「神は存在する」という文の「神」と「神」の定義「ホニャララ」を入れ替えた「ホニャララは存在する」という文が真かどうかは日本語の文法に従って自動的に決まる
この決定プロセスが神の存在証明である
ある文化において歴史的プロセスの中で形成されたものではない言葉の定義は論理的なものではなく全く人間の意思に基づく恣意的なものである
例えば、「ある三角形のそれぞれの頂点をA,B,Cとおく」や「集合{2,3,5,80,109}をXとおく」や「自分の机の上の消しゴムを太郎くんと名付ける」というようなものである
神の存在証明によって扱う「神」をある文化における歴史的プロセスの中で形成された言葉ではないとすると「神」の定義は神の定義を決定する一個人によって恣意的に決定される
よってこの場合、神の存在証明は人間の意思に対応した結論に帰結する
では、神の存在証明によって扱う「神」がある文化における歴史的プロセスの中で形成された言葉としての「神」とするとどうであろうか
この場合「神」の定義は一個人によって恣意的に決定されるものではなく、その文化を共有する人々の「神」の意味の共通理解であるため、神の存在証明は文化に対応した結論に帰結する
よって神の定義も神の存在証明も恣意的な神の定義(重複は全て同一とする)と文化(共有する人数は2人以上)の数だけ存在し、神の存在証明の様態は「神」の定義に対応する
では、普遍的な「神」の定義とはなんだろうか
普遍的な「神」の定義とは全人類の「神」の意味の共通理解である
しかし「神」は日本語なので今のところ全人類がその意味の共通理解を持つものではない
よって今のところ普遍的な神の定義は存在しない
よって普遍的な神の定義に対応する神の存在証明も存在しない