イデアとはひとつの真実である。
が、世の中には真善美と正反対のグロテスクな、穢れた、汚い、杜撰な、いい加減な、大体とか丼勘定とか美しいものだけに還元できないものがある。
それは暴力であったり、戦争であったり、人殺しであったり、恥辱であったり、格好悪かったり、形にそぐわないもの。
聖域ー俗 聖ー穢 だったり、それもひとつの真実であり、すべてが黄金比的に美しくあるわけではなく、そうでないものを求めるのが人間というものである。

新宮一成のジャック・ラカンの理解の一つに、人間の鏡像的段階において他者のなかに自分を映し出す時に現れる美を黄金比と言った。
人間は、自分というものを常に探している。それは他者の眼差しのなかに自分という存在の無を照らし出す。
それが自分というものである。他者のなかに自分がいる。大文字の他者との関係のなかで自分のパーツ(対象a)を取ってくる。
他者に執着したり、フェティッシュな感情を抱くのはそのためである。他者のなかに黄金比的な自分を探り当てた瞬間、美的な感情と共にフェティッシュ(フェチ)になる。

日本人の労働と鏡像的段階のなかの自分とイデア論を同じものと考えることに異論がある人がいるだろうが、
美とは黄金比的な存在の気づきと言えよう。この黄金比(真善美)にそぐわないものがひと昔前の日本人の疑問点だった。