ものすごい勢いで誰かが質問に答えるスレ@哲学板
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いまさら聞くのが恥ずかしいことや、くだらねえ質問は何でも聞け!!
知ってたら答えるし、知らんかったら知らんと書く!!
質問する奴も答える奴も、シングルだろうがプロだろうが初心者だろうがなんでもヨシ!!
くだらねえスレたてるくらいならここに書け!!
【掟】
★出された質問は残さず答える
★回答者は本人が基本でよし。間違いは他の者が指摘する
★哲板だからやや鈍い勢いってことを理解する←ここ重要
★質問者は回答が無い場合は催促する。ageて質問する
★次スレは建てたい奴が適当にやれ。 後は1000取り合戦を勝手にな!
前スレ
https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/philo/1511925370/ 文学とは何かか。
文学とは 身体や精神を使って、脚や(手)のリズムでつなぐ踊りでもなく、
体韻とか音韻みたいなものかもね。 いろはすのCMで阿部寛が中心になってるあのコミュニティなんなんだよ 人文系や社会系学問における「分析」と呼ばれる行為は
最初に結論ありきで、所謂敵に対するマウンティング行為である事が多いと思います 絶対音感は頭の中でどういうふうに理解してるんすか? >>197
理解などしてません。
たとえば歩行するとは頭の中でどのように理解しているのか? たとえば二層歩行という難解な行為を、どのように頭で理解しているのか。 >>200
持ってもいない能力を適当に語るのは辞めたら?
知ったかぶりもたいがいにしないと >>199
相対音感が音の一次元的配置として理解しているなら、絶対音感は多次元的配置
だと感じるが 楽器ごとにチャンネル分けて聴き分けられるって言いたいの? いろはすのCMで阿部寛が中心になってるあのコミュニティなんなんだよ 絶対音感ってそんな特殊な能力でもなんでもない。
誰でも訓練すればできる運動神経。
訓練すればバットの芯でボールが打てると同じ。 視覚は空間認識だが、
聴覚は運動神経。
音は時間が流れないと鳴らない。
音を空観認識のごとく語る意味はない。 >>210
だから訓練すらしていない音痴が適当に語るなと…… >>211
あと音も視覚化できるだろ
絶対音感ってのは音の視覚化技術と言ってもいいだろ
音符とかに起こすんだから
絶対音感(ぜったいおんかん、英語:perfect pitch)は、ある音(純音および楽音)を単独に聴いたときに、その音の高さ(音高)を記憶に基づいて絶対的に認識する能力である。
狭義には、音高感と音名との対応付けが強く、ある楽音を聞いたときに即座に音名・階名表記を使用して表現できる能力である。 作曲できない音感は絶対音感にあらず
単なる動物的な識別にすぎない
絶対音感は「音→その他」の共感覚も加味した多次元的位置づけであればあるほど確実 >>213
絶対音感を信仰しすぎ。(笑)
料理人が味覚だって鍛えるのと同じ。 音は時間をとめたら存在しない。
視覚とは違う認識能力。 視覚系
・「物事をひと目でみてとる」、無時間性、構造。
・コマ送りの形で時間=運動を構成する。映画。
・純粋な視覚は、瞬間か永遠かを表現する。
聴覚−運動系
・時間軸の上を単線で進む、機能
・リズムすなわち繰り返し単位が重視。音楽。
「唯脳論」(養老孟司)より >>219
いい加減間違い認めたら?
知ったかぶりして誤魔化しても無駄だよ 神経振動子 (Central_pattern_generator) 名刺かトランプのどちらかを六枚用意し、一つに重ねよう。(略)
六枚あわせて二ミリほどの厚さなら、いかに薄いものであるかを実感するはずだ。
ちょうど同じように、新皮質には約二ミリの厚さがあり、名刺の一枚ずつに相当する六つの層が重なっている。
平らに広げると、人間の新皮質はおおよそ大きめの食事用ナプキンほどの面積になる。(略)
ネズミは切手ほどしかなく、サルでも封筒くらいの大きさだ。
マウントキャッスルは領域のわずかな差を探す解剖学者たちを尻目に、たしかに違いはあるものの、
新皮質がきわめて均質であることに注目した。
同じ層、細胞の種類、つながりが、いたるところに存在する。どこもかしこも、六枚の名刺に見える。(略)
それほど似ているのなら、あらゆる領域は同じ処理をおこなっているはずだ。(略)
実際、マウントキャッスルは、領域同士がわずかに異なっているのは、
基本的な機能ではなく、つながりに違いがあるからだと主張している。
結論として、新皮質には共通の機能、共通のアルゴリズムがあり、あらゆる領域がそれを実行する。
視覚と聴覚の処理に違いはなく、運動を起こす処理とも変わらない。
視覚には色彩、模様、形状、奥行き、広がりなとか含まれる。聴覚は音の高低、リズム、音色などで構成される。
両者の感覚はまったく違う。それなのに、どうして同じだといえるのか?
マウントキャッスルは、感覚そのものが同じなのではなく、新皮質がそれを処理する方法が、
目からの信号でも耳からの信号でも同じであると主張する。さらには、運動の制御も同じ原理でおこなわれると述べている。 新皮質の神経網が驚くほど「柔軟」に形成されることも、神経科学者は発見した。
つまり、流れ込む入力の種類に応じて、つながりと機能を変える。
たとえば、生まれたばかりのフェレットの脳に手術をほどこし、
目からの信号がふつうは聴覚野として発達する領域に送られるようにする。
その結果、驚くことに、聴覚野の中に視覚を伝達する経路がつくられる。
べつの表現をすれば、このフェレットは脳の通常なら音を聞く領域を使って、ものを見ている。(略)
ネズミが生まれた直後に、視覚野の一部を触覚が扱われる領域に移植する。
そのネズミが成長すると、移植された組織は視覚ではなく、触覚を処理している。
このように、視覚、聴覚、触覚という細胞の役割は、生まれながらに決まっているわけではない。
人間の新皮質も、あらゆる点で同じように柔軟だ。
生まれつき耳が聞こえない人は、ふつうは聴覚野になる領域でも視覚の情報を処理するようになる。
先天的に目の見えない人が点字を覚えるときには、新皮質のいちばん後ろの通常は視覚野になる部分が使われる。
点字は触れて読むわけだから、主として触覚の領域が使われるという誤解がある。
だが、新皮質のいかなる領域も、何もしない状態には満足していられない。
視覚野が目からのものと「想定」される入力を受けとれないときは、それにかわるほかの入力パターンを探しまわる。
そして、この場合には、新皮質のほかの領域から入力を得るようになる。
以上のすべてから、脳の領域がどのような機能に特化するかは、
成長の過程で流れ込む情報の種類に大きく依存することがわかる。 結局絶対音感という言葉の意味を勝手に究極の感覚だとみんな思い込んでるんと決めつけて語るから波平みたいあおかしなことを言って煽ろうとして統べる
wikipedia読めばわかるように絶対音感ってのは単純に音楽聞いて楽譜に書き起こせる能力それだけ
寧ろ波平こそが絶対音感を特殊能力だと思い込んでいた、或いはそういった扱いをしている低俗なメディアを見て逆のことを言ってやろうと思っただけなんだろ?
でも現実は至って当たり前の能力でただ名前が中二臭いだけで音符に書き起こす能力に過ぎないって事だよ
ばーかw
ぎゃはははははあははあはははははははっはhw 視覚系
・「物事をひと目でみてとる」、無時間性、構造。
・コマ送りの形で時間=運動を構成する。映画。
・純粋な視覚は、瞬間か永遠かを表現する。
聴覚−運動系
・時間軸の上を単線で進む、機能
・リズムすなわち繰り返し単位が重視。音楽。
「唯脳論」(養老孟司)より 現代は視覚系偏重、肥大のの時代。
運動聴覚系は下に見られる。
視覚系とはプラトン主義。 1924年発行の九鬼周造全集買ったら旧字体で全然読めなかった
新しい2011年のは新字体になってる? 例えば全知全能の神がいると仮定する。
その神が絶対に壊れない盾を作る。
そして、その盾を破壊するために矛を作る。
この場合、矛盾が発生することから全知全能の神はいないということが証明される。
だが、この硬さと鋭さ数値化すれば、それと同時に無限という値が存在しないことの証明にもなる。
このコピペどうかしら。 >>233
全知全能は人間の価値基準を超えてるから、
絶対に壊れない盾と、絶対に壊れない矛を両立させるすべを知ってるんだよ。
聞いたことある。 >>233, >>234
そもそもお互い絶対壊れないんだからお互い壊れないで問題ないだろ
お前ら二るとも馬鹿だろ?
馬鹿だよな。
馬鹿なんだと認めろ馬鹿。
議論するなら絶対壊れない盾と絶対貫く鉾だ。
ボケ あけましておめでとうございます🎍
和尚が二人でおしょうがつ!⤴ その証明行為は全知全能の神の自作自演なのです、アーメン
合掌 (-人-) >>236
バーカw
矛盾は絶対貫けない盾と絶対貫く鉾だボケ
チンカスが口聞くな
カス! イエスは何を救ってキリストと呼ばれたんでしょうか
具体的には何も救わず寧ろ人心を惑わしただけのように見えます
原罪とやらを人類すべてが背負っているとか言って身代わりに自分が受けて死んだとか有難迷惑ですよね
原罪というより冤罪です
イエスはいったい何をもって救世主と言われたんですか よんだうえで言ってんだボケ!!!!!!!!!!!! 日本人にはわからんよ。
贖罪
しょくざい
redemptio
この観念は人間の罪と苦しみからの解放を願う多くの宗教にみられるが,
キリスト教においては特に重要な意味をもつ。
広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義であるが,
キリストの生と死と復活を通じての,神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と,
これによってもたらされる神との交わりの回復をいう。
新約聖書ではパウロの手紙でキリストの血を通して罪がゆるされて贖罪 apolutrosisが成り (エペソ書1・7) ,
すべてのものがキリストにあって一つになる (同1・10) と説かれている。
キリスト教神学ではこの贖罪は人間存在の根本的悪としての原罪からの解放であり,
救済の条件であるとされている。
しかしこれにあずかるには,通常洗礼を受け,キリストの神秘的生命と一体化する必要があると説かれている。
教理史においては,贖罪論史はキリスト論史の一部をなす。 イエスは救世主だったんだよ。聖書の最後の方を読んでみて。 日本人に分からないなら貴方もわからないって事ですよね。
なんで分からないのに適当に説明して誤魔化すんですか?
言ってることが矛盾しています。 >>246
キミは日本人にはわからないことがわからないようだったので 疑うものにはわからんよ
贖罪
しょくざい
redemptio
この観念は人間の罪と苦しみからの解放を願う多くの宗教にみられるが,
キリスト教においては特に重要な意味をもつ。
広い意味では神の救済,償い,和解,ゆるしと同義であるが,
キリストの生と死と復活を通じての,神の恩恵として実現される人間の罪からの解放と,
これによってもたらされる神との交わりの回復をいう。
新約聖書ではパウロの手紙でキリストの血を通して罪がゆるされて贖罪 apolutrosisが成り (エペソ書1・7) ,
すべてのものがキリストにあって一つになる (同1・10) と説かれている。
キリスト教神学ではこの贖罪は人間存在の根本的悪としての原罪からの解放であり,
救済の条件であるとされている。
しかしこれにあずかるには,通常洗礼を受け,キリストの神秘的生命と一体化する必要があると説かれている。
教理史においては,贖罪論史はキリスト論史の一部をなす。 >>247
でも在日の禊さん
在日にしかわからない屁理屈で語られても日本人にはわかりませんって(笑 >>248
疑うのが哲学者の基本なのにスコラ学者のように盲目に信じろと?(爆笑
そんな回答なら宗教板で語られたらどうですか。
全く哲学的でない愚昧な回答ですね。 >>250
はたしてそうかな? どっちが愚昧なんだかw >>251
僕に相手して欲しかったら気の利いたレスを書いてください。
馬鹿っぽいので無理でしょうけど。(噴飯 ルークも救世主として最後に戦って死にましたが彼の死もカイロレンに対する贖罪ですか。 イエスの死は初めから予定されていたものですし
そこに神の誤りは無いので
そもそも神と人との契約は世界の創造に先立つわ。🎍🌽 「和解」とは「神が人になること」を指します♪
贖罪はあくまでイエスにより「身代わり」ですが「和解」は
直接的な神との対話ですし
唯一の救済の道です。👰 「和解」とは「神が人になること」を指します♪
贖罪はあくまでイエスにより「身代わり」ですが「和解」は
直接的な神との対話ですし
唯一の救済の道です。👰 「和解」とは「神が人になること」を指します♪
贖罪はあくまでイエスにより「身代わり」ですが「和解」は
直接的な神との対話ですし
唯一の救済の道です。👰 「和解」とは「神が人になること」を指します♪
贖罪はあくまでイエスにより「身代わり」ですが「和解」は
直接的な神との対話ですし
唯一の救済の道です。👰 人間は神について語ることができないわ。🎍
まさしく、そのことによって神に栄光を帰するのです。👰 人間は神について語ることができないわ。🎍
まさしく、そのことによって神に栄光を帰するのです。👰 聖書の内容がたとえ非史実的なことであったとしても第一的に重要なことは
聖書が「存在してる」ことです。👰
そのことが神への信仰の証し。🎍 聖書の内容がたとえ非史実的なことであったとしても第一的に重要なことは
聖書が「存在してる」ことです。👰
そのことが神への信仰の証し。🎍 キリスト教徒は
「たとえキリストが真理でなかったとしても
私はキリストの そばに 居たい」 キリスト教徒は
「たとえキリストが真理でなかったとしても
私はキリストの そばに 居たい」 >>271
私が方式なるものを固守したなら
神と人間の無限の質的差異
時間と永遠の無限の質的差異。🎍
「神は天にいまし、人間は地にいまし」
が聖書の要ですし
神学と哲学の要です。👰 キューバがロシアからゆずりうけた音響武器でヤラれてんじゃろ!! >>266
>第一的に重要なことは
>聖書が「存在してる」ことです。👰
>
>そのことが神への信仰の証し。🎍
聖書を信じているのか、神を信じているのか、
どちらが先になるんかね? >>274
聖書と神の区別⭐
聖書は神ではありません♪ >>275
信じる神を知るためには聖書を読むことが必要なんじゃろ?
なら、聖書が先だ。 >>264
>人間は神について語ることができないわ。🎍
ということを知るためには、聖書を読まんといけんのじゃろ?ホレホレ 結論:
神を信じるより先に、聖書を、
聖書に書かれている内容が真実であると信じる必要がある。 >>277
>聖書は神の啓示です。👰
と信じること無く、神を信じることは出来るのか? >>281
信じる気持ち「信仰」は
神から贈られてくる賜物です。👰
人間の側から「信じる」ことは無理です。⭐
キリスト教とは、ほとんど霊的なのです。⭐ >>282
キリスト教だけの独占物でもない。例えば、浄土真宗。
親鸞は名号を「疑いなく(至心)我をたのみ(信楽)我が国に生まれんと思え(欲生)」という阿弥陀仏からの
呼びかけ(本願招喚の勅命)と理解し、この呼びかけを聞いて信じ順う心が発った時に往生が定まると説いた。
そして往生が定まった後の称名念仏は、「我が名を称えよ」という阿弥陀仏の願い(第十八願)、「阿弥陀仏の名を
称えて往生せよ」という諸仏の願い(第十七願)に応じ、願いに報いる「報恩の行」であると説く。そのことを
「信心正因 称名報恩」という。
称名念仏(しょうみょうねんぶつ)とは、仏の名号、特に浄土教においては「南無阿弥陀仏」の名号を口に出して称える念仏(口称念仏)をいう。「称名」とは、仏・菩薩の名を称えること。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%B0%E5%90%8D%E5%BF%B5%E4%BB%8F >>284
>人間は神の真の知識に達することはできないわ。🎍
だから、貴女はなぜ、そんなことを知っているのか?
「知らない」のではなく、「できない」ことを知りうるのか? >>283
真宗とプロテスタントは確かに似てるんですが
真宗は利他的な性格、目的を持った
大乗仏教の一派で その極致です。👰 親鸞をキリスト教のようなレベルの低いものと一緒にするのはどうか。
親鸞は本当に阿弥陀を信じていたかから、考えるべき
キリスト教にそんな問いはない
とにかく信じる、なにはなくても信じる >>285
私達の課題はキリストに於いて現実のものとなった私達の神認識
神認識に於いて神は直接的に、創造的に
私達に近づく。
そして神認識に於いて私達は
ただ、見るのみならず見られ
理解するのみならず理解され
把握するのみならず私達が捕らえられるんです。👰 宗教という言葉が使われることになった背景 [etc.]
http://devlin3.blog.so-net.ne.jp/2012-07-28-4
<宗教>だが、はじめ西周や福沢先生は<法教>という訳を主張していた。
英語の<Religion>は、キリスト教、イスラム教など、一神教を意味している。
西周、福沢諭吉という、西欧通のお二人が<法教>を主張したのは、
欧米の<Religion>、つまり教義(ドクトリン)、聖典(テキストブック)を持った
一神教を念頭に置いたからである。 >>264
>人間は神について語ることができないわ。🎍
>
>まさしく、そのことによって神に栄光を帰するのです。👰
まさしく、そのことによって 人間に価値の基礎を据えている
ということにならないか? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています