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887夜『禅と日本文化』鈴木大拙|松岡正剛の千夜千冊
http://1000ya.isis.ne.jp/0887.html
 いまでもよく憶えているのは、こういう語り口だった。
 禅というのはブッダの精神を直截に見ようとするもので、何を見ようとしているかと
いうと、「般若」と「大悲」である。それを英語でいえば、般若はトランセンデンタル
・ウィズダムに近く、大悲はコンパッションといえるであろう。この「超越的な智恵」
たる般若によって、禅者は事物や現象の因果を超えるために修行をする。.…
…大拙は突如として、だからこそ、「禅は夜盗が夜盗に学ぶようなものなのだ」と言った。
 これはのちにぼくも読むことになる『五祖録』からの引用だったのだが、突然に夜盗に
なれと言われても戸惑うだろうから、説明しておく。

 ある夜盗の父親が息子から夜盗のコツを教えてほしいと言われ、二人して目星の屋敷に
忍びこんだ。父親は大きな長持を明けて息子にこの中の衣服を取り出せと言っておいて、
そのまま蓋を閉め、庭に出るとやにわに「泥棒だ、泥棒だ」と大呼した。
 家人があわてて起き出したが泥棒はいない。困ったのは息子のほうで、長持から出るに  
出られない。そこでやむなくネズミが齧る物音をたて、家人が長持を開けたとたんに飛び
出し、命からがら逃げ出した。
 這々の体で息子が戻って父親にひどいじゃないかと言うと、まあ憤るな、どうやって
逃げたか話してみろというので、息子が一部始終を話すと、そう、それだ、お前はこれで 
夜盗術の極意をおぼえたのだ、と。
 こういう奇想な話を紹介し、大拙はすかさず「禅は不意を打つものだ。それが禅の親切
というものだ」と説いたのである。 👀
Rock54: Caution(BBR-MD5:8a1d671deac21a48eb6b1e34309afde7)