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数学を初めとした理系の学問と哲学について 9
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0014考える名無しさん
垢版 |
2017/12/29(金) 09:30:15.620
以前、私は、乗法を「質化(qualification)」と見なすことができると述べた。
すると、すべての素数の積は、それぞれの素数による互いの質化であること
になり、それが4π^2=... (-2iπ)(2iπ)=2*3*5*7*11*... と計算され得る
ことが知られている。(-2iπ)(2iπ)という計算は、(4*log(-i))(4*log(i))と
書き直してみればさらにはっきりとするように、eの指数として見た場合に、
単位円周上を時計回りに1回転する作用を表す-2iπと反時計回りに1回転する
作用を表す(2iπ)を掛け合わせる形となっている。

ところで、乗法を「質化(qualification)」と見なすなら、累乗は、n^1/1に
向かう場合、数nの「自己性質化(self-qualification)」と呼ぶことができ、
逆にlim(x→∞) n^1/x=1に向かう場合、数nの「脱自己性質化(self-
dequalification)」と呼ぶことができることも指摘した。すると、すべての
素数を互いに掛け合わせる質化の結果として得られる4π^2を1/2だけ
脱自己性質化すること、すなわち、(4π^2)^(1/2)=2πという計算に
よって得られる2πは、すべての素数の性質を掛け合わせた性質を平均した、
正負の方向性も有さない数としての「無地」と見なすことができるのでは
ないだろうか。
0015考える名無しさん
垢版 |
2017/12/29(金) 09:36:05.490
私が素数神秘主義に警戒する最も大きな理由は、素数の追求が結局のところ、
背景としての無地の追求にしかならないだろうと感じられるからである。
無論、無地を知ることは、そこに反映される現象を理解するために重要
である。しかし、無地の追求を経験の追求と取り違え、そのことに無自覚
なままであるなら、その追求はまったくの無意味な徒労に終わるだろうと
私には思われる。
0016考える名無しさん
垢版 |
2017/12/29(金) 09:44:30.540
さらに、現実の現象において、「無地」は、そのものとしては決して現れることが
ない。そのことは、数という現象においても、1が数えられることなしに2πが現れる
ことはないのと同じことである。数えられる単位は、経験により認知されるのであり、
その背景として無地が現れる。そのことを自覚せずに、無地がどのような状態である
かをあらかじめ知っていると思い込むなら、それまでの経験によって暗黙に前提と
している認識の単位に固執することになり、経験から何も学べないことになる。
0017考える名無しさん
垢版 |
2017/12/29(金) 09:51:37.290
現象学でよく知られたフッサールについてのエピソードで
「子供の頃かれはポケットーナイフをもらった。けれどもかれにとって切れ味が
十分でなかったので、かれはそれをくり返し研いだ。少年はナイフを鋭くすること
だけを考えて、刃がだんだんと小たとさくなり、なくなってしまったことに気づか
なかった。この話をフッサールが悲しげに語った」というのがあるが、
この寓話は、現象学よりも、むしろ、統計学などの数学を応用した研究になどに
よく当てはまるのではないかと思える。
0018数の現象
垢版 |
2017/12/29(金) 11:19:53.970
(-1)^(2x/(2iπ))=と表現された関数においては数が現れるのに対して、
通常の数学では、1^(x/(2iπ))=と表現すると、xに何を代入しても
すべて1^(x/(2iπ))=1となり、1以外の数が現れなくなるのは、
1が、(-1)^2=1という計算により負の方向性が打ち消された「結果」
と解釈され、1^(x/(2iπ))=における1が、方向性を有して1として
「数が現れる作用」と解釈されないためである。したがって、
1を方向性を有して数が現れる作用として規定するなら、1^(x/(2iπ))=
という関数表現を用いても数が現れることになる。
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