設としての)色受想行識は)存在しないにも関わらず
(それ自体、単独で成立している(仮設としての)色受想行識が)有ると思う虚妄の執著である
遍計所執性に依存しているので
『(本質的なレベルで?)許すこと』ができない。ということであるらしい m(_ _)m 505.
輪廻肯定派、か。
それはバカ丸出しであるよ。 仮設としての
色受想行識は「それ自体、単独で成立しているのか?」その答えは
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
如来の大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 如来の大悲・大智を受け入れる
色受想行識は ← 如来の大悲・大智を受け入れるので
色受想行識は
如来の大悲・大智からの影響を受けるので
それ自体、単独で成立しているのではない
たとえば仮に
色受想行識が
それ自体、単独で成立しているのなら
如来の大悲・大智からの影響を受けることはできない
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
生きとし生けるものにも
光り輝いている
如来の大悲・大智によって
般若の智慧によって観照された
実相般若の世界が現れますように
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m そういうお前は馬鹿派か?(笑)年中馬鹿馬鹿言ってるだけで発言内容が無知そのものだが 507.
一切の如来の御足を礼拝し奉る、ところのバカであるよ。 より見知らぬ者に見返りなくより多くを与えることができるか?
この慈悲の問い前では、スピリチュアル派も、仏教好きも、123師も、おじゃる?も、そしてボクも無力。
それがすべてをあらわしている。
ここにしか空への道はない。 510.
慈悲の主体の問題であるよ。
そこでの正解を出していない。
バカ丸出しであるよ。 511.
慈悲は生活の問題である。
それは宗教の問題ではないよ。
その両者を区別できないバカが多い。 この知性の足りなさで馬鹿を連呼するのは自虐ネタのつもりか
全くおもしろくないが >>513
マスターベーションくんは、
慈悲の前には無力すぎあるね。 慈悲はスピリチュアルな引きこもりを根こそぎ挫く。
いかに苦行をしようか、それが慈悲に繋がらなければただのマスタベあるよ。 ☆彡
> 123師も、おじゃる?も、そして禊健太郎氏も無力
なぜ無力なのか?その理由は↓
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%A9%E3%83%A2%E3%83%B3%E6%95%99
バラモン(ヒンドゥー)の場合は
(無明している世界の中で)
…そこでは人間がこの世で行った行為(業・カルマ)が原因となって
次の世の生まれ変わりの運命(輪廻)が決まる
人々は悲惨な状態に生まれ変わる事に不安を抱き
無限に続く輪廻の運命から抜け出す解脱の道を求める
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
…作者無し
(仮設としての)
色受想行識は、それ自体、単独で成立しているのではない
業報に依存しているので
此の現世において蘊が滅し已らば → 来世に異蘊相続する
仮設としての
無明している世界の中で
無明に縁りて → 行に縁りて → 識に縁りて → 「苦しい」という想いが現れる
無明に縁りて → それゆえに無力? 518.
慈悲ができないから無力、か。
慈悲ができたとしても無力であるよ。
その両者は関係がないからであるよ。 520.
慈悲の前には無力、か。
そんなことはない。
秋月龍民、師の得意分野である。
なぜ慈悲を実践することが出来ないのか。その理由は?
参照資料として
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5
般若の智慧の世界からの観照によっての
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%85%88%E6%82%B2
慈悲(じひ)
仮設としての
自分を含めて
他の生命に対して楽を与え、苦しみを取り除くこと(抜苦与楽)
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E6%8C%81
如来の大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 如来の大悲・大智を受け入れる
ttps://www28.atwiki.jp/buddha/pages/17.html
漢訳 第一義空経
此れ無きが故に → 彼れ無く。此れ滅するが故に → 彼れ滅する
(無明している世界を手放すことができるのなら)
無明滅するが故に → 行滅するが故に → 識滅するが故に
「苦しい!」という想いも滅する
ttp://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/BR/0095/BR00950L017.pdf
ウダーナヴァルガのギルギット写本
…迷妄を性質として壊滅するもの
そのようなものを離れることは、思弁の領域を離れた寂静なる境地であり
苦しみを性質とするものの滅尽であり、形成作用の寂滅であり
縁起したものを離れることができるのなら
ブッダは
そこに来ることも説かず、行くことも、留まることも
死ぬことも、生まれることも説かない
それこそが「苦しい!」と掴もうとしている想いの終わりである >>523
仏教は御託を並べることではない。
慈悲を実践しなさい。 世間体以下というところに
慰安婦ネタとイノシシねたがくる
こうなるともう罪悪感をすて
VR女子校生モノを閲覧しとるという
かんじなのダ
>>518 名前:禊健太郎 ◆CMF.YwtoAw [] 投稿日:2017/12/11(月) 22:24:12.60 0
>慈悲ができないから無力
禊健太郎氏、本人が慈悲の実践ができないので
禊健太郎氏、本人が無力なんでしょ?
この人も日本語がダメな人なのかしらん?
ここでもう一度、質問でつ
禊健太郎氏、本人が、慈悲の実践ができるのか?できないのか?
禊健太郎氏、本人が、無力なのか?無力ではないのか?
ちなみに
おじゃるの場合は
仮設としての
無明している世界の中においては
無明に依存しているので
おじゃるは無力でつ m(_ _)m
日本語がダメな人に質問しても
まともな返事は帰って来ないかしらん?
仮設としての
自分を含めて
他の生命に対して楽を与え、苦しみを取り除く(抜苦与楽)
慈悲(じひ)は何の為に必要なのか?
ttp://home.att.ne.jp/delta/myrobalan/mulama.html
中論 第二十六章 十二の鎖の環(十二因縁/十二縁起)の考察
無明の暗闇に覆われて
人はその者自身を未来の生へと
追いやることになる性質を持った
身体的な行為、言葉による行為、心による行為を行う(カルマを積む)
無明に依存して、そして
渇愛(タンハー)が生じると
誤ったあり方を掴んで離さないような固執も現れる
− これを対処するために −
般若の智慧と [ 慈悲 ] の世界からの観照によって
無明が止まると行為(諸行)は生じなくなる
無明の停止は
止(サマタ禅定)と観(ヴィパッサナー智慧)を通して生じるのである
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想
生きとし生けるものにも
光り輝いている
般若の智慧と [ 慈悲 ] の世界からの観照によって
実相般若の世界が現れますように 528.
慈悲は人間がするものであるよ。
仏教は人間のすることではないからして、慈悲をする必要がないのであるよ。
健太郎バカは、慈悲に拘泥している。
それは人間に拘泥しているからであるよ。
その人間を、やめる、のが仏教であるよ。バカには理解できないよ。 自我に拘っている内は仏教はできない
慈悲は禅のようなものでただ我欲を捨てて実践するのみ
ということを禊氏はいいたいのか >>530
まあ
仏教は実践。
智慧は必要だが、
慈悲に始まり慈悲に終わる。
慈悲とはより知らない人に見返りなくより多くを与えること。 慈悲もないのにわかったようによくしゃべる。
滑稽(笑) 奴隷こそ主人に慈悲を施さなければならない。
実際、江戸末期以降、日本を訪れた西洋人が日本人召使いを雇ったときに驚いたのはこれだった。
西洋の召使いは言われたことをする、する前にはお伺いを立てるのを基本とする。
しかし日本人の召使いは慈悲を行う。
主人に配慮しより自ら良い選択を行う。
西洋人は少しプライドを傷つけられるとともにその配慮に驚き、心地よさを感じる。
それが日本人の勤勉である。
奴隷だからこそ慈悲を施す。 532.
慈悲は生活の問題である。
それは宗教の問題ではない。
慈悲バカであるところのバカ健太郎であるよ。
慈悲を実行できないバカ健太郎が、よくしゃべる。 536.
慈悲などと言うものは仏教ではないよ。
なんで、慈悲バカになれるのかや。
>仏教は語るものでなく慈悲をするもの
慈悲は、なぜ必要なのか?その理由を説明せよ
と質問してるのだが
禊健太郎氏は
やはり日本語がダメな人なのか?
慈悲とは何か?
なぜ慈悲が必要なのか?
『無明している世界から → 涅槃(ニルヴァーナ)へ』は不要なのか?
質問に答えよ
日本語がダメな禊健太郎氏へ 梵我一如はヴェーダの真髄だが、釈迦の三法印では諸法無我と説く、これらが示すところには主語概念がない
何らかの対象に無慈悲であろうとするとそれを招く結果となるが、言うまでもなく仏教は四苦を退けるための教えだ 禊健太郎氏と比べたら大変に失礼であると思うけど
>>540氏は凄くまともな感じが致します スマソ m(_ _)m
禊健太郎氏に説明しても理解できないかもしれないけど、それでもとりあえず
ttp://rdor-sems.jp/index.php?%E8%AA%B0%E3%82%82%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%81%AA%E3%81%84%E7%81%AB%E4%BA%8B
中観自立派
「火を火たらしめている本質的な要素は、熱さや燃焼作用である。それは、火自体の側にある固有の要素だ」
という自相(自性)を、世俗の次元では承認します
熱さや燃焼作用が火の自相(自性)として認められる・・・ということです
これは、私たちの常識的な考え方に近い立場でしょう
仮設としての
地水火風空識の微粒子に依存している仮の現れ
…
中観帰謬派
仮設としての
地水火風空識の微粒子も最終的には滅するので
自相(自性)を世俗の次元でも否定します。それゆえに
>>540 >諸法無我
我所でもない・我でもない
無常であり・無我である
無為法・涅槃(ニルヴァーナ)ということでつね?
ご教示ありがとうございます スマソ m(_ _)m 質問がアホすぎてついて行けない
仏教に慈悲は必要ないと???
仏教から慈悲をとったらしいなにが残るのか???
何言ってのこの子?(笑) ようするに他者とか関係なく、
ただ自力のみで涅槃に至ると
それなに教??? >>541
逃げずに答えなさい。
仏教にとって慈悲はなんですか?
>自力のみで涅槃に至る
だから
我所だけでもなく
我だけでもなく
如来の大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 如来の大悲・大智を受け入れる
我所でもない我でもないからこそ
如来の智慧と慈悲を → (衆生が)受けることができるんでしょ?
禊健太郎氏は 『 真性のバカ 』 なのかしらん? >>545
慈悲は仏のもので、人は慈悲はしなくても良いと
ただすがれと
浄土真宗系ね >>545
本気でそう思ってる
悪人こそ救われる
なんでもありと >>
大乗仏教の思想体系の理論的建設者であるナーガールジュナは、慈悲に三種類あることを認め、無縁の慈悲の究極者的性格を明らかにしていう。
・・・恐らく現実の社会において、多くの個人と個人とが対立している場面を意識しつつ慈悲を及ぼすことが「衆生を縁とする慈悲」であり、
個人存在或いはそれを関連がある諸種の物を個別的な要素に分析して、それらは独立な実体でないと思って、
執着を去って他人に何らかの物を与えて奉仕すること、すなわち小乗仏教における慈悲行、が「法を縁とする慈悲」であり、
諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲が「無縁の慈悲」なのであろう。P112-116
慈悲 中村元 講談社学術文庫 ISBN:4062920220
<<
>小乗仏教における慈悲行、が「法を縁とする慈悲」
>諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲が「無縁の慈悲」なのであろう
それゆえに
禊健太郎氏も
バラモン(ヒンドゥー)のことも
根本仏典(小乗仏教)のことも
ナーガールジュナの中論のことも
密教のことも
勉強した方が良いでしょ?
教学(きょうがく)も理解してから
般若の智慧によって観照された
実相般若として
如来の智慧と慈悲の実践が現れる(場合もある?)
>>544 >慈悲はなんですか?
慈悲(じひ)
般若の智慧によって観照された
実相般若として
(我所だけではなく我だけでもないので、それゆえに)
自分も含めて
他の生命に対して楽を与え、苦しみを取り除くこと(抜苦与楽)
ttp://www.j-theravada.net/3-jihi.html
慈悲の冥想 >>550
そこまでわかってるなら、
慈悲ってるかい?
知識をつけてもだめだよ。
野球の知識に詳しくなっても、
野球が上手くなるわけじゃないだろう。
わかる?
>>549 >ナーガールジュナ(の中論も勉強してみては?)
ttp://www.geocities.jp/tubamedou/SonotaButten/Chuuron/ChuuRon04.htm#no22
青目(ピンガラ)の中論 觀如來品 第二十二
…
如来(という想い)は空である。如来は戯論を超過する
− これに対して −
仮設としての
無明している世界の中で
無明に依存して
人は戯論を生じる
戯論して慧眼を破れば
是の人達は
皆
おじゃるも
机先生も
123タソも
紐タソも
そして
禊健太郎タソも
仏を見ることはない
− これを対処するために −
(如来の智慧と)慈悲が必要なんでしょ?ということでつ
>慈悲ってるかい?
禊健太郎タソは
小乗仏教における慈悲行、が「法を縁とする慈悲」を実践しているのか?
諸法実相である空(=如来)を観じて行う「無縁の慈悲」を実践しているのか?
それとも
たとえば密教系の?
月輪観(がちりんかん)のようなの実践をしているのか?
ttps://kotobank.jp/word/%E6%9C%88%E8%BC%AA%E8%A6%B3-45106
(般若の智慧によって観照された → 実相般若として)
心のなかに,あるいは面前に月輪を観想する
この月輪は自己の菩提心そのものを示すもので
その月輪が円明無垢で光明が全法界に周遍する
と観じると自己の菩提心そのものもそのように光明無垢となる
↓
そして、それから
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AB%E9%82%A3%E8%AD%98
(般若の智慧によって観照された → 実相般若として)
深層的な自我心(我愛)を滅することによって、真の無我行を実践することができる
↓
そして、それから
般若の智慧によって観照された → 実相般若として
如来の智慧と慈悲の実践が現れる(場合もある?)
>諸法実相である空(=如来)を観じて行う慈悲が「無縁の慈悲」なのであろう
ttp://suttanipata.com/acyafcafaafafaafaea/
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
すべて一切の諸法を 『 空性である 』 と観照せよ
ttp://suttanipata.com/a/
スッタニパータ 1026
無明(むみょう)が頭であると知れ
智慧と慈悲が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
ttp://microsamgha.com/2015/11/21/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%EF%BC%92%EF%BC%91/
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(般若の智慧と慈悲によって観照された → 実相般若として)
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法
すべて一切の諸法は夢・幻の如く 『 空性である 』 と観照せよ
(幻術師が夢・幻を作り出しているようなものである)
『空性である』と観照することも智慧と↑慈悲の実践なんジャマイカ? 仏教では実践のない知識に価値をおかない。
思弁は愚である。 野球をやりたいならボールを打ちなさい。
野球の本をいくら読もうがそれは野球ではない。
慈悲とはそういうことだ。 仏教は慈悲で、キリスト教は、愛だ、
と言うバカが多い。
それは生活の問題である。
それによってして、両宗教は生きながらえて来た、と指摘されている。
だが、それは、宗教ではない、と指摘されている。
バカには理解できないよ。
>実践のない知識は無駄
だから
『空性である』と観照することも
慈悲の実践なんジャマイカ?
と質問しているのでつ
本当にガチで言葉が通じない
禊健太郎タソは(涅槃の世界へ)逝ってよしでつ
慈悲によって観照された → 涅槃の世界へ逝ってよしでつ >『空性である』と観照することも
>慈悲の実践なんジャマイカ?
そんなの慈悲でもなんでもない。
どころか慈悲の邪魔でしかない。
野球の本を読みあさるより、キャッチボールをしろ。
野球の本を読み漁ってない方が、
キャッチボールの上達は早いだろう。 560.
実践のない知識は無駄、か。
実践を否定したものが宗教であるよ。
宗教を知らないバカが多い。
だからして、生活の問題で、だまされることになる。慈悲が、その一例であるよ。 とはいえ、日本人はだいたい「法を縁とする慈悲」程度の実力は持っている。
みんなそこそこの野球がうまい。
むしろキミたちは仏教への無駄な知識が邪魔をして
日本人並以下に、仏教の能力は低い。
慈悲音痴になっている可能性が高い。
結局のところ、キミたちの仏教の知識は、現実逃避の手段でしかないだろう。 >>562
キミが一番は重症のようだな。
引きこもり? 561.
野球をやってるバカ、慈悲をやってるバカの登場であるよ。 563.
現実逃避の手段、か。
野球とか慈悲の実践とかが、現実逃避の手段であるよ。
バカには理解できないよ。 落語「こんにゃく問答」(こんにゃくもんどう)
http://rakugonobutai.web.fc2.com/33konnyaku_mondou/konnyaku_mondo.html
…
「狐拳みたいな事をやってたが、どうなったんだ」、「参った。お見逃しください」と言って
逃げ出したのは旅僧の方で。八公は旅僧を追い、訳を尋ねた。
「和尚には、みどもでは到底かなわぬ。大和尚の胸中(指で丸)はと聞くと、大海のごし
(両手で丸)と応え、十法世界(指十本)はと問うと、五戒(指五本)で保つと答えられた。
三尊の弥陀(指三本)はと聞くと、目の前を見よ(あっかんべー)と答えられた。畏れ入り
ましてございます。修行し直してまいります」。
六兵衛さんはカンカンに怒っている。「何で煮え湯を掛けなかったんだ」、「親分が勝っ
たのです」。六兵衛さん怒りが消えず「あいつは永平寺の坊主ではない。あの乞食坊主、
こっちが蒟蒻屋の親父だと見抜いていやがった。おまえの店のこんにゃくは小せえ(指で
丸)って言いやがるから、でけえぞ(両手で丸)と答えてやった。こんにゃく十(指十本)丁で
いくらだと聞きやがるから、高いと思ったが五百文(指五本)だと答えると、しみったれてい
て三百文(指三本)にまけろって言いやがる。腹が立ったから、あっかんべー」。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています