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アリストテレスの天動説的な世界観・宇宙観においては、地球が宇宙の中心にあり、それを取り巻く、アイテールで満たされた宇宙は第一の運動である円運動によって規則正しく動いている。
そしてその最外層には、その諸々の運動の原因となっている、何者にも動かされずに自足しつつ他のものを動かす「第一の不動の動者」が控えている。
アリストテレスは『形而上学』の中で、これを「神」(希: θεός)であるとも述べている[1]。この「神」概念が、中世のスコラ学、特にトマス・アクィナスに受け継がれてキリスト教神学に大きな影響を与えた[2]。
この「神」は、何者にも動かされない、自足した現実態であり、観照(テオーリア)の状態で最高善を体現している。 アリストテレスは、『ニコマコス倫理学』においても、この「神」概念を引き継ぎつつ、こうした自足的な観照(テオーリア)の状態こそが、究極の最高善であり、最高の幸福(エウダイモニア)に他ならないが、
それは人間の水準を超えた「神的な生活」であり、我々人間はそれに次ぐ第二義的な「人間にとっての(合成的・複合的な)最高善」と、それを集団的・社会的に体現する国家(ポリス)の「政治」(ヘー・ポリティケー)的活動で満足する他ないと述べる[3]。 (神の存在証明で)最も単純で一般に理解しやすいのは、第一原因による証明法である。この世のすべてには原因があり、その原因の連鎖をどんどん遡ると、「第一原因」にたどりつくと考える。
この考え方は、哲学者や科学者が厳しく検討した結果、今日では重要視されなくなり、昔のような活力を失った。
私も少年時代、久しくこの証明法を真理と思っていた。しかし、十八歳のある日、J.S.ミルの自叙伝の中のミル親子の対話(松下注:人間やこの宇宙は神が創った(と仮定)。それならば神はだれが創ったんだ?!)から、この考え方の誤謬に気付いた。
もしあらゆるものが原因をもたねばならないなら、神にも原因がなければならない。もし原因なしに、何かが存在できるならば、その何かは、神でも世界でも(松下注:悪魔でも)よいことになる。・・・。
物事には必ず初めが必要だという考え方は、実際には、人間の想像力の貧困によるものである。
(バートランド・ラッセル) 神の存在証明のなかでも、「第一原因」というアリストテレス的な考え方は、長らく主流だった。
聖トマス・アクィナスによって、これがスコラ神学の正統派となった。 第一原因説の最大の弱点については、バートランド・ラッセルも指摘している。
それは、「神がすべての原因なら、いったい、誰が神を創ったのか?」という疑問だ。 地球の環境を見て、宇宙全体がこうなのだと思ってはいけない。
ここだけが、特殊な環境なのかもしれないではないか。 物質は、それ自体では物質として存在していない
それを認識する者がいて、初めて物質となる 3D映画を見るのに、3Dメガネが必要なのと同じだ
地球の物質世界を見るためには、地球人の目と脳が必要 ホラー映画などで、よく幽霊が登場するが、あれは現実にあり得ない
死んだ人に、もしも残存意識があったとしても、物質世界を認識するのは不可能 物質は、認識する者がいないときは物質ではない
地球以外の天体は、単なるエネルギーの貯蔵庫 人間が木星に到達したら、木星は物質化する
ただし、その人間がいる間だけ 人間が認識していないときの木星は、単なる陽子と電子の貯蔵庫 陽子と電子っていうか、その元になる+と−のエネルギー貯蔵庫 物質化するといっても、それは人間の周囲だけ
プレイヤーから見えるところだけがアクティブになり、他はスリープのまま 一見、巨大に見える宇宙だが、じつは情報量が意外と少なく、最小限の負荷になっている
ほとんどの情報は、各個人の脳と意識が補って、色彩感に富んだ世界を構築している もしこれを読んでいるあなたがこの宇宙にいる自覚があって意識を持っている自信があるのであればシミュレーション内から見た現実は存在するという事になる。
そもそも存在しなければシミュレーションを実行している宇宙をシミュレーションしている宇宙の…という無限後退によって全ての宇宙には意識が存在しない(神の視点しか存在しない)となるのでその可能性はそもそも除外することは出来ない。 だがシミュレーション内から見た現実にもいくつか考えられるパターンがある。
1.シミュレーションの外にいる存在がオンラインゲームの要領でシミュレーション内のキャラ(人物)に入り込んでこの世界を観察している
2.純粋にシミュレーション内の存在として生まれ、人生を経験している
3.シミュレーションの外の存在がシミュレーション内のある人物の人生を経験する為にシミュレーション実行側にいた時の記憶を完全に忘れる形でその人物に入り込んで現在シミュレーション内で生きている 1番目の可能性はいわゆる宇宙人が人間に化けて地球でこっそり暮らしている説とほぼ同じ。
ただ宇宙人ではなく宇宙外の存在なのでつまりこれはシミュレーションの外から見たシミュレーション内の世界と意味は変わらない。
というわけでこのアバター説は考慮する必要がないので無視。 では2番目の可能性はどうか。
意識があってここにこうやっているのだからシミュレーション仮説が正しい場合普通にあり得ると思うだろう。
だが3番目の可能性を考慮すると、そう言い切ることはできない。
例えばシミュレーション内で生まれたある人物の経験をシミュレーション外の存在が知るにはその人そのものになる必要がある。 (それは基本的に映画のトゥルーマンショーである)
だからといって現在の記憶を持ったままその人になると1番目の可能性と何も変わらない。
つまりある人物の経験を完全な形で知るには、その人物でいる間はシミュレーション実行側にいた時の記憶を思い出せないようにする必要がある。
そんなことが可能なのかどうか答えることは出来ないが、宇宙をコンピュータ上で完璧に再現するよりは簡単だと思える。 実際のところ、その可能性はある
つまり、すべては決まっている
人は世界の中の1人の人間になりきって、その人生を追体験しているという可能性 おはようございます!
マインドームコーチソウルです。
本日は、ビックリするニュースをご紹介❗
「人間によって観測」されるまでは「現実は存在しない」ことを、オーストラリアの量子学研究チームが実験で確認。 オーストラリア国立大学の物理学工学研究所のアンドリュー・トラスコット( Andrew Truscott )准教授は、
「観測がすべてであることを証明している。量子レベルでは、あなたがそれを見ていないのなら、現実は存在しない。」と述べる。 いったい、何のことを言わんとしてるのでしょうか。
私たちが学校教育で学んできたのは、
「物質、宇宙は存在しているのが当たり前。そこに人間が見てる、見てないは関係ないし、わたしが死んでも地球は回り続けるし、宇宙は加速膨張する。」
という唯物論的な宇宙観、人間観。 この当たり前すぎてしまう宇宙観、人間観を見事に引っくり返すメッセージを発信することは、よほどの勇気と確信がなければ、言いきれないことです。
ですので、この量子力学研究チームが実験による証明で、現代社会に投げ掛けるメッセージは素晴らしい事だと敬意を感じます。 しかし、
「有」の状態の物質は観測・認識されるまでは存在しない、という「無」の状態ならば、
「無」から「有」はどんな仕組みで成り立っているのでしょうか?
では、そもそも宇宙って存在しないのなら、真実に実在しているのは何か?
宇宙は人間の認識がなければ、存在できないというのならば、認識によって一瞬で宇宙を創造し、破壊もできる人間とは何物か?
体の境界線が人間であり、自分であるというアイデンティティはどうなってしまうのか? この世はリアルかフェイクか。いまの常識が永遠の常識だとすれば、愚問である。
人類が生活するこの世界がすべてシミュレーションによるつくりものだとしたら、天と地がひっくり返るどころではない。
「いやいや愚問なんかじゃないよ」と言わんばかりに、シミュレーション仮説なるものが世界中の科学者たちによって熱心に研究されている。 物質世界は、人間の周囲だけが明確な形を取っており、それ以外は霧のようにボヤけて存在している。 好むと好まざるとにかかわらず、それが世界の真実の姿 >>390
プレイヤーの周囲はアクティブになっている 物質世界は、明確な形をとっているどころか、物質とはどのようなものであるかも
よく分っていないし、実際のところ、現に目の前にあるデスクの素材の物質的な
性質さえよく知らない。 まずデスクを構成する物質の性質があってデスクがあるのではない。 >>393
木材の組み合わせに、デスクという意味を付与しているのは人間
そもそも、木材という意味づけも人間の記憶によるもの この世は、人間が無数の意味づけを行うことによって成り立っている
でなければ、とても見れたものではない >木材の組み合わせに、デスクという意味を付与しているのは人間
木目調であることは分っても、木材でできているかどうかすら不明なわけですよ。
切ってみたら、木材ではなくて、プラスチックだったということも十分にあり得る。 >>398
本当は、表面だけを木目調に加工したプラスチックかもしれない。
でも、それを木材と認識しているのなら、本人の世界内ではそれは木材 ハサミやノリも、必要がないときは、邪魔な物体でしかない
使い方を知らないのなら、存在しないも同然 ネコにとってさえ、トイレはトイレだ
ネコの世界内で、それは特別な意味を持っている
トイレ以外のところで排便することはない 証拠というか神と暮らしていれば証拠などいらないだろうさ。 神の存在証明を見て、「こんなの証明になっていない」となるのは、存在証明した人たち、アンセルムスや聖トマス、デカルトといった人たちがみんな、神とともに暮らしてるような人たちだったからだな トイレというのは化粧室のことで、ネコにとって排便が化粧と関連付けられていると考える証拠はない 近代までの哲学では、モノ=存在は客観的なあり方をしており、人間はそのあり方をいかに正しく認識できるかということが問題とされた。
しかし、『存在と時間』においてハイデガーは、存在のあり方は決して客観的ではなく、人間によって規定されていて、人間はその存在のあり方を規定する存在なのだと述べた。
こうした人間のあり方を、ハイデガーは「現存在」と呼んだ。 現存在は、朝起きてから夜寝るまでの日常生活のなかで、歯ブラシや箸(はし)、衣服、靴、車、机、パソコン……など、数多くの道具を使う。
そうした道具は、衣服や靴を身につけ、きちんとした身なりをし、車に乗って会社へ行くため、机の上でパソコンを使うのは仕事の資料をつくるため……というように目的と手段のネットワーク=「道具連関」を形成している。
つまり、道具は、たんに客観的に≠サこに存在するというものではなく、現存在にとって意味のある連関なのである。
そして、現存在は、誰でも必ず、この道具連関のなかで生きている。
こうした現存在のあり方を、ハイデガーは「世界−内−存在」と呼んだ。 ところが、こうした現存在のあり方は、日常のなかに埋もれ、自分を何かの目的を達するための道具としてしまっている。
そんな自己は、道具であるがために、かけがえのない存在などでは決してなく、他の誰かと交換可能な存在にしかすぎない。
こうした道具化された交換可能な現存在のことを、ハイデガーは「ひと」(ダス・マン)と呼んだ。 >人間によって規定されていて、人間はその存在のあり方を規定する
>存在なのだと述べた。こうした人間のあり方を、ハイデガーは
>「現存在」と呼んだ。
こういう順序で考えるから筋道が分りにくくなって、「人間中心主義」
という誤解がつきまとふことになる。そのことにハイデガー自身にも
責任があるとしてもね。 木田なんとかいう人とか、日本でハイデガーを中心的に紹介してきた人々の
説明だと、それが輪をかけて酷くなる。 「人間」という表現は、目の前にある(手前/vorhandenでもいいが)客観的な
対象としての生物種を指すものと理解されるように一般に用いられている
のだから、それを現存在(Dasein)と呼んだというのでは、説明の論理的な
順序として奇妙であることにすぐに気づかなければならない。 ハイデガーのやった仕事を、木田はおおよそ次のように整理している。
デカルト以来哲学は存在を忘却してきた。だが哲学というのは、ギリシャで産声を上げたときには、
存在についての驚きの感情かライン出発したのであるし、その後も存在とは何か、を中心に展開してきたように、
そもそも存在についての問いなのだ。
ところが、デカルト以来哲学はこの根本的な問いを忘れてしまった。だから自分(ハイデガー)は、
再び存在への問いという哲学の原点にかえり、哲学を存在の学として再構成するのだ。
だがその場合、この存在という概念は、プラトンやアリストテレスによって深められた存在論にそのまま立脚することはできない。
彼らの存在論は、存在についての一面的な見方に立っている。
それ故、存在についての見方を改めて、真の存在論を展開する必要がある、と言うのである。 ギリシャ以来、「存在論」だった哲学が、デカルトやカントその他のおかげで、すっかり「認識論」になってしまった。
それを再び、存在論に戻そうとした。
木田元によると、そういうことらしい。 ギリシャの存在論については、それ自体が膨大な問題領域を抱えており、議論し出すとキリが無いので、木田は一応それを、「存在=現前性=被制作性」という概念セットで整理したうえで、それにハイデガーは「存在=生成」という概念セットを対立させた、とする。
この「存在=生成」というアイデアは、ニーチェの思想に深く影響されたものである。 「存在=生成」ってのは、ニーチェというより、アリストテレスの考え方なんじゃないかな? ハイデガーは、「存在論の哲学」として、哲学の歴史を再構成しようとした。
書かれることなく終わった「存在と時間」第2部は、こうなるはずだった
第2部 存在論の歴史の現象学的解体
第1編 カントの時間論について
第2編 デカルトの「我あり」と「思う」について
第3編 アリストテレスの時間論について 第2部が本論だったのだが、序論でまず現存在を分析したところ、あまりにも長くなってしまったため、本論を始める前に終わった 本書巻頭言はプラトンの対話篇『ソフィステス』の引用から始まる。
「われわれが『ある』という言葉でもって一体なにを思い描いているのか、という問いの答を、今日われわれは持っているだろうか?われわれは、いままでその答えを持っていると思い込んでいたのに、今では全く心許なくなっている。」
ハイデッガーは、引き続き序論第1章第1節において、「存在の問い」(Die Frage nach dem Sein)の必然性を明らかにする。本書で彼が取り上げるのは、存在の意味についての問い―ある(Sein)とはどういうことなのか?―である。 木田氏はジョージ・スタイナーのようなゲテモノまで妙に持上げることを
しているから、商売人としての立場を最優先している印象が強い Dasein (ダーザイン) (ドイツ語発音: [ˈdaːzaɪn])とは、ドイツ語で文字どおりに直訳して「ここにいる」という意味で、哲学用語でもあり、現存在(げんそんざい)とも訳されている。
ドイツの哲学者マルティン・ハイデッガーが自分のコンセプトを説明する語として用いており、とくに著書「存在と時間」においてよく使われる言葉として知られている。
ダーザインは実存哲学の用語であり、自己を現にそこ(da)にある(sein)ものとして自覚する存在、つまり人間的な実存とのこと。 >>422
まあ、哲学マニアならともかく、世間の一般人なら「ハイデガー」という名前を知ってるだけでも、かなりの物知りだ
そんなマイナーな分野で本を売るのは、それなりに大変なのだろう >つまり人間的な実存とのこと
そう言い換えると、Daseinがその時点でDas Manに変換されるわけでしょう。
常に既に「頽落した」世界内存在者としての。 存在の神秘に触れること。存在やあるから一歩も進まないというと嘘があるだろうがね。 いずれにしても、「大陸哲学」というカテゴリーを作り上げて、ヘーゲルであれ、
フッサールであれ、ハイデガーであれ、あんなものはまともな哲学ではないと
「哲学」の制度的な枠組みから排除して、「大陸哲学」について比較文学科
などの「文芸」という枠組みにおいてしか制度的に論じることを許さないという
仕組み作りを強力に推進してきたのが英米を中心とする自称「分析哲学」の
連中だ。その事実を意図的に誤認して、あたかも「大陸哲学」を論じる人間が
その分類自体の基準が不明な「分析哲学」を排除してきたかのように思わせる
ように誘導しようとしている人間が、「大陸哲学」を専門として商売している
研究者にも少なからずいる、というより、そうすることで、自らの哲学研究者
としての立場というより、私的な自己利益の保全を図っている。 大陸?海を忘れては地球では哲学して暮らしていけない。 私は、研究者でも学者でもない世間の一般人だが、複数の研究機関でその実態を
長い間、直接に身近に見てきた。 >>425
たしかに、これだと、「ダーザイン」と「ダスマン」の違いが分かりにくい 「人はいつか死ぬ。だが当分の間、自分の番ではない」という信念のもと、日常生活に埋没して生きている
それが、ダス・マンの生き方 「こうしてアレコレ考えている以上、ボクが存在するのは疑う余地がない。
そのボクにとって存在するのだから、これらの存在者たちは存在することが保証された」
というような、存在了解をする世界で唯一の存在
それが、ダーザイン 目の前の机や椅子も、本当に存在するのかどうかは疑わしい。
夢かもしれないし、幻覚かもしれないし、何者かが自分に見せている立体映像なのかもしれない。
でも、間違いないことが1つある。
それは、そんなことを考え、疑っている自分が存在することだ。
それだけは疑う余地がない。
そんな、間違いなく存在することが確信できる自分にとって、これらの机や椅子は明晰判明に存在している。
となれば、これらが存在するということを、認めてもよいのではないか。
これ以上は、疑ってみても意味がない。
これらが存在することは、確実な真理ではない。
だが、それらが存在するという了解のもとに生きていくことはできる。
・・・・・というのは、フッサール的な考え方 そんな存在了解をすることができる、世界で唯一の存在
それが、現存在、つまり自分自身 つまり、現存在こそが、すべての存在者が存在するという根拠
高尚な文系の最高峰である哲学研究者は
苧疾呼玖差亥苧饅湖にしゃぶりつきながら
生と死を哲学するのだよ
凡人は働け!
______
_ <_______,`ゝ /
__ `ソ/-=・=- -=・=-\/ ̄/
\/゚ ,ハ \/ rへ,ノ
__>-へ| i ,‘,,-,,', |ノ :.\_ いいかな?
.:/从へ,'"-===-';.ノ从rーヘ_
_::ノ :ノ`⌒Y⌒´:: \ ハイデガーは、第2節において、「存在了解」ということばを提出する。
人間は、植物や動物などと異なり、明快に概念化できないにせよ、おぼろげながら自分が何やら存在していることを知って生きている。
ハイデガーは、そんな存在の仕方を「存在了解」というのだ。
その「存在了解」の仕方を、ハイデガーはあえて「曖昧な」「存在了解」とする。 ここで問題になっている「存在」ということについても、我々は何らかの了解を持っているのである。それをハイデガーは「存在了解」と名づける。
これは「いいかげんな、あいまいな存在了解」というべきものだが、一つの事実として我々が持っているものであって、我々はそれを手がかりにして、存在というものについての高度な認識に向かって進むように出来ているものなのである。 物質は、世間の人々が通常、考えるような意味では「存在」していない。
物質は、よくできた立体映像であり、仮想現実だ。
非常に緻密で精細にできているから、本物としか思えないだけで、それでもやはり立体映像であることに変わりはない。
そんな仮想現実を、とりあえず本物の存在者と見なして生きていくしかない。
それが、人間の限界だ。 「たとえ仮想現実であるにしても、だからどうたというのか。
自分にとって、この世界は本物の存在なのだから、それでよいではないか」
という意見もあるだろう。
もちろん、それでいい。
生きていく上で、なんの不都合もない。
だが、それによって、「この世はよくできた仮想現実である」という、厳然たる事実が変わるわけではない。 物質は、マクロのレベルでは、確かに存在しているように見える。
しかし、ミクロのレベルまで拡大すると、すべては粒子でできている。
コンピュータの中の存在が、ドットでできているのと同じだ。
さらに、その粒子を拡大していくと、だんだん存在がボヤけていく。
もっと拡大すると、何もなくなる。
後には、無が残る。
それが、物質というものの真の姿だ。 ニーチェの「神は死んだ」を拡大解釈する教授もいるけど、決して宗教を否定しているわけではないよwww ひと昔前の日本語は、ハイデガーの用語法と似たようなもので、
自己紹介をするときの「手前(ども)は〜」とか、相手を下に見て
「手前(てめぇ)は〜」と呼ぶときの「手前」は、まさしく
「手前にあるもの」を表していて、"Vorhandensein"であるわけだ。
だから、ハイデガーの用いる「vorhanden」という表現に対して、
日本語の訳語においても「手」に関連した表現にしたいという
のは自然なことだが、「vorhanden」を「手近」としてしまう
のは問題があるだろう。なぜなら、「手近」というのは、
英語にするなら、ほぼ「within reach」の意味で用いられており、
ハイデガーの表現における「vorhanden」には対応していないから
である。だからといって、「手前」という表現も、「〜する手前で」
のように時間的に直前であることを表すように用いられるように
なっているので、現代の日本語の訳語としては意味が通りにくい。
「手」が「目」に変わってしまうのは望ましいことではない
とはいえ、「手前」の代わりに「目(の)前」を用いることは、
それなりに適切な妥協案だろうと思う。 目の前の机や椅子も、本当に存在する存在者なのです。 「Angst」を「不安」と訳しても、「安らひ」の否定となるだけで、
差し迫った感じというか、切迫感が十分に感じられない。 鼻息が荒すぎるやつは交感神経の高ぶりを自分で沈められない Bernardo Soares、「Livro Do Desassossego」(不安の書/不穏の書)というのが
あるから、何が書かれているのかと思ったら、レビューに引用があった。
「一流の詩人は自分が実際に感じることを言い、二流の詩人は自分が感じようと
思ったことを言い、三流の詩人は自分が感じねばならぬと思い込んでいること
を言う。」
「芸術において重要なことは表現すること。表現されたもの自体はつまらぬものだ。」
「深淵が私の囲いだ。『わたし』という存在は測ることができない。」
「わたしとは、私と私自身とのあいだのこの間である。」
「私はもはや自分のものではない。私は、打ち捨てられた
博物館に保存された私の断片なのだ。」
「神の不在。それもまた、ひとつの神である。」
「あらゆるものがわれわれとは違っている。だから、すべては存在する。」
「ただ考えない者だけが結論に達する。考えるとはためらうことだ。
行動の人はけっして考えない。」 スレタイに対する解答としては、これがいいのかな?
>「神の不在。それもまた、ひとつの神である。」 >>445
大川隆法によると、ニーチェは死後に地獄に落ちた。
「神は死んだ」という言葉が、あの世で嘲笑のマトになったんだそうな(笑) ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています