中国哲学総合スレ [無断転載禁止]©2ch.net
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東大では理科系にも漢文が課される一方で、
京大では文科系でも漢文が課されないのが不思議だなあと昔から思っている。 http://www.phil.pku.edu.cn/teacher.php
北京大学。
外国哲学にドイツ哲学が多い。
科学哲学が独立した研究系になっている。 >>13
あなたもいたのですね。
前は批判してしまい申し訳ありません。
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特定非営利活動法人 STA 『中国が読んだ現代思想 サルトルからデリダ、シュミット、ロールズまで』
王前 (2011)
プロローグ
第1章 新しい啓蒙時代の幕開け――『読書』の創刊とヒューマニズムの復権
第2章 マックス・ウェーバーの再発見――「出土文物」の運命
第3章 異彩を放つ現代ドイツ哲学
第4章 西のマルキシズム「西馬」――フランクフルト学派を中心に
第5章 日本はいずこ?――一九八〇年代中国における福沢諭吉
第6章 遠のいていく新しい啓蒙時代――一九八〇年代の一つの総括
第7章 人気学問となった現象学
第8章 リクールとレヴィ=ストロース――フランス老大家の本格登場
第9章 フーコー受容の倒錯と可能性
第10章 脱構築と中国――デリダ訪中のインパクト
第11章 「西馬」再来――ハーバーマスと中国思想界
第12章 自由と正義への熱い思考――ハイエク、バーリン、ロールズ
第13章 合わせ鏡としての現代日本思想――丸山眞男の受容
第14章 注目される自由主義への批判者――カール・シュミットとレオ・シュトラウス
エピローグ――統括と展望 『「東アジアに哲学はない」のか――京都学派と新儒家』(2014)
朝倉友海
デリダが「中国には哲学がなく、思想しかない」と言って論争になったという話がある。
デリダは「哲学は古代ギリシアという特定の時期と環境のなかで生まれたものであり、中国に哲学がないというのは、すでにヘーゲルも言っていること」と続けた。 デリダは悪い人ではないが、
国際哲学コレージュの初代議長を務めた人だから、
未だにこの辺りから説明しなければならないというのは深刻。 「形而上学」という語は『易経』に由来する。
「哲学」、「唯物論」、「革命」、「闘争」、「運動」、「解放」、「同志」などは和製漢語。 1000年も前の中国の存在論、生成論、記号論には
デリダ、ドゥルーズ、ラカンにも引けを取らないものがある。 【NHK日米世論調査】米国:日本と中国どちらが重要か「中国」58%「日本」29%−日本:米国と中国どちらが重要か「米国」66%「中国」10%★6
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1515141143/ 中国哲学と西洋哲学。両者の違いを一言で言うならばこうだ。
西洋哲学とは「よく生きるための学問」である。
中国哲学とは「よく老いるための学問」である。
西洋哲学はソクラテス的な問いかけと、絶対真理の探究がその基礎
にある。そこには前へ前へと勢いよく進む姿勢がある。この姿勢が
新たな発見や人類の進歩を後押ししてきた。
中国哲学は「私が良くあれば、周りも良く変わる」という概念が基礎に
ある。この概念は中国哲学に”常に待ち受ける”姿勢を取らせている。
この姿勢と”儒教”が社会体制に組み込まれてきた歴史が、今日の
中国哲学を魅力的と思えないものにしている。
西洋哲学は常に未来を向いている。その期待は若者へと向けられて
いる。しかしながら、西洋哲学は若者に期待すると共に、しばしば
それを彼らに強要してきた。
中国哲学は常に過去を振り返る。その期待は老人へと向けられて
いる。しかしながら、中国哲学は老人に期待すると共に、常々それを
若者にも強要もしてきた。 私は若者に「中国哲学を学ぼう!」なんてことを言うつもりはさらさら
無い。逆に「これは若者のための学問ではない!」そう言い切っても
良い。若者は西洋哲学を学び、前を向いて道を切り開いて行くべきだ。
だから、若者に中国哲学を強要するヤツがいたら飛んでいって殴って
やっても良い。
しかし、「もうそろそろいい歳だよなぁ」と感じている世のオッサンたち
へ! ”良く老いるための学問”である中国哲学は、貴方達を常に待ち
受けている。私たち中国哲学は貴方達のこれからに期待している
のだ! 私たちはきっと貴方を素敵な老人へ導こうと努力する。私たち
が持っているのはそういう学問なのだ。
中国哲学がその長い歴史の中で若者に強要され続け、見苦しい姿を
晒してきたのは事実だ。だが、西洋哲学を修めた老人が、自らの哲学
を若者に強要する姿も同じように見苦しいものでもある。
若者は自ら未来へ。老人は過去から今を。この二つの視点で世界の
あるべき姿を考えてみてはどうだろうか。きっと今よりももっと世界は
広く、住み易いものになるはずだ。
だから、「自分ももういい歳だなぁ」と感じたなら、ちょっとこっちへも
来てみてほしい。いつでも私たちは、貴方の訪れを穏やかに待ち
続けている。 哲学は日本で考案されたものです。中国には思想があって、フィロソフィーから独立しています。多くの戦争や民から掬い上げた言葉で、信頼はおけるでしょう。前者より。 女性の未来。行動して、結婚と子育て。何度であろうと。
男性の過去、歴史もふまえて年上の女性達にうまく取り入ること。
と、性差があって、過去と未来が成り立っているのです。 よく老いるなら老子、若さを保つなら荘子 色気を出すなら荀子とかその他。 西洋の哲学は時間論的に、直線的な時間を向いていません。
いつどこで男性に出会うか、どれくらいの年齢で、いつの時代のということです。 27 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん
28 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん
29 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん
30 名前:あぼ〜ん[NGName:学術] 投稿日:あぼ〜ん 986 名前:考える名無しさん[] 投稿日:2018/02/12(月) 13:29:26.13 0
>>976
漢文の思考というのは、表意文字のようなチマチマしたものではなく、
もっと演算子的なものだと思う。
華厳の四法界などは良い例。
「事・理・無・礙・法・界」6文字の組み合わせだけで、
存在論、言語哲学、同一性と差異、宇宙論から核融合までを合わせた様な世界を描いている。
そのスケールの大きさと繊細さは、ドゥルーズ/デリダの比ではない。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%BE%84%E8%A6%B3
四法界とは現象世界に対する四つのものの見方である。
1.事法界(じほっかい)
我々凡人の普通の物の見方である。
2.理法界(りほっかい)
すべての物に実体はなく、空であるという見方。
3.理事無礙法界(りじむげほっかい)
実体がなく空であるという理と具体的なものごとが妨げあわずに共存しているという見方。
4.事事無礙法界(じじむげほっかい)
一切の物が空であるという理が姿を消し、一切の物事が妨げあわずに共存するという見方。 >>32
大正蔵 第45巻p684b26
http://21dzk.l.u-tokyo.ac.jp/SAT/ddb-sat2.php?mode=detail&nonum=&kaeri=&mode2=2&useid=1884_,45,0684b26
T1884_.45.0684b26: 一事法界。界是分義。一一差別。有分齊
T1884_.45.0684b27: 故。二理法界。界是性義。無盡事法。同一性
T1884_.45.0684b28: 故。三理事無礙法界具性分義。性分無礙故。
T1884_.45.0684b29: 四事事無礙法界。一切分齊事法。一一如性
T1884_.45.0684c01: 融通。重重無盡故
以下はもう少し膨らませた説明。
国訳大蔵経. 経部 第5巻「華厳経解題」
http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1207247
p48-52 >しかし、「もうそろそろいい歳だよなぁ」と感じている世のオッサンたち
へ! ”良く老いるための学問”である中国哲学は、貴方達を常に待ち
受けている
「少年老い易く学成り難し」なんて、老人になってから言われても仕方ないだろ たしかに、老子や荘子は「不老長生」を最大目標とする、老人っぽい思想だと思うが
儒教や禅宗はそんなことない そもそも、子供に暗唱させるのが中国哲学の経典なんだが とても簡単な嘘みたいに金の生る木を作れる方法
役に立つかもしれません
グーグル検索『金持ちになりたい 鎌野介メソッド』
KPMVY >>21
嘘ばっかでワロタ
運動、闘争は典拠あり
革命はrevolutionと紐付けされたのが
日本というだけ >>35
>老子や荘子は「不老長生」を最大目標とする、老人っぽい思想だと思うが
「不老長生」を大きな目標としたのは『老子』と『荘子』を聖典とした後の時代の道家であり、
『老子』や『荘子』はべつに「不老長生」を最大目標として書かれた書物でもなければ、「老人
っぽい思想」でもないでしょ
ただ『老子』は、知恵が深くよく練られているという意味で老練老巧と評されるが、その通りだ
と思う
『荘子』は説話の発想の奇抜さから言っても、「老人っぽい思想」とはまったく無縁な思想だ 「老子道徳経」各種翻訳
・『老子』 小川環樹、高木智見、中公クラシックス (2005)
・『老子』 福永光司、ちくま学芸文庫 (2013)
・『老子』 蜂屋邦夫、岩波文庫 (2008)
・『老子 無知無欲のすすめ』 金谷治、講談社学術文庫 (1997)
・『エッセンシャルタオ 老子』 加島祥造、ちくま文庫 (2005)
・『老子<全> 自在に生きる81章』 王明、地湧社 (2005)
・『老子道徳経 井筒俊彦英文著作翻訳コレクション1』 井筒俊彦、慶應義塾大学出版会 (2017) 「老子」上篇 第一章
道可道、非常道。
名可名、非常名。
無名天地之始、有名萬物之母。
故常無欲以觀其妙、常有欲以觀其徼。
此兩者同出而異名。同謂之玄。玄之又玄、衆妙之門。
[口語訳]
『道(世界の根本原理)』が語りうるものであれば、それは不変の道ではない。
『名』が名づけられるものであれば、それは不変の名ではない。
名の無い『無名』は天地の始まりであり、名の有る『有名』は万物の母である。
その為、無欲の者は、世界の妙(素晴らしい本質)を見ることができるが、
欲にまみれた者は、世界の徼(取るに足りない末端)しか見ることができない。
この二つ(無名と有名)は同じものから出てくるが、それぞれに名前が異なっている。
この同じものを『玄(神秘)』といい、
玄の中でも最も玄なもの、それが衆妙の門(「全ての妙」を生み出す門)である。 老子は訳者によって随分と変わるから、何冊か読み比べないといけない >>51
面倒だからもういいや
翻訳からして大した詳しくない人のということは解るから >>43
この中に紹介されているけど、
『老子』 福永光司、ちくま学芸文庫 (2013)
なんか福永光司だからいいと思う。
福永光司
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A6%8F%E6%B0%B8%E5%85%89%E5%8F%B8
ただ、アマゾンレビューによると、ちくま学芸文庫の
『荘子』シリーズは、昔の福永光司の訳に興膳宏が手
を加えていて「ずたずた」にしているそうだ。 >>53
手元にあるのはちくま学芸文庫版だった。
悪くはないと思う。 今のところ、決定的なものはないという感じ。
全体として形而上学的で、「玄」という言葉については神秘という説明があるものがいいと思った。
玄
・《老子》第1章に〈玄のまた玄,衆妙の門〉とあるように,存在の根源にある幽遠にして神秘的なものをあらわす。
・微妙で奥深いこと。深遠なおもむき。
・玄の字は黒い糸を束ねた形で、かすかで見にくいところから天の色とされ、また北方の色とされた。
・赤または黄を含む黒色。 天地玄黄(千字文より)
玄は黒を意味し、天地は黒と黄色のストライプカラーであることを意味する 陟彼高岡 我馬玄黄(詩経卷耳より)
かの高い山を登ったら
私の馬が虎模様になった 「老子」 第二十一章(抜粋)
道之為物、惟恍惟惚。
惚兮恍兮、其中有象。
恍兮惚兮、其中有物。
道の物たる、ただ恍ただ惚。
惚たり恍たり、その中に象有り。
恍たり惚たり、その中に物有り。
「道」というものは、実におぼろげで捉えにくい。
捉えにくくておぼろげであるが、その中には象(かたち)が潜む。
おぼろげであり捉えにくいが、その中には物(実体)がある。 >>61
第一章にもある、「道」の質感というか空気感というのはこういうものなんだろう 「老子」 第十六章(抜粋)
致虚極、守静篤。
万物並作、吾以観復。
虚を致すこと極まり、静を守ること篤し。
万物並び作(おこ)れども、吾は以て復るを観る。
心を出来る限り空虚にし、深い静けさをしっかりと守る。
すると、万物はあまねく生じるが、わたしには、それらが元に返っていくのがみてとれる。 「老子」 第四十一章(抜粋)
天下万物生於有、
有生於無。
天下の万物は有より生じ、
有は無より生ず。 ハイデガーが引用した老子 『道徳経』 第11箴言
“三十の輻(や)が車輪中心の轂(こしき)に当たっている。
だが然し、それらの輻の中の空隙が、車輪の有を許し与えているのだ。〈略〉
有るものは、有用性を生ぜしめる。
有らざるものが、有を許し与えるのだ。”
― 『ハイデッガー全集 75 ヘルダーリンに寄せて』p47-48 “真昼時――地上の万物がそれぞれの輪郭線を露出しつつ
キラビヤカに浮かびあがる光の世界――に、
どこからともなく夕闇の翳りしのび寄ってくる。
事物は相互の明確な差別を失い、浮動的・流動的となって、
各自本来の固定性を喪失し、互いに滲透し合って次第に原初の混沌に戻ろうとする。
有分節的世界が己れの無分節的次元に回帰しようとする両者の中間に拡がる薄暮の空間、
存在の深層領域が、人々の好奇心をさそう。
地上の一切が真の闇の中に没して完全に無化されてしまう直前のひと時の暗さには、
何か言いしれぬ魅惑がある。”
― 井筒俊彦 「監修者のことば」 (エラノス叢書 『一なるものと多なるもの〈1〉』(1991)) 深秘としての存在世界とでもいったらいいか。
井筒やハイデガーには、老子の影響が見て取れる。 仏典の内容が『老子』と似ているのは、
老子が天竺に赴き釈迦を教化したからであるとか、
釈迦とは西に出た老子その人であるなどといった、「老子化胡説」というのもある。 哲学にしても仏教にしても、今のフェーズはポスト神秘主義だが 荘子 天地篇
子貢南遊於楚、反於晋、過漢陰、見一丈人方将為圃畦、鑿隧而入井、抱甕而出灌、滑滑然用力甚多而見功寡。
子貢曰「有械於此、一日浸百畦、用力甚寡而見功多、夫子不欲乎?」
為圃者仰而視之曰「奈何?」
曰「鑿木為機、後重前軽、挈水若抽、數如失湯、其名為棉。
為圃者忿然作色而笑曰「吾聞之吾師、『有機械者必有機事、有機事者必有機心。機心存於胸中、則純白不備、純白不備、則神生不定。
神生不定者、道之所不載也。』吾非不知、羞而不為也。」
子貢瞞然慚、俯而不對。
はぁ?
じゃあ甕すら使うなや
雨が降るまで待ってろよ “そもそも大地の吐き出す息を、名付けて風という。
風は吹かなければ何ということもないが、ひとたび吹き起こるや、ありとあらゆる穴が激しく鳴りたてる。
おまえもあの遠くふきよせるヒューヒューという音を聞いたことがあるだろう。
ざわめき揺れる山林で、百抱えもある大木の穴という穴
―鼻のようなもの、臼のようなもの、窪地のようなもの、水たまりのようなもの―
そこから水のいわばしるような音、矢が飛ぶような音、どなりつけるような音、息を吸うような音、
叫ぶような音、泣きわめくような音、くぐもったような音、悲鳴を上げるような音などが噴出して、
前の音がフウッとなれば、後の音はゴオッと応ずる。”
“…そんな音を出させるのはいったい何者なんだろう。 ”
― 荘子 「斉物論篇第二、天の籟(ふえ)」 >>44、>>76
一なるものからの発出論、あるいは絶対無分節者からの存在分節化の例。
創造神話などと比較がされる。 >>71
シュレーディンガーやハイゼンベルク、ニールス・ボーアなどの原子物理学者が
ブッダや老荘を読んでいた。そういう時代でもあった。
「われわれはブッダや老子といった思索家がかつて直面した認識上の問題にたち帰り、
大いなる存在のドラマのなかで、観客でもあり演技者でもある
我々の位置を調和あるものとするように努めねばならない。」 (ニールス・ボーア Wikiより) “本書を執筆するきっかけとなったのは、五年前のある美しい体験である。
夏も終わりに近いある午後、海辺に腰をおろし寄せくる波を見つめながら、わたしは自分の呼吸のリズムを感じていた。
と、その時、とりまくすべてが壮大なコズミック・ダンスを舞っていることに気がついた。
まわりの砂や岩、海や空気が振動する分子あるいは原子で構成されていること。
その分子や原子が粒子からなりたち、たがいに他の粒子を生成、消滅させつつ相互作用していること。[略]
また、地球の大気には「宇宙線」(コズミック・レイ)が絶えず降り注いでいて、
高エネルギ−粒子である宇宙線が大気に突入する時に、衝突を無数に繰り返している…”
― フリッチョフ・カプラ 『タオ自然学』 (1979) >>83
仏教…原始仏教と大乗仏教、禅、華厳
中国…老荘、易経、淮南子
印度…ヒンドゥー、ウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター
これぐらいの話が読み分けられている。 鍵概念は「万物の合一性 the unity of all things」 老子 荘子 と 一緒くたにせず 分岐して出会うこともまれな方が。いずれは。 『老子』 最終章第八十一
聖人は積まず。既(ことごと)く以(も)って人の為にして己(おのれ)愈々(いよいよ)有し、既く
以って人に与えて己愈々多し。天の道は利して而(しか)して害せず、聖人の道は為(な)し
て而して争わず。
「聖人は何もかもすべて人のために為し、何もかもすべて他人に与えながら、かえって自
分はますます豊かになる。」
この老子の箴言は、日本一の個人投資家である竹田和平氏の「和平哲学」の真髄と同じ
だ。 儒学・儒教思想の中で、明代に生まれ流行したのが陽明学であったが、それに対し、清代では考証学が流行した。
一般に、清王朝が異民族支配である清朝の政治を批判することを厳しく取り締まったので、清代の儒学者は政治批判となるような議論を避け、
もっぱら古典の字句の解釈、つまり考証のみにならざるを得なかったと言われる。
その考証も一字一句をゆるがせにせず、古典を徹底的に理解しようと言うするどい学問となった。
代表的な学者に顧炎武、黄宗羲がいる。彼らの思想は、厳格な考証によって、儒学を経世実用(世の中のために役に立つこと)の学に高めることであった。 清の時代には、ほぼ現代の文学部がやってるような実証的な文献研究が主流になった。
儒教の宗教っぽい要素はほとんど無くなった。 蒼頡(そうけつ):中国伝説上の漢字の発明者
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/5/53/Cangjie2.jpg
“これは、中国で漢字を発明したと言われる蒼頡という神話上の人物です。
絵を見るとわかるように、蒼頡は四つ目の人物として描かれています。
中国の伝説では、蒼頡は非常に目がよくて、さまざまな動物の足跡などを見分けて
それをもとに漢字を発明したことになっています。”
― 『新記号論:脳とメディアが出会うとき』 石田英敬、東浩紀 (2019/3/3) .
■ 荘子の万物斉同説とメビウスの輪
「メビウスの輪とは、長方形の紙を180度ひねって端と端をくっつけたものです。これは、紙
の表をなぞっていくと裏につながったり、裏をなぞっていくと表になったり表と裏が同時に
存在している不思議な特徴があります。」
https://nazology.net/archives/7913
https://3.bp.blogspot.com/-YulW4SMUt7Q/Wp1TPfk-URI/AAAAAAAADag/Q55yxybsHy0pBtvJTotdKYd9H13dYJskQCLcBGAs/s1600/MOBIUS%2BSTRIP.jpg
苦は楽につながり、楽は苦につながる。また、生は死につながり、死は生につながる。
荘子の万物斉同説−一切は等しい―とはメビウスの輪のようなものではないか。 儒教の経典「四書五経」をだいたい読んだのですが、
あまりたいして感銘を受けることが書いてないので、中国思想はこの程度ではないはずだ、と思い、
自分の好きなことばの一覧を書いていきます。
適当に書くので、ざっくばらんな記事になると思います。御了承ください。
自分がされて嫌なことは、他人にするな。
孔子「論語」
道(宇宙の法則)を知るものには徳(人の法則)はいらず、徳(人の法則)を知っているものには慈愛はいらず、
慈愛のあるものには正義はいらず、正義であるものには礼はいらない。
道でもなく、徳でもなく、慈愛でもなく、正義でもないなら、礼をわきまえなければ世は治まらない。
「老子」
君主は発言する機会が少なく、みんなの意見もあまり聞いていられない。そこで、
臣下たちは話のうまいもの(巧言をよくするもの)に自分の利益になるような話をさせ、脅したり、嘘をついたりして君主の権力を利用する。これを流行という。
「韓非子」
いにしえの賢者いうあり。疑問のことあれば庶民に問う。
「貞観政要」
士は己を知る者のために死す。
「貞観政要」
至誠にして動かざるは勇なきなり。
「近思録」
天知る、地知る、我知る、汝知る。
「菜根譚」 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています