仏教哲学総合スレ3 [無断転載禁止]©2ch.net
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☆彡
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E4%B8%96%E7%99%82%E6%B3%95
催眠療法の一種で
人間は死後人間に生まれ変わるという転生論を前提とする
退行催眠により
患者の記憶を本人の出産以前まで誘導(=過去生退行)し、心的外傷等を取り除く
前世療法(ぜんせりょうほう)
↑これも実践したいと思いまつ
_ _ _
フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)の
何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)は
おじゃるの場合は
幼稚園児だったとき?の
『懐かしい・暖かい・優しい・穏やかな』という感じがします
(胸〜腹のあたりが、ぼんやりと、くすぐったい・むずむずする) 自分も心理学のほうでの仏教的テクニックも
参考にしたいと思ってるので、おじゃるには親しみがわくな
禊健太郎はだめだ
実践もしないんだろうし、慈悲しか言わない >>720
だから
勤勉だよ
見ないふりするな(笑) >>719 >死ぬなよ
たとえば前世療法とかの場合は
仮設として
一旦、死んで、そして
肉体から魂が抜けて
時間も空間も超えて
前世を観照するという感じなのかもしれない
実際に死ぬということではなくて
「肉体が死んで…」という観照をするということでつ
「退行催眠により患者の記憶を本人の出産以前まで誘導(=過去生退行)し」
なので「時間を退行して」ということでつね。失礼いたしました m(_ _)m
_ _ _
>>720 >心理学のほうでの仏教的テクニック
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%B3
とりあえず
仏教の指導者に修行法と教理を学んで、それを西洋科学と統合させたので
ジョン・カバット・ジン(Jon Kabat-Zinn)のマインドフルネスの場合は
上座部系?大乗?とかの仏教と関係がある場合もあるかも? >>591
どれほど詳しくても、
実践できていなければ(→具現化できなければ・広く知らしめ得なければ)
意味がない。
お釈迦さんが、菩提樹の下で坐ったままだったのと同じだよ。 721.
バカ健太郎が勤勉、と言ってもな。
勤勉は宗教ではない。
それは生活の問題であるよ。
その生活の問題で、他人を、だましているのがバカ健太郎であるよ。
バカ慈悲教の教祖になるかや。 観世音 南無仏
与仏有因 与仏有縁
仏法僧縁 常楽我浄
朝念観世音 暮念観世音
念念従心起 念念不離心 ☆彡
>>724 >お釈迦さんが、菩提樹の下で坐ったままだったのと同じ
おじゃる本人の実践は↓これでつ
>>711
>宇宙に遍満する根源的エネルギーが
>人体内に存在する根源的生命エネルギーの
>第6のチャクラに触れて → 眉間のところが、くすぐったい
>>718
>フォーカシング(焦点合わせ、Focusing)の
>何かの気がかりにまつわる感じ(フェルト・センス)は
>おじゃるの場合は
>幼稚園児だったとき?の
>『懐かしい・暖かい・優しい・穏やかな』という感じがします
>(胸〜腹のあたりが、ぼんやりと、くすぐったい・むずむずする)
おじゃるの場合は智慧ではなくて↑「無明して→妄想している」ということでつ
今、禊健太郎師匠に『慈悲の実践とは』どのようなものなのか?と、ご教示を承っているところでつ
>>724師にとっての『慈悲の実践とは』どのようなものでつか? ヨロ m(_ _)m
これからは、道元禅師 普勧坐禅儀
(般若の智慧(と慈悲)によって観照された → 実相般若として)
…心意識の運転を停め、念想観の測量を止めて…
も実践するかも?(或いは(実践しようと思っても)出来ないかも?)←縁起に依存しているが故に >今、禊健太郎師匠に『慈悲の実践とは』どのようなものなのか?と、ご教示を承っているところでつ
だから、何回も言わすねぇ。
慈悲の実践とは、勤勉。
どの仕事もみな仏道修行である。
人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。
仏道修行で無い仕事はあるはずがない。
一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。
鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。
武士がなくては世が治まらない。
農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。
商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。
このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。
このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている。
本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。
自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。
万民徳用 鈴木正三著作集1 中公クラシックス ISBN:4121601548
おじゃるが>>727の意訳をしたものではないけど↓それでも間違っていたら スマソ m(_ _)m
ttp://www.horakuji.com/BuddhaSasana/Vajrayana/zaike/enmeikyo.htm
延命十句観音経
現代語訳
観世音菩薩よ、仏陀に帰依します
仏陀(が仏陀となったこと)にも原因があり、仏陀(が仏陀となったこと)にも条件がある
(よって私も)仏・法・僧との縁によって、常・楽・我・常(という大いなる平安の境地、仏陀の悟り)に達しよう
朝に観世音菩薩を念じる。夕に観世音菩薩を念じる
この念は心から生起するものであり、この念は心から離れるものではない
ttp://abetoshiro.ti-da.net/e1471811.html
念念従心起(ねんねんじゅうしんき)
(この場合の)念とは「今」の「心」のこと
まさに今、そんな聖なるものを思い起こす
そのことだけで心を満たし、散漫な思考を統制する
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E6%A5%BD%E6%88%91%E6%B5%84
常楽我浄
たとえば、この場合の
我は
無明している世界から解脱している → 如来我(仏性)
如来(にょらい)・応供(おうぐ)・仏世尊(ぶつせそん) ☆彡
↓この場合は。それ自体、単独で成立しているのではないので
↓我所ではない我でもないという意味で
阿弥陀仏より授かっているものなので
それゆえに
自力で往生などしようとしないで一切の物事を阿弥陀仏にお任せする
如来の大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 如来の大悲・大智を受け入れる
朝に夕に(いつも・いつでも)
観世音菩薩の大悲・大智によって → 衆生に応じる
衆生が ← 観世音菩薩の大悲・大智を受け入れる
(朝に観世音菩薩を念じる。夕に観世音菩薩を念じる)
ttps://kotobank.jp/word/%E5%AF%BE%E6%A9%9F%E8%AA%AC%E6%B3%95-90970
対機説法(たいきせっぽう)
精神的能力(→機根)や性質などに応じてそれにふさわしい手段で導いていく
ttps://kotobank.jp/word/%E5%9B%9B%E6%82%89%E6%AA%80-281469
人々の心に合わせて導いていく
各人の宗教的能力を考えて導いていく 慈悲だから人にやさしくとか、アホたれはすぐにいうが。
たとえば電車の中で、突然、座っている見知らぬ人から席を譲られたらどうする?
たとえば町中で、突然、見知らぬ人から100万円贈られたらどうする?
慈悲が、
より多くを見返りを求めずより知らない人に与えること、まるで自然の恵みのように
としても、
そう簡単なことではない。 なぜ仏教は、ブッタが認めなかった、神を作り出したのか
一番は在家などには、対象があるほうがわかりやすいからだが、
さらには慈悲の実践の困難さがある。
人から人への慈悲はほんとに難しい。
そこに神を噛ますことで、やりやすくなる。
見知らぬ人に与えられるのは受け入れにくいが、
それが神、阿弥陀如来からの慈悲として受け入れるとすんなりと入る。 たとえば電車の中で、突然、座っている見知らぬ人から席を譲られたとき、
阿弥陀如来が疲れている僕のために席を譲られるよう慈悲を施してくださった。
たとえば町中で、突然、見知らぬ人から100万円贈られたとき、
阿弥陀如来がお金に困っている僕を見かねてお金を贈ってくださったんだ。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。 このようなことは、仏典をただ読んでいるだけ、
コンスタティブにしか理解できないとわからない。
仏典はパファーマティブに読むように仕掛けられている、
すなわち実践しながら、自らの読みを作り出していくことが大切。 いやいや、だから慈悲の実践がいかに難しいか、ということ。
その中で、神様嫌いの日本人が編み出したのが、勤勉。
江戸初期に、これは慈悲の画期的な発明であり、
現にいまに続く、日本人の極楽に劣らない現代の日本を作り出したことへの貢献は絶大。
そしていま世界へ広がっている。
どの仕事もみな仏道修行である。
人それぞれの所作の上で、成仏なさるべきである。
仏道修行で無い仕事はあるはずがない。
一切の[人間の]振舞いは、皆すべて世の為となることをもって知るべきである。
鍛冶・番匠を始めとして諸々の職人がいなくては世の中の大切な箇所が調わない。
武士がなくては世が治まらない。
農人がいなければ世の中の食物が無くなってしまう。
商人がいなければ世の中の[物を]自から移動させる働きが成立しない。
このほかあらゆる役分として為すべき仕事が出てきて世の為となっている。
このような有り難い仏の本性を人々[は皆]具えている。
本当に成仏を願う人であるなら、ただ自分自身を信じるべきである。
自身とはつまり仏であるから、仏の心を信じるべきである。
万民徳用 鈴木正三著作集1 中公クラシックス ISBN:4121601548 いまや勤勉宗仏教の世界の潜在的信者は、
本家の仏教徒より多いだろう。
今日も世界で慈悲は実戦されて、商品の中で祈られて、
世界の人々に高品質の商品を提供して、世界を極楽に導いている。 >>741
>たとえば町中で、突然、見知らぬ人から100万円贈られたとき、
>阿弥陀如来がお金に困っている僕を見かねてお金を贈ってくださったんだ。
>南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
突然、見知らぬ人から100万円贈られたとき
それを遠慮なくいただくのが君の慈悲なんでしょ? >>73やおじゃまるは仏教のふりした近代プラトン主義で、
個を重視して、我を肥大させて、自己コントロールを失っている。
俺はみんなとは違う、特別だに囚われて、
そして周りと馴染まず排除されて引きこもる。
そのために仏典で理論武装している。
本来の仏教の無我とは真逆。
だから勤勉は誰もが日常的に行っていて、
俺の特別で周りを見下せないと、
拒絶反応がすごい。 相手の非をあげつらうのは慈悲じゃないよね
結局、君もおじゃるもたいしたことないわけよ
慈悲にどれだけの責任を負わすことができるのか
そこそこの聖人でも、分かっているわけではない
世の中には
どうしようもないクズとか
救いようのない凶悪者とか
およそ話の通じないサイコパス
そんなやつらがうようよいて
慈悲もしくは慈悲の実践が、そいつらを僅かでも照らすことができるのか
誰にも確証があるわけではない
慈悲が慈悲がと唱えるだけなら楽なことだけど バカ健太郎は鈴木正三を批判できないバカである、ことが決定した。 >>746
この手の馬鹿がいるから、
阿弥陀如来はいる
理解力ゼロか(笑) >>746
それは、キリスト教の慈愛だろ
いいから働け 746.
慈悲の主体の問題が欠落しているからであるよ。
それが鈴木正三の限界であるよ。
それは宗教ではなくして、生活の問題をやっているからであるよ。 キリスト教の慈愛は弱者救済
仏教の慈悲は弱者なんか救済しない
ともに働くだけ 健太郎くん
私を相手にすると疲れるよ
どうせ君は逃げるだけなんだから
最初から相手にしない方がいい 生まれつきか、3才ぐらいまでに仏性を獲得できないと
なかなか難しいだろ
>>757 >生まれつきか、3才ぐらいまでに仏性を獲得できないと…
たとえば
おじゃるの場合は無明に依存しているので
今のところ『仏性そのもの』という想いはないけど
それでもとりあえず
ttp://www.dia.janis.or.jp/~soga/subindex.html
(大乗系の)般若経の解説
法界体性智によって
般若の智慧によって観照された → 実相般若として
仮設としての
無明している世界の中から解脱して
変化する世界のすばらしさ、世界のすべてとともに現象する喜び、空の力への感嘆
そして我執は消え、みずから苦を創り出していた自分の愚かさに気づく
しかし
無明している世界の中で
無明に依存しているのなら
『解脱すれば仏だ』ということに。気づくまでは、気づくことは難しい >>758
そういう境地を求めることを否定しない
だけど私が思うところの仏性というのはね
たとえば、嫌な奴、くだらぬ奴、どうしようもない奴、ゆるせない奴
そういった奴らを避けず、逃げず、まともに相手することに自然に赴いてしまう性分によって
どうしようもない奴らが、知らずどうしようもない奴ではなくなっていく
その奇蹟を可能にする何ものかのことだよ
わかったか たしかに慈悲は大切なことだが、自然と湧き上がってくるもので、
勤勉とか義務でやるものじゃない
自分のありかたを変えないままで慈悲といっても難しい
それより、楽になること考えたら?
仏陀も苦を取り除いて楽になることを説いたはずだ
禊健太郎は慈悲というのが強迫観念みたいになっていて、
見ていて苦しそうなんだよ
慈悲に対して執着しているように思える
あんまり考え方にこだわらないほうがいい
勤勉に働け働けって、押しつけがましい
経営者が仏教を資本主義に都合のいいように悪用しているみたい
禊健太郎は、仏陀の本質の大切なことが抜け落ちている >>760
なんだ比較的まどな人もいるじゃないか。
なぜ僕が慈悲を強迫的に強調するのか。
良い点だ。 慈悲の教えは、現代なら、弱者の強者への迎合、日和見など言われるだろう。
西洋近代は、強者/弱者の強烈な二項対立を打ち立てた。
それによって、過去に渡って、この二項対立でしか、世界を見ることが出来なくなった。
民主化と言われるこの思想は、人の常識を一転した。
歴史も権力史観へと転倒してしまった。
近代以前にこそ、階級制があったにも関わらずなぜ近代なのか?
それはなぜ西洋近代に民主化が起こったかによるだろう。
自由平等を求める力が強者/弱者の強い二項対立を生み出している。
そして弱者こそ強者に慈悲を施さなければならないという慈悲を、
自由平等の反するものと考える。
実際、江戸末期以降、日本を訪れた西洋人が日本人召使いを雇ったときに驚いたのはこれだった。
西洋の召使いは言われたことをする、する前にはお伺いを立てるのを基本とする。
しかし日本人の召使いは慈悲を行う。
主人に配慮しより良い選択を行う。
西洋人は少しプライドを傷つけられるとともにそのインテリジェンスに驚く。
それが日本人の勤勉である。
現代の日本人労働者も同じく勤勉である。
西洋近代の、主奴の二項対立を超えていく。
その先にあるものがいまの日本の繁栄だ。
豊かで公平で配慮の行き届いた安全で快適な社会。 >>760
>たしかに慈悲は大切なことだが、自然と湧き上がってくるもので、
>勤勉とか義務でやるものじゃない
>自分のありかたを変えないままで慈悲といっても難しい
>勤勉に働け働けって、押しつけがましい
>経営者が仏教を資本主義に都合のいいように悪用しているみたい
このような西洋思想の洗脳を解いて、
日本人の中にある自然に湧き上がるものに素直になろう。
日本人にとって慈悲、勤勉とはそういうものだ。 『日本人にとって』というような
ちょっと心をくすぐるしかけでごまかそうとする
糞のような話だ 【ステロイド抜けたらガリガリで横チンを公共電波に晒したり
土俵に力水はいたり尻の穴ほじくった手でツッパリして相手をひるませたり
自分で隠し持っていた山響株を兄が盗んだと騒いだり】しちゃだめだろ、人間として 勤勉とは単にたくさん働くことではない。
ましてや賃労働でも、
正社員労働でもない。
自らができることを懸命にやることそのものだ。
それが慈悲である。
それが日本人だ。 おじゃまるやスピリチュアル系は、簡単に勤勉をこじらせた人々だ。
うまく勤勉に乗れなかった左翼。
日本人は勤勉な乗れないとやんで腐ってしまう。 >勤勉に働け働けって、押しつけがましい
>経営者が仏教を資本主義に都合のいいように悪用しているみたい
西洋思想に犯されてこう口にすることで、
体の中では、
心と分離して病んでしまう。
素直に勤勉することがよい。 771.
バカ健太郎は勤勉なるところの奴隷を推奨するバカである。 ☆彡
>>770 >おじゃまるやスピリチュアル系は…左翼
禊健太郎師匠へ!
そうだったの?今まで自分のことも↓わからなかったけど?
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%B3%E7%BF%BC
右翼・国粋主義
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E7%B2%8B%E4%B8%BB%E7%BE%A9
国粋主義・天皇を頂点とする
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E7%A5%9E%E5%AE%AE
すべての神社の上に位置する神社
↓金銭的に余裕があるのなら
スピリチュアル・パワースポットとして
伊勢神宮・出雲大社・厳島神社・日光東照宮
恐山・(対馬の)オソロシドコロ(天道信仰・多久頭魂神社)とかにも
帰依(きえ)拠り所に戻り帰りたいと思いまつ
ブッダン・サラナン・ガッチャーミ
一切の如来の御足を礼拝し奉る
オン サラバ タタギャタ ハンナマンナ ノゥ キャロミ m(_ _)m >>773
古くはプラトン以前とプラトンとの違い、あるいはプラトンとアリストテレスの違いにまで遡り、
スコラ神学者においては神の存在の弁証可能性をめぐる対立として再燃した、「主意主義/主知主義」の対立がある。
厳密に、前者が右翼、後者が左翼である。
色々な規定が可能だが、主知主義とは〈世界〉を知識で覆える(神を合理的に弁証できる)とする立場、
主意主義とはそれを否定する立場だと考えるといい。
主意主義がそれを否定するのは、意思を知識に還元できない端的なものだと見做すからである。
宮台真司 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=259 スピリチュアルは特別で有りたいという、自我の肥大現象。
そこに本来、無我の思想の仏教を取り入れるトリックが、
可能なのは、徹底的な慈悲の排除、
簡単には、ベタは現代病の神経症
今どき素朴とも言えるが >>776
貴方も「慈悲は経済だ」とかむりやり引き込んでるじゃん
めちゃくちゃ強引に
ブーメランじゃんw >>776
経済に慈悲を取り入れるトリックが可能なのは
徹底的に慈悲を排除することによって、になるだろ
ばーか
おじゃるは
脳に障害があるので
哲学とか数学(すうがく)とかの
難しいことはわからないけど
それでも
アトランティス ← 古代ギリシアの哲学者プラトンがなんちゃらかんちゃら
ピタゴラス
ゾロアスター教の司祭のもとで学んだ → ピタゴラス
オルペウス教の影響から → 輪廻前提へ
リインカネーション(Reincarnation)輪廻
ttp://www.mlit.go.jp/kokudokeikaku/iten/onlinelecture/lec44.html
国土交通省
(天台密教の)天海僧正が風水を利用して江戸を造った
スピリチュアル・パワースポットとかには興味があります
チベット系のことは、これからも
瓶から瓶へ水を一滴もこぼさないでうつす瀉瓶のように受け継いでいきたい
という思いがありまつ 禊健太郎は、慈悲という誰も反論しにくい概念を振り回すことで、
他人を黙らせて従わせたいという意図を感じる
そりゃあ慈悲があればすばらしいし、誰もが慈悲をもった日本
社会が達成できればユートピアだろう
だがそれは強制されるものじゃないし、押し付けるものでもない
仏教を西洋的思想のような道具として利用しているだけで、
慈悲という言葉に心がこもってないように感じるのは気のせいか?
同じ慈悲という言葉でも、そこに心がこもっていなければ、
言葉の暴力になることもある 慈悲ってのは言葉や道具じゃない
感情なのだから、言葉だけが独り歩きしていいものじゃない
ことあるごとに慈悲と言って、自分の思想に合わない他の意見を
黙らせようとするのでは、話が広がりようもない
あと、仏教のような東洋哲学は、哲学と宗教を切り離せないもの
なので、宗教と分離している西洋哲学のように、合理的にのみ
捉えられるものではない
仏教は他の宗教と違って合理的だという人もいるが、それでも
ブッダの時代の仏教のころから、輪廻転生からの解脱とか、
本来、世俗を超えたことを語っているものだ
日本の仏教にしても、空海の密教とか、かなりオカルト的なもの
も日本の伝統の一つとしてたしかにあるものだ
禊健太郎の仏教はかなり矮小化されたものとしか言いようがない
>空海の密教
般若の智慧によって観照された → 実相般若として
ttp://www.mikkyo21f.gr.jp/kukai-walk/cat29/post-99.html
護摩の火と空海
護摩の思想
火を真理とし、薪を煩悩とし、真理をもって煩悩を焼く
ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法
息を吐く時に自分の幸せを白い光の形で(真理を)衆生に与え
息を吸う時には衆生の苦しみを黒い煙の形で(煩悩を)受け取る
_ _ _
金銭的に余裕があるのなら
年始には
神社・仏閣・霊場とかにも戻り帰り帰依したいと思いまつ m(_ _)m
慈悲の禊健太郎師匠は年末年始には何処かに逝かないんでつか?
(たとえば涅槃の世界に逝くとか?)
>>759師
>仏性というのは
(般若の智慧によって観照された → 実相般若として)
>どうしようもない奴らが → どうしようもない奴ではなくなっていく
>その奇蹟を可能にする
ご教示ありがとうございます スマソ m(_ _)m
今までに
↓おじゃるに絡んで来たコテの人
机龍之介師匠
閻魔師匠
紐師匠
123師匠
seia師匠
禊健太郎師匠
↓おじゃるから絡んでいったコテの人
縁起一代阿闍梨師匠
みんな元気に生きてるのかしらん? 大乗といえど、仏性が何に備わるかで意見が割れるのにここはカオスだなw 結局、一人もボクの言ってることを理解できなかったみたいだな
まあそれもまた世の津(笑)
無明に依存しているので
>>787
>大乗といえど、仏性が何に備わるかで意見が割れる
禊健太郎師匠が
勝義諦の慈悲の世界に住んでいるので
それゆえに
世俗諦の世界に住んでいる人々には
>>788
>一人もボクの言ってることを理解できなかった
− これを対処するために −
法界体性智によって
般若の智慧によって観照された → 実相般若として
>>729
>仏の本性を人々は皆具えている
>どの仕事もみな仏道修行である
ということでつね? 禊健太郎師匠へ m(_ _)m すでに自らの中にいて毎日毎日頑張ってる仏を無視するのってなんか不思議だね。
ってこと。 「仏法というものは円満に全てのものにゆきわたっており
我々が修行したり、悟り証したりすることもないはずである
仏に成ろうと思ってもいけない」
>自らの中にいて毎日頑張ってる仏を無視するのってなんか不思議だ
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%87%AA%E6%80%A7%E6%B8%85%E6%B5%84
自らの中の
光り輝いている(智慧と慈悲)
そこに外来のもろもろの煩悩が取り憑いている
(この外来のもろもろの煩悩が依存している)無明を手放しせよ
ということでつね? 禊健太郎師匠へ m(_ _)m
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%98%8E
無明(むみょう)
迷い
真理に暗い
(慈悲と)智慧の光に照らされていない状態
>インド哲学はスワミーが良い
↓これでつか?
ttp://www.gaiajapan.co.jp/books/healing/meditation/423/
スワミ・シヴァナンダの瞑想をきわめる
シヴァナンダ・ヨーガ・ヴェーダーンタ
↑この書籍なら持ってまつ m(_ _)m >>796
無明って言っても悟りがあるから無明が映るわけで、自覚するしないにかかわらず仏性はある。現れるにせよ、隠れてるにせよ、本性が仏性なら無明に生きるってことは仏性を前提にしてるんだよ。
>仏性を前提にしてる
仏性を前提にしてるけど
それでもとりあえず
仮に
仮設としての
無明している世界の中で
無明に依存しているので
それゆえに
勝義諦の慈悲の世界のことは理解できない
ということでつね? 禊健太郎師匠へ m(_ _)m いや、無明に生きてるってことがそのまま仏性を示してるってことだよ。 日本人はほんと変わった民族で、やることということが違うんだよね。
政治的発言はリベラルなことを言うのに、自民党が政権を取り続ける。
不倫だなんだと法よりも世間体を重視する。
勤勉なんて奴隷だと言いながら、毎日勤勉に働く。
これは西洋人が言うような本音と建て前ではなくて、
どっちも本音ではある。
この当たりの逆説を平然と生きているのはおそらく世界でも日本人だけだろう。
西洋人なら、絶えられない。頭がおかしくなる。
西洋ではダブルバインドは精神的な病の元と言われらぐらい、避けられる。
この当たりの逆説を平然と生きられる日本人の慣習の多くは仏教の影響で、ようするに空観と言われるもの。 日本人は生活が禅的と言われる所以。
それは日々の生活の中の慈悲行にある。
日本人の道徳は慈悲をベースにしていているので、
自然と空観が鍛えられる。
ttp://santanadharma.hatenablog.com/entry/2017/08/23/235124
わたしは誰か?−アートマンについて(7)
仏陀が意味したことは
神、あるいは純粋意識は
有限な心を超えており、知性を超えている
「想う」という想いも手放して
「想わない」という想いも手放して
非想非非想処も超えて
非想非非想天という神のような世界も超えて
滅に触れて順々の正知による想滅定が生起して → 涅槃(ニルヴァーナ) さらには、この逆説そのものが勤勉なんだろう。
絶えず自らを否定する無我の運動。
世界でもこれほど自分たちを叩く民族は珍しい。
自らをガラパゴスと言う。
世界からは称賛されているのに。
それによって、決してそこにとどまらず次に向かう。
勤勉な民族。
もっとも仏教を生活実践レベルで消化した民族なんだろう。 >>804 >空観
ttp://suttanipata.com/acyafcafaafafaafaea/
スッタニパータ 1119
つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って
すべて一切の諸法を 『 空性である 』 と観照せよ
ttp://suttanipata.com/a/
スッタニパータ 1026
無明(むみょう)が頭であると知れ
智慧と慈悲が
信仰と念いと精神統一と意欲と努力とに結びついて、頭(無明)を裂け落とさせるものである
ttp://microsamgha.com/2015/11/21/%E3%82%B9%E3%83%83%E3%82%BF%E3%83%8B%E3%83%91%E3%83%BC%E3%82%BF%EF%BC%92%EF%BC%91/
スッタニパータ 21
わが筏はすでに組まれて、よくつくられていたが
(般若の智慧と慈悲によって観照された → 実相般若として)
激流を克服して、すでに渡りおわり、彼岸に到着している
もはや筏の必要はない
神よ、もしも雨を降らそうと望むなら、雨を降らせよ
ttp://repository.meijigakuin.ac.jp/dspace/bitstream/10723/816/1/culture5_79-93.pdf
チベットに伝わる心の訓練法
すべて一切の諸法は夢・幻の如く 『 空性である 』 と観照せよ
(幻術師が夢・幻を作り出しているようなものである)
↑空性であるという [ 慈悲 ] なんでつね? 禊健太郎師匠へ m(_ _)m 808.
主体の問題、誰がの問題が欠落しているよ。
誰が勤勉なのかや。
バカ健太郎が勤勉であると、認定することができないところの主体であるよ。
バカには理解できないよ。
バカ健太郎が勤勉である、ことを、どうやってして、証明できるのかや。 おじゃる?はいろんな情報源知ってるなぁ
その知的好奇心はすばらしいわ
>主体の問題
涅槃(ニルヴァーナ)
現れることもなく
(現れることがないので、それゆえに)滅することもなく
分別もないので
主体も客体もないけど
それでもとりあえず
対機説法として
四悉檀として
人々の心の働きに合わせての導きとして
円成実性の世界から → 依他起性している世界を正見し観照する
方便としての
主体から → 客体へ
↑これは方便としての導きなので
円成実性は
分別ではないので
客体でもない主体でもない 生死即涅槃といって我々が生き死にするこの現世こそが勝義の目で見ると涅槃なのよ般若心経にもそう書いてある
>おじゃる?はいろんな情報源知ってるなぁ
ありがとうございます
おじゃるは脳ミソが腐ってる廃人だけど
それでもこれからもよろしくお願い致します m(_ _)m
完全にスレチだけど↓これも
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%AB
ジョルジュ=アンリ・ルメートル カトリック司祭 ビッグバン理論の提唱者
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97%E3%83%A9%E3%82%BA%E3%83%9E%E5%AE%87%E5%AE%99%E8%AB%96
プラズマ宇宙論(Plasma Cosmology)
ttp://d.hatena.ne.jp/losttechnology/20100202/1265122583
超伝導宇宙
ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AB%E3%83%90%E3%83%83%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B8%E3%83%B3
…ダライ・ラマ14世と、西洋の科学者達との対話を実現させ…
その結果として
ttp://d.hatena.ne.jp/shi3z/20141222/1419203377
ホログラフィック宇宙論
宇宙が時間軸を持った三次元空間であるというのは幻想である
ttp://tocana.jp/i/2017/07/post_13673_entry.html
科学者が…「宇宙には原意識クラウドが存在し…
>>801 >無明に生きてるってことがそのまま仏性を示してる
おじゃるは密教肯定派だけど、それでも
無明に依存している状態で『仏性である』という導きは
おじゃるには難しいでつ
_ _ _
>>813 >勝義の目で見ると涅槃なのよ般若心経にもそう書いてある
この導きの場合は
勝義諦の世界からの観照によって → 依他起性している世界を正見する
という感じでなんとなくわかるような気がします
(実践したこともないので → 実感したこともないけど、とりあえず) 812.
分別がないので、主体も客体もない、か。
それは西田哲学の純粋経験であろうか。
だが、そこの次元から、問題解決ができるかや。否であるよ。 >>816
主体は近代西洋の中心概念だが?
キリスト教から来てるが、
仏教となんの関係が??? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています