数学を初めとした理系の学問と哲学について 9
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たとえば、ハッセ図は半順序集合の元の関係を図式として表したものだから、
半順序集合を定義してしまえば、そのハッセ図の型は自然に決まる。
だから全順序集合のハッセ図は、すべての元が比較可能という意味だから、
その元の関係を一本の線で示せたりするね。
逆に、半順序集合は比較不可能な元があっても許容されるので、
そのハッセ図は、全順序集合とは違った型を示す。つまり、定義という
条件下にあれば、そこで色々なハッセ図は作れるけれど、定義を外れたものだと、
数学的には正しくない図とされる。
将棋も同じでしょう。各駒の動かし方や勝敗の決め方は公理として決まっている。
そこから、有力な戦法や定石が発見される(定理)。公理や定理から、
演繹してゲームを展開する。
>>198>>199にも訊いてみたら。三角関数や微積分も出来ないDQNがどう答えるか
見物なので。たぶん、プラトンの数学はイデアである、みたいな修辞で誤魔化した
超頭悪そうなレス付けてくると思うのでw ほらね。知恵遅れだから207に書いてある将棋の部分にしか反応できないでしょw >>203
>>205
物理数学の話だか、別の式が実は同じものを現していたということもあるので、別れた枝がまた繫がることもある
なので網とも言えるだろうが、説明では割愛して枝ってことになるんじゃないの? 論理体系は網のような構造になっているんでしょうね
樹のような構造はそれを何らかの尺度や視点で射影したときに見えてくるのかもしれないです >>205
網目構造のうち、有限個の出発点から始める、と考えれば良い。 https://www.wolframalpha.com/input/?i=(1%2B1%2Fx)%5Ex%3D(-1)%5E(2%2F(2i%CF%80))
(1+1/x)^x=(-1)^(2/(2iπ))
xが大きくなるにつれて、2つの線が漸近していって
(lim(x→∞) (1+1/x)^x)=(-1)^(2/(2iπ))
となるのは理解できるんだけど、それ以外で示される多数の解が何を表しているのか分らない。 eの計算を入れ子にしていくとeの累乗になっていくけど、この計算正しいのかな?
https://www.wolframalpha.com/input/?i=(lim(x%E2%86%92%E2%88%9E)+((((((1%2B1%2Fx)%5Ex)%5E(1%2Fx))%2B1%2Fx)%5Ex)%5E(1%2Fx)%2B1%2Fx)%5Ex)
(lim(x→∞) ((((((1+1/x)^x)^(1/x))+1/x)^x)^(1/x)+1/x)^x)=e^3 >>215
こういう形式で表現してみると、なにかe^(2iπ*t)を遠近法的な見地から解釈する
ことも正当化できるのではないかと思えてくる。 IDは哲学の精神に反する。むしろ、IDを要求するような人が来なくなる方が哲学のためになる。 今の哲学科(特に私立大)には、論理なんて無理だよ。 唐突にそんなことを言い出すおまえの論理性が中卒レベルな件 https://www.wolframalpha.com/input/?i=cos(x)%2Bisin(x)%3Dlim(n%E2%86%92%E2%88%9E)+((1%2B1%2F(2i%CF%80*n))%5E(-2x%CF%80*n))
cos(x)+isin(x)=e^(ix)=lim(n→∞) ((1+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n)) cos(2x)+isin(2x)=e^(2ix)=lim(n→∞) (((1+1/(2iπ*n))^(2iπ*n))^(1/(2iπ*n))+1/(2iπ*n))^(-2xπ*n) カラスAは黒くて嘴があって足が二本ある
カラスBは黒くて嘴があって足が二本ある
カラスCは黒くて嘴があって足が二本ある
…
よってカラスは黒くて嘴があって足が二本ある
これは網目状じゃない?
カラスAカラスBという各個体を縦糸に
黒い嘴がある足が二本をという各要素を横糸に では、
カラスA
lim(x→∞) ((1+1/x)^x)^(1/x)=1
カラスB
lim(x→∞) (((((1+1/x)^x)^(1/x))+1/x)^x)^(1/x)=1
カラスC
lim(x→∞) (((((((1+1/x)^x)^(1/x))+1/x)^x)^(1/x)+1/x)^x)^(1/x)=1
ということでいいですか? ここで、カラスA、カラスB、およびカラスCに対して同じ逆操作、
すなわち、lim(x→∞) ●^(1/x)の作用を取り消す操作をします。すると、
カラスA
lim(x→∞) (1+1/x)^x=e
カラスB
lim(x→∞) ((((1+1/x)^x)^(1/x))+1/x)^x=e^2
カラスC
lim(x→∞) ((((((1+1/x)^x)^(1/x))+1/x)^x)^(1/x)+1/x)^x=e^3
あれっ、なにか奇妙な感じがしますね。 lim(x→∞) ●^(1/x)の順操作を行った場合、●にどのような数を代入しても、
結果は1になるのだから、その逆操作を行えば、異なる数が出現するのは当たり前
であるようにも思えます。では、今度は、カラスA、B、Cに同一の順操作を
行ってみましょう。 では、カラスA、カラスB、およびカラスCに対して同じ順操作、
すなわち、lim(x→∞) (●+1/x)^xを行ってみます。
カラスA
lim(x→∞) (((1+1/x)^x)^(1/x)+1/x)^x=e^2
カラスB
lim(x→∞) ((((((1+1/x)^x)^(1/x))+1/x)^x)^(1/x)+1/x)^x=e^3
カラスC
lim(x→∞) ((((((((1+1/x)^x)^(1/x))+1/x)^x)^(1/x)+1/x)^x)^(1/x)+1/x)^x=e^4 私は数学に疎いので、この計算が数学的に正当化されるのかどうか知りませんが、
これが計算サイトのアルゴリズムが戻してくる答えです。この計算を正当なもの
であると考えることができる場合、ここに働いている作用を遠近法と見なすこと
ができるではないか、というのが私の問いです。 色と嘴の有無と本数の三つの要素はどこへいっちゃったん? >>231
私は、>>225の書込みのカラスを借用しただけで、別にカラスを問題にしている
わけではないからいいのですよ。 >>225
そもそもカラスの定義を先にしてしまっていたら単なるトートロジーにかならん >>233
どこにカラスを問題にしていると描いてあるのかね?
三つの要素はどこへ言ったのかと聞いているんだか? 別の問題意識で書かれている書き込みに対して、自分の問題意識に対する
回答を求めても、かみ合うわけがないでしょ。 >>225
A、B、Cがカラスだ、となぜ言える?論点先取だぞ。 私の書き込みとは無関係のようですね。>>225 の書き込みを借用したので、
混乱が生じたようですが、私自身の書き込みは、別にカラスがどうのという
必要はまったくなく、区別を容易にするためにA、B、Cに置き換えるだけ
で構わない。では、議論は、>>225 の人とどうぞ。 最後に1つだけ付け加えると、無限を認める立場においては、いかなる見地も
相対的でしかあり得ないにもかかわらず、無限の操作の収束によって得られた
見地をあたかもあらかじめ固定されていたものであるかのように見なすこと
によって、その固定された見地も相対的なものであることが忘れ去られ、
今度は逆にその固定された見地から無限を見たときに奇妙な錯覚が生じる
のかもしれません。 説明というのは、本来的に渡りに船なのです。
他人の言葉を都合よく借用する。
そうでなければ、言語表現は通じるものとならない。 >>238
関係ないのに他人の書き込みを借用して話に割り込んで、自分の「問い」の話に持っていくなんて随分と無礼なことをするんだね >>241
たんなる無礼な行為を開き直るとは、あきれた男だ >>241
混乱が生じたのに渡りに船で言語表現が通じるって自己矛盾だらけだけど、もしかしてあんまり頭よくない人?
背伸びしないで中学校の数学あたりからやり直したほうが恥かかないですむよ? >>244
それは私がまだあなたの言葉を借りて語ることに成功していないことの証左なのでしょう。 https://www.wolframalpha.com/input/?i=(cos(%CF%80)%2Bisin(%CF%80))%5E(2log(x)%2F(2i%CF%80))%3D(lim(n%E2%86%92%E2%88%9E)+((1%2Blog(x)%2F(2i%CF%80*n))%5E(2i%CF%80*n)))%3Dx
(cos(π)+isin(π))^(2log(x)/(2iπ))=(lim(n→∞) ((1+log(x)/(2iπ*n))^(2iπ*n)))=x lim(n→∞) ((1+(log(x)+log(y))/(2iπ*n))^(2iπ*n))=xy どうしてこういう関係を誰も教えてくれないのでしょうw 不正直に思えるのは場合によっては分かる
教育は「いかにより多くの被教育者の頭に納得のいく解釈を促せるか」に本質がある
ある人が一番納得する解釈をある教育の作用を受ける事で得られなければ、ある人がその教育法を「不本意」と感じても不思議じゃない
だからと言って、その人の解釈を教育に昇華させたとき、それが他の教育と比べて優れているかはそれこそより多くの被教育者にその教育法を試さなければ分からない
その事を頭に刻み込んでおこう >>256
確かに
>>225をよく見たら
よって「全ての」カラスは黒くて嘴があって足が二本ある
ではなくて
よってカラスは黒くて嘴があって足が二本ある
となってるな
でも文脈的には前者だとわかるだろ 帰納法を誤解してる人結構いるよね
やたらと用いるのは危険だから帰納法は認めないって学派もあるくらいなのに 光にとっては時間も距離も無いそうなんだが、
それなら光からしてみればこの世界ってなんなんだ? (-1)^(2log(x)/(2iπ))=cos((log(x)*2π*n)/(2iπ*n))+isin((log(x)*2π*n)/(2iπ*n))=(lim(n→∞) ((1+log(x)/(2iπ*n))^(2iπ*n)))=e^log(x)=x これは、ファッショナブル・ナンセンスとしては、遠近法として入れ子構造を
用いることと合せて、習慣としての世界の自己性質化の哲学的な隠喩として
十分に使えそうな気がする。例えば、
(lim(n→∞) ((1+log(x)/(2iπ*n))^(2iπ*n)))=xという表現におけるlog(x)を
自己の日常的な行為の性質を表すものと見なすことにする。
lim(n→∞) ●^(2iπ*n)が表すのは、無限の反復の可能性であり、
いわば中動態的な生成の過程である。ある性質の行為がその反復の結果
として、つまり、習慣となってある結果をもたらす。例えば、人が農業
などの活動によって作り出す景観は、人為によって生じた秩序であるにも
かかわらず、その秩序は必ずしも意図的にあらかじめ計画されたもの
ではない。習慣となって反復される行為が、そのような景観として
結実する。しかし、それも時とともに変化する。その変化も人為的なもの
でありながら、必ずしも計画に従うわけではない。習慣の入れ子構造と
なって、あらたな秩序が生まれる。 恥じらいもなく書き込んでいるのだから、恥ずかしいのは私ではありませんね。
さて、恥ずかしいのは、いったい誰なのでしょう。 ある知を知っている人はしばしば、ある知の無知、もしくは知の無知の無知を恥ずべきものとする
ある人の集まりで、ある知を知っている人が知らない人より多いことを知っているならなおさら、恥ずべきものとする
だから誰かが恥ずかしいと思うのも当たり前で、恥ずかしげもなく書くことができたのも当たり前
264から265は全くもって不毛なやり取り 「はづかし」の本来の用法は、引け目を感じて身の置き所に困るほど立派だと
感じることでしょう。で、>>264は恥ずかしいと感じているのか。 誰かの真似ができるほど本を読んでいないし、思考のモデルなんて
うまく利用できなければ、組み換えるか、破棄すればいいだけ。
でも、一応、組み立ててみないと欠陥すら見えてこない。
だから、いちいち、先回りして、組立てを諦めるべき理由がない。 「本来の用法」のマジョリティは時代や使う人それぞれによって異なる
常識は、常識を観測した尺度でしか役に立たない >>269
そういうことのモデル化として利用できるという話でしょ。 興味深く感じられるのは、数式の形式が作用と自己反復の関係を表している
ように見えるところかな。 「そういうこと」の「そういう」とは、「本来の用法」ですか?それとも「思考」ですか?
文章中である言葉を指定し「その」や「それ」などとするときは、何の言葉を参照すべきか明確かどうかを考慮すべきです 再帰的に導出可能な事象は存在します
つまりその事象は作用の自己反復によるものだと言えます
再帰的に導出不可能な事象は数学における形式で表現できるのでしょうか?またその表現は任意の尺度から観測したときに何らかの尺度において意味のある表現なのでしょうか?
集合論などの高度に抽象化された論理では再帰的に定義不可能な事象が存在します。言うなれば「計算不可能な式」が存在するということです
このような式に何らかの尺度で意味があるかどうかはしばしば意見を分かちますが >>273
多くの人が理解可能な文章の作成能力を持つ人間と多くの文章が理解可能な人間の関係は5chにおいてとても興味深い現象を引き起こします
それは文章の作成者が読者にたいし「読解力が低い」と主張し、読者が作成者にたいし「文章作成能力が低い」と主張する現象です。
私は5chの場合、文章作成能力は読解力より高いことが望ましいと思っています >このような式に何らかの尺度で意味があるかどうか
そこで、意味の生成に「遠近法」がかかわっているのではないかというのが
私の示唆です。いわば、遠近法によって相対的な視点が暫定的に固定される
のではないか。 つまり、「再帰的に定義不可能な事象は、遠近法を使用することにより、ある尺度において意味のある(たとえば計算可能になる)事象に変化する」
ということですね そういうことです。ただし、私には、数学の素養がないので、あくまでも
隠喩としてのモデルです。 数学の言葉を使わずにあなたの頭の中にある「遠近法」という概念を数学の言葉として理解するのは至難の技だと思います
それこそ文章作成能力もとい読解力が試されますね 数学を使わなくても、人は日常的に遠近法を理解しています。
同一の性質を有する対象について作用のより強いものは近く、作用の弱いものは遠い。 その通りですね
同じ物体でも観測者から距離として遠い物体は小さく見え、近い物体が大きく見えます
これを作用など別の言葉に置き換えるなら、例えばこうなるのでしょうか?
『同じ作用でも作用させる事象から○○として「遠い」作用は「弱く」、「近い」作用は「強く」なる』
○○や、「」の付いた部分は私の知る限りでは数学的定義がありません >>282
人格否定は保守的ですね
素晴らしいです 君の言う遠近法をきちんと定義するところから話をはじめたほうがいい それにしても、阪大だけじゃなくて京大でも物理の出題ミスがあったんだね。
関西の大学・高校・予備校の理系の先生たちはてんやわんやだな。 私には、数学や物理のことはほとんど全く分らないのですが、それでも「遠近法」
というのは、日常的な感覚に基づく隠喩であり、分りやすいものだと感じています。
なぜ、そこまで拒否感を抱くのかむしろ不思議に思います。例えば、ビッグバン
の理論について、私は物理学的な観点からはほんのわずかでも理解しているなど
と言うつもりはありませんが、それが爆発のようなものであったと想定されている
のなら、やはり指数関数的な変化の観察に基づいているのでしょう。ところで、
その指数関数的な変化の観察が、私たちの理解のための「遠近法」的なものの見方
に依存していると考えてみたらどうでしょうか。指数的な変化でも、e^(2iπ*n)
という見方では、遠近法は消去され、2iπの周期で同じ円周上を回転しているよう
に認識が切り換えられることになる。ところが、同じ円周上の相対的な位置だけを
問題にするなら、出来事を理解することはできない。というより、同じことの
繰り返ししかないのだから、出来事は生じ得ない。そこで螺旋軌道の隠喩を用いて
遠近法により暫定的に相対的な視点が生じるというモデルを提案したわけです。
その暫定的な視点を絶対的なものと取り違えることにより、どこかに絶対的な
始点を設定しなければならないかのような錯覚が生じる。 あなたの理解がそうならばそれでいいと思います
とはいえ「〜のような」といった表現を極力排除する理科系の文章において、隠喩を効果的に用いようとするあなたの表現法は異端だと言わざるを得ません
理科系の文章構成法は科学においてもはや当たり前です(理科系の作文技術など、専門の図書があるほどです)
だから、あえて婉曲表現を多用する事に違和感を感じてしまうのです >>287だけじゃなくこの板の人って説明することをイヤがる人が多いよね
誰か「お前は何もわかっていない」とか「お前は〇〇を誤解している」
俺「どこがどう間違っているのか指摘してみろ」
誰か「やっぱりわからないのかwww」とか「馬鹿に何言っても無駄」とか「自分で考えろ」とか「そんな義務はない」とか
こんなのばっか
そういう姿を見ると「こいつ本当は何もわかってないんだろうな」って思う 哲学にプログラミング命令のような記述を望んでも無駄ですよ。
哲学の記述は、プログラミングとは目的が違うのですから。
定義に基づいた記述から何が抜け落ちてしまっているのか、
定義することで逆に何が捉えられなくなっているのか、それを把握して
言語化することにこそ哲学の意義があるのでしょうから。 >>287
遠近法は美術の用語。
ここは哲学と理系の学問スレ。
スレ違いする程の意義がない。 287による『「遠近法」的な表現』
と
291による『遠近法は美術の用語』
287と291のやりとりはとても人間性が感じられ興味深いです
287は美術の用語を解説するために遠近法という語句を引用したわけではありません
なのに291はあたかも287が美術の話題を展開しているかのように対応している
これがある一つの語句にたいする認識の違いが生む解釈の変化です
科学はこれを極力排除するためにわざわざ理科系の文章というシステムを作成しました なんで遠近法の話になっているの?
古典的な西洋の画家が、一点透視図法や一つの消失点に厳密にこだわるのは、
それが単なる認知上の見え方(パースペクティヴ)の問題であるから
ではなくて、そこに一神教的な神の視点の顕現を表現・織り込んでいるからだよね。
画布上の光の光跡を丁寧にきちんと描くのも、それは神の視点や眼差しなので、
古典的な画家は光の当て方、そこから出来る陰影を克明に厳密に描く。
つまり、バルールの狂いにはうるさい。レンブラントのような光の画家で
なくても、そういう宗教的な意味や意匠で、そうした厳密な画法にこだわる。 だから一神教的な世界観を持っていない私から見ると、そのこだわりは
必然性のないものになる。デカルトは数学者としては偉大だけど、
哲学になると、そこに自明なもの、ア・プリオリとして神や魂、天上界を
懐疑することなく、いわば信仰として持ってきてしまうので、そこに
思考の飛躍=信仰だと感じてしまう。
哲学的な思考に厳密さを求めるなら、方法論的懐疑を神や魂にも適用すべき
だろうね。つまり、それらは不明である、とした方が少なくとも科学的になる。 デカルトの一神教的な世界観は、キリスト教のものだと思うから、
なおさら疑問に感じる。なぜそこで、人々は罪人であると措定されて
いるのだろうか。PL法的に考えれば、製品(人間)の出来が悪いこと、碌でもない者、
欠陥・不良品、偽物コピー品が多いとなれば、それはエンジニアや設計者としての
神の責任になってくるので、罪を贖うべきは人間ではなく、神である、ということ
になってくる。
フロイトは「隣人は苦をもたらす者である」と述べているけど、これに完全に
同意出来る。この世で一番迷惑なのが隣人。隣人の騒音。隣人の存在。
キリスト教は隣人愛を説くので、一番、私が苦手な宗教だな。
でも、意外に日本ではクリスチャンが多い感じがする。韓国も多そうだけど。
なんで、こんなに論理性を欠いた宗教が支持されるのかが不明だけど、
単なる伝統的な慣習と考えておけばいいのかな。とにかくキリスト教には
論理性が全然、感じられない。司祭の児童への性的犯罪とかよく聞くので、
倫理的にもたいしたものではないのだろう。 それでは、AIの思想に戻ろう。この間、古典的な文学者の著作を読んでいたら、
そこに、人間がやっているようなことは、すべて機械で代替できるので、
礼儀作法から始まって、仕事、慣習、儀式、すべて機械で出来るような代物なので、
価値がない、みたいな記述があって、この認識はすごいな、と感じた。
今朝のヤフーニュースに、変なホテルが東京にも出来るとあったけど、別に
おもてなしは人間でなくても出来るということ。あとは、アマゾン・GOのような
無人店舗が出来てくることも同じ。そこに人間がいて、人間がする絶対的な必然性は
なかったということが暴露されつつある。
この文学者はパソコンもまだなかった時代の人だから、これから
本格化するAI化する社会を見越した認識をそこに示していることになるからね。
かつて、人間様しか出来ないと思われていた多くのことが、AIによって
いとも簡単に低コストでスムーズに出来るとなれば、そこに人間の存在意義が
問われる余地が生じるだろう。文学や音楽、絵画のような創造性の高い分野でも
AIが活躍するようになれば、クリエーターの存在意義がそこで問われる。
科学も同様で、国からの研究費欲しさに、不正論文書いて事実を捻じ曲げる
人間の科学者よりも、AIがAIによる査読付き科学論文を上梓してくれる方が
人間にとっても役立ってくれるかもしれない。 AIの存在意義が増せば、AIに対する宗教心が芽生えそうなもんだね デューラーの黄金比でも厳しいよな。黄金係数も無理。 神を懐疑しても神が疑うだけで、自分は光の中にいるだけだろうな。 魂については不死不壊というなどということはないが、古典技術が役に立つと思う。 観測系なしに爆発という現象は存在し得るか。
始源の爆発を想定した場合、その観測系はどのように生じ得るのか。
その観測系は、現在の観察者とどのような関係にあるのか。 観察者 が相手と交信している主体なら、爆発とは観察者よりは快適で
ビッグスピード、パワーなものだ。 124考える名無しさん2018/01/12(金) 21:28:57.160>>126
海外で「Crypto Currency」と報道されているものを日本のマスコミは「仮想通貨」と
訳してしまうので、物事の本質が伝わらない。今の韓国での取引停止騒動を見よ。
「暗号通貨」と正しく訳してこそ、その本質が伝わる。暗号であれば、それが
ブロックチェーン技術とつながると鮮明にイメージしやすいし、Crypto Currencyは
暗号化されたコンピューター上のデータなのだと分かる。
コンピューター上のデータだから、それは簡単に失われることもあるし、改ざんされたり、
ハッキングの対象になるモノだということも想像しやすくなる。
仮想通貨という呼称だと、人はそれを安全な通貨と同じようなものだと勘違いする。
暗号通貨であれば、それはただのデータであると正しく理解できる。
*こんな風にちゃんと私が書いてあげているので、NEMやるような人は、このスレ読んで
置けばいいのにね。数学的な認識は、物事の洞察し、予測すること。熟考すれば、
それは哲学になる。 ○ 物事の本質を洞察し、予測すること。
世の中の人は、電通的な表層のイメージと広告に欺かれて、本質を見損なう。 >>290
その理屈だと「遠近法」ではなくて「うんこ」でもよかった
「うんこ」では把握できないものがあるから「遠近法」という言葉を選んだのだろう
定義を語れというのはそこを説明しろという話なんだよ
そもそも
>定義に基づいた記述から何が抜け落ちてしまっているのか、
>定義することで逆に何が捉えられなくなっているのか、それを把握して
>言語化することにこそ哲学の意義がある
のであればまず定義をしないと「何が」について考えられないだろう ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています